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山さ行がねがの検索結果81 - 120 件 / 468件

  • 【山さ行がねが】道路レポート 国道291号 清水峠 隧道捜索編 <最終決戦>

    私達はなぜあのとき、 すぐ手の届く所にあった “影”の正体 を、確かめなかったのか。 2008年10月にくじ氏と2人で行なった探索では、その前年10月の探索と合わせて、ついに当時前人未踏といわれていた清水国道の新潟県側を、ほぼ全部踏破することに成功した。 もはや清水峠、そして清水新道に思い残すこと無し。 探索成功の時点では、これが大団円だと疑わなかった。 だが、帰宅後にレポートを作成するため改めてその行程を整理してみると、清水国道には隧道があったのではないかという思いが、強くするようになった。 そして、検証回で皆様の意見を請うてみたりもした。 (ちなみにその結果は、2012/11/13時点で65.2%の読者さんが隧道を肯定している) この検証回で拾った机上の資料や、過去の航空写真、さらには探索中に撮影した現地写真からは、ついに隧道の存在を証明する事が出来なかったのだが、その現地写真の中の1

    • 【山さ行がねが】隧道レポート 沼津市口野の “隧道の辻”

      【mapion 現在地】 「道路トンネル大鑑」の巻末リスト(※ORJにてこれを加筆修正し『隧道データベース』として公開している)によれば、主要地方道沼津土肥線には6本の隧道がある。 この資料は昭和40年頃のものであるが、現在この6本の隧道は全て旧道化している(一本は開削済)上に、3本の隧道に対応する現道は国道への昇格を果たしている。 右の図中の赤いラインが、一連の旧道である。 今回のレポートでは、このうち4本の隧道の現状をお伝えすると共に、その途中にある“道路特異点”を紹介しよう。 それは、私が勝手に“隧道の辻”と名付けたが、一般に辻というのは交差点のことである。 このレポートには、 おそらく日本で最も多くの隧道が面する交差点が、登場する。 レポートの開始地点は、沼津市口野の金桜神社参道下だ。 2008/2/4 9:04 金桜神社のある高台から見下ろす江浦湾。 江浦湾は沼津湾の小湾で、沼津

      • 【山さ行がねが】道路レポート 旧東京府道242号 日原氷川線 (日原5期道)

        これまで4編の都道204号日原鍾乳洞線の旧道に関するレポートを公開してきた。 そして、“とぼう岩”付近には現在の都道に至るまで、実に7世代もの道が存在していたことを突き止めた。 このうち、私が主な探索の対象としたのは、「3期:江戸道」「4期:大正道」「5期:昭和道」である。 緑:3期「江戸道」 江戸中期に日原の原島家が中心になって、とぼう岩に初めて横断する道が付けられた。 なお、探索の結果最も困難な岩盤に一本の隧道を発見しているが、これが江戸道であるかは未だ不明である(レポ) 橙:4期「大正道」 大正4年に改修された道で、氷川から樽沢まで荷車の通行が可能になった。府道242号日原氷川線と呼ばれた。(レポ) 赤:5期「昭和道」 昭和6年に、従来の「大正道」を惣岳吊橋から日原まで延伸し、遂に全線荷車の通行が可能となった。引き続き府道242号と呼ばれた。今回攻略目標! 青:6期「旧都道」 昭和1

        • 【山さ行がねが】道路レポート 万世大路 <残された謎> 烏川橋編

          いまや、日本中の廃道好きにその名の知らぬ者の無くなった感さえある「万世大路(ばんせいたいろ)」。 国道13号福島~米沢の間に立ちふさがる、奥羽山脈栗子山塊を貫く、その旧道の名前である。 同じ場所に何度も行くことは珍しい私も、気がつけばこの道を過去何度も訪れていた。 初訪は03年の5月の単独チャリによるもので、以降04年11月に大規模な合調隊を編成しての工事用軌道踏査、06年6月は“世にも危険な廃道ガイド”としてこの山を訪れた。そして、今年も縁があったようで既に2度、福島側と米沢側を別々にカウントするならば3度も訪問している。 この道に起きている変化を、いま一言で述べるとすれば、「再生」という言葉に尽きる。 初訪の頃には殆ど刈り払いもなく、自転車一台を通すことさえ罷り成らぬ悪路であったものが、年を経るごとに踏み跡は鮮明化し、近年では遂に自動車(2輪だが)による訪問さえ赦している。 そして、こ

          • 【山さ行がねが】橋梁レポート 旧稲又川橋

            そんな物があるのかというのは置いておくとして… またひとつ、 廃橋梁の殿堂入り しそうな橋が発見された。 ネタ元は、mixi内の “山行がコミュ”(管理人:いし氏)だ。 あそこの「最近」トピックは意外なネタの穴場で、私も密かに(密かである必要性は謎?)利用させて貰っているが、そこに先日「明日、本栖湖集合!(以下、情報提供者)」さんが 「結構、衝撃的な…橋梁です。見に行かれるなら早めがいいと思われ。」 というコメントとともに写真をアップされたのが、今回の橋である。 見た瞬間に“ニュニュニュ”っと来て、それから2週間しないうちに私は現場に立っていた。 したがって、下調べというものはほとんどしていない。 それでも「まず見てみたい!」「見なきゃ!」と思う引力が、彼の撮った1枚の小さな遠景写真にはあったのである。 【周辺図(mapion)】 その“ブツ”は、今まで近づいたことのないエリアにあった。

