トニセンの3人が語る“活動を続ける意味”「環境が変わったとしても、続けられるような前例をつくりたかった」
あらすじ 横丁のご隠居を訪ねた八五郎、貼り交ぜ屏風の中の絵に目を留め「侍の横に、ライスカレーを盆に載せた女がひざまづいてるけど、何の絵です?」。 隠居があきれて、狩の途中で雨に遭った武将・太田道灌が、立ち寄った荒屋で少女に雨具を借りたいと頼むと、山吹の花をひと枝差し出された。〝七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき〞の歌になぞらえ「実の(蓑)ない=雨具がない」の意の断りだったという故事を教える。 感心した八五郎「傘を借りに来る友達にその歌を聞かせて断る」と張り切るが…。 唐突ですが、今年の三月で落語家になって丸三十年たちます。月並みな感想ですけど、あっという間ですね。 で、三十年前に初めて覚えた落語がこの『道灌』。われわれ柳家の一門は手ほどきとして大抵この噺を最初に教わります。 といっても私は師匠の故・柳家小三治からは一度も稽古をつけてもらったことがなく、『道灌』もアニ弟子が教
英語より落語を覚えた 高校一年の初夏、一学期の終わりに成績表に書かれた教師の寸評をよく覚えている。 「落語を覚えるのと、英単語を覚えるのと、どちらが大変なのだろう」 わりといい時代で、いい高校で、いい先生だったから、指導色がうすく、なにやら詩のようであった。 担任は英語の教師である。 わたしは落語研究会にいた。サッカー部にもいたのだが、落研のほうが目立っていたのだろう。クラブ活動と勉学の両立について何か言ってるようであり、英語教師として英語にも力入れるようにそれとなく諭しているようであった。 どっちとも取れる。 こういう言葉は心に残る。 落語より英単語を憶えたほうが良いとおもう、とストレートに言われたら、すぐさま忘れている。 言葉の力はそういうものらしい。 高校に入って、まだ15歳だったこのころ、たしかにどんどん落語を憶えていった。 中学三年のときに笑福亭仁鶴の落語が大ブームになって、それ
六代目三遊亭円楽がなくなったとき、「落語界統一」について書かれた記事を見た。 この夏、会見で円楽が語ったらしい。 協会を統一したい、と述べ、追悼記事では「その夢も叶えぬまま」と書かれていた。 東京の落語界はいくつかに分かれている。 大きなものは「落語協会」と「落語芸術協会」である。 大正末年から昭和初年(1920年代)ころに、その大元となる協会が発祥し、そこそこ歴史があり、まあ、戦争になって一度すべて一緒くたにされたのだが、戦後ふたたび、別の団体として出発した。 長らく東京の落語界はこの2団体で興行してきた。 定席の寄席(年末2日をのぞき一年中毎日営業している落語を聞く場所)も、だいたいこの2団体が交互に興行を打つ。 この2つが基本の「団体」である。 あと2つ別の落語家集団があるのだが、並べて同じレベルの「団体」とは言えない。そちらに所属している落語家はある意味かなりマイナーだからだ。 「
末広亭での公演が「前売り」となった桂宮治 新宿末広亭で二月、「桂宮治主任公演」があった。 二月中席だから十一日から二十日までの十日間興行。 通常の公演なのだが、入場券はイープラスでの前売りとなった。ふつうの売り方ではない。異様な人気があるからだろう。 ただ、桂宮治は「みなし陽性」となり、彼は七日目からの四日間だけの出演となった。 九日目のチケットを売っていたので、九日目(宮治主任としては三日目)の公演を見た。 新宿末広亭の「意味のわからない傾斜のついた桟敷席」の最後尾で見た。 満席の熱気あふれる興行だった。 寄席で「アリーナっ!!」と叫ぶ異様な風景 桂宮治は勢いよく登場してきた。 そのまま座布団に座らずに下手(しもて)の端まで行って、そこにあるスタンドマイクを片手に、「二階席っ〜!!」(末広亭には二階席がある)、「桟敷っ〜!」「アリーナっ!!」と声を掛けて盛り上げた。 落語家が寄席で立った
