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ブックマーク / www.fuchi-masanobu.com (6)

  • 猪木さんが!

    先ほどアントニオ猪木さんが亡くなったことを知る。ショックである。それと同時に寂しい!まだまだ生きてくれてるもんだと勝手に考えていた。人は否応なしにこの世から去って行く。当たり前のことだが…。ジャイアント馬場あってのアントニオ猪木、そしてアントニオ猪木あってのジャイアント馬場。「猪木のことを昔からライバルと思ったことはない」とマスコミに馬場さんは語っていたが、やはり猪木さんのことを一番意識していた。「あの野郎やりおるなぁ!」と何度も感心していたことを覚えている。「よおし!こうなったらこっちもやるしかない!」。お互いがお互いを意識しあって全日、新日が黄金時代を迎えた。馬場さんと猪木さん。こんな天才、もう出て来ない!合掌。 プロレスラーとして あるいはプロとしての最低条件はやはりグッドコンディションでリング上がることであろう。ベストコンディシ 記事を読む 文月 今年も半年が過ぎた。能登半島地

    quick_past
    quick_past 2022/10/03
    “やはり猪木さんのことを一番意識していた。「あの野郎やりおるなぁ!」と何度も感心していたことを覚えている。”
  • 32文キック誕生秘話

    2m9cm145キロでドロップキック❗️1965年当時はレスラーも観客も衝撃を受けたようだ。ジャイアント馬場さんのドロップキックの師匠はラテンの魔豹ペドロモラレスであったのは古いファンならご存知のこと。ロサンゼルスの道場?のリングでジンラーベルが掲げたバスケットボールにドロップキックで打ち抜く。ジンラーベルは前年1964年のワールドリーグに参戦したレスラー。弟はロサンゼルスプロモーターのマイクラーベル。来日時、馬場さんの脚力に瞠目し、「馬場ならドロップキックができるんじゃないか?」と言ってきた。「やりたいんだができるかなぁ」「できる❗️できる❗️」。ラーベルは後押しして早速練習しようといった。ところが、その当時馬場さんの巨体でドロップキックをやれるレスラーはいなかった。ヘタに練習して怪我でもされたんじゃ大変だ!当時の首脳陣の気持ち。その頃から馬場さんは看板レスラー。約1年後、ロサンゼルス遠

  • 再検査、そしてまた再検査。

    日病院にて検査あり。血液検査、エコー、心電図、そしてCT検査。持病の心房細動に朝後、5種類の薬をもらう。肺炎は回復の兆しあり。良かったけど、心臓がなぁ!コロナと肺炎のダブルパンチはやはり我が心臓にかなりの影響を及ぼしたか!これで大田大会の試合は難しくなった。だが、久々に会場には顔を出そうと考えている。「王道ブルース」を売らなきゃならんし(笑)。それになんか皆に忘れられそうだしね(笑)。少々痩せて老けているので、体重UPを心掛けないとな。 春の兆し 桜もちらほら。今年もこうして桜が見れる。それだけで幸せ〓な〜んてね(笑)。後何回桜が見れるか?後何回 記事を読む 掃除機が〓 予期せぬ散財になりそうだ。急に掃除機が動かぬようになった。15年以上だもんな。寿命か…。結構電化製品 記事を読む デストロイヤーの話 デストロイヤーが初来日したのは1963年5月。1965年5月に来日したのは5度目。そ

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    quick_past 2022/02/17
    心臓わるいんだなあ・・・
  • 人生いろいろ

    今年1月7日、毎年恒例の家族4人で雷電神社に参拝をした。今考えるとその頃から皆体調がおかしかったか?妹と甥っ子2人、翌日に熱がでた。喉の痛みもある。すぐに保健所へ。コロナ陽性を告げられる。我が家にてクラスター発生。むろん皆仕事は休む。2日後、ついに私も発熱。40度近い。不整脈も暴れだす。とうとう我もコロナ感染なり。4人ともワクチン2度接種しているのに。1月12日、私は人生初の入院となった。他3人は自宅療養。結局、私が一番の重病人だったようだ。深夜近く、総合病院に急遽入院。すぐにCT検査と血液検査。デルタ型肺炎を告げられる。きつい訳だ。プレハブの個室。感染者多く、最後の個室部屋だったらしい。点滴の管と日々心肺機能を検査するため胸に何ヵ所か装置を装着される。何しろ不整脈心房細動の持病持ちだからな。それにしても、肺炎がこんなにもきついとは。2、3日高熱は続く。その後は平熱に収まる。洗面とトイレ以

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    quick_past 2022/02/16
    デルタかー。渕さんも大変
  • 鶴田さんが生きていれば

    今年古稀、70歳なんだなぁ。ひと頃「若大将❗️」と呼ばれた時期があったんだがなぁ(笑)。鶴田さんが42、3歳の頃、病床で入院中によく代々木の我が家に電話がかかってきた。以前にも書いたことだが、「健康が一番だよ!」と人生に於いて健康の重要性をいつも言ってた。お互い若かりし20代の頃は健康で元気なことが当たり前であり、日々の練習日々の夜遊びができることにたいして感謝する気持ちをそれほど持ってなかった。年取って老いるなんてまだまだ遠い先の事だと考えていた。5年、10年、20年なんかすぐに過ぎてゆく。鶴田さんは時たま遊びながらも堅実に将来の事を考えていた。だから家族に残すものはちゃんと残している。こちとら遊ぶだけ遊んで何も残ってない。道楽で出来た借金返済の為、父が建てた北九州の家を売り払う親不孝者である。むろん所帯も持てない。そんな私に鶴田さんからの電話では、ほとんど毎回「いいなぁ、渕君は。健康で

  • 渕正信オフィシャルブログ ~酔々ブルース~

    ここんとこ記憶をたどっている。たしかなものから途切れ途切れのものまで我が記憶は危うい。なにせ半世紀50年のキャリアだから(笑)。その中で、ふと思い出したのは昭和50年12月11日、日武道館で行われた

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