            • 廃線レポート 奥羽本線 矢立峠

              秋田県内に、初めて鉄道が敷設されたのは、明治32年6月のことであった。 東北縦断を目指し、青森、福島の両方から建設の始まった奥羽本線の、当時奥羽北線と呼ばれた青森からのレールが、ついに秋田県境の矢立峠を越え、現在の大館市北部にて陣場・白沢の二駅が営業を開始したのだ。 同年11月には、レールは大館駅にまで延びた。 矢立峠の歴史は古く、藩政時代には、東北有数の街道であった羽州街道が通っていた。 最高部の標高は300m弱しかなく、この峠は、まさしく白神山地と奥羽山脈の狭間に空いた、奇跡のような窓である。 現在ですら、秋田と青森を結ぶ道で通年交通が可能なのは、この矢立峠を通う国道7号線を除いては、遥か日本海岸の大間越し、それと東北自動車道しかないのだ。 しかし、標高こそ低いが、深い沢が複雑怪奇にからみ合い行く手を阻む上に、非常に多雨な一帯の積雪は3mを越え、ブナの森がどこまでも続く、まことに厳しい

              • 【山さ行がねが】道路レポート 横須賀十三峠

                「明治工業史(土木編)」は、昭和4年に工学会(現在の日本工学会)が刊行した、明治期の土木全般を俯瞰した大著である。 この本の特に良いところは、全体的に平易な表現がされていて専門家でなくても読み進めやすいところと、“最古”や“最大”などといった、一般人の興味を意識した記述がふんだんに取り入れられているところにあると思う。 まさにオブローダーにとってはお宝ものの書物だが、現在は「土木学会附属土木図書館」のサイトでPDF化されたものが公開されている。 そしてその34p(右図)に、明治期の国道の道路勾配について次のような記述がある。 国道の勾配は三十分1の既定なれども、是亦(これまた)実際の道路は急勾配のもの多数にして、殆んど既定に合するもの無しと称するも過言に非ざるなり。此の処に最も急勾配を有するものを記すれば、横浜より横須賀鎮守府に至る路線には二分一、又横浜より箱根に至る路線、小田原町より長尾

                • 【山さ行がねが】ミニレポート 第127回 沼津の謎の白鳥居

                  【mapion 周辺図】 沼津湾沿いの県道17号「沼津土肥線」をチャリで北上中、沼津市口野地区にて奇妙な鳥居と出会った。 その鳥居はコンクリート製の地肌がむき出しで、遠目には白い鳥居のようであった。 鳥居の奥に祠もなければ、参道らしい道も見えなかった。 奇妙に思ったが、そこは私有地で立ち入りが出来ず、まあ法を犯して確かめるほどのものでもないとその場は立ち去った。 少し進むと、また同じような鳥居と出会った。 そして、あの異常としか言いようのない体験をした。 鳥居発見! しかし、これは相当に怪しいぞ。 かなり大きく立派な鳥居なのだが、擁壁に隠され県道側からはほとんど見えないし、夏場は藪に覆われていそうな気配。 そして何より、鳥居の背後には子供がゴム粘土で作ったような人工斜面が広がっている。 そこに、ご神体が御在(おんましま)す気配は、微塵もない。 …廃墟か。 これは、廃墟なのか? どよーーーん

                  • 隧道探険隊

                    古くは明治より、近代秋田の交通を支え続けてきた奥羽本線。 東北本線と並ぶ東北の大動脈として宿命付けられていた“本線”だったが、その福島~秋田~青森を結ぶ487.4kmに及ぶ行程には、険しい山々にいくつもの大河…殆ど手付かずだったみちのくの自然そのものが立ちはだかっていた。 明治26年、工事は青森・福島両方から開始された。 それぞれが、暫定的に北線・南線と呼ばれ、ほぼ両者の中央であった秋田県湯沢を目指したのである。 そして、明治32年の6月、県境の矢立峠の難工事を制し、当時の北秋田郡白沢村にまで鉄路を伸ばした奥羽北線が、秋田県鉄道一番乗りを果たした。 さらに、同年11月には当時まだ市制が敷かれる前の大館町(現大館市)までが開業している。 その後も日露戦争を挟みつつも工事は続き、明治38年に遂に、南・北線は一つになったのである。 今回のターゲットは、明治32年に開業した大館~白沢間にある。 白

                    • 【山さ行がねが】ミニレポート第138回  小阿仁森林鉄道 堂川隧道 <前編>

                      小阿仁林鉄は、小阿仁川とその支流に路線網を敷く、本線全長43kmに及ぶ森林鉄道である。 この路線は大正後期に上流部の開通をみて以来、徐々に下流方向へ路線を延ばすという、多くの林鉄とは逆方向の延伸を重ねた。 これまで「山さ行がねが」および「日本の廃道」においては、小阿仁林鉄とその支線に関して7本のレポートを掲載した。(右の地図はクリッカブルマップになっています) それらはいずれも下流部と上流部に属するもので、中流部に関しては探索自体をしていなかった。 そのわけは、中流部の地形がかなり穏やかで、並行する国道から全容を把握できると感じていた為である。 しかし今回(といってもレポート執筆時点からみれば10ヶ月も前の話だが)、このエリアに詳しいミリンダ細田氏が、住民からの地道な聞き込みの結果、この中流域に隧道を発見したというのである! その場所は上小阿仁村堂川地区で、これを含む福舘~根田間延伸は昭和

