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岡晴夫 cdの検索結果1 - 7 件 / 7件

  • 戸川純 - Wikipedia

    戸川 純(とがわ じゅん、1961年3月31日 - )は、日本の女優、歌手、作詞家。東京都新宿区出身[2][3][4]。戸川京子は妹。 戸川純の人生相談 令和弐年YouTubeチャンネル ゲルニカ、ヤプーズでの音楽活動の他、ソロヴォーカリストとしても活動している。タブー視された事柄を歌詞に盛り込み、女性像の表現に禁忌がないことを世の中に提示した[5]。 経歴[編集] 高校卒業まで[編集] 東京都西大久保(当時の名称)出身。台湾バナナなどの果物を扱う貿易会社を経営する父と専業主婦の母と、3歳年下の妹・戸川京子の4人家族[6]。1967年に新宿区立戸山小学校に入学し、小学3年生の頃に『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』を観て芸能界を志望。同時期に京子が「児童劇団に入りたい」と言い出したことから、姉妹で劇団ひまわりに入団した。 小学5年生のとき、新国劇『王将』の舞台で辰巳柳太郎の娘役を演じる。この経験

    • 第5回 「流行歌」の誕生――浪曲からロカビリーまで | 北島三郎論 艶歌を生きた男 | 輪島裕介 | 連載 | 考える人 | 新潮社

      録音と実演の分裂――「はやり唄」から「はやらせ唄」へ 今回は、昭和初期における外資系レコード産業の日本市場参入と、「声はすれども姿は見えず」を特徴とする「流行歌」の成立について概観したうえで、そこから逸脱する雑多な実演に由来する要素が、戦後、部分的に取り入れられてゆく過程についてみてゆく。そのうえで、1962年の北島三郎のデビューを、そうした巷の芸態の流入と、レコード会社専属制度の動揺という文脈のなかに位置づけてみたい。つまり、サブちゃんの個人史ではなく、文化史および産業史に注目して、北島三郎登場の背景とその意義を探る、ということになる。 北島三郎の代表曲のレコードジャケット(著者私物、撮影・新潮社) 大正時代、関東大震災前後には、異種混淆的な実演に基づく音と声の表現の文化が形成されていた。浪花節、安来節(やすきぶし)、女剣劇、書生節、映画説明と和洋合奏、小唄映画、といった、在来の芸態に近

        第5回 「流行歌」の誕生――浪曲からロカビリーまで | 北島三郎論 艶歌を生きた男 | 輪島裕介 | 連載 | 考える人 | 新潮社
      • qfwfqの水に流して Una pietra sopra

        三谷幸喜が朝日新聞の連載コラム「ありふれた生活」(7月20日夕刊)で、彼が監督した『ザ・マジックアワー』が、昨年、中国でリメイクされて大ヒットしたと書いていた。日本円にして530億以上の興収で、これは中国映画全体の年間第3位の興収だという。日本では約40億円だったというから10数倍になる。ま、桁が違いますからね、人民の。中国版『ザ・マジックアワー』は『トゥ・クール・トゥ・キル――殺せない殺し屋』というタイトルでこのたび日本でも公開(7月8日~)されたというから、機会があれば見比べてみたいと思う。 この映画『ザ・マジックアワー』に、往年の映画スター役で出演した柳澤愼一さんが亡くなられた。先月28日、去年の3月24日に亡くなったと日本歌手協会から発表された。死因は「骨髄異形成症候群」だという。死後15ヶ月経ってからの発表は、おそらく御本人の遺志なのだろう。柳澤さんらしい、と思う(血液のがんなの

