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山さ行がねがの検索結果241 - 280 件 / 468件

  • 【山さ行がねが】隧道レポート 五岳荘隧道 <前編>

    2007年10月に藤沢市在住の高橋さまよりいただいた情報によると、おとなりの鎌倉市大町3丁目の住宅地に、気になる「廃トンネル」があるとのこと。 場所は、JR鎌倉駅から東南東に800mほど離れた、鎌倉市街を取り巻く山地のなか。 確かに大縮尺の地図には、それらしいトンネルが描かれている。 もっとも、その先は行き止まりのようであるが。 それにしても、「鎌倉市大町三丁目」とは、初耳のはずなのになぜか聞き覚えがあるような…。 そうだ分かったぞ。 秋田県人でラジオを良く聴く人ならば耳に覚えがあるだろう。 「かまくら家ってどこにあるの? わさび家のとなりのとなりだびょーん! わさび家ってどこにあるの? かまくら家のとなりのとなりだびょーん!! えーッ!! わっかんなーーい!! 大町三丁目 かまくら家 わさび家」 細部は間違っていそうだが、こんなCMが秋田では結構頻繁に流れるのである。 「かまくら」、そし

    • 【山さ行がねが】道路レポート 国道113号旧道 赤芝橋

      今回は国道113号の旧道をまたひとつ紹介する。 国道113号は、太平洋に面した福島県相馬市と日本海に臨む新潟県新潟市を結ぶ、東北を横断する国道である。 その性格上山がちな路線であるが、なかでも2000m級の飯豊連峰と朝日連峰に挟まれた荒川地峡(荒川渓谷沿い)を通る、山形県小国町から新潟県関川村にかけての区間は最大の難所である。 と同時に、小国町や関川村にとってはこれが唯一外界へと通じる路線になっていることから、この区間は3桁国道でありながら国交省直轄区間になっている。 これまで当サイトや「日本の廃道」でも、この区間にある旧道や廃道をいくつか紹介してきた。 その代表的な物は宇津峠や八ツ口旧道、そして片洞門(日本の廃道)である。 今回紹介する旧道は、位置的には片洞門と八ツ口の間にある。 その旧道としての規模は小さいが、かなり印象深い 特異な景観 がある。 2010/10/18 7:11 【現在

      • 隧道レポート

        この隧道の立地や周辺の様子については、2003年に初めて訪れた際の記録をご覧頂きたい。 今回は、前回進入できなかった内部について、報告申し上げる。 と、その前に、本隧道の歴史について、前回のレポ後に色々と情報を仕入れることが出来たので、前回までの間違いを訂正するついでに、ご紹介しよう。 本隧道は、仁別森林鉄道の支線である、奥馬場目支線にあった。 奥馬場目支線は、仁別林鉄本線から別れ仁別沢沿いにあった中ノ沢支線の終点から延長される形で、郡境の峠を越えて五城目町馬場目国有林内の北の又まで伸びていた。 紹介する隧道は、まさにこの郡境を穿つ延長500mを下らない物である。 昭和8年から建設が進められた奥馬場目支線が全通したのは、昭和10年のことであった。 その後、北の又からはさらに路線が延長され、小支線も多く開発された。 昭和16年には馬場目川に沿って北の又から延長された杉沢林鉄が、杉沢の貯木場に

        • 【山さ行がねが】道路レポート 国道127号 旧道及び隧道群

          国道127号は房総半島の西海岸を南北に縦貫する全長55kmあまりの路線である。 そのルートは半島南端の館山市より始まり、安房郡富浦町、同富山町、同鋸南(きょなん)町、富津市、君津市を通り、木更津市で国道16号東京環状へと繋がっている。(このうち富浦町と富山町は2006年3月に周辺数町村と合併し南房総市になった。) この路線の特色としては、海岸通りに多くの隧道を持つ事が挙げられる。 その多くは戦時中に軍事国道として整備されたもので、なお現役で利用されているほか、更に古い道筋が周辺に散見される状況にあり、全国でも屈指の旧隧道密度を誇る路線と思われる。 以下にこの道の歴史を簡単な年表にした。

          • 隧道探険隊

            皆さん、八郎潟はご存知だろう。 古くは日本第二の大湖として、そして、近年ではバス釣りやワカサギ釣りのメッカとして、全国的に有名である。 そして、皆さんの持つ八郎潟のイメージとはどんなものだろうか? 広い。 お米の産地。 チャリで走るとダルイ。 …これらはどれも、同感だ。 だが、広大な八郎潟の干拓によって誕生した多くの橋を、貴方はご存知だろうか? 東西12km、南北27km、周囲100kmにも及ぶ広大な八郎潟の湖畔のうち、特に湖東地区と呼ばれる東岸一帯は、もっとも古くから干拓が進められてきた部分である。 太平山系より西流する大小の河川が幾筋も湖に流れ込んでいて、その河口部にはかつての湖岸に沿うように小さな集落が点在している。 最近は町村合併の嵐が吹き荒れてきているとはいえ、現時点では小さな町が犇くように隣接している。 今回、湖東を南から北へと辿ってみた。 起点となった昭和町大久保は、一時期私

