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浜口隆一の検索結果1 - 12 件 / 12件

  • 日本初の女性建築家・浜口ミホ設計の住宅が住み継がれることに。継承を支えた住宅遺産トラストに聞いた

    浜口ミホという建築家をご存じだろうか。情けないことに私は知らなかった。存在が知られていなかった彼女の設計による住宅が発見され、継承されることになったと聞き、慌てて調べてびっくりした。浜口ミホは日本で女性初の一級建築士だったのだ。しかも、今では当たり前になっているダイニング・キッチンの普及に多大な役割を果たしたのが彼女。戦後、日本の住宅、特にキッチンを大きく変えた人だったのである。 1915年に中国の大連で生まれた浜口ミホは、東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)で家政学を学んだ。その後、当時はまだ女子学生の入学が認められていなかった(!)ため、聴講生として東京帝国大学の建築学科の授業に参加。1939年に修了後、東京文化会館や世田谷区役所などで知られる前川國男建築設計事務所で建築を学び、そこで出会った日本最初の建築評論家である浜口隆一と1941年に結婚。農村建築研究のための北海道滞在を経て

      日本初の女性建築家・浜口ミホ設計の住宅が住み継がれることに。継承を支えた住宅遺産トラストに聞いた
    • ヒアシンスハウスを見る

      立原道造(1914〜1939)は叙情的な詩人としてよく知られているが、24歳の若さで世を去っている。たくさんの詩を残し、多くの人に愛された。 春の風は 窓のところに かへってきて 贈り物のことを ささやいている おしゃべりな言葉で まつたく微笑が 少女の頬に ふかい波を 皮膚の内からおこさせて また 消してゆくようにー それは ためいきにも似て(「窓辺に凭りて」『立原道造詩集』岩波文庫) 立原は詩人として多くの人に愛されたが、職業として目指したのは、建築家であった。しかも、東京帝国大学の建築科に入り、最優秀の賞を取っていた。 立原の1年下には、丹下健三、大江宏、浜口隆一という戦後大活躍する建築家たちがいたが、彼らにとって、立原は常にあこがれの的であった。 その立原が夢に見た自分のための別荘。それがこのヒアシンスハウスである。 立原は身体が弱く、卒業後、石本建築事務所へ入ったが、翌年には結核

        ヒアシンスハウスを見る
      • 浜口ミホ(ダイニング・キッチン開発)と三淵嘉子(「虎に翼」のモデル) - そういちコラム

        4月12日は、「日本初の女性建築家」といわれる浜口ミホ(1915~1988)の亡くなった日です。 彼女の代表作は、1950 年代に開発され大量につくられた、公団住宅(団地)のキッチンです。 当時の台所は一般に「日当たりの悪い、女中の仕事場」という位置づけでした。しかし当時の最先端である日本住宅公団の設計では、台所は南側で、食事で家族が集う「家の中心」であり、ステンレス製シンクなどの最新設備を備えていました。 この「ダイニング・キッチン」の設計を、浜口は主導しました。その設計は、のちの台所に多大な影響を与えました。現代の日本のキッチンの原型をつくった、といえるでしょう。 当時の建築界は完全な男社会。昔の男性は台所仕事に全く無知だったので、女性建築家で主婦の浜口に、公団の大きな仕事のオファーが来たのです。 彼女の設計方針は、当時の常識とは違っており、反対や抵抗もありました。しかし、懸命に説得や

          浜口ミホ(ダイニング・キッチン開発)と三淵嘉子(「虎に翼」のモデル) - そういちコラム
        • そういちコラム

          4月12日は、「日本初の女性建築家」といわれる浜口ミホ(1915~1988)の亡くなった日です。 彼女の代表作は、1950 年代に開発され大量につくられた、公団住宅(団地)のキッチンです。 当時の台所は一般に「日当たりの悪い、女中の仕事場」という位置づけでした。しかし当時の最先端である日本住宅公団の設計では、台所は南側で、食事で家族が集う「家の中心」であり、ステンレス製シンクなどの最新設備を備えていました。 この「ダイニング・キッチン」の設計を、浜口は主導しました。その設計は、のちの台所に多大な影響を与えました。現代の日本のキッチンの原型をつくった、といえるでしょう。 当時の建築界は完全な男社会。昔の男性は台所仕事に全く無知だったので、女性建築家で主婦の浜口に、公団の大きな仕事のオファーが来たのです。 彼女の設計方針は、当時の常識とは違っており、反対や抵抗もありました。しかし、懸命に説得や

