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ブックマーク / arabic.kharuuf.net (11)

  • 無自覚な者たちが他人に信仰を押し付ける

    こんなエントリが話題になっていました。 日人は自らの宗教性にいいかげん気付くべき – 狐の王国 良識あるものは自らの倫理観を問いなおせ。それが信仰でないことなどほぼ無いことに気付くべきだ。一つの宗教にきちんと向かい合うことも必要かもしれない。仏教でも神道でも基督教でもいい。 そうして自らの信仰に自覚的になることも、きっと必要なことだと思う。 細部については異論もありますし、またここで言う「宗教」とわたしたちの言うところのالدينは同一ではないと考えていますが、自称「無宗教」の日人の多くが、自分で思っているよりはずっと「宗教的」、という点は、その通りでしょう。 このブログで書いていることの多くもそうした前提から出発しており、「小っさなムスリムに話しかける」、「音楽と信仰」といったことも、この系譜に属するものです。 件のエントリは、「宗教性」そのものより、それに対して「無自覚」であること

    無自覚な者たちが他人に信仰を押し付ける
    rakusupu
    rakusupu 2012/05/16
    同意。無神経な押しつけを食らった場合は即座に噛み付くことにしている。 /"「他人に信仰を押し付けるな」と「他人の信仰に軽々に立ち入るな」"の実践のために、無自覚でいるのはやめようと。
  • 伝える中毒

    極私的回想で書いたような単なる自分語りですが、考えを伝えるとか、表現する、言うべきことを言う、といったことに重きをおかないよう気をつけています。 世の中的には、少なくとも建前上、「考えをキチンと表現して伝える」ことは「良いこと」とされています。実際、これらが大事な場面というも沢山あるでしょう。 また、何かを書き綴って(あるいは別の方法で)表現出来た時、さらにそれが他人に理解された時の悦びというのは、素晴らしいものです。「書く」ことに格別にひっかかってきた(ひっかかってしまった)人間としては、非常によく分かります。 しかし、この悦びというのが曲者です。考え(あるいは別のもの)を「表現する」とか「伝える」ことの快感というのは、麻薬のようなものです。 別に麻薬が絶対悪だと言うつもりはありません。時にはそういう快楽があっても良いでしょう。お祭り騒ぎだってたまにはしたいです。 しかし、年中お祭りをや

    伝える中毒
    rakusupu
    rakusupu 2012/05/16
    ああ、廃人として死ねればそれ以上のこともなしw
  • 社会への憎悪の仲裁

    これは非常に誤解を受けそうな内容で、かつ丁寧に語る気力もないので、極めて限られた方たち以外にはスルーして頂きたいことなのですが、とても鋭く気に入った一言があったのでメモしておきます。 「5分で分からない!主権返上を目指す会 – 法華狼の日記」という記事に対するCrowClaw氏のブックマークコメントです。 ファッショの根底が「自身の主権(主体)を絶対者に明け渡すマゾヒズム」だとすると別に間違ってない。彼らは気で「(自分も含めて)人権なんか無くなればいい」と考えてる。これは(国家ではなく)社会への憎しみ 元となっている記事は、ある種の右派勢力の主張を荒唐無稽と批判するもので、(おそらくCrowClaw氏もそうであるように)この内容自体は尤もで、確かにこの手の「漫画的」右派言論には相当馬鹿げたところがあります。また、こうした主張に対して一応釘を差しておこう、というのも理解できます。 ただ、こ

    社会への憎悪の仲裁
    rakusupu
    rakusupu 2012/05/16
    左の言い方では個の憎悪を拾えない、それは確かに。多くのために個を語ることを捨てた以上、個の憎悪はそもそも相手にできない。/一者については消化しきれてないのでいづれ
  • モテるために、かつて言語は難しかった

