ひきこもっていた人が社会復帰するときに、カルト的に硬直した帰依が見られることがある*1。 支援者に、誰かの思想に、アカデミズムに、etc....。 そこで考察が必要なのは、「そうか、ひきこもってた奴はカルト化するのか」ではなくて、論じているあなた自身がどうやって自分を支えているか、だ。 宮台真司の議論は、宗教を建立する動きに見える*2。 それは彼だけがおかしいのではなくて、この社会に順応している人の自己管理には、「固定された帰依」の要因が必ずある。 ルジャンドルなら「ドグマ」という語であつかう話だ(参照)。 そう論じたからと言って、論じている自分がカルト性から抜け出たと思うことは、それ自体がドグマになっている。 論じるとは、「今の自分はドグマティックでしかない」という気づきの遂行でもある。 静止画像として建立された教説は、そのつどドグマ化する。 各人が、取り組みなおす過程をそのつど立ち上げ