            • 【山さ行がねが】ミニレポート 第126回 国道122号 沢入トンネル旧道

              【周辺地図】 【拡大図】 渡良瀬川に沿って関東平野と日光を結ぶ国道122号の大部分は、江戸時代後期に、江戸と足尾銅山を結ぶ銅街道(銅山街道)として切り開かれた道をもとにしている。 牛馬が重い鉱石を背に幾つもの尾根と谷を越えて往来した難路に沿って、明治末から鉄道が延ばされ、大正元年には群馬県の大間々(現:みどり市)から栃木県足尾(現:日光市)まで開通した。 さらに、昭和一桁台後半には、従来の銅山街道を大幅に改良して自動車道が建設された。 昭和38年には二級国道122号日光東京線に指定され、狭隘であった谷沿いの道は各所で改良された。 昭和51年には沿線に大規模な草木ダム(群馬県東村、現:みどり市)が完成し、一般国道122号と改称されていた本路線にも水没区間が生じた。 また長い歴史を誇る足尾鉱山も観光鉱山として生まれ変わった。 現在の国道122号は、かつての路線名の示すそのままに関東と日光を最短

              • 【山さ行がねが】隧道レポート 旧口野隧道

                当レポートが最後に辿り着く結論は、事実と異なる誤説です。 正しい事実をお知りになりたい方は、「おぶろぐ!(2010/1/22エントリ)」をご覧下さい。 一応レポートを最後まで読まれてから確認された方が、分かり易いかと思いますが…。 上の3枚の地形図は、同じ場所を示している。 【周辺地図】 明治、戦後間もなく、そして現在─。 この一世紀のうちに地上を席巻した人間の土木力は、その動線としての道路のみならず、川の流れや海の形、地形そのものまで大規模に改変してきた。 そんなことをありありと見せつける、僅か3キロ四方の地図である。 この中に、明治時代には既にありながら、戦後間もなく地図から消滅した、“足の速い”隧道が描かれている。 仮にこれを、平行位置にある現在の国道414号口野トンネルの旧トンネルと比定し、「旧口野隧道」と名付ける。 3枚の地図を一枚に重ねてみた。 そして浮かび上がるルートの変遷。

                • 【山さ行がねが】ミニレポート

                  2004.3.31撮影 宮城県志津川町 (現南三陸町) だらだらと続いてきた(オイオイ…)小ネタ集、もとい「ミニレポート」も、いつの間にやら50回を迎えた。 そして、そんな私につい先日、奇跡的な発見がもたらされたのだ。 私は、以前「クアトロ秋田」さんから“その”話を聞いて以来、ずっと探していたものを、やっと、初めて発見したのである。 嬉しくて嬉しくて、もう感激しっぱなしだったのだが、そろそろその発見を自慢したくなってきたので、ミニレポ50回の記念に、紹介したい。 みんな!注目! 私の発見に、ちゅーもくっ! ここは、海。 それも、見慣れた海ではなく、世界の海・太平洋です。 宮城県桃生郡は北上町小指という、太平洋に面した漁港に、私はおりました。 旅の目的は、もちろん山チャリ。 この時は、前夜から国道398号線をひたひたと、志津川目指し北上しておりました。 ただ走っていても、風光明媚な三陸は十二

                  • 【山さ行がねが】隧道レポート 三陸海岸 真木沢隧道群

                    三陸海岸は、東北地方の太平洋岸の北半分の大半を占める、全長600kmに及ぶきわめて長い海岸線の総称で、かつてこの地方が「陸前」「陸中」「陸奥」の3国であった事から比較的近代に名付けられた。 三陸海岸と言えば全国的に有名なのが、リアス式と言われる複雑で険しい海岸線である。 中学校の地理で必ず名前が出てくることもあって、皆様の多くも「リアス=三陸海岸」というイメージをお持ちだろう。 実際に三陸海岸の大部分にリアス地形が見られるわけだが、岩手県宮古市より北側では隆起によるリアス地形、宮古以南では沈降によって生じたリアス地形というように、出来上がり方に違いがある。 無論、この違いは地形的な違いにも現れていて、南三陸ほど規模の大きな湾が多く、したがってその水深も深く、天然の良港に恵まれる。 北三陸では徐々に海岸線が海側へと後退を続けており、海岸線から垂直に切り立つ断崖絶壁という、おそらく多くの読者に

                    • 【山さ行がねが】ミニレポート 第96回 JR羽越線 鵜泊隧道の謎

                      北日本の日本海沿岸有数の観光地である新潟県村上市は笹川流れ。 奇岩や断崖絶壁が海岸線に聳え立ち、特に夕暮れが海に沈む頃には最高の景観を見せる。 ここは、その中心地から10kmほど北の鵜泊地区。 海岸線に沿う国道345号線と、それに並んだJR羽越線の単線の線路が印象的な道路景観を形作っており、私の好きな場所だ。 今回のレポートは、その国道脇から見える景色に始まる。 ちょうどここにはJRの塩害試験場が線路端に設置されており、変電所の設備や架線柱などが林立している。実際に潮風にあててその劣化具合を検査しているようである。 これが、国道からも見える、問題の景色である。 そこにあるのは羽越線の現役トンネルなのだが、よく見ると、奥にも穴が見える? ここは間違いなく単線のはずだが…?(厳密には複線だが、もう一線はより山側を長いトンネルで貫いていて、ここでは地上に出ないはず) これは、調べねばなるまい。