                      • 【山さ行がねが】廃線レポート 木戸川森林鉄道 (乙次郎~木戸川第1発電所)

                        【周辺図(マピオン)】 木戸川森林鉄道は、福島県の南東部、阿武隈山地から太平洋に注ぐ一級河川木戸川に沿って存在した、前橋営林局富岡営林署所管の森林鉄道(2級線)である。 常磐線の木戸駅を起点に伸びていた軌道は、最盛期には約21kmの長さを誇り、福島県浜通り地方を代表する林鉄のひとつであった。 この路線については、廃線跡探索の有名書である宮脇俊三氏の『鉄道廃線跡を歩く』シリーズ第一作目に取り上げられ、平成7(1995)年頃の廃線跡の状況が大まかに紹介されている。 また路線の歴史については、関東森林管理局内のコンテンツ「福島の森林鉄道WEB史料室」に解説がある。 それによると、木戸川森林鉄道のルーツは、大正3(1914)年に民間の丸三製材所が木戸駅から約5km離れた女平まで開設した「木戸川軌道」にある。 当時は木戸川上流の川内方面で伐採した原木を、川流しによって女平まで運び、そこから軌道で木

                        • 【山さ行がねが】道路レポート 茨城県道248号八溝山公園線

                          八溝山にある二本の不通県道のうち、栃木側から登ってくる栃木県道28号「大子那須線」を攻略。八溝山の肩に達した私は次に、県境線を越えて茨城県側の不通県道である「茨城県道248号八溝山公園線」を使って下山する事にした。 まさに登りも不通、下りも不通という、不通県道マニアにとっては垂涎のルートセレクティング! 二本の県道を結びつけるものは、県境線の尾根に沿って山頂を目指す「八溝林道」だ。 簡単にではあるがこの林道もレポートしつつ、不通県道を目指すことにする。 なお、市販の地図には一部、例えば右に挙げたもののように、福島県道377号「八溝山線」と茨城県道248号を県道の色で結びつけているものもある。 だが、帳簿上の県道指定区間は県道377号が福島・栃木県境以下、県道248号は八溝山林道との交差点以下である。 また、こうしてレポートを書いていてもこんがらがるほど、この山域には八溝の名を冠した道が多い

                          • 【山さ行がねが】隧道レポート 伊東線旧線 宇佐美隧道

                            2007/7/25 11:55 【静岡県伊東市宇佐美】 目の前を軽快なステンレスカーが駆け抜けていく。 水平線と空をイメージしたのだと容易に分かるカラーリングのそれは、伊豆急行線の8000形電車という。 伊東から先の下田まで、国鉄が果たせなかった伊豆循環鉄道の使命を一部受け継いで、昭和36年に開業した私鉄だが、その当初の使命を思い出させるかのように、JRの線路を熱海まで悠々と乗り入れている。その逆も然りである。 ここは、宇佐美隧道の宇佐美駅側坑口に最寄りの小さな踏切である。 実は、既にこの地点では新旧線の切り替えが済んでおり、旧線のレールも踏切の両側に残されている。 だが、踏切部分のレールは綺麗に撤去されており、通行していてそれに気付くことはない。 遮断棒手前の道路右側に、黄色いバーが二本横に渡されているが、この位置で旧線は道路を横切っていた。 上の写真と同じ地点で、左手、すなわち網代駅方

                            • 廃線レポート

                              森吉林鉄のダム付け替え区間の探索が4度を数え、いよいよ次で完全踏破も見えてきていた、2004年5月15日。 一通のメールが、私のもとへ届いた。 そこには、衝撃というより他はない一枚の写真と、さらに衝撃的な文章が綴られていた。 その差出人は、ここではT氏としたい。 この1通のメールが、未だ醒めやらぬ新たな興奮、森吉の新しい冒険譚の幕開けを告げたのである。 文章は、いたって簡潔であった。 ここに要約するまでもないほどだ。 太平湖のまだまだずうっと奥に、まだ隧道がある。 貼付されてきた写真の凄まじさもあり、私はその日から問答のように、彼へメールでの質問を続けた。 彼は、徐々に、徐々に、その場所を明かし始めた。 一つ一つ明らかにされるたび、私は期待と、それ以上の無力感を同時に感じていた。 明かされた隧道の場所は、余りにも… 余りにも遠かった。 右図で、青い○で囲んだ一帯に、T氏が示した隧道(以下『

                              • 隧道探険隊

                                以前より気になっていた、謎のトンネルの調査を行った。 以下は、2002年8月8日のレポートである。 右の地図を見ていただきたい。 秋田と北上を結ぶ古くからの重要路線「平和街道」(国道107号線)と、幽玄な景観を見せる巨大人造湖の錦秋湖の一帯である。 ここは、日本列島の脊梁をなす巨大な奥羽山脈に存在する、天然の切り通しであり、悠久の時をかけて和賀川が作り上げた、極めて大規模なV字峡である。 よって、ここを通う道は数多い。 国道107号線は言うに及ばず、JR北上線。 そして、近年は秋田自動車道が多くのトンネルを穿ち、駆け抜けた。 また、錦秋湖をなす湯田ダムは1964年竣工当時国内有数の規模を誇ったが、その建設は、建設史上に残る巨大な移転事業でもあった。 移転戸数600戸、鉄道付け替え15km、道路付け替え39km、などである。 それらの遺構の多くは深い湖底に沈んだが、渇水期にはその一部が、さも

