■明智光秀は殴られたのか 明智光秀が徳川家康をもてなした事実は、ドラマの終盤で取り上げられた。しかし、光秀は織田信長の指示どおりに膳を出さず、扇で激しく殴られていた。これは事実なのだろうか。 ■接待役を拝命した光秀 天正10年(1582)、信長は武田氏を滅亡した労をねぎらうため、徳川家康を安土城(滋賀県近江八幡市)に招いて饗応することになった。家康はその働きによって、信長から駿河国を与えられていた。 同年5月15日、家康は駿河拝領のお礼を申し述べるため、穴山梅雪(信君)を伴って、信長のいる安土城に参上したのである。このときに接待役を任されたのが、明智光秀だった。 以下、『川角太閤記』をもとに、そのときの状況を再現しておこう。家康の一行は、光秀の屋敷を宿とした。信長は光秀の屋敷に足を運び、宴会に供される肴の準備状況を確かめようとした。しかし、初夏の頃であり、生魚が傷んでいたのか、すでに悪臭が