                      • 【山さ行がねが】ミニレポート第151回 富山県道187号荒屋敷月岡町線

                        なんの脈絡もなく、マイナーな県道を紹介する。 富山県道187号「荒屋敷月岡町線」は、富山市(旧大山町)内の山と平野を結ぶ、幾つもある行き止まりの県道のひとつである。 全長は約12kmで、道中にはこれと言って大きな集落も、観光名所になるようなものもない。 それを敢えて紹介するのであるが、きっかけは読者さんから寄せられた情報である。 「気になる道がある」らしいので、さほどアクセスの難しいような場所でもないし、通りがかりに寄ってみたのが今回のレポートだ。 …気軽にね。 情報があったのは、この道の終点側に近い下渕地区である。 そこまで行くのも、この県道187号に拠った。 神通川支流の黒川に沿って一本だけ奥まで通じているのがこの県道で、現在のところ他に乗用車でアプローチ出来るようなルートは無い。 なお、途中は見ての通り、何の変哲もない2車線舗装路である。 むしろ、交通量の割には良く整備されている印象

                        • 隧道レポート

                          森林鉄道とは、木材などの林産物の搬出の為に建設された鉄道のことである。 全国有数の林産王国であった秋田県におけるその歴史は、明治の終わりごろにまで遡る。 その一部は鉱山鉄道とも供用されていたというが、県内各地に張り巡らされた線路網は昭和初めの全盛期においては、総延長1000kmを越えていた。 しかし、その後のモータリゼーションや林業自体の衰退などで、どのような末路を辿ったかは、皆さんご存知の通りである。 その森林鉄道の中でも、県都秋田市と太平山地を結んだ仁別森林鉄道は県内で最も遅くまで活躍していた路線である。(写真下) そしてそれは、日本最後の純粋な(観光化していない)森林鉄道でもあった。 仁別森林鉄道には本線である「秋田駅~仁別~旭又」の30km余りのほかにも、旭川の支沢に沿いに無数の支線が存在していたが、今日ではその一部が林道や登山道、または自転車道として再整備されている他は、大規模な

                          • 小ネタ集

                            秋田市に住み、秋田市を根城に各地を旅する。 そんな私だが、我が秋田市にも、時折は目を向けている。 まあ、大抵は遠くまで山チャれ無い時の慰み物なのだが、それでも、意外に興奮する事実に出会ったりもする。 今回は、ふと秋田市について感じたことがあるので、書き綴ってみた。 他愛もない話だが、よろしければ、お付き合いください。 昭和30年代の秋田市には、とても現在からは考えられないほどに多彩な「鉄道」が、市内を駆け巡っていた…。 ざっと挙げてみよう。 まずは、国鉄から奥羽本線、羽越本線。これらは、もちろん現役である。(JRだが) 続いて、貨物線である秋田臨海鉄道が、当時日本一の産油都市であった当市の工業を支えていた。 これも、辛うじて現役である。(南線と北線があるが、近年は廃止された区間が増えている) ここから先は、もう、記憶の中だけの鉄道となる。 当時、羽越本線の羽後牛島駅や新屋駅付近からは、付近

                            • 【山さ行がねが】ミニレポート第146回 片門ダム 堤上路

                              【現在地(別ウィンドウ)】 今回紹介するのは、表題の通りの道である。 ダム堤体の上を車で通れるところは結構あるが、それらの多くは地図上でもそれと分かるように道が描かれていたりする。 だが、福島県の片門(かたかど)ダムにあるそれは、ほとんど…というか、全くと言っていいほど地元以外では知られていない。 右の地図を見てもお分かりの通り、堤上の道は繋がっていないように描かれているからだ。 また、近くには別に主要な道があって、敢えてこのダムを渡る理由も乏しいからだ。 これだけを聞いて、この場所に興味が湧いたという人は多分少ないだろう。 だが、この場所には独特の良さというか、知るものを一人ほくそ笑ませるような効果がある。 そしてもしあなたが変な道を愛するならば、或いは車でそう言うところを通りたいと願うならば、無視できない存在になるだろう。 事実、私もここを訪れたあと、自分の車で渡ってみたいという衝動

                              • 【山さ行がねが】橋梁レポート 魔の橋 (旧松峰橋)

                                秋田県、特に県の北部に長くお住まいの方ならば、1960年代に嵐のように巻き起こった『黒鉱ブーム』というのを覚えておられるだろう。 これは、当時既に秋田県第二の都市であった大館市の北部にて、銅や亜鉛を多量に含む、『黒鉱』と呼ばれる鉱石の埋蔵が発覚した事による、日本版のゴールドラッシュと言える。 当時真剣に、“埋蔵量は無尽蔵”と言われた巨大な鉱床は、市街地にかなり隣接したそれまで単なる水田だった場所や、小山の地下にも埋蔵していることが明らかになり、瞬く間に一帯には大鉱山街が形成され、それまでの大館市の中心部さえ多少北側に引っ張ってくる程の勢いだった。 松峰鉱山、釈迦内鉱山、深沢鉱山、松木鉱山、餌釣鉱山などが大館市街地を取り囲むように相次いで開発され、もとより鉱山の多い地域柄もあって、秋田県北部全域を巻き込んでの大盛況となったわけである。 しかしその後、鉱業界の経済構造の変化などにより、黒鉱はな

                                • 廃線レポート 抱返り渓谷 (生保内林用手押し軌道)

