サービス終了のお知らせ いつもYahoo! JAPANのサービスをご利用いただき誠にありがとうございます。 お客様がアクセスされたサービスは本日までにサービスを終了いたしました。 今後ともYahoo! JAPANのサービスをご愛顧くださいますよう、よろしくお願いいたします。
翌日、長尾景虎は登城しなかった。 翌々日も姿を現さなかった。 諸将は困惑した。 「いったいどこへ行かれたのじゃ?」 「殿を捜せー!」 「府中館(関東管領・上杉憲政邸)にはおられないのか?」 「いらっしゃいませーん!どこにもおりませーん!」 「なぜだー!?」 「喧嘩ばっかしているおれたちに嫌気が差したのかぁー!」 「まさか、わしたちが一番嫌がることが隠れんぼだったなんてぇー!」 そこへ越後柿崎(かきざき。上越市)城主・柿崎景家(かげいえ)が天室光育(てんしつこういく)を連れてやって来た。 「御坊がお話したいことがあると」 天室光育は曹洞宗永平寺派の僧。元林泉寺(りんせんじ。春日山。上越市)の住職で、景虎の幼少の頃からの仏道・軍学の師である。景虎の父・長尾為景(ためかげ)は彼が七歳のときに没しているので、以降の父親代わりでもあった。 「景虎公の手紙を預かっておりますのじゃ」 「何!殿の!」 天
弘治二年(1556)三月、越後国主・長尾景虎(後の上杉謙信)の居城・春日山城(かすがやまじょう。新潟県上越市)では軍議が開かれていた。 「あれはおれの領地だ! 返せ!」 「そんなことはない。前からわしが管理していた」 が、本題とは全くの別件でもめまくっていたのである。 「何を、コノヤロー! こうなったら、出るとこ出てもらうぞー!」 「ここ以外にどこに出るところがあるんだぁー!」 「ほざけ! 隠れ反逆者が何を言うかぁー!」 「人のことをいえる分際か! お前のところにも甲斐の武田(たけだ)の使者が毎日のように出入りしているというではないかー!」 「『も』と言ったな! 自分で認めやがったなぁー!そこへ直れー! 裏切り者は斬(き)り捨ててくれるわー!」 「何をー! 返り討ちにされたいのかーっ!」 「まあまあ、二人とも仲良くしようや。主君の御前であるぞ」 激しく口論する越後箕冠(新潟県上越市)城主・
平成十九年(2007)九月二十五日、安倍晋三(あべしんぞう)内閣が総辞職し、福田康夫(ふくだやすお。赳夫の子)元官房長官が第九十一代内閣総理大臣に就任、福田内閣が発足した(正式発足は翌二十六日)。父子二代の首相就任は憲政史上初めてのことである。 それにしても、ついこの間まで誰がこの展開を予測したであろうか? 安倍首相の突然の辞任宣言もそうであったが、直後は誰もが麻生太郎(あそうたろう)自民党幹事長が後任だと確信していたに違いない。 それがフタをあけてみればこんな具合である。歴史の展開としてはおもしろいであろうが、現在生きる一般庶民には、そんなことより年金・格差その他諸問題を何とかして欲しいであろう。 「麻生クーデター説」は否定されたが、後世の歴史家はこれについてさまざまな考証をするであろう。 実際のところは本人しかあずかり知らぬところであるが、歴史とは必ずしも事実ではなく、途方もないところ
世は長元初年(1028~)の頃、後一条天皇(ごいちじょうてんのう)の御代、かの藤原頼通が関白左大臣(後に太政大臣)として、すべての上に君臨していた時代である。 昼下がりの平安京の街中を貧相な老僧が歩いていた。 托鉢(たくはつ)をしているらしく、笠をかぶり、手には鉢と杖(つえ)を持っていた。 「哀れな老僧にお恵みを」 しかし、道行く人は誰一人として老僧を相手にしない。 貧相な老僧は言い換えた。 「関白様の悪政のせいで哀れに成り果てた老僧にお恵みを」 若者が声をかけてきた。 「乞食(こじき)坊主」 長身で武闘派っぽいイケメン貴公子であった。 「たとえ聖人が君主であろうと、いつの時代にも政治批判をする者はいるものだ。見苦しいぞ! 貴様のその成り果ては自己責任だ! 自己の過失を棚に上げ、為政者のせいにするとは何事かっ!」 老僧はイケメン貴公子に鉢を差し出してきた。 「つべこべおっしゃらずに、お恵み
無礼な人は、いつかはたたかれるものである。 今に始まったことではない。昔からそうであった(一部の時代を除く)。 蘇我入鹿、道鏡(「2005年12月号 女帝味」参照)、藤原純友、平頼綱(「2004年9月号 揉事味」参照)、今参局(いままいりのつぼね)、豊臣秀次(とよとみひでつぐ)、松平忠直(まつだいらただなお)などなど、程度の違いはあれ、無礼な振る舞いによって討たれたり、追い落とされたりした例は枚挙に遑(いとま)がない。 つい先月(平成十九年十月)も、「飛ぶ鳥落とす勢いの女王様(沢尻エリカ)」が袋たたきにあい、「弁慶(べんけい)気取りの少年(亀田大毅)」が一敗地にまみれ、対戦相手より多くの大衆パンチをくらってしまった。 また、数々の偽装事件で信用を失墜させたり、「モンゴルの英雄(朝青竜)」がたたかれたりしたのも(「2007年9月号 相撲味」参照)原因はそれであり、「時代の寵児(ちょうじ)(堀