                                • 【山さ行がねが】廃線レポート 神岡軌道 猪谷~神岡間

                                  これを書いている時点での昨日、2008年7月4日まで、私は『日本の廃道』での盟友nagajis氏と共に、飛騨の山中で連続4日間の廃道・廃線探索を行った。 そして、その中で最大の時間と労力をかけて解明を試みたのがこの「神岡軌道」であった。 神岡軌道は、大正初期から昭和40年代初頭にかけて、岐阜県北端に位置する神岡町から県境を越えて富山方面へと延びていた、軌間610mmの鉄道である。 その特殊な軌間が象徴するように、「神岡鉱山」の坑内軌道と連結する「鉱山鉄道」としての性格を濃くした路線であったが、交通不便な地域の足として利用されていた事も事実で、昭和24年以降は正式な地方鉄道として市販の「時刻表」にも記載されていた。 本路線の廃止は母体鉱山の閉山を待つことなく、並行する国鉄の延伸に追い立てられるように行われたことに特徴がある。 まず、国鉄飛越線(現在の高山本線)が富山側から猪谷(いのたに)まで

                                  • 【山さ行がねが】ミニレポート 第134回 道路神社

                                    宮城県仙台市泉区上谷刈3丁目のマンションが立ち並ぶ一角に、地図にも載らない小さな神社がある。⇒【所在地】 だが、その神社の名は世界におそらく二つと無い(グーグル参考)、大いなる名である。 その名も、道路神社という。 これが、道路神社の神域の全貌だ。 境内には小ぶりな鳥居とイチョウの巨木、それに社務所というか倉庫のような木造の建屋(写真に写る建物)が一棟、後の方に古碑が幾つかある。 敷地は“くの字”型に道に囲まれた一角だが、取りたてて「道路」を祀るという立地には見えない。 全体的に見て、いたって平凡な小社である。 神社の前面はマンション群に囲まれている。 ここは表通りに面しておらず、また通りに看板なども無いために、地元の人でなければほとんどその存在を知らないだろう。 また、鳥居に扁額もないから、これが「道路神社」という名前であることを知るためには、注意深く境内を観察する必要がある。 鳥居の脚

                                    • 【山さ行がねが】ミニレポート

                                      2003.5撮影 福島県福島市 栗子山 道路レポートに掲載した一枚の写真。 この写真が、今なお未解明な部分を数多く残す、万世大路最後の謎の始まりであった。 現地は、海抜850mを越える、万世大路のハイライト栗子隧道福島側坑門直前。 棄てられて30年以上を経た廃道の脇、もはやそこへ近付く方法すら分からないような谷間に、明らかに橋台と分かる一対の石組みの構造物があった。 道路レポートで記したとおり、私はこれを、明治にはじめて万世大路が拓かれた当時の痕跡と考えた。 余りにも風化が進んでおり、非常に古い時代の物と思えたからだ。 しかしレポート公開直後、当サイト掲示板に別の可能性が提示された。 サイト『山形の廃道』の作者にして、廃道界の権威 fuku氏 によるその書き込みの、本稿に関する部分をそのまま以下に転載した。 それは、驚くべき内容であった。 さて、詳細不明の橋台ですが、人道橋と云うよりもしか

                                      • 道路レポート

                                        仙岩峠と言えば、秋田県民で知らないものはない、本邦最重要の峠の一つである。 それは、秋田県と岩手県を隔てる奥羽山脈にあって、秋田・岩手両県の県庁所在地を最短で結ぶ国道46号線の要衝である。 全長2544mの仙岩トンネルを含む8つのトンネルと20以上の橋で構成された、国道46号線仙岩道路は昭和51年の開通以来、峠を意識させないほどの快適な奥羽山脈越えを、提供し続けている。 一方で、一つのトンネルも介さずに、ガチンコで山脈を越えていた旧国道は、現道開通間もなくより秋田県側の大部分が通行止めとなったままで、田沢湖町道「仙岩峠線」と雫石町道「国見ヒヤ潟線」という名も与えられてはいるものの、実質的には廃道である。 峠の標高は、奥羽山脈を超える峠の中でも、旧一級国道としては最も高い890m。 藩政時代より重要な峠であったこの地に、初めての車路が開通したのが、昭和38年。 それが今日の旧国道であったが、

                                        • 【山さ行がねが】道路レポート 塔のへつりの廃道

                                          2008/7/29 9:57 《現在地》 ここは福島県南会津郡下郷町の一角で、大川(阿賀川)の西側にいくつかの集落を束ねる白岩地区だ。 写っている赤い橋は「塔のへつり橋」。 「えっ? つり橋? これって吊り橋じゃないよね?」 いえいえ。 “塔のへつり”で一つの地名。 この辺りではかなり名前の知れた、岩と水の織りなす景勝地である。 橋が渡る大川の500mほど上流にそれはある。 ちなみにこの道自体は下郷町の町道だ。 で、右に下っていく細い路。 気になるすべ? 分岐に何の案内も無いところを見るに、この立派な橋の旧橋にでも繋がっていそうだ。 そう思ったので、歩きで見に行ってみることにした。 あれれ? こんなトコロに一軒家が。 道は、ちょっと無理やりなカーブを重ねながら、一気にその庭先へと下って行くではないか。 これは… 旧道とは関係ないのか? もう少し行ってみる。 一軒家への道を無理やり右に分かち

