タグ

ブックマーク / rekishikaido.php.co.jp (2)

  • 鈴木貫太郎~終戦を託された宰相の逸話・名言

    今日は何の日 昭和23年4月17日 終戦時の宰相・鈴木貫太郎が没 昭和23年(1948)4月17日、鈴木貫太郎が没しました。太平洋戦争終結時の首相として知られます。今回はいくつかのエピソードを紹介しましょう。 慶応3年(1867)に関宿藩士の子に生まれた貫太郎は海軍軍人の道を歩みました。日露戦争では駆逐隊司令を務め、敵艦に極力接近して魚雷を放つ猛訓練を行なったことから「鬼貫」の異名をとり、日海海戦では敵戦艦への雷撃に成功する大殊勲を挙げています。 その後、海軍中将になった貫太郎は大正7年(1918)にアメリカを訪問。当時、第一次大戦が終わって、太平洋の島々に日が影響力を持ったことから、日米間の緊張が高まりかけていました。サンフランシスコ市長に招かれた歓迎会で、貫太郎は次のようなスピーチをしています。 「日人ほど平和を愛する人間は世界にいない。日は300年間、一兵も動かさず、平和を楽

    鈴木貫太郎~終戦を託された宰相の逸話・名言
    repunit
    repunit 2022/07/11
  • 方広寺鐘銘事件は、まったくの「言いがかり」とも言い切れない?

    今日は何の日 慶長19年4月16日、方広寺の鐘が鋳造 慶長19年(1614)4月16日、京都の方広寺の鐘が鋳造されました。そこに刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」という文言に徳川家康がいちゃもんをつけ、大坂冬の陣へと発展したことで有名な鐘です。 「家康の名を切り、豊臣は君として楽しんでいる」。この事件小説などでは、家康が豊臣家を追い詰めるための「言いがかり」として描かれますし、現代の感覚からしても「いちゃもんをつけた」ようにしかみえません。しかし調べてみると、これは必ずしも全くの「言いがかり」とはいえない面もあるようです。 というのも、この文章を書いたのは南禅寺の長老で豊臣氏と繋がりが深かった文英清韓という僧で、その弁明によると、「家康」「豊臣」というのは「隠し題」であるということです。清韓は敢えて「家康」「豊臣」という名を入れて、その威光が現われることを願ったとか。つまり、いい意味で名を

    方広寺鐘銘事件は、まったくの「言いがかり」とも言い切れない?
  • 1