「武田軍、長篠城を猛攻ー!」 「武田軍本隊、寒狭川(豊川)を渡河し、設楽原に接近中ー!」 二十日、織田信長は軍議を開いた。 「とうとう武田が動き出したようじゃ。誰か、よい案はあるか?」 徳川家康が挙手した。 「忠次に案があると――」 「申せ」 「ははー」 家康の腹心・酒井忠次(さかいただつぐ。三河吉田城主)が地図を差して提案した。 ちなみに忠次の次男・康俊(やすとし。後の本多康俊)は人質として岐阜城で暮らしている。 「武田軍は進軍と城攻めによって後方が手薄になっておりまする。軍の一部を割いて鳶ヶ巣山の鳶ヶ巣砦を奇襲してはいかがかと――」 これには信長の臣・羽柴秀吉がワクワク喜んだ。 「さすがは酒井殿。おもしろいですなー」 秀吉は何か言おうとしたが、信長が一蹴(いっしゅう)した。 「みみっちい」 結局、忠次の提案は、鶴の一声で終わりになった。 忠次は自陣に戻ってからも残念がった。 じょーじょ
また、織田信長は三千丁(千丁とも)の鉄砲を効率よく撃つため、佐々成政(さっさなりまさ)・前田利家・塙重友(ばんしげとも。後の原田直政)・福富平左衛門(ふくとみへいざえもん)・野々村三十郎(ののむらさんじゅうろう)を鉄砲奉行に任命、連子川(連吾川)に沿って馬防柵を三重に張り、土塁も構築、空堀まで掘らせた。 連合軍の動きは、逐一武田軍に報告されていた。 「大賀弥四郎の謀叛は事前に発覚して処刑されましたー!」 「織田・徳川連合軍、設楽原西方へ着陣! 陣地を構築し、長篠城救出の機会をうかがっておりますー!」 十九日、武田勝頼は鳶ヶ巣山(とびがすやま。鳶ノ巣山)から眼下の敵状を視察した後、本陣・医王寺山で軍議を開いた(「長篠城付近対陣図」参照)。 勝頼が諸将に地図を示して切り出した。 「この配置を見る限り、敵は我が軍が攻めてくるのを待ち構えていると思われる。よって向こうから攻めてくることはないと思う
宇多天皇の治世を「寛平(かんぴょう)の治」といいます。 権勢家である父・藤原基経が死に、跡を継いだ私がまだ少年だったため、摂関政治が一服し、天皇親政が復活したのです。 しかし、宇多天皇はそれほど思うように執政していませんでした。彼には頭の上がらない人々が大勢いたのです。 それも女ばっか――。 まず挙げられるのは、彼の生母、皇太夫人(醍醐天皇即位後は皇太后)・班子女王(はんしじょおう)です。 「あんたはいくつになっても子供だねー。あんたがもっとしっかりしないことには、あたしゃ死のうにも死ねやしないわい」 いつの時代も母というものは子の私生活に介入してくるので(当然でしょうが)、厄介なものです。 しかも班子女王は特にツワモノでした。 高貴な方のくせに、自分でゼニを持って直接市場に買い物に行かないと気がすまない性格でもありました。 「やめてください! 買い物は我々下々の者がいたしますから~!」
中でも元天皇皇子の中納言・源光(みなもとのひかる)は怒りをあらわにしました。 光は名前からして『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とされていますが、まだ遊び人・源融(とおる)らのほうがそれに近いと思われます。 「帝(みかど)はなぜ皇族出身である我らを差し置いて、公卿の末席の菅家だけに皇位の相談をしたのか?おかしいではないか!」 同じ元天皇皇子でも、大納言・源能有は寛容でした。 「そうかな。年からしても妥当な選定と思うが」 能有は摂関家と菅原氏両者の親類で、私とも先生とも親密でした。 もちろん、私と先生との間も親密でした。私は先生が参議になった記念に玉帯(ぎょくたい。貴族のベルト)を贈ったくらいです。私の弟・藤原忠平なんかはもっと親密で、先生の姪(めい)と結婚したくらいです。 だから私もこの時はまだ、先生のやることに腹の立つことはありませんでした。 一方、私の師・大蔵善行は怒りが収まり
こんにちは。本院大臣こと藤原時平です。 『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ。近松門左衛門作)』、読みました。 最悪ですね。 私って、あんなにワルなんでしょうか? 無理もありません。何しろ私は先生を裏切った男ですから。 そうです。人間というものは、最後に裏切った者が、誰よりも憎まれるものなんです。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く