                                          • 【山さ行がねが】隧道レポート 大多喜町の共栄隧道

                                            皆さんは、こんなことをしたことはないだろうか。 ネット上で、一度見たら忘れられないような、奇抜な姿をした隧道を見る。 そしたら、敢えてその場所を積極的に調べようとせずに、 「何度か訪問している内にいつか見つかるだろう」 …と、放っておく。 基本的に、道に限らずあらゆる地物は時限付きなので、あまりこういう先送りの泰然主義は、オブローダーとしての成果主義とは相容れない。 しかし何となくそれでも良いかなと思えるような隧道が、いくつかある。 例えば房総半島のように全体が箱庭的であり、しかも自宅からは近く、繰り返し行くことになりそうな場所。 さらに廃道ではなく現役の道だったりして、そこそこ自力でも見つかりそうなものの場合。 それはサブイベント的な楽しみ。 「いつか出会えるかもしれない景色」として、頭の片隅においておく。 今回はそんな隧道のひとつで、しかもとびきり奇抜なヤツに、遭遇することが出来た。

                                            • 【山さ行がねが】橋梁レポート 小鹿野町三山の廃吊橋

                                              2010/2/25 16:16 秩父市から西北西の方向に荒川支流の赤平川をさかのぼり、志賀坂峠から群馬上野村へ、さらに信州へ続く国道299号。 その途上の小鹿野(おがの)町三山(さんやま)地区旧国道脇に、珍しい形をした廃吊橋がある。 今回はそれを紹介したい。 右の地図にカーソルオンで拡大する。 田ノ頭と久月の間の国道は、新旧道が赤平川を挟んで並行している。 途中、北岸の旧道から南岸の現道に向けて一本の橋が架けられているが、これが今回見つけた橋だ。 最新地形図に描かれてはいても、これが廃橋なのだった。 なお、探索を終えた現在でも、この橋の素性は不明のままである。 正式な名前さえも分からないので、地区名を取って「田ノ頭吊橋」と仮称することにする。 目の前を流れる川は赤平川。 奥は下流方向となる。 谷幅の割に水量が少ないのが目に付くが、その理由は分からない。 そして左岸の1車線の道路は旧国道で、

                                              • 【山さ行がねが】廃線レポート 光明電気鉄道 阿蔵隧道と大谷隧道

                                                昭和の初期に静岡県西部(遠州地方)の広大な農村地帯で、まるで綺羅星のような都会的高速電気鉄道を運行させた「光明(こうみょう)電気鉄道」は、その数奇で悲劇的な歴史で知られ、地元や鉄道ファンの間では今なお語り種になっている廃線である。 今回は、資料や読者からの情報提供を元に探索した、廃線跡に存在する2本の廃隧道を紹介したい。 まず、同電鉄の歴史を簡単に紹介しよう。 鉄道計画の発端は大正10年である。 東海道の宿場町であった見付(みつけ)は、明治22年に開業した東海道線の経路から外れたため衰微著しく、対策として東海道線中泉駅(現:磐田駅)と見付(磐田市)を結ぶ鉄道が計画された。 しかも計画はそれだけに止まらず、さらに北上して北遠地方の中心都市であった二俣(ふたまた)を経由して、天竜川水運の要衝地 光明(こうみょう)村船明(ふなぎら)へと至る二十数キロの路線を、当時都会でも出始めたばかりの電気鉄道

                                                • 【山さ行がねが】ミニレポート第171回 青森県道274号陸奥関根停車場線

                                                  前回のミニレポ170回では、駅と共に廃止された停車場県道を岩手県からお伝えしたが、 今回紹介するのは、駅が廃止された後も存続している停車場県道である。 その名も、青森県道274号陸奥関根停車場線という。 東京からかなり遠い場所のため、訪れたことのある人はさほど多くないと思うから、まずはどこにあるのかを確認しよう。 青森県道274号陸奥関根停車場線は、下北交通大畑線陸奥関根駅と国道279号を連絡する全長0.3kmの短い県道で、昭和36年に認定されている。 そして、下北交通大畑線は平成13年4月1日に全線が廃止されており、当然陸奥関根駅もこの日に廃駅となっている。 下北交通大畑線は、JR大湊線下北駅(むつ市)と大畑駅(むつ市、旧大畑町)を結んでいた全長18kmの非電化ローカル線で、昭和60年に廃止された国鉄大畑線を下北交通が継承して運行していた。 この路線は当初、国鉄大間線として下北半島の突端

                                                  • 【山さ行がねが】ミニレポート

                                                    2004年最大の林鉄系発見「定義林鉄 巨大木橋」の5kmほ下流には、古くから「定義さん」と呼ばれ親しまれてきた古刹「定義如来」がある。 この定義如来を起点として仙台市中西部に至る主要地方道が、主要地方道定義仙台線だ。 大都市近郊でありながら、その沿道には大倉川が流れ、大倉ダムがあり、山深い道という印象がある。 そして、いつの頃かは定かではないものの、起点付近の道筋はもともと大倉川右岸にあったものが、左岸へと大規模に付け替えられている。 この付け替えによって生じた旧道区間はおおよそ6km。 うち、最上流部の1kmが、現在は廃道となっている。 ご覧頂こう。 まずはオードブル。 県道の起点からさらに上流へと市道が続いている。 この市道の十里平と定義の中間付近、大倉川を渡る橋があるが、この橋の辺りから川原に降りる事が出来る。 そこから下流を見るとびっくり、 こんな場所によくぞ川が通ったもんだ。 特

