1921年に与謝野鉄幹と建築家の西村伊作、画家の石井柏亭とともにお茶の水駿河台に文化学院を創設しています。 男女平等教育を唱え、日本で最初の男女共学の学校です。 与謝野晶子は、子だくさんでしたが、与謝野鉄幹の詩の売れ行きは悪く、与謝野鉄幹が大学教授の職につくまで夫の収入がまったくあてにならず孤軍奮闘しました。 家計のために来る仕事はすべて引き受け、歌集の原稿料を前払いしてもらっていたそうです。 『君死にたまふことなかれ』という歌も有名です。 『ああ、おとうとよ、君を泣く 君死にたまふことなかれ 末に生れし君なれば 親のなさけはまさりしも 親は刃(やいば)をにぎらせて 人を殺せとをしへしや 人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや。 堺の街のあきびとの 舊家(きゅうか)をほこるあるじにて 親の名を繼ぐ君なれば、 君死にたまふことなかれ、 旅順の城はほろぶとも、 ほろびずとても、何事ぞ、