“小三治の死”でひとつの時代が終わった——。筆者が目撃した落語三名人「衝撃の高座」。/文・広瀬和生(音楽雑誌「BURRN!」編集長・落語評論家)「古典落語」の以前と以降昨年10月7日、柳家小三治が亡くなった。享年81。5代目柳家小さん、3代目桂米朝に続き落語家として3人目の人間国宝に認定された名人の死は、マスコミでも大きく取り上げられた。 現代落語界はベテランから若手まで多士済々、多くの優れた演者たちがシーンを盛り上げており、小三治が亡くなっても落語の灯が消えることはない。コロナ禍によるダメージはあるにせよ、活況は続くだろう。ただ、これでひとつの時代が終わったのは間違いない。 1970年代から落語を聴き始めた僕にとって、「自分の世代の名人」は古今亭志ん朝、立川談志、柳家小三治の3人だった。 落語の長い歴史は2つに分けられる。「古典落語」という言葉が生まれて以降と、それ以前だ。江戸から明治、
寄席に絶対に笑わない客がいる。笑わない修業のためと毎日やって来る。この客を笑わせた者を真打ちに昇進させようではないか。四人の若手落語家が挑んだ▼一人目は艶っぽい廓噺(くるわばなし)を演じたが、客は笑わない。二人目は江戸ではあまり演じられぬ珍しい噺。これも失敗。三人目は「転失気」。オナラのネタである。舞台上で実際に放屁(ほうひ)までしてみたが、クスリともしない。四人目は「雛鍔(ひなつば)」。珍しい噺ではないが、客は登場する愛らしい子どもに自分の孫を思い、にっこりと笑う▼漫画家の古谷三敏さんが亡くなった。八十五歳。冒頭は代表作、『寄席芸人伝』の「雛鍔文七」。この話、古谷さん自身の漫画論ではないか。そんな気がする▼手塚治虫さんのアシスタントとしてこの道に入った。その後は赤塚不二夫さんのスタッフ。タイプの異なる二人の巨匠の下で漫画を学んだ方である▼手塚漫画の奇想天外な展開。赤塚漫画の笑いとギャグ。
落語「花見小僧」の舞台を歩く 春風亭正朝の噺、「花見小僧(おせつ徳三郎・上)」によると。 ある大店の一人娘の”おせつ”が何回見合いをしてもいい返事をしない。それは”おせつ”と”徳三郎”という店の若い者と深い仲になっているらしいと御注進があった。本人や婆やさんに聞いても話はしないだろうから。主人は花見の時期に娘と徳三郎にお供をした小僧から二人の様子を聞き出そうとした。が、小僧も利口者で簡単には口を開かない。「子供の物忘れはお灸が一番」と足を出させ、宿りを年2回から毎月やるし、小遣いを増やしてやるからと、少しずつ口を開かせた。 去年の春のことで忘れたと言いながら、白状するには、「婆やさんと四人で柳橋の船宿に行きました。お嬢さんと徳どんは二階に上がり、徳どんは見違えるような良い着物を着ていました。船に乗って隅田川を上り、向島・三囲(みめぐり)の土手に上がりました。その先は忘れました」。「そんなこ
落語「二番煎じ」の舞台を歩く 八代目三笑亭可楽の噺、「二番煎じ」(にばんせんじ)によると。 江戸は火事ばやい所で、江戸名物として「武士鰹大名小路広小路、茶店紫火消錦絵、火事に喧嘩に中っ腹」なんて言われた。火事が入っていて、非常に火事早い所だった。明暦の振り袖火事や、明和の行人坂から出た火事は江戸中を焼いたくらいです。 火事の夫婦が相談しています。こんなに消防が発達すると燃え上がることも出来ない。いっそ田舎に行って燃え上がろうと相談が決まった。それを聞いていた子供が「ボヤも行くよ」。 当時番小屋に番太郎がいて夜回りしていたが、ルーズなことから旦那衆が回ることになった。しかし、これも回らないことがあったので、役人が見て回った。 番小屋の旦那衆は、班を二つに分けて、交代で回ると寒い思いも少なくて良いので、私は先の班の長になって回ります、と言うことで 第一班が出掛けた。 寒(かん)の冷え込みは身に
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く