                                  今回紹介する抱返り渓谷とは、雄物川最大の支流である玉川中流域にある、全長7kmほどの渓谷である。 大小さまざまな奇岩や瀑布が点在し、特に玉川独特のエメラルドグリーンの水面と、秋の紅葉のコントラストは、県内外にもファンが多い。 そんな抱返り渓谷であるが、実は、多くの人が訪れる見返りの滝などはその序盤に過ぎない。 かつての森林軌道跡に設置された遊歩道はその先にも通じており、実際、角館から田沢湖町まで玉川沿いを辿ることも可能である。 …可能であるが、歩くには余りにも長く、また危険な為、一般的には知られざる道である。 本来の山チャリの舞台とは少し異なるのかもしれないが、森林軌道跡ということで、余り極端なアップダウンや階段はないと考え、この角館~田沢湖町間の約30kmの道のりにチャレンジした。 以下は、その記録である。 図らずも、隧道、廃道、林道、その全てを網羅することとなった。 角館町舟場 廣久内

                                  • 隧道レポート

                                    東北日本海岸においては、殆ど唯一といって良い特異な景観を見せる、湯野浜温泉郷。 そこは地名の通り、海に面した温泉であるが、特異なのは、その林立するホテル群など、おおよそ寒風吹きすさぶ日本海には似つかわしくない、景色である。 無論、年中温かな温泉が旅人を癒すが、温泉など縁のない貧しく忙しい山チャリストにとっては、海からぶつかってくる猛烈な吹雪に浮かびあがる無数の高層ホテルは、異様と言うより他はない違和感を与える。 そんな景色の片隅に、ひとつの隧道が、置き去りにされていた。 この湯野浜温泉は、日本海沿岸では珍しい大歓楽街を形成している。 その背景には、酒田や鶴岡という都市圏を背景に従え、名刹善法寺への参拝観光と一体化した集客に成功してきたことにある。 しかしその神通力も今や衰えたか、廃館となったホテルも目立ち、善法寺や鶴岡方面に直通した私鉄鉄道も廃止されて久しい。 余談だが、この湯野浜温泉郷と

                                    • 隧道探険隊

                                      阿仁町は県内有数の山岳立地であり、熊牧場を観光の目玉とする、旧マタギの国である。 また、金・銀・銅などの主要な鉱物資源にも恵まれ、阿仁銅山と言えば、日本三大銅山にも数えられた程である。 森吉山西麓に端を発し、同町北部を渓流を伴い流れ落ち、阿仁川へと注ぐ小様川。 その小様川沿いにも、三枚、一の又、二の又といった、1700年代に栄えた銅鉱山があった。 現在、一帯に栄えた当時の面影は殆ど無い。 それどころか、山間集落の過疎化の流れは一向に止まる気配が無い。 付近には、幾多の廃村、廃田、廃屋、そして廃道を見て取る事が出来る。 この道も、その一つである。 ただ、幸いにして、この廃隧道には立派な後継が認められた。 役目を譲り、自然へと還る旅路を静かに歩む…そんな隧道を、紹介したい。 この日、小様川上流の三枚や、高津森を走り終えた私は、心地よい疲労感を感じながら、ここ数年に完成したばかりの快適な新道であ

                                      • 隧道レポート

                                        奥羽本線の大釈迦・鶴ヶ坂間は、現在まで二度の改線を経ているという、珍しい区間だ。 まずは、明治27年開通の初代ルートは、延長274mの大釈迦隧道を峠のサミットに据えた路線だったが、前後の勾配は厳しく通行には補機を要した。 昭和38年に、この勾配を緩和する目的で開通したのが、二代目の大釈迦隧道を擁するルートで、短絡化をも果たした。 線形については、もうこの段階で殆どそれ以上改良のしようがないものと思われたが、当時の国鉄は、3代目の隧道の開削を遂行し、これが昭和59年に開通した新大釈迦隧道、現在線である。 今回紹介するのは、2代目の大釈迦隧道だ。 本隧道は、延長1470mと、現隧道の2240mには劣るものの、小規模な峠を直線的に突破するには十分な長さである。 そして、この長さは、私がかつて侵入した廃隧道(正確には今回の隧道は、廃止されていない)中、最長である。 (ちなみに、二番目は僅差で旧横黒

                                        • 【山さ行がねが】道路レポート 福島県道318号 上小国下河原線

                                          道路レポート「福島県道318号上小国下河原線」(以下「本編」と呼ぶ)を公開した数日後、 地元に住むというある読者様から、レポート投票欄経由で一通の感想メールが届いた。 子供の頃よく行き来した道です。 昭和30年前に隧道建設をしましたが、工事費、町村合併などの理由から工事は中止されたと聞いています。 昔は、入口までの道があったのですが、今は解らないでしょう。 これはッ! と思った。 山行がをやっていて一番嬉しいのは、地元の方や実際にその道の現役を体験した人からの感想や情報を貰ったときである。 しかもその内容は、私にとって非常に衝撃的なものであった。 本編を見返して貰えると分かると思うが、この僅か0.7kmの自動車通行不能区間に車道は存在しない。 小さな切り通しの藪道があるのみで、歩いてやっと通り抜けられるような代物だった。 しかしこの情報によれば、ここで昭和30年以前に隧道の建設が行われたと

                                          • 【山さ行がねが】ミニレポート第178回 部奈マレットゴルフ場(仮称)

