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【山さ行がねが】廃線レポート 光明電気鉄道 阿蔵隧道と大谷隧道
昭和の初期に静岡県西部(遠州地方)の広大な農村地帯で、まるで綺羅星のような都会的高速電気鉄道を運... 昭和の初期に静岡県西部(遠州地方)の広大な農村地帯で、まるで綺羅星のような都会的高速電気鉄道を運行させた「光明(こうみょう)電気鉄道」は、その数奇で悲劇的な歴史で知られ、地元や鉄道ファンの間では今なお語り種になっている廃線である。 今回は、資料や読者からの情報提供を元に探索した、廃線跡に存在する2本の廃隧道を紹介したい。 まず、同電鉄の歴史を簡単に紹介しよう。 鉄道計画の発端は大正10年である。 東海道の宿場町であった見付(みつけ)は、明治22年に開業した東海道線の経路から外れたため衰微著しく、対策として東海道線中泉駅(現:磐田駅)と見付(磐田市)を結ぶ鉄道が計画された。 しかも計画はそれだけに止まらず、さらに北上して北遠地方の中心都市であった二俣(ふたまた)を経由して、天竜川水運の要衝地 光明(こうみょう)村船明(ふなぎら)へと至る二十数キロの路線を、当時都会でも出始めたばかりの電気鉄道
2010/05/31 リンク