            そういちコラム
          • 大江宏 - Wikipedia

            大江宏(おおえ ひろし、1913年(大正2年)6月14日 - 1989年(平成元年)3月3日)は、日本の建築家。 モダニズムと日本の伝統様式とを決して融合することなく「混在併存」させた建築意匠で知られる。また、教育者として法政大学建築学科の礎を築き、多くの後進を育成した。主な作品に法政大学、香川県立丸亀武道館[1]、普連土学園、国立能楽堂など。日本芸術院会員。勲三等旭日中綬章叙勲。秋田県秋田市生まれ。 父の大江新太郎は明治神宮造営技師を務め、日光東照宮の修理、および明治神宮宝物殿、神田明神の設計を手がけた建築家。長男の大江新は建築家・法政大学名誉教授。 経歴[編集] 1913年(大正2年) 父・大江新太郎、母規矩児(菊路)の長男として、秋田市にて生まれる。生後間もなく父の赴任地、日光山内安養院に戻る。 1916年(大正5年) 大江新太郎は、日光東照宮修理事業に主任技師として関わる。東京赤坂

            • 美術手帖 - Wikipedia

              『美術手帖』(びじゅつてちょう)は、カルチュア・コンビニエンス・クラブが編集・発行[1]、美術出版社が発売している季刊(年4回発行)の美術誌[注釈 1]。愛称は『BT』。A5サイズ。1948年創刊。 近現代美術を中心に、内外の美術動向を紹介する雑誌である。各号ごとの特集のほか、海外ニュース、展覧会ガイドなどを掲載。 増刊として、年1回『美術手帖年鑑(BT年鑑)』が1957年から刊行されていたが、個人情報保護法の問題もあり、『BT年鑑2006』で休刊。 2017年にウェブ版を公開。 歴代編集長[編集] 愛甲健児(1931年生まれ)(?~1967年) 宮澤壯佳(1933年生まれ)(1968年~1971年):「編集人」名義 福住治夫(1971年~1973年)別名・高島平吾:「編集人」名義 川合昭三(1928年生まれ)(1974年):「編集人」名義 田中為芳(1975年~1978年):「編集人」名

              • 今、夢見る建築とは?

                ── By 布野修司 | 2017/04/27 | Featured, 012号:2017年夏(4月-6月), 書評 | 0 comments 立原道造(1914~1939)、享年24歳。僕(評者)の24歳などほとんど何もなしえていなかったに等しい。もうその3倍近く生きてきたけれど、この夭折の詩人・建築家の生の密度は想像もできない。 だからというわけでもないけれど、若くして多産なその仕事について、これまで考えることがなかった。もちろん、その名は知っていた。角川版の『立原道造全集』全六巻(1971~73)が出たのは大学院の頃である。 立原道造の同世代の建築家一人である吉武泰水(1916~2003)の研究室に僕は所属していた。直接教わらなかったけれど生田勉(1912~1980)は駒場の図学の先生だった。丹下健三(1913~2005)の「アーバン・デザイン」の講義は聞いたし、大江宏(1913~1

                  今、夢見る建築とは?
                • 物故美術関係者 | UAG美術家資料棚

                  美術評論家・研究者などの美術関係者をはじめ、建築家・写真家・デザイナーなどのアーティストや美術に関係の深い活動をした文学者なども含めた物故者一覧です。作家名のリンクはUAG美術家研究所の関連記事のページに移動します。 あ行 アーネスト・サトウ(1927-1990年05月12日)写真家・美術評論家、米国美術史・写真美学専攻、元京都市立芸術大学教授 相内武千雄(1906-1970年08月25日)慶応大学工学部教授 会田雄次(1916-1997年09月17日)歴史学者、京都大学名誉教授 相羽規充(1938-2021年07月26日)元メナード美術館館長、名古屋芸術大名誉教授 相原信洋(1944-2011年04月30日)アニメーション作家 相見香雨(1874-1970年06月28日)美術史家 饗庭孝男(1930-2017年02月21日)文芸評論、青山学院大学名誉教授、仏・日本の思想と芸術 青木綾子(