          qfwfqの水に流して Una pietra sopra
        • NHK紅白歌合戦 - Wikipedia

          上記の番組ロゴは、第58回(2007年)から第71回(2020年)までの13年間に亘って使用されていたもので、赤丸部分には当該回の回数が「第◯回」と記載され、白丸部分に放送回当時のNHKのロゴマークが使用されていた 『NHK紅白歌合戦』(NHKこうはくうたがっせん)は、日本放送協会(NHK)が1951年(昭和26年)から毎年大晦日に放送している男女対抗形式の大型音楽特別番組。日本の長寿番組のひとつ。通称は「紅白」。 概要 女性アーティストを紅組(あかぐみ)、男性アーティストを白組(しろぐみ)に分け、対抗形式で歌や演奏を披露する。当初は正月のラジオ番組であったが、NHKがテレビ放送を開始した後は大晦日の夜に移動し、「1年の締めくくり」の代名詞となる。放送が延期・中止されたことは1度もない。2017年12月31日、「最長寿年度テレビ音楽コンペティション(一国内)」としてギネス世界記録に認定され

            NHK紅白歌合戦 - Wikipedia
          • 林家木久扇 - Wikipedia

            林家 木久扇(はやしや きくおう、1937年〈昭和12年〉10月19日 - )は、日本の落語家、漫画家、画家、実業家。 血液型はA型、出囃子は「宮さん宮さん」、定紋は林家彦六一門の定紋である「中陰光琳蔦」。前名の初代林家木久蔵としても知られる。 来歴・人物 1937年10月19日、東京市日本橋区久松町の雑貨問屋に生まれる。比較的裕福な幼少期を過ごしたが、太平洋戦争による使用人の出征、東京大空襲による店の全焼など被害に巻き込まれ、家族が離散。小学4年生の時から新聞配達をして家計を支えた。自分を支える経済、お金の入ってくる道を発見工夫して上昇していくことが大切で、「金はあるに越したことはない」という考えを持つに至る。そのためか貧乏を嫌い、終生長屋暮らしだった師匠彦六を「清貧に甘んじ人情に厚い人」と評する一方で「噺家は貧乏でもいいという姿勢」を欠点とし、「噺の中に出てくる人物と同色の暮らし向きを

              林家木久扇 - Wikipedia
            • 五木ひろし - Wikipedia

              五木 ひろし(いつき ひろし、1948年〈昭和23年〉3月14日 - 、本名:松山 数夫(まつやま かずお)[1]) は、日本の歌手、作曲家、俳優。元々はムード歌謡で数多くのヒット曲を放ったが、現在は演歌歌手として記されることが多い。身長173cm、血液型はA型。京都府生まれ[2][3]、福井県三方郡美浜町出身。所属事務所は株式会社五木プロモーション。レコード会社は、ファイブズ・エンタテインメント。妻は元女優の和由布子。 略歴[編集] 生い立ち[編集] 幼稚園から小学校2年生までの3年間、三重県鳥羽市で暮らした[4]。鳥羽市立加茂小学校に在籍していた頃から歌手になりたいと思っていたという[4]。その後福井県美浜町に移り、父親は鉱山技師を辞め、建築用石材を扱う会社を興す[3]。後に両親が離婚し、母の元で苦労して育てられた。元・阪神の川藤幸三は美浜駅を挟んで同じ町内の出身[5]。 上記の話は五

                五木ひろし - Wikipedia
              • 時雨音羽 - Wikipedia

                時雨 音羽(しぐれ おとは、1899年(明治32年)3月19日 - 1980年(昭和55年)7月25日)は、昭和期の作詞家。出生時の戸籍上の名前は池野 音吉(いけの おときち)であるが、1961年(昭和36年)に筆名を本名に改名したため、没年時の本名も時雨音羽である。 経歴[編集] 北海道利尻島沓形村番外地出身[1]。5人兄弟の末っ子として生まれる。父邦蔵は、新潟県佐渡郡の出身[注釈 1]。 新湊小学校、沓形小学校高等科卒業。1916年(大正5年)沓形村役場に附属員として勤めていたが、1918年(大正7年)秋頃上京する。日本大学法科に検定で合格し、1923年(大正12年)卒業後[2]、大蔵省主税局織物課に勤めた。 1925年(大正14年)、新大衆誌『キング』9月号に講談社の依頼で民謡詩「朝日をあびて(後の出船の港)」を掲載[注釈 2][1]。この詩は、中山晋平が作曲し藤原義江が歌ってヒット

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