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鉄砲伝来2.危険な香り
天文十二年(1543)八月二十五日、倭寇のボス・王直は、部下百人を乗せた戎克(ジャンク。中国式巨大帆船)... 天文十二年(1543)八月二十五日、倭寇のボス・王直は、部下百人を乗せた戎克(ジャンク。中国式巨大帆船)で種子島の西之の小浦(門倉岬。鹿児島県南種子町)に来航した。 筆者は昔、「南蛮船が漂流」と習った覚えがあるが、南蛮船ではなく明船で、漂流ではなく自発的に来航したとみられる。 ただ、この船には鉄砲を持ったポルトガル人は乗っていたので、「ポルトガル人が鉄砲を伝えた」ことは確かのようである。 ポルトガル側の基本資料『世界新旧発見史(アントニオ・ガルワン著)』には、種子島に漂着したポルトガル人の名前としてアントニオ・ダモッタ(Antonio da mota)、フランシスコ・ゼイモト(Francisco Zeimot)、アントニオ・ペイショット(ペソト。Antonio Pexoto)の三人を挙げているが、漂着年は天文十一年(1542)となっている(天文十二年は日本側の基本資料『鉄炮記(てっぽうき。
2013/10/06 リンク