    『さえずり言語起源論』、「音楽と信仰」に関連して一つメモしておきたいのですが、統語構造が意味と独立に発展した、あるいは文法が意味に先立つ、と考えると、古い言語独特の難渋さというのに合点がいきます。 言語学の専門家でもなければそれほど多くの言語を知っている訳でもないので、古い言語一般にそうした傾向があると言えるのかは確証がないのですが、少なくともラテン語とアラビア語(フスハー)についていえば、現代人から見ると全く非能率的としか言い用のないコテコテの屈折語的特徴があります。ラテン語はその後フランス語やイタリア語、スペイン語となり、これらはどれも文法それ自体としてはラテン語からグッと簡略化されています。アラビア語についても、現代口語のアーミーヤはフスハーより文法が簡略化されています。 簡略化されていった経緯については、過剰な係り受け的法則や屈折性は、意味内容の伝達だけに目的を限るなら必要のないも

    モテるために、かつて言語は難しかった
    rakusupu
    rakusupu 2012/04/10
    まあ確かに意味など無くてもノッてる言葉は心地良。
  • 「ロックは世界を救う」と「イスラームこそ解決」

    「ロックは世界を救う!」と、「イスラームこそ解決1」はよく似ている。「音楽と信仰」で触れたような意味で。 ロックもイスラームも、多分世界を救わないだろう。というよりどちらも、よくよく考えれば、こう言うことで要するに何を言おうとしているのか、さっぱり分からないフレーズだ。 これは歌のサビのようなもので、意味などなくても機能はする。意味があるように見えることは重要だが、実際に意味があるかどうかはどうでもいい。 ロックは世界を救わないと思うが、「ロックは世界を救う!」と訳のわからないことを叫びながら歌っているうちに、何かを救い続けてはいるだろう。 救済や裁定が将来において到来するという言明は、大抵の場合、その響きによって、今現在(些細なものであれ)何かを救い、裁定し続けている。そういう音楽が世界に鳴り響いている。 ムスリムが多数派の地域などでイスラーム主義運動がよく使うキャッチフレーズ [↩]

    「ロックは世界を救う」と「イスラームこそ解決」
    rakusupu
    rakusupu 2012/03/20
    (愛は地球を救う…というフレーズしか思い出さない)
  • 極私的回想

    何か色々とものを作る人生で、特に売れることもなかったが、若い時は多少なりとも発表していた。 普通の大学に通っていた自分は、一緒に作業することのあった芸術系大学の人々を、少し格上のように感じていたことがあった。なにせ彼らは「芸術」を業にしているのだ。 しかしある時そんな人たちの一人が、こう言った。「すごい作品を作れるようになって、いつか世の中の一定の人たちにでも、名の知られた存在になりたい」。 彼女がそんな野心を抱いているとは知らなかったが、それ以前に、この時初めて「芸術系大学」というものの意味を認識した。 「芸術系」と言っても、皆んなが皆んな前衛芸術みたいなことをやっている訳ではなく、工業デザインなどのストレートに世間に認知される分野を目指している人たちが沢山いて、実際、世の中は彼らを必要としている。 だがわたしは、人生のある時点で、実は自分には「人に伝えよう」という意志がほとんど全くな

    極私的回想
    rakusupu
    rakusupu 2012/03/11
    "症候を解消するということは、単に別の症候に乗り換えるだけ" "るサイクルの地平線に破滅的結末しか見えていないのなら、力づくででも「別の病気にかかる」値打ちはある" 生き延びるための智慧。
  • 人間は紐には勝てない

    昨日、被災地の商店街再活性化を扱っていたテレビ番組があり、たまたまそれを横目で見ながらぼんやりと考えていました。 今回は被災地の話なのでちょっと別ですが、地元商店街とイオン、みたいな話は延々と繰り返されています。実際は地元商店街が先に衰退してその後イオンが来てくれたんだ、という話もありますし、別段大規模資反対とかいうことを言いたいのではありません。 これについて考えたというのは、 ①労働者すなわち消費者という閉じたローカルな関係を破壊するのは非常に危険 ②しかしウェットな関係はウザい ③でもウェットな呪いからは自由になれない の三点です。 ①は割りと普通の話で、高度資主義社会が進展するに伴い、わたしたちは各々の場面でのロールに分断され、消費者は消費者の立場を、生産者は生産者の立場だけで考えるように統治されていきます。その最たるものがグローバリゼーションですが、こうした方向性は比較優位を