                                                    • 隧道レポート

                                                      お馴染み「全国隧道リスト」に「昭和8年竣工」と示されている古隧道の一つに、青森県青森市の善知鳥前隧道がある。 東北の最大幹線で日本最長の国道である4号線、その最後に待ち受けていた難所「善知鳥崎」は、かつて「親不知子不知に匹敵する」と称された難所であったという。 そこに穿たれた隧道とは、一体どのようなものだったのだろうか? 複雑な変遷を辿った、善知鳥崎を越える道の謎を紐解こう。 青森市久栗坂は、陸奥湾沿いに走る東北本線の野内駅と浅虫温泉駅の丁度中間に位置する。 レールは集落を縦断しているものの駅はなく、また国道4号線も久栗坂トンネルでやや内陸を通過してしまっている。しかし、青森市街にも近い比較的ひらけた集落である。 久栗坂の往来の中心は、旧国道である一般県道259号「久栗坂造道線」である。 昭和11年竣工の根井橋は、根井川の最も河口よりに架かる県道の橋だ。 正面に見える小松山(海抜244.9

                                                      • 【山さ行がねが】道路レポート 神奈川県道515号 三井相模湖線

                                                        物音を出来るだけたてないように注意しながら、玄関の扉を閉める。 砂利敷きの駐車場に置かれた、我が愛車ルーキー号。 狭く短い坂を下ると、そこは北野街道と名の付いた県道だ。 ここでは、分からないことだらけだ。まだ。 何故この辺りの住人は、県道や国道に「街道」の名を付けたがるのだろう。 お陰で、青看板と道路地図帳での探索では、たびたび戸惑いを覚える。 件の北野街道を西に向かう。 時刻は午前6時より前だが、道路端に敷かれた複線の線路には、既に幾度も列車が駆けていた。 しかも、その編成はどれも長い。始発はいつなんだろう。 6時をまわる頃、有料道路になっている高架のバイパス道路と交差した。 巨大な高架の上からは、獅子の咆哮にも似た騒音が絶え間なく聞こえてくる。 ここまで、行く先々、ひとときも車通りは途絶えていない。 街は日のあがる前に、もう目覚めの時を迎えているのだった。 さらに西へと進んでいく。 や

                                                        • 【山さ行がねが】ミニレポート第170回 旧岩手県道 大荒沢停車場線 (机上レポ)

                                                          昭和34年3月31日、岩手県告示第280号によって、岩手県内の一般県道、158路線が告示された。 昭和29年に先だって認定を受けていた主要地方道20路線と合わせて、現行道路法下(昭和27年制定)における岩手県道網は、この合計178路線でスタートしたのである。 そしてこの一般県道の整理番号92番(これが現在で言うところの「路線番号」と呼べるかは不明)に、大荒沢停車場線という路線が記載されているのだが、現在この路線名を持つ県道は存在せず、それどころか大荒沢停車場自体、いくら地図を探しても見つけることが出来なくなっている。 92 一般県道 大荒沢停車場線 起点、大荒沢停車場 終点、二級国道大船渡本荘線交点(湯田村) この大荒沢停車場、つまり大荒沢駅とは、国鉄北上線の駅であった。 しかし、昭和37年に北上線の路線が付け替えられた際、大荒沢駅は信号所に格下げ(その後廃止)されている。 おそらくこの前

                                                          • 【山さ行がねが】道路レポート 国道135号旧道 トモロ岬

                                                            一般国道135号は、伊豆半島の東岸を南北に縦貫する、観光及び物流の両面で代替路の無い極めて重要な路線である。 実際に通行してみると、確かに、ほぼ全線2車線しかない路幅の中を溢れんばかりに、様々な車が通っているのが分かる。 大型トラックから観光バス、オープンカーやバイク、自転車に至るまで、季節にもよるが、ありとあらゆる車を見ることが出来た。 そしてこの道は、伊豆半島という希代の観光地に全線の立地を置いたため、随所に有料バイパスとの分岐や合流がある。 その中には既に無料開放化されて久しい物も少なくないが、今でも、地方からの観光客やサンデードライバーの多くが、何気なく有料バイパスへ連れて行かれている。小田原から熱海の間はとくに、図らずも二度ばかり有料バイパスへ連れて行かれることになる。 今回紹介する旧道もまた、有料バイパスとの関わりの中で生きた道だった。そして、ある激甚な災害によって死んでいった

                                                            • 隧道レポート

                                                              五百刈沢隧道は、秋田市の北部、外旭川と上新城を分ける稜線上に幾つもある隧道のひとつだ。 この稜線は、太平山地の末端に位置し、太平山前衛の山々を取り囲むように存在するが、その標高は100mにも満たない。 そして、上飯島地区の飯岡山を最後のピークとして、あとは、かつては海の底であった広大な水田地帯に落ちている。 五百刈沢隧道は、私にとって、山チャリで出会った初めての隧道(トンネルではなく、隧道)であり、その消長というほどではないが、十年来の姿を追ってきているので、とくに思い入れがある。 まあ、当サイトで紹介している他の隧道に比べれば、迫力には乏しく、ただの狭くて小さな隧道と見えると思うが、どうかお付き合い願いたい。 今回は、新たな発見があったので、これを中心に、五百刈沢隧道の再訪レポートをお送りする。 2003年12月11日、午前8時すぎ、自宅から5kmほどの地点にある五百刈沢隧道を目指し、主