                                            ※当初、このレポートのタイトルを「部奈パターゴルフ場」としていましたが、ここで実践される競技はゴルフクラブではなく専用のスティックを用いたマレットゴルフ(福井県で誕生した和製ゴルフ)であるという指摘がありましたので、レポートのタイトル含め本文の中の記述も修正しました。マレットゴルフファンの皆様、たいへん失礼致しました。 ミニレポだからって、ゴルフ場を紹介してどうするのかと聞かれると辛いが、まあ「変なもの発見!」にすると写真点数が多すぎるのでこちらに来たのである。ご了承願いたい。 「ゴルフ道」という言葉もあるくらいだから、道路趣味とゴルフの繋がりだって、全くないとは言えないはずだ。 2011/4/22 14:22 【所在地(マピオン)】 で、ここはどこかというと、長野県の伊那地方にある松川町のはずれにある部奈(べな)という高台の集落だ。 ここを通る町道を自転車で通過中、路傍でこんなものを見

                                            • 【山さ行がねが】廃線レポート 小泊海岸森林鉄道

                                              青森県の片翼たる津軽半島を縦横に駆け巡っていた津軽森林鉄道は、北日本最大の森林鉄道網である。 明治末から昭和40年代までに及ぶ同線の歴史は、豊富な森林資源を山奧に追い求めての延伸の歴史でもあり、末期には半島北端の竜飛(たっぴ)岬のすぐ南沢筋まで伸びていた。 県都である青森と津軽半島の北端とが、762mm幅という狭いレールで延々と結ばれていたのは驚きでさえある。現在車でも3時間近く掛かる距離だ。 この、津軽森林鉄道の路線網としてはもっとも北端に位置したのが、今回紹介する小泊海岸林道(以下、当レポートでは正式名である“林道”で呼称するが、内容は森林鉄道である)と、その末端の支線・片刈石沢林道である。 そして、この小泊海岸林道はおそらく全国でもただ一本だけの「海岸林鉄」である。 本来林鉄は、人手だけで木を運び出せないような山奧へ線路を延ばすものと相場が決まっているが、失礼ながら辺境のこの地におい

                                              • 【山さ行がねが】道路レポート 都道204号日原鍾乳洞線旧道 兎峰橋

                                                日原(にっぱら)は、東京都の西の端に位置する奥多摩町の北西部、多摩川の支流である日原川上流の一帯である。 ここにある鍾乳洞は有名だが、オブローダーの世界でもその名は少しばかり知られている。 日原地区への出入りは、今日なおただ一本の都道「日原鍾乳洞線」による他ないという“陸の孤島ぶり”で、近世以来のこの道の変遷が、そのままオブローディングの対象となるのである。 右図では中でも一番メジャーで新しい「旧都道」のみを赤く示しているが、実際に明治以降に使われていた道は、下図の通り多くの世代が存在する。 これら「日原旧道群」の探索は、私が東京に移住してきた平成19年に集中的に行ったこともあり、一通りは終えているという認識だ。 当サイトでも、以下のようなレポートを公開してきた。 これらの探索のあと、しばらく日原の土を踏むことはなかったのだが、本年(平成22年)の春頃になってふと、やり残してきた(未踏破が

                                                • 【山さ行がねが】ミニレポート 第95回 主要地方道酒田温海線 由良トンネル旧道

                                                  秋田から山形県の酒田を経て新潟県村上までの約150kmを日本海の海岸線に沿って走ると、途中何度か国道をバトンタッチすることになるのだが、そのなかの約8kmだけが国道が内陸を経由するために、かわりに県道を利用することになる。 それが、山形県鶴岡市の加茂から由良までの区間であり、主要地方道酒田温海線がこの任に当たっている。 現在、この海岸線の道路は前後の国道と見紛うばかりの立派な整備がなされており、快適に通過することが出来る。 区間の南端に位置する由良トンネルには、かつてこの道がどのような道であったのかを今に伝える貴重な旧道区間が僅かに残されている。 由良トンネルの南口は、県道の終点である由良地区のはずれにある。 旧道の入口はこの南口では坑門のすぐとなりにあり、非常に見つけやすい。 私は、まだ日の明けぬうちに車でこの場所へ辿り着き、この日の探索の始まりをこの小さな旧道に決めると、坑口の海に面し

                                                  • 隧道探険隊

                                                    今回は、左の地図で示した「雄物新橋」が主役である。 私の住む秋田市に、この橋はある。 名は、「雄物新橋」という。 橋長 416m 竣工 昭和38年11月 そう、“新”橋とはいっても、この橋は古い。 この雄物川河口部には並んで3本の道路橋が掛かっているが、昭和9年竣工とダントツに古かった「秋田大橋」が2001年度に遂に架け替えられたことで、この橋が、最古橋ということになってしまった。 そして今、この橋が大変なことになっている! 2002年9月、現状を視察してきた。 実は、上記の前置きには少しうそがある。 この橋が陥っている“大変な事態”のことは、この走行時には知らなかったのだ。 ただ、何やらただならぬ雰囲気になっていたので、写真を多数撮り、帰宅後、秋田魁新報のサイトを検索してみたところ…、この橋の置かれてる状況を正確に把握したというのが、実のところだ。 以下では、私が現場で感じたことをメイン