                  • 欲しいのは「床の間」|戦後社会に生きる庶民が求めた住まい|竹内孝治|マイホームの文化史

                    サンドウィッチマンのコント「建築士」は、富澤演じる建築士のチクシ・ケンが「マイネーム・イズ・ケン・チクシ」だけで延々引っ張るコント冒頭が圧巻。ふたりの家づくりをめぐるやりとりは、よく作りこまれていて驚きます。見逃せないのが、クライアント役の伊達が口にする次のセリフ。 やっぱりさあ、こうやって家建てるっていうのはさあ、城を築くみたいなもんじゃない。男としての一世一代の仕事みたいな。すげぇいま興奮してるんですよ。ハハハ。 「城を築く」だとか「男としての一世一代の仕事」だといった伊達の言葉に、富澤のキメ台詞「ちょっと何言ってるかわかんない」が繰り出されます。言うまでもなく、観客にとって「何言ってるか」が十分にわかるからこそ、このキメ台詞の破壊力が高まる。 とはいえ、この「城を築く」という行為は、本来なら武家の習いです。庶民とは縁遠く思える「武家の例え」には、自分よりも上の階層の生活様式を自分たち

                      欲しいのは「床の間」|戦後社会に生きる庶民が求めた住まい|竹内孝治|マイホームの文化史
                    • 日本回帰が意味するものは?|ちくま新書|五十嵐 太郎|webちくま

                      4月のちくま新書より冒頭を公開します。五十嵐太郎さん『日本建築入門』の一部を立ち読みすることができます。 近代と伝統 伝統的なもの、あるいは日本らしさが語られるとき、しばしば近代以前の状況が参照されるのはなぜか。それは現代とは違い、昔は地域や国境を超えて、文化や技術が簡単に、そして自由に行き交うことができなかったからだ。 したがって、それぞれの場所では必然的に、気候や環境に対応しながら、木や石など、どのような自然素材を入手できるかという条件に従い、人々の慣習も踏まえて、固有の建築がつくられていた。それが近代以降に伝統と呼ばれるようになったものである。 おそらく、外部を知らない、すなわち異国との比較がなければ、当事者は自らの建築を伝統的なものだと強く思わなかったはずだ。国家という意識も希薄だったに違いない。つまり、国際的に同じ建築をつくろうというモダニズムの運動が起きたことで、逆説的に場所性

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                      • 浜口ミホ(キッチン革命)の生い立ちや家族は?夫や子供についても

                        みなさんは自分の家の台所をどんな場所だと考えていますか? 私は台所は家の手伝いや家族とのちょっとした会話などを通して、家族内でのコミュニケーションをとれる場所という良いイメージがあります。 今でこそ良いイメージのある台所ですが、昔はいつも暗くて寒い場所という悪いイメージだったといいます。 そんな台所のイメージをガラッと変えた女性、浜口ミホさんを今回は紹介しようと思います。浜口ミホさんの生い立ちや家族、夫や子供はいるのかについてもみていきましょう。 スポンサーリンク 浜口ミホの生い立ち 浜口ミホさんは、日本の建築家であり、女性としては珍しい建築の分野で活躍されていました。浜口さんは1915年に中国の大連で生まれ育ちます。ご両親が中国の方だったのかどうかはわかりませんでした。 お名前がミホさん、ということから、ご両親は日本の方だったのかな?と推察されます。 1937年に東京女子高等師範学校を卒

                          浜口ミホ(キッチン革命)の生い立ちや家族は?夫や子供についても
                        • 和モダンの巨匠・大江宏の「東京讃岐会館」が突如閉館、コロナの余波ここにも | BUNGA NET

                          建築家の大江宏の設計で1972年に完成した「東京讃岐会館(東京さぬき倶楽部)」が、4月30日に閉館した。閉館は当初、今年8月31日の予定だったが、コロナ自粛による利用者減のため、4カ月前倒しの閉館となった。 鉄骨鉄筋コンクリート造・鉄筋コンクリート造、地下1階・地上12階。宿泊施設と飲食店、宴会場、会議室などから成る。設計は、大江宏建築事務所、施工はフジタ工業。 設計者の大江宏(1913~89年)は、明治神宮造営の主任技師を務めた大江新太郎(1879~1935年)の長男として生まれ、東京大学建築学科在学中には丹下健三や浜口隆一らと交流。父親譲りの和の感性とモダニズムの理念を併せ持った独特の建築を設計した。代表作には、法政大学55年館(1955年)、香川県文化会館(1965年)、普連土学園(1968年)、国立能楽堂(1983年)などがある。 東京讃岐会館は当初、香川県庁生協が運営していたが、

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