2000年代初めに『日本テレビとCIA 発掘された正力ファイル』や『原発・正力・CIA: 機密文書で読む昭和裏面史』で正力松太郎による読売・日本テレビによる保守メディア工作を暴いてから十年足らずでネトウヨに堕ちた有馬哲夫早大教授に何があったのか?
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読売ジャイアンツ創立者にして初代オーナー、プロ野球の父ともたたえられる大人物、それが正力松太郎。 プロ野球界に遺した功績はあまりにも大きいものですが、では果たして全くの善人だったのかというと疑問符の付く人物でもあります。 今回は今日に至るプロ野球の基礎を作り上げたと言っても過言ではない正力松太郎を、功罪の両面から紐解いてみたいと思います。 1.功の部分 2.罪の部分 3.まとめ 1.功の部分 正力松太郎は1885年富山県に生まれ、1969年に84歳で亡くなるまで常に日本の中心にいた人物でした。 1924年日本では朝日新聞、毎日新聞の二強体制でしたが、その当時不振だった読売新聞を東日本最大の新聞に押し上げた人物こそ正力松太郎です。 そんな正力の遺した功績で最も大きなものの一つが、読売ジャイアンツの創設でしょう。 正力は、1934年当時まだアマチュア野球しかなかった日本にベーブルース、ルーゲー
一次ソースを確認するのが大切 ランキング参加中社会 『正力松太郎が朝鮮人暴動鎮圧のため「こうなったらやりましょう」』 森五六「僕の不在中『もうこうなったらやりますゾ』と言ったという」 「思想」誌掲載の松尾尊兊『関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)』 「日本歴史」(吉川弘文館)256号に1968年の森五六・山本四郎回顧談 正力の「こうなったらやりましょう」は何の行動を意味しているのか? まとめ:正力の発言が存在したか?あったとして朝鮮人暴動の鎮圧のためか? 加藤直樹「居合わせた朝日新聞記者が正力の「こうなったらやりましょう」と回想」という歪曲 『正力松太郎が朝鮮人暴動鎮圧のため「こうなったらやりましょう」』 速報◆3日、警視庁官房主事・正力松太郎(38)が戒厳司令部を訪れる。「朝鮮人暴動」の鎮圧のために軍を動かしたい考え。「こうなったらやりましょう」と鼻息荒く意気込んで言うと、戒厳参謀長・阿部
この証言内の事実を認めるなら、朝鮮人犯罪の証言も認めざるを得ないはず ランキング参加中社会 「関東大震災時、正力松太郎が朝鮮人暴動を記者に触れ回れと言った」 朝日新聞営業局長の石井光次郎「帰ってきた者の報告では」 二重伝聞・回想八十八年での53年前の回想・他者が言及せず 安田浩一「すっぱ抜きのかたちで」加藤直樹「九月、路上の上で」で発言改変 「関東大震災時、正力松太郎が朝鮮人暴動を記者に触れ回れと言った」 速報◆1日夕方、警視庁官房主事・正力松太郎(38)が、新聞記者を集める。「朝鮮人が地震に乗じて暴動を起こす計画をしていた」と触れ回るよう、伝える。朝日新聞の下村宏(48)は、地震を予知して事前に計画できるわけがないと一蹴する。 =百年前新聞社 (1923/09/01)#それぞれの大震災 — 百年前新聞 (@100nen_) 2023年9月1日 ※当初稿では別の投稿を対象にしていました:X
【中古】 正力松太郎と影武者たちの一世紀 巨怪伝 上 (文春文庫) 価格: 2980 円楽天で詳細を見る 【あらすじ】 富山県出身で明治40年に東京帝大に入学した正力松太郎。学業が振るわず、高等文官試験の合格も遅れ、主要官庁とは言えない警視庁に入省する。その中で頭角を現わし、米騒動など数々の騒動や関東大震災の暴動を鎮圧して、トップを望める位置にまで出世したが、虎ノ門事件で摂政宮(のちの昭和天皇)を襲った弾丸によって責任を取らせれ、懲戒免官という最高の罰を受けることになる。 免官後、当時は東京で3万部ほどしか発行されていなかった読売新聞を買収して新聞経営に乗り出す。ベーブルースの日本招聘や日本プロ野球の開設、日本テレビの開局やプロレス興行。そして政治家にも進出して原子力の父とまで言われた正力松太郎。余りにも凄まじい「妄執」に憑かれた男の物語。 【感想】 「越中強盗、加賀貧乏、越前の詐欺」とい
この写真に写る学生たちの威勢の良さ、眩しい笑顔、溢れるエネルギー——今ではもうこの時代には存在しない過去の姿ですが、彼らの生き様は私たちの社会の一部となり、今も息づいていると感じませんか?現代の私たちが受け継いできたものの中には、こうした青春のひとコマも含まれているのかもしれません。 プロ野球の父として知られる正力松太郎が四高の柔道部員として写っている貴重な写真も紹介します。強い精神と肉体の結晶であり、彼の揺るぎない信念と情熱が、後の日本スポーツ界にどれほどの影響を与えたか想像に難くありません。 婚活中毒の女性とナンバースクールの美学 婚活を通じて出会った、ナンバースクールの熱狂的なファンである女性。彼女は、この素朴で知的な雰囲気を持つエリート像にどこか魅了されているのでしょう。私が感じたこの「エリート美学」の核心を探るとともに、現代においても変わらぬ魅力を持つ彼らの生き方を再評価する機会
朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。大地震の大災害で人心が非常な不安に陥り、いわゆる疑心暗鬼を生じまして一日夜ごろから朝鮮人が不逞の計画をしておるとの風評が伝えられ淀橋、中野、寺島などの各警察署から朝鮮人の爆弾計画せるものまたは井戸に毒薬を投入せるものを検挙せりと報告し2、3時間後には何れも確証なしと報告しましたが、2日午後2時ごろ富坂警察署からまたもや不穏鮮人検挙の報告がありましたから念のため私自身が直接取調べたいと考え直ちに同署へ赴きました。 当時の署長は吉永時次君(後に警視総監)でありました。私は署長と共に取調べましたが犯罪事実はだんだん疑わしくなりました。折から警視庁より不逞鮮人の一団が神奈川県川崎方面より来襲しつつあるから至急帰庁せよとの伝令が来まして急ぎ帰りますれば警視庁前は物々しく警戒線を張っておりましたので、私はさては朝鮮人騒ぎは事実であるかと信ずるに至りました。 私
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