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ブックマーク / www.hiroshimapeacemedia.jp (7)

  • 「原爆神話」情報操作の実態 広島市立大の井上教授 著書で迫る

    戦争を早期終結させた救世主として原爆を捉え、放射能の影響を過小評価するなどして、広島・長崎への投下を正当化する米国の「原爆神話」。広島市立大の井上泰浩教授の著書「アメリカの原爆神話と情報操作」は、その形成に深く関わったキーパーソン2人に着目し、知られざる情報操作の実態に迫っている。 2人は、ニューヨーク・タイムズ紙記者だったウィリアム・L・ローレンスと、ハーバード大学長だったジェイムス・B・コナント。前者は、極秘だった原爆開発の全貌を見届けることを許可された「見返り」に、客観報道を装って政府の世論操作に加担する。後者は、第2次大戦中の陸軍長官で国民的信望のあったヘンリー・スティムソンに原爆投下の正当化論を書かせ、「正典」として定着させた陰の主役という。 原爆投下を支持・肯定する意見が今も過半数を保つとされる米国。書は「神話」の手ごわさとともに、神話で覆わなければ、米国民にとっても倫理的に

    「原爆神話」情報操作の実態 広島市立大の井上教授 著書で迫る
    quick_past
    quick_past 2024/04/08
    最近広島の自治体の政治家も、核兵器を容認すべきみたいな物言い初めてるの、すんごい怖い。
  • 丸山真男氏 被爆の肉声 故林氏69年インタビュー録音現存 

    戦後日を代表する政治思想史家、丸山真男氏(1914~96年)が被爆体験を詳しく語った肉声記録が現存していた。中国新聞記者だった林立雄氏(昨年12月に79歳で死去)が69年に録音し、保存していた。丸山氏自らは著作で広島での体験にほとんど触れていない。原爆資料館は「貴重な記録」と、遺族の協力を得て保存・活用する方針である。(編集委員・西雅実) 丸山氏は召集で広島市宇品町(現南区)にあった陸軍船舶司令部に配属され、45年8月6日朝は司令部前の広場にいた。爆心地から約4・6キロだった。 情報班員で1等兵だった丸山氏は翌7日、トルーマン米大統領による「原子爆弾投下」のラジオ声明を傍受、9日には、廃虚と化した市中心街を報道班長や写真班員と歩いた。 インタビュー録音は、東大教授だった丸山氏が肝炎のため入院していた都内の病院で69年8月3日、約2時間行われた。証言の一部は同月5、6日付中国新聞夕刊で「

    丸山真男氏 被爆の肉声 故林氏69年インタビュー録音現存 
  • ヒロシマ核廃絶の願い

    quick_past
    quick_past 2018/08/04
    戦争はあかん まじでやったらあかん・・・
  • ヒロシマ原点の記録1950

  • [伝えるヒロシマ 被爆70年] 爆心地の惨状書き残す 170メートルで被爆の野村英三さん 追悼祈念館が収集へ

    広島原爆のほぼさく裂直下で被爆して奇跡的に助かった、野村英三さん(1898~1982年)が自分史を書き残していた。爆心地一帯の惨状を伝える新たな記録でもある。三男英夫さん(80)=広島市中区=が保管し、平和記念公園内にある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館は収集に乗り出す。(「伝えるヒロシマ」取材班) 1945年8月6日、県燃料配給統制組合職員だった野村さんは、爆心地の西南約170メートルとなる燃料会館(現平和記念公園レストハウス)の地下室にいた。出勤者は37人で、うち8人がコンクリート造りの館内から脱出したが、唯一の生存者となった。 「わが想い出の記」は、「原子爆弾の投下」と題した被爆状況をはじめ400字詰め原稿用紙約800枚に半生をつづる。72歳から数年かけて執筆していた。 脱出直後の元安川では、「一瞬川向かいのドームの方で赤ん坊の泣(き)声がしたように思った」と記し、近くの防空壕(ごう

    [伝えるヒロシマ 被爆70年] 爆心地の惨状書き残す 170メートルで被爆の野村英三さん 追悼祈念館が収集へ
  • 伝えるヒロシマ 爆心地500メートル <9> 地下室の奇跡㊦ 太田睛さん・2007年死去/嵐貞夫さん・1993年死去 

    広島市中区の袋町小平和資料館は、焼け残った鉄筋の旧袋町国民学校西校舎の一部を保存して2002年に開館した。爆心地から約460メートルの校舎地下にいて助かった児童3人の被爆と脱出を、「地下室の奇跡」と紹介している。展示パネルには「A」「O」「T」のイニシャルで記す。 大阪府門真市で健在の友田典弘さん(78)=21日付掲載=と同じように、他の2人も孤児となっていた。原爆がもたらした苦難に立ち向かい、家庭を築き、生き抜いた。 太田睛(ひとみ)さんは07年に70歳で亡くなっていた。「胃がんに最期は肺炎にも苦しみました」。の晳子(せきこ)さん(72)は、一人住む安佐北区の自宅で取材に応じた。43年間連れ添った。 1945年8月6日朝、2年生だった太田さんは、校庭に素足で出たためを履くようにと先生から言われた。取り壊されていた木造校舎の後片付けがあった。被爆の瞬間は「げた箱がある地下室に下り、

    伝えるヒロシマ 爆心地500メートル <9> 地下室の奇跡㊦ 太田睛さん・2007年死去/嵐貞夫さん・1993年死去 
  • 被爆者抱擁 和解なのか オバマ米大統領 広島で演説 感動呼ぶ場面 単純化違和感

    広島を27日に訪れたオバマ米大統領は平和記念公園(広島市中区)での演説後、被爆者であり、被爆死した米兵捕虜の供養と遺族の掘り起こしを続けてきた森重昭さん(79)=西区=と抱擁を交わした。その写真は瞬時に世界を駆け巡った。感動を呼ぶ場面には違いないが、米大統領と被爆者の全面的「和解」とのイメージが広まっているなら違和感もある。なぜか―。(金崎由美) 5月上旬、米国出張の際に試みた取材が、期せずして森さんとオバマ政権を結ぶ端緒となった。 広島訪問の正式発表前。情報収集のため日米の政府関係筋と接触した。米側の一人には、オバマ氏が被爆地に抱く思いなどを質問した。意外だったのは、「原爆犠牲者には米兵捕虜もいる」と続けた時。相手の態度が変わり、「知らなかった」とメモを取り始めた。 悲しみ日米同じ こちらが「原爆投下を肯定的に語る際、自国民の犠牲者がいるのは都合が悪い。だから人々は目を背けるし、遺族も声

    被爆者抱擁 和解なのか オバマ米大統領 広島で演説 感動呼ぶ場面 単純化違和感
    quick_past
    quick_past 2016/06/02
    単純化違和感/当然ここなんだよな。これが政治利用ではない、真の和解なんだと言うのは継続した活動と時間によるものでしか作れない。意見の一致を見ました、それで全部すみました、好きな事言います。では無理。
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