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買ってよかったもの
note.com/take_housing
今日、4月26日は「よい風呂の日」。「よい(4)ふ(2)ろ(6)」に由来するとのこと。ということで「ほくさんバスオール」(図1)にご登場ねがいます。 図1 「ほくさんバスオール」(出典:エア・ウォーター物流HP) 「ほくさんバスオール」は、1929年に北海道にて設立された北海酸素株式会社(後の株式会社ほくさん)が1963年から販売開始した簡易型ユニットバス。当初の商品名は「ほくさんスタンウェルバス」といいました。 ほくさんバスオールの誕生当時の社長・水島健三は1959年、創業三十周年記念に「全国的企業」への展開を宣言します。プロパン、酸素、溶解アセチレンなどを手がける北海道の一企業・北海酸素が全国展開!?社員はどん引き。でもそれは後に現実化することに。その躍進の起爆剤となったのが「ほくさんバスオール」でした。 中尾光弘『攻めの商道:バスオールに賭ける水島健三の執念』(ダイヤモンド社、197
そりゃまるっきりダメですヨ。 ぜんぜんそんなこと考えられない人でしたヨ。 (藤森照信「焼け跡のプレハブ住宅:前川國男とプレモス」)建築家・前川國男(1905-1986)について、前川建築事務所で働いたキャリアを持つ建築家・大高正人は、こう証言しています。この証言は、戦後日本を代表する建築家・前川の設計による木質パネル量産住宅「プレモス」がなぜ売れなかったのかを語る場面での言葉です。精魂込めて日本の復興を託し設計した「プレモス」は、100万人の住まいをめざした高いクオリティを持ちながら、惜しいことに「売ること」へ関心が及ばず、広く普及することはなかったと語るもの。 同じくプレモスに関わった建築家・田中誠も、次のように証言します。 ああいう量産住宅を工場でちゃんと生産するには毎月必ず一定量の受注が確保されなければいけない。ところが、プレモスには販売体制がないから受注が安定しない。だって、前川さ
1964年6月16日13時1分に発生した新潟地震後にあらわれた風変わりな仮設住宅を、雑誌『暮しの手帖』が取り上げています(1964年冬・第77号、暮しの手帖社、1964.12)。題して「バス団地」。 新潟県粟島南方沖40kmを震源とした地震が発生。後に「新潟地震」と呼ばれるこの災害は、家屋全壊1,960棟、半壊6,640棟、浸水15,298棟という被害を出しました。 新潟交通の社員たちが古いバスを改造して仮設住宅としたもので、「新潟交通応急住宅」と呼ばれたそう(図1)。さすがに屋根の断熱が悪いのか、バスの上に莚だか簾だかが掛けてあります。初夏を襲った災害ゆえ、さぞかし苦労したでしょう。 図1 新潟交通応急住宅 住む場所に困り、本来は住宅ではないものを住宅に転用する事例は歴史上あれこれ見られますが、なんといっても戦争によって破壊されたまちにあらわれる転用住宅が代表であるのはいうまでもありませ
今の時代だとなんだかドン引かれることもありそうなアプローチですが、住宅を新築した方のなかには、業者選定のキメ手に「最初に家に来てくれたから」という理由を挙げるケースがあるそう。なので有力見込み客には迅速なお礼訪問が求められたのです。 そんなこんなで、住宅営業時代たいへんお世話になった「住宅地図」が、住宅営業の必須アイテムになった経緯について、住宅地図の最大手「株式会社ゼンリン」の社史『ゼンリン50年史』(ゼンリン、1998年)を片手に、スケッチしておこうと思います。では、クルクルバビンチョ、パペッピポ、ヒヤヒヤドキッチョのモーグタン! 戦後、住宅地図が生まれた契機敗戦後間もない1948年まで遡る「株式会社ゼンリン」。住宅地図の制作・販売会社としては最大手。それゆえ注目度は高く、最近でもこんな記事が出てました。題して「ゼンリンの日本地図は、なぜ世界から信頼されるのか」。 たしかに前職の営業所
斜面に沿って段々に建ってる集合住宅。たとえば、安藤忠雄の名作「六甲の集合住宅Ⅰ」(1983年)が頭に思い浮かぶ方も多いかと。斜面地を利用して段状に建設されたのが「斜面住宅」。 そんな「斜面住宅」を得意とし、そして「斜面の魔術師」という怪しげ(?)なニックネームをもつ建築家・井出共治(1940-2010)の存在を不勉強ながらはじめて知りました。 そんなわけで「斜面の魔術師」と呼ばれるほどの彼が手掛けた「斜面住宅」の世界を、ちょっとばかしのぞいてみたので以下にまとめておこうと思います。 とある二つの斜面住宅わけあって、名古屋市天白区表山1丁目に建つ「八事表山住宅」を訪れる機会がありました(図1・2)。 図1 八事表山住宅(Google Map) 図2 八事表山住宅 1981年に日本住宅公団によって建設された集合住宅。同年に公団は住宅・都市整備公団へと改組されるわけですが、ちょうどそんな転換期に
