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ブックマーク / note.com/takano_shiho (6)

  • 国家公務員を退職し、兼業写真家になって丸一年が経ちました。|高埜 志保

    去年の8月末に国家公務員退職してから、ちょうど1年が経ちました。 その時、ご報告という形で執筆したnote記事には、現職の国家公務員や国会議員の方々をはじめ、大変多くの方から反響をいただくことができました。 ただ、退職後のその後、私がどのように生活をして、どんなことを考えているのかについては、あまり発信ができていなかったと自覚しています。 退職して約1ヶ月後、写真展の振り返りも兼ねて書いた「国家公務員退職してからの実際のところ」という題のnoteでは、「今のところ、転職したことは1ミリも後悔していません」と言い切っていました。 その言葉からは、写真展の開催と写真集の販売という以前からの夢を無事に叶えることができた高揚感や、退職という大きな決断をしたのだから事態が好転していないとは絶対に認めたくない、といった祈りにも似た気持ちが見え隠れし、今読み返すと、自分の心の底からの言葉ではなかった

    国家公務員を退職し、兼業写真家になって丸一年が経ちました。|高埜 志保
  • エホバの証人2世として育てられた私が、今伝えたいこと。|高埜 志保

    私は、エホバの証人の2世として育てられました。 このことは、今までに一度も公言したことがありません。 宗教2世であることまでは、去年の秋に書いたこの記事で明かしているのですが、具体的な宗教の名前について言及するのは、これが初めてです。 私がnoteを始めたとき、いつかはこのことを書こう、と決めていました。 宗教2世であるという事実は、今の自分を形成している核のようなもので、価値観や考え方、そして作品としての写真にも、その影響は色濃く表れています。 宗教2世という属性を抜きにしては、今の私について語ることは難しいとすら考えています。 それでも、この事実を公表すると決断するのは簡単なことではありませんでした。 SNSである程度知名度のある自分が、このようなことを発信した結果もたらされる影響は何か。 センシティブな個人情報を不特定多数に公言することの妥当性や意義は何か。 そして何より、現役信者で

    エホバの証人2世として育てられた私が、今伝えたいこと。|高埜 志保
  • 国家公務員を退職します|高埜 志保

    この度、国家公務員退職することになりました。 驚かれた方も多いと思います。業と写真活動を両立している姿に励まされてきたのに、と、少なからず残念な気持ちにさせてしまった方もいるかもしれません。 ここでは、国家公務員を目指す方や、趣味仕事の両立に悩まれている方にとって少しでも参考になればという願いのもと、私が国家公務員退職するに至った理由と、今後の写真活動について、文章を綴ることにします。 はじめに前提として、ここに記載するのは、あくまで私が所属していた省庁・部署に関する、私個人の経験及び主観的な感想となります。 よって、その内容が全ての省庁に当てはまり、国家公務員が同じような働き方・考え方をしているのだと一般化して捉えられてしまうことは、私の意ではありません。 また、去った職場に後ろ足で砂をかけ、残された方々の気持ちを傷つけてしまうようなことは絶対にしたくはないと思っていましたが、

    国家公務員を退職します|高埜 志保
  • 撮影者と鑑賞者は同一のクオリアを共有できるのか|高埜 志保

    私の見ている赤い色と、あなたの見ている赤い色は果たして同じ色なのだろうか。 この問いに対する解を証明することはとても難しい。 例えば、1個の林檎を前に、「この色は赤だよね」とお互いに認識を確認できたとしても、それは2人が同じ色を当の意味で認識しているという証明にはならない。 赤という名前はあくまでラベルであって、質感そのものを説明している訳ではないからだ。 視覚のみならず、聴覚、触覚、嗅覚、味覚などにおける主観的な体験を伴う質感は「クオリア」と呼ばれている。 考えてみれば、自分と同じ物理現象を体験している他者が自分と同じクオリアを体験している証拠なんてどこにもない。 風鈴の音を心地良いと感じる人もいれば、どこか寂しいと感じる人もいるだろうし、机の表面をつるつるしていると感じる人もいれば、ひんやりしていると感じる人もいるだろう。 クオリアを巡る問いは最大の難問と言われており、多くの哲学者や

    撮影者と鑑賞者は同一のクオリアを共有できるのか|高埜 志保
  • 「映画のワンシーンのような写真」というキャッチフレーズに縋るのを止めたくなった。|高埜 志保

    そうしているうちに、徐々に写真を見てくれる人が増え、「あの『映画のワンシーンのような写真』を撮る高埜さんだ」と覚えていただけることも多くなった。 しかし最近になって、「映画のワンシーンのような写真」という言葉が一人歩きをし始め、自分が撮影している写真そのものから解離しているような感覚に襲われるようになったのも事実だ。 先月、三浦えりさんとのオンライン対談で、「高埜さんが考える、映画のような写真って何ですか?」と尋ねられた時、上手く答えられない自分がいた。 キャッチフレーズがたまたま少しウケたからといって、その言葉の意味について深く考えることを放棄し、あぐらをかいて写真を撮り続けてきた結果だと思った。恥ずかしかった。 幼い頃から、小説、詩、漫画、作曲など、自己表現の手段を探っていた私は、新たな表現手法である写真に目をつけたものの、ただ単に目の前にあるものに対してシャッターを切るだけでは満足が

    「映画のワンシーンのような写真」というキャッチフレーズに縋るのを止めたくなった。|高埜 志保
  • 国家公務員として写真を撮るということー国家公務員倫理規定と兼業の関係について|高埜 志保

    最近、国家公務員の不祥事、特に国家公務員倫理規定に違反するような不祥事が世間を騒がせている。 こういった事件が起こると、一部の国家公務員の行動が目立ち、「だから国家公務員は信頼できないんだ」といった空気が社会に充満してしまう。 私は数年前から国家公務員として中央省庁に勤務しているが、入省後の集団研修をはじめ、年に数回は倫理法や倫理規定を遵守することの重要性について学ぶための研修が義務付けられている。 私の肌感覚では、周りの殆どの国家公務員が「倫理規定をしっかり守ること」そして「国民の信頼を損なわないこと」を胸に留め、無意識のうちに違反するような行為を行ってしまわないか、相当神経を使っている。 例えば、以下のリンクの「論点整理」及び「事例集」にざっと目を通していただければ、国家公務員が日々の生活を多くる中で、倫理規定との関係で判断に迷うようなケースがいかに多いかをお分かりいただけるだろう。

    国家公務員として写真を撮るということー国家公務員倫理規定と兼業の関係について|高埜 志保
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