                                                              • 【山さ行がねが】橋梁レポート 山形県道375号 十里塚遊佐線

                                                                このタイトルなのに「橋梁レポート」? 何かの間違いじゃないの?? そう思われるかも知れない。 だが、この県道の近くには、是非とも紹介したい橋が2つある。 この県道、一般県道375号十里塚遊佐線は、右の地図の通りの短い路線である。 遊佐町の役場所在地である遊佐と、海岸沿いの十里塚とを結ぶ、わずか5km足らずの道だ。 だが、この道は2つの顔を持ち合わせている。 一つは西の海岸線近く、砂丘の防砂林を越える小さな峠区間。 残る東側は広大な田園風景である。 僅かばかり、遊佐の街並みの景色もある。 そして、私が紹介したい橋は、ちょうど路線の中程の江地(えち・えぢ)地区にある。 レポートは、終点である遊佐より始まる。 時は夕暮れ。 ご覧頂こう。 霊峰鳥海の南の一角を占める遊佐(ゆざ)町。 平成の大合併でも、巨大化した酒田市に呑み込まれることを回避し、観光に根ざした独自の町作りが模索されている。 鳥海山の

                                                                • 道路レポート

                                                                  かつて、盛岡と太平洋岸の野田(現在の九戸郡野田村)を結んだ街道は野田街道と呼ばれ、南部牛方という行商人達が歩いた道である。 野田街道には本野田街道と沼宮内(ぬまくない)廻野田街道の二つがあり、黒森峠は沼宮内廻野田街道のなかで最も高い峠であった。 峠は、牛方達が宿とした吉ヶ沢と山形川沿いの小屋畑集落の間に、海抜876mをもって聳えている。 近代、県内の主だった旧街道が国道や県道に再指定される過程で、この野田街道最大の難所であった黒森峠も、主要地方道(県道30号線)葛巻安代線に指定された。 しかし、地形図をはじめ、新旧を問わず道路地図においては、峠の葛巻側の僅か2kmほどに、道は描かれていない。 期待と不安を胸に、2005年の春、雪解けを待ち愛車に跨った。 岩手県二戸郡一戸町 中山 まいった。 思惑が、もろに外れてしまった。 これでは、…ネタにならない。 おかしいな…、話が違うじゃないか。 青

                                                                  • 【山さ行がねが】隧道レポート 旧 佐島隧道

                                                                    東京へ越してきた私が、最初に集中的探索を実施した場所が三浦半島だった。 ここには、明治以降に掘られた大量の隧道が存在し、その多くが改良を受け現役で活躍している。 私にとって、たくさんの古い隧道と戯れられる場所というのは、大変魅力的だった。 三浦半島は最南端の三浦市城ヶ島から北端とされる横浜市金沢区円海山まで約25キロ、平均幅が5キロほどの丘陵性の半島であるが、東京湾を挟んで対岸に位置する房総半島があまりに肉厚で巨大なせいで、小縮尺の地図上ではそれほど目立った存在ではない。だが、幕末に黒船に乗ったペリーが上陸したのは半島内の久里浜港だし、鎖国が解かれて開港したのはその隣の浦賀港だった。また、横須賀港は明治以降、日本海軍最大の拠点港として発展した。どちらかというと軍事寄りの歴史が多いけれど、歴史がたっぷり詰まったという意味での土地の濃密さは凄い。そして、おそらく日本で最も人口密度の高い半島では

                                                                    • 隧道レポート(初期レポート集2)

                                                                      このレポートの最終回ないし最新回の 「この位置」に、レポートへの採点とコメント入力が出来る欄を用意しています。 あなたの評価、感想、体験談などを、ぜひ教えてください。 【トップページに戻る】 前回紹介した、旧横荘鉄道廃線後に残る隧道のうち、唯一不通となっている隧道である。 ここを2002年春、山チャリがてらの内部調査を行った。 今回は、そのレポートである。 今回の探索のスタートは、この二井山集落である。 この地にかつて二井山駅があったが、廃止されて40年近く経過した現在では、そのことを伝えるのは、一本の立て札のみだ。 二井山集落を離れると、すぐにのぼりが始まる。 ここから長い山間部の道なりとなる。 かつての鉄路は、現在の車道(県道48号線)に沿って存在したようだが、その痕跡は見つけられなかった。 結構な勾配であり、SLや気動車では、速度は出なかっただろうなー。 1Km程で、車道は、直角のカ

                                                                      • 【山さ行がねが】道路レポート 寸又峡の旧遊歩道

                                                                        飛 龍 橋。 全長72m、高さ69m。上路スパンドレルブレーストアーチ。 奥黒法師から流れ出る大間川の深谷を跨ぐ、現役の道路橋で、架設された昭和32年当時はここを千頭森林鉄道が通っていたが、同44年に車道橋へと改築された経緯を持つ。これは土木学会により権威ある「歴史的鋼橋」にも認定された名橋であり、寸又峡を代表する観光名所ともなっている。 しかし、この橋は今回の主役ではない。 夢の吊橋。 全長90m、高さ8m。吊り橋。 この橋は飛龍橋の500mほど下流、寸又川との合流地点にある「大間堰堤(ダム)」に架かる、人道用の吊り橋で、これまた寸又峡の代表的観光名所である。 もちろん、今回の主役ではない。