1979年、日本建築学会大会で開催されたパネルディスカッション「木造のデザインと構造安全性」に登壇した、当時、名城大学教授だった後藤一雄(1913-1996)は「建築家への警告」と題した発表を行いました。 戦時から戦後にかけて東京工業大学を拠点に木構造やコンクリート・プレハブによる量産住宅の研究に従事してきた後藤は、当然に木造建築についても一家言あるわけで、冒頭から手厳しい指摘をぶちかまします。 木構造、特に住宅は永い伝統の上に現在まできており、その構造については伝統の継承者である大工にまかせっ放しで現在に至っている。しかし木造建築の日本における歴史は質の低下の歴史であり、この結果後世においては専ら災害の元凶となってしまった。 (後藤一雄「建築家への警告」1979)さらには、大正頃からの金物の導入も上手くいかず、「建築界はあきらめて、専ら鉄骨、鉄筋コンクリートに走り、すべての事がおろそかと
「住宅産業」というコトバは、今ではなんの違和感もなく使われるようになりましたが、戦後、しかも1960年代に入って少しずつ意識されはじめたといいます。 ズバリ、「住宅産業」と名指されて一大流行語になったのは、1968年。通産省官僚・内田元亨(1925-1996)の論考「住宅産業-経済成長の新しい主役」(中央公論、1968.3月特大号)によってでした。 それゆえ、1968年は「住宅産業元年」とも呼ばれます、というのが教科書的な記述です。 そんな「住宅産業論ブーム」のキッカケとなった内田論文のインパクトを建築学者・巽和夫(1929-2012)は次のように書いています。 この論文に盛られている技術的な提案それ自体は、建築技術の側からみてさほど新しいものというわけではないが、それが生産工学的および産業的観点からの裏づけをもってなされていたところにかなりの説得力を持っていた。住宅の産業化はそれまでにあ
2010年5月、ある連載マンガによって日本建築学会に衝撃がもたらされます。そのマンガとは『美味しんぼ』。第592話は、学会が半世紀も前に行った、とある決議について非難する内容だったのです。 そのマンガの内容に対し、名指しで非難された日本建築学会は、事実誤認を指摘する公式文書を発表。日本有数の歴史と規模を誇る日本建築学会が、連載マンガの内容について真正面から反論する異例の事態となります。 『美味しんぼ』は何を非難したのでしょうか。そして、そのことが意味するものとはなんでしょうか。思いつくままにいくつかメモ書きしておこうと思います。 『美味しんぼ』騒動週刊ビッグコミックスピリッツ(2010年20号)に掲載された第592話は「続・食と環境問題」をテーマに、日本の家屋に国産の木材を使用する率が著しく低い現状を指摘するもの。その原因は「日本の建築学会が1959年に木造建築を否定した」からだと告発しま
元・住宅営業マン。住宅産業や住宅計画について教育したり、来歴について調べたり、書きものをしたり。現在『マイホームの文化史(仮)』執筆中。noteにはあれこれ思いついたり考えたりしたことを記録してます。
「しんこーもっこーぞー」ってご存じでしょうか。漢字では「新興木構造」と書きます。戦時中、建物に鉄なんか使ってられない状況にあって、木材、しかも細小材を使って大空間(飛行機の格納庫とか)をつくる技術です(図1)。 図1 新興木構造の施工例 この「新興木構造」の研究開発をめぐっては、鉄が使えないという消極的理由を積極的な意義へと読み替えていくアクロバティックな「語られ方」が見られるほか、そこでの努力が木造建築研究の大きな進歩へもつながったという興味深い史実を観察できます。 鉄が使えないから木でどうにかする後に建築構造学研究で名をなす竹山謙三郎(1908-1986)が、大蔵省営繕管財局で働いていた頃、つまりは戦時中のお話。営繕管財局に所属する研究関係者一同が集められ、上司から次のようなお達しがありました。 国産の細小材を使ってどんな大張間の建物でも建てる方法を考えよ。もしその研究命令が成就すれば
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