なぜ長崎市長はG7に「NO」と言えたのか…鈴木市長の祖父は被爆した浦上天主堂を撤去したという複雑な歴史 平和と軍備について「もの言う長崎市長」が続く 「祈りの長崎」だけでなく「もの言う長崎」が出てきた 実際、GHQが『長崎の鐘』の出版を許可したのは、原爆被害を受け入れ、災害のように描いているからだ、との見方がある。深刻な物資不足の折り、GHQがこの本のため用紙を融通すると申し出た、とも言われている。 そもそも永井を見出したのは、西九州に駐屯していた米軍だった。「わが身を実験台に、原子病の究明に励んでいる」科学者として1947年に発表したのを全国の新聞が取り上げた。永井がマスコミで引っ張りだこになるきっかけとなった。 このようにして徐々に、「もの言う長崎」が「祈りの長崎」から枝分かれしていった。もともと浦上には隠れキリシタンの歴史があり、江戸末期から明治にかけて起きた「浦上四番崩れ」をはじめ