                                                                        • 道路レポート

                                                                          区 界 峠くざかいとうげ。 これほど、旅情をかき立てる峠の名を、他に知らない。 この峠は、岩手県は盛岡市と宮古市を結ぶ一般国道106号線最大にして唯一の峠である。 北上川に沿って南北へ連なる長大な平野部と、太平洋岸のリアスを基調とする険しい海岸線、そしてその中間を埋める広大な北上山地。 県としてはもっとも広い岩手県の地勢は、意外に簡単に説明できる。 そして、内陸平野部と沿岸部の間には幾筋もの街道が拓かれてきた。 それらの多くは、険しい北上山地を越える峠道であり、区界峠もそのうちの一つである。 国道106号線は、全長約100km。 その長い行程の全てが、区界峠越えといっても差し支えない。 盛岡を発すると一路東進。 梁川に沿って、緩やかに、そして徐々に勾配を極めながら登ること30kmと少し。 そこが、県都と下閉伊郡川井村の行政界にして、北上水系と閉伊水系の分水界である、区界峠である。 海抜75

                                                                          • 【山さ行がねが】道路レポート/廃線レポート 草木湖水没交通遺構群

                                                                            平成24年の夏は猛暑であったが、加えて東日本ではまとまった雨が少なく、必然的に各地のダム湖は渇水に見舞われた。 そのため、いくつかのダムは貯水率が一桁にまで低下する異常事態となったが、そこまで行かなくても、ダム湖の水位が普段より下がっている状態というのは、オブローダーにとって発見の良い機会である。 普段は湖面の下にあって見る事が出来ない様々な水没した地物が、地上に現れることになるからだ。 今回私が訪れたのは、群馬県の渡良瀬川にある草木(くさき)湖で、水資源機構が昭和51年に完成させた草木ダムが生んだ、比較的に規模の大きな人造湖である。 前日の時点でモニタされた草木ダムの貯水率は30%を切っており、私は渇水の湖底に現れているかもしれない “ある” ものを探すべく、朝一番で訪問したのだった。 私が探しているものは、以下のふたつ。 国道122号の旧道。 国鉄足尾線の旧線。 特に国鉄足尾線には、岩

                                                                            • 【山さ行がねが】隧道レポート 栗原鉄道 赤坂山隧道

                                                                              このレポートの内容は不完全なものであることが判明しました。 赤坂山隧道の尾松側坑口は、他に存在するとのこと。 読者の皆様におかれましては、その点をご了承下さい。 「再調査計画中」 またひとつ、レールが消えようとしている。 2007年3月いっぱいで全線のバス転換が予定されている、くりはら田園鉄道線。 通称「くりでん」がそれである。 くりでん。 大正10年「栗原軌道の部分開通」から今日までの80年近い歴史は、まさに波瀾万丈。 僅か26km余りのミニ鉄道でありながら、おおよそ一つの鉄道が経験できる全てのイベントを経験していると言っても過言ではない。 以下に、この鉄道の体験した経歴のうち代表的なものを記す。 まず全線(26.2km)が開通したのは昭和17年。当時は「栗原鉄道」に改称されていた。 昭和27年、電化。 開業当初は軌間762mmであったものを、昭和30年に現在の1076mmへ改軌。 この

                                                                              • 【山さ行がねが】廃線レポート 千頭森林鉄道 逆河内支線

                                                                                ※このレポートは、「廃線レポート 千頭森林鉄道 千頭堰堤~大樽沢」の続きになります。 ※千頭森林鉄道全体については、【こちら】にまとめています(執筆途中)。 逆河内 読みは、サカサコウチ なんでこんな名前なんだ? どうしても「真っ逆さま」というという言葉を連想してしまって、良い印象がないんだが。 それにここは、一部で有名な“あの橋”のある谷だろ…。 ともかく、この逆河内は寸又川最大の支流であり、河内には谷という意味があるせいで、地図でも「~川」とか「~沢」は付いていない。そのまま逆河内という。 そしてこの逆河内に沿って、千頭森林鉄道の支線が存在した。そのまま、逆河内支線である。 本線との分岐地点は大樽沢(おおたるさわ)だが、ここからして既に最奥集落の大間(寸又峡温泉)から軌道跡を14.1kmもさかのぼった地点である。この探索の模様は、「廃線レポート千頭森鉄 千頭堰堤~大樽沢」をご覧頂きたい

                                                                                • 【山さ行がねが】道路レポート 国道158号旧道 猿なぎ洞門

                                                                                  平成3年10月18日、 国道の現役の洞門が巨大な土砂崩れに呑み込まれ、あっという間に破壊されるという事故が発生した。 しかも、その模様は偶然にも、対岸の集落に住む安曇村役場職員によってビデオ撮影がされていた。 真新しいコンクリートの洞門が、落雷のような轟音とともにひしゃげ、無惨に崩れ落ちて行くショッキングな映像は、当日夕方のニュース映像にも使われており、ご記憶にある方もおいでだろう。 私もおぼろげながら見た記憶がある。 現在もこの映像は土木の世界において各種の解析に用いられているという。 これは、長野県松本市と福井県福井市を結ぶ国道158号上で、関東方面から上高地へと向かう玄関口の安曇村島々地区、「猿なぎ洞門」での出来事だった。 一歩間違えれば、昭和46年に静岡県の国道150号で発生した石部洞門崩落事故や、平成8年に北海道の国道229号豊浜トンネルでの崩落事故のような大惨事になっていただろ