                                                    • 【山さ行がねが】隧道レポート 静岡県道16号下田石廊松崎線 旧弥陀山隧道

                                                      右図で赤く示しているのは、石廊崎を回遊する道路上の主要なトンネルのうち、戦前に建設されたものである。 前回、「一色隧道」の冒頭でも触れたが、これら戦前生まれの隧道群の多くは、開削当初こそ集落間を結ぶ生活道路としての意味合いが強かったが、戦後しばらくして半島を循環する観光ルートの一部となるに至り、その狭隘がネックとなって相次いで改築されている。 下田から石廊崎への主要なルート上にあるこの弥陀山(みださん)隧道は、当初より多少の観光色を有していたようであるが、やはり石廊崎区間の開通によって手狭となり、昭和46年につくられた新トンネルに主要道路としての地位を譲って久しい。 弥陀山隧道は大正12年というかなり早い時期に開削されているが、当時の事業については今ひとつ明らかではない。 しかしこれからレポートする通り、坑門に凝った意匠が施されていることから、当初より石廊崎へ向かう観光道路としての性格を持

                                                      • 【山さ行がねが】ミニレポート第175回 藤琴森林軌道粕毛支線 第3号隧道(仮称)

                                                        【広域図(マピオン)】/【粕毛林鉄関連レポ一覧】 かつて秋田県を代表する木材の集散地であった二ツ井(現:能代市二ツ井町)から北へ、藤琴川やその支流に沿って白神山地の奥深くへ伸びていたのが、秋田営林局の藤琴森林軌道とその支線たちであった。 その最大の支線は、藤琴(藤里町藤琴)で本線から分かれ、粕毛(かすげ)川沿いを遡行していた粕毛支線であり、その全長は20kmに達した。 粕毛支線の景観は、大きく2つの区間に分けられる。 田園と集落を縫って走る下流区間(藤琴~素波里ダム)と、厳然たる山岳地帯・素波里峡に挑む上流区間である。 今回取り上げるのは、このうちの下流区間で発見された1本の隧道である。 この区間の探索は平成16年にも行っており、その際に1~3号(いずれも仮称)の隧道を発見、レポート公開済みである。 だが、このときの探索は駆け足で、「隧道だけをピンポイントに狙った」ものだった。 それは旧

                                                        • 隧道レポート

                                                          当サイトが縁で出会った仲間の一人に、パタリンという人物がいる。 気さくな彼からは、有益な情報がたくさん情報がもたらされて来た。 今夏遂に発見となった「道川製油軌道隧道」についても、なんとその一年も前より彼の口からは「あそこにはまだヨッキの知らない隧道が二本あると思うよ。」と、思わせぶりな発言があった。(失礼ながら、その時には信じられなかった。) そして、その後もことあるごとに情報を提供していただいたが、遂に、私を異常に駆り立てる隧道情報がもたらされた。 (前略) 太平山 金山滝の右の沢奥に 手彫り隋道の情報あり。 アクセスは登山道入り口より右の沢のさらに右の尾根越えだそうです。 (後略) 金山滝といえば、これまた秋田市をねぐらに走る者にとっては、お馴染みの地名だ。 現在では県道太平山八田線の終点で、古くからある太平山登山道の一つ木曽石口の起点である。 今回もたらされた情報によれば、登山道か

                                                          • 【山さ行がねが】ミニレポート第172回 国道136号旧道 宇久須区間

                                                            【広域図(マピオン)】 変なサブタイトルを付けてみたこのレポートだが、きっかけは右の地形図だ。 伊豆半島の西海岸に沿って走る国道136号は、ほとんど全区間に旧道が存在するという、旧道ファンにとっては天国のような道である。 地形図はその途中にある西伊豆町宇久須(うぐす)地区だが、ここに旧道の表記が途切れている箇所がある。 それは図の中央、現道の松ヶ坂トンネルに対応する短い区間である。 なお、松ヶ坂トンネルは昭和55年の開通なので、そんなに古いものではない。 旧道化してから比較的短い期間で地形図から消えた道に、何があったのか。或いは何があるのか。 それがこのミニレポートのテーマである。 それでは、問題の“消失地点”の500mほど手前の地点から、レポを始めよう。 旧国道上にある宇久須バス停からスタート。 すぐ目の前には、短い橋が架かっている。 親柱にはめ込まれた銘板によれば、橋の名前は「淀橋(

                                                            • 2003年総括企画

                                                              <2003年総括企画> 一年の走りを振り返る 第一夜  冬の探索 2003年は、一体どれだけの轍を刻んだのだろう。 年の最後に、その軌跡を振り返る。 またこれは、「山さ行がねが」の、来年前半のネタを占う上でも重要なヒントとなる。 通常、探索からレポート化までは、数ヶ月の時間を要する。 結局レポート化されない(=お蔵入り)ネタも少なくないのだが、その大元である探索の全容を知れば、 来年の「山さ行がねが」をもっとお楽しみいただけるだろう。 なお、写真にカーソルを合わせると、ポップアップに説明文が表示されます。 2月6日、笹立隧道が、2003年はじめての山チャリだった。 今年の、これまでに無いほどの山チャリラッシュは、すでにこの初回の時点で予感されていた。 というのも、2月といえば、通年で最も山チャリに適さない、寒くて、積雪の多い時期だ。 その真っ最中に、遥か山形県の沿岸部を、延々100km以上

