ブックマーク / technique.hateblo.jp (2)

  • 社会生活のカルト性 - Freezing Point

    ひきこもっていた人が社会復帰するときに、カルト的に硬直した帰依が見られることがある*1。 支援者に、誰かの思想に、アカデミズムに、etc....。 そこで考察が必要なのは、「そうか、ひきこもってた奴はカルト化するのか」ではなくて、論じているあなた自身がどうやって自分を支えているか、だ。 宮台真司の議論は、宗教を建立する動きに見える*2。 それは彼だけがおかしいのではなくて、この社会に順応している人の自己管理には、「固定された帰依」の要因が必ずある。 ルジャンドルなら「ドグマ」という語であつかう話だ(参照)。 そう論じたからと言って、論じている自分がカルト性から抜け出たと思うことは、それ自体がドグマになっている。 論じるとは、「今の自分はドグマティックでしかない」という気づきの遂行でもある。 静止画像として建立された教説は、そのつどドグマ化する。 各人が、取り組みなおす過程をそのつど立ち上げ

    社会生活のカルト性 - Freezing Point
    reina
    reina 2009/01/17
    「私はカルトではない」というのは、教説内容のアリバイではなく、分節する活動形でくりかえし生き直されるしかない。
  • ひきこもり臨床論としての美術批評 - Freezing Point

    斎藤環『アーティストは境界線上で踊る』(みすず書房)刊行記念のトークショー、 斎藤環×岡崎乾二郎 「アートに“身体”は必要か」 を熟読した(掲載は『みすず(no.563)』2008年8月号)。 これを私は、美術批評であると同時に、ひきこもり臨床論として読んだ。 岡崎乾二郎の議論は、斎藤環の「発想のあり方」へのあからさまな批判なのだが、斎藤は最後までそれに気づいていないように見える。 私はこの対談を、ひきこもりや就労支援の関係者にこそ読んでほしい。 誰かの努力や存在が社会的に排除され、誰かがぬくぬくと「内側」にいることになっている*1。 そこに批評を口にするときの態度の違いは、そのまま支援案のちがいになる。 排除された努力や存在を受け止めるときに(あるいは無視するときに)、どんな発想が必要なのか。 作品であり、労働過程である私たちは、単に全面受容されるべきではない。 では、どんな厳しさが必要

    ひきこもり臨床論としての美術批評 - Freezing Point
    reina
    reina 2009/01/09
    岡崎乾二郎の、「芸術」に対する真摯さが伝わる。アートが社会的文脈で捻じ曲げられることを嫌うこんな人物にとって、斎藤環の安易な試みは相当許しがたいのじゃないかな。
  • 1