    人間は紐には勝てない
  • プロレス史観、プロレス宗教

    べログのやらせ問題も大相撲の八百長問題もそうなんだけど、当然そういうことはあるだろうなということを織り込んで判断するといったプロレス史観がどんどんと失われ、情弱のマジレス運用が社会のデフォルトになっていることに微妙な恐怖感を覚えるTwitter / @igi: べログのやらせ問題も大相撲の八百長問題もそうなんだ … これ上手いですね。 この反対というか、対偶みたいな位置にあるのが「プロレスはガチなんだ!」と気で言い張る「原理主義」で、文字通り所謂ところの「原理主義」、あるいは単なるパラノイア的なカルトも似た位置にあります。両者は値として等しい。 何が言いたいかといえば、信仰に対する「狂信的」否定的態度も、額面通りのマジレス運用しかできない福音派みたいな人々も、同じものの裏表だということです。 実際上の信仰というのは、実にプロレス的なものでしょう。 プロレスラーは少なくともとても身体が

    プロレス史観、プロレス宗教
  • テストは今もって継続中なのではないか

    何かがうまく行っていなかったり、惨めな境遇に甘んじざるを得なかったり、他人が自分より成功しているのを見ると、誰でも恨みがましい気持ちになり、妬みもするだろう。少なくとも、わたしはする。 そういう時に考えるようにしているのは、一つには、そこで妬んだり恨んだりしてもどうしようもない、もっと悪くなるかもしれない、ということで、今ひとつには、主がそのように書かれたのなら甘んじるべきである、ということだ。 しかしそれよりも大事なのは、試験は終わったのではなく、今なお続いているのではないか、ということだ。 恨んだり憎んだり悔やんだり嫌ったり妬んだりする時、わたしたちは大抵、何がが終わったと思っている。 もう取り返しの付かないことになってしまって、どうしてこんなことになってしまったのだろう、こんな筈じゃなかったのに、と考えている。 もうどうしようもないので、後は他人を恨んだり妬んだりして引き釣りおろすな

    テストは今もって継続中なのではないか
    rakusupu
    rakusupu 2012/01/05
    ”テストは完了して、わたしたちがそれに落第したのではなく、今もってテストは継続中で、正にこの失敗的状況においていかに振る舞うかを、今現在テストされているのではないか” ぐ、ぐぬぬ…
  • 世間と神様とTPP

    TPP盛り上がってますねぇ(笑)。 わたしは経済はまったくの素人で、経験的に素人以下ですらある自信があるので、言ってる先から間違えている気もするのですが、個人的には「やめといた方がええんちゃう」と思っています。 その理由として言いたいことを、斎藤環さんが大体言ってくれていたので、貼っておきます。 時代の風:TPP参加問題=精神科医・斎藤環 – 毎日jp(毎日新聞) 歴史人類学者のエマニュエル・トッドは、近著「自由貿易は、民主主義を滅ぼす」(藤原書店)において、まさにTPP的な貿易のあり方に強く警鐘を鳴らしている。 自由貿易で国外市場へ向けた生産が増えれば、企業のコスト意識が高まり、国内の労働者に支払われる賃金もコストカットの対象となる。労働力が低賃金ですむ中国などに集中した結果、どの国でも給与水準が低下し、国内需要が不足しはじめる。それゆえ自由貿易に固執し続ければ、社会の不平等と格差は拡大

  • 人々の目線と神様の目線

    ぼちぼち翻訳をアップしているアフマド・アル=イシーリーさんの『二冊目』ですが、先ほどアップした「人々を信じることについて」という章が面白いです。一部のムスリムが(彼はもちろん、エジプト人を想定してる)、宗教上の義務や信仰行為については実に立派なのに、社会的な倫理性については平気で酷い行いをすることについて、書かれたものです。 短い文章なので読んでもらえば良いのですが、何が起こっても決して自分から失われないもの、つまり人々の見る自分の生き様というものこそ、最後に残る財産であり、その「他人の見た自分の姿」というものが悪いのに、神様だけは自分を良く見てくれている、などというのは甘すぎる、という批判です。多くのムスリム(別にムスリムに限らないですが)にとって、倫理性というのはまず信仰によって基礎づけられるものですが、狭義の「物質的」側面に拘泥して、礼拝や細かい服装や巡礼についてはうるさい癖に、社会

    人々の目線と神様の目線
    rakusupu
    rakusupu 2011/11/28
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