                                                              • <頂きましたコメント(抜粋)> 二井山トンネルの西坑口崩壊は衝撃的でした。 ただ、未だ1度も自分の目で見てないので、とても気になります。 さて二井山隧道ですがあの近くを一ヶ月に1回は通っていまして手前のクランクや切通し、かなり気にはなっていたのですがまさか鉄道が通っていたとはかなり衝撃でした。 第5位には、当サイトでも定番のネタであり、秋田県を代表する廃隧道である横荘線跡は、二井山隧道がランクインしました。 ここは、確かに強烈でした! あれ以来、ヒルに加え、コウモリも苦手になってしまって…、 あぁ、あの壁一面のコウモリ、あの匂い…  おえっ。 …、今では閉塞してしまい、永遠に光届かぬ地となった隧道に、おつかれさまの一票もあったかも知れません。 それでは、続きまして、第4位の発表です。

                                                                • 【山さ行がねが】道路レポート (主)米沢南陽白鷹線 大峠  <リベンジ編>

                                                                  もう2年も前のことになるが、極めてマイナーな不通県道をこの道路レポで取り上げた。 山形県の南部に位置する置賜地方にあるこの県道は、県道の中では格上の存在である「主要地方道」に指定されていながらも、肝心の峠越え区間に断続的に2カ所の通行不能区間が設定されており、自動車での通行が出来ない道として取り扱われている。 しかし、現地へ行ってみると自動車どころか、自転車でさえ通り抜けは不可能な有様だった。かつてそこに何らかの道があったことも疑わしいような、猛烈な藪に阻まれたのだった。 その時のレポートはこちらだ。 今回のレポートはその続きの内容となるので、まだの方はぜひご一読いただきたい。 ここからは、前編にあたるレポの成果を踏まえて話を進めたい。 この不通区間は、起点の米沢側から南陽市・長井市・白鷹町の順に相次いで二つの峠を越える山岳地帯にある。 そして、この二つの峠の両方ともが不通区間となっている

                                                                  • 【山さ行がねが】ミニレポート 第118回 奥州街道 笹平一里塚

                                                                    「奥州街道」である。 奥州街道、街道に少しでも興味のある人ならば知っているだろうが、有名な五街道の一つである。(正式には奥州道中) そのルートを大雑把に表現すれば、江戸時代版の国道4号である。 知っての通り国道4号は日本一長い国道(東京~青森間)で、その前身たる奥州街道は、「日本橋~宇都宮(ここまで日光道中と重複)~仙台~盛岡~青森(ここまで国道4号に継承)~青森県三厩」まで、おおよそ114宿を数える日本最長の街道であった。 当時の旅の足を考えればまさに果てしないとも思える長い長い道中には、他の多くの街道と同様、約4kmごとに一里塚が築かれ旅の心を励ました。 仙台以北では随一のにぎわいを見せた宿場盛岡を過ぎると、天下の大道たる奥州街道も急に狭くなり、さらに険しい上り下りも格段に増える。拠り所である宿場の間隔も一気に広くなる。旅人の多くはその変化を見て、いよいよみちのくの果てに近づきつつある

                                                                    • 【山さ行がねが】廃線レポート 岩見三内森林軌道 大滝又支線

                                                                      平成の大合併によって県都秋田市の仲間入りを果たした旧河辺町は、古くから林業の盛んな地域であった。 その中心地和田にある奥羽本線和田駅を起点として、岩見川とその支流に沿って長大な路線網を伸ばしていたのが、秋田営林局和田営林署の所轄する岩見森林軌道である。 この路線は全線が二級規格であったが、岩見線と岩見三内線の二線を核として、地図に現れない作業支線などもあわせれば、100kmを下らない総延長があった。 大正10年頃から順次開通したが、昭和42年までに全廃され、現在では跡地の大部分に並行し或いは重なって自動車道が開通している。 今回紹介するのは、このうち岩見三内線の最奥部に位置する「大滝又支線(全長1.4km)」だ。 秋田出身の“山チャリスト”としては、「河北林道」と呼んだ方がしっくり来る、一般県道308号河辺阿仁線。 この道がかつての林鉄「岩見三内線」をよくなぞっているが、中間には岩見ダムに

                                                                      • 道路レポート

                                                                        仙北鉄道は、宮城県北部にかつて存在した軽便鉄道で、登米(とよま)線と築館(つきだて)線の2本があった。 登米線は大正10年の開通で、その経路は東北本線瀬峰駅より東進し登米までの16km、惜しまれつつ昭和43年に廃止された。 一方の築館線は大正12年開通、瀬峰駅より北西へ進路を取り、築館に至る若干12kmの路線であった。 こちらは、アイオン台風の影響により昭和23年と早い時期に廃止されている。 往時には貨物列車も通い、仙北地方の縦断交通路としてそれなりの存在感があった仙北鉄道であるが、その沿線風景は殆どが平坦な水田地帯であり、駅を除くとあまり大きな構造物は無かったようである。 その全線におけるただ一つだけの隧道が葉ノ木山隧道であり、築館線の中程にて築館町・迫(はざま)町・瀬峰町の三町の接する丘をくぐっていた。 1. 築館側から接近 葉の木山隧道へと、築館町側(北)から接近を試みる。 それまで

                                                                        • 【山さ行がねが】廃線レポート 足尾線旧線 草木ダム付け替え区間

                                                                          栃木県日光市足尾付近の源流から群馬県みどり市大間々町付近で関東平野へ注ぎ出るまで、南北に長く深い河谷を連ねる渡良瀬(わたらせ)川。 足尾と渡良瀬といえば、かつて(いまも?)国語教科書の定番となっていた田中正造の苦闘の物語を思い浮かべる人が多いだろう。 この渡良瀬川に沿って、古くから街道と鉄道が通っていた。 江戸時代に切り開かれた街道は「銅(あかがね)街道」といわれ、現在は一般国道国道122号の愛称となっている。 鉄道の方は明治末から大正の初期にかけて開通したもので、最初は民鉄の「足尾鉄道」であったものが「国鉄足尾線」「JR足尾線」を経て、現在は第三セクターの「わたらせ渓谷鐵道」が経営する「わたらせ渓谷線」になっている。 いずれのミチも当初は足尾銅山と関東を結ぶために整備されたものであり、特に未だ足尾の地に終点を持つ鉄道の方は、昭和48年の閉山以来赤字の度合いを増していて、現在でも廃止の議論

                                                                          • 【山さ行がねが】道路レポート 第二次 日原古道探索計画

                                                                            あの日、私は勝者ではなかったのか? 「都内最狂廃道」などと喧伝されてきた都道204号日原鍾乳洞線の旧道を危なげなく踏破した私は、有頂天だった。 旧道の終点で「あの道」を見るまでは。 私は急遽計画を変更し、「あの道」へ行くため対岸の作業道に入った。 決定的に時間が足りなかった。 それでも私は荒れ果てた作業道をチャリで疾駆し、巨大な吊り橋の残骸が残る廃鉱山へ行った。 そのまま、「あの道」目指し、危険きわまりない斜面にも進み出た。 全てが命がけだった。 しかし、孤軍奮闘もそこまでだった… (写真右) 結局私は日原古道の核心部。「あの道」へ辿り着くことは出来ず、迫り来る夕暮れに追い立てられるように撤退した。 再訪ではなく、再攻略を誓って。 …以上が私と日原のファーストコンタクトの要約である。レポートはこちら。 撤退の翌日、私は近くの図書館へ行き日原や奥多摩町に関する郷土資料を読みあさった。 その成

                                                                            • 【山さ行がねが】ミニレポート 第133回 通学橋

                                                                              ⇒【所在地】 群馬県沼田市に、「通学橋」と呼ばれている橋がある。 これは、利根川に架かる人道用吊り橋として最大のものである。 上流約1kmの地点から見る「通学橋」。 左岸側が沼田市薄根町、右岸側が同市下川田町になっている。 これから左岸堤防上の自転車道を使って接近する。 同地点から望遠で撮影。 虚飾を一切廃し、機能そのものがストイックに形を持ったような美しい吊り橋が、 “坂東太郎”利根川を一跨ぎにとする大きさで展開している! 肉眼でその大きさがはっきりと認識出来るところまで接近。 スリルジャンキーとしての、イケナイ血が騒ぎ始める。 桜並木の堤防を行くと、やがて橋の袂で行き止まりになった。 いよいよ 「対決」 の時だ。 …なーに、いくらでかくても、 現役の橋なんて恐くないさ。 …でも 本当におっき。 いったい何メートルあんだろうか。 うあ…。 ショック! もう役目を終えてしまっていた。 さす

                                                                              • 【山さ行がねが】ミニレポート 第114回 城下小高線

                                                                                福島県は面積も広いが、県道の本数も多い。 小中規模の市町村が多いという政治的な事情にもよるのだろう。 それは、本州最大の面積を持つ岩手県に較べても、格段に多い。 そのなかには、かつてこのミニレポでも紹介した岩手県一関市の「山目停車場線」の全長49.5mに匹敵する激短路線もある。 今回紹介する福島県一般県道259号「城下小高線」は、全長が343mあり、驚くほどの短さとは言えない。 しかし、地図上における描かれ方や、現地での佇まいは、山目停車場線に劣らず不可思議である。 まずは小高町…昨年から南相馬市小高区となった、その中心部の地図をご覧頂こう。 上の地図を見ても、何がどう珍しいのか分からない人が殆どだと思う。 かく言う私も、自分で書き足した上地図を見て、なんだか自信が無くなってきたというのが本音だ…。 地図上でこの道が “変わっている” と思える点、すなわち、わざわざ現地調査に私を赴かせた理

                                                                                • 【山さ行がねが】隧道レポート 芋川小松倉隧道(仮称)

                                                                                  ・このレポートが紹介するエリアはここ→【広域図(マピオン)】 いきなり2枚の地形図をご覧頂いたが、これらは全く同じ範囲を描いたものである。 違いは左が昭和6年版、右が昭和42年版であるということだけだが、いずれも「現在」から見れば、かなり昔の時代の地形図だと言える。 そしてまず注目していただきたいのは、中央のやや下の方に注記された「芋川」という地名だ。 文字のそばには数軒の建物の記号が集まっており、そこが「芋川」という集落であることが分かる。 他にも同じように集落名の注記があり、上の方には「小松倉」、右端には「水沢(澤)新田」が見られる。 次に、矢印の所を見ていただきたい。 それぞれの矢印の先には隧道の記号が描かれているのだが、昭和6年版にあった2本の隧道は、昭和42年版ではすっかり消えてしまっていることに注目したい。 そしてその代わりに、遙かに長大な1本の隧道が新たに出現しているのであ