![「隠れたチャンピオン」続々、ドイツの小さくて強い企業たち](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/5e0066e2db08e6e3b3885d73ce6f47208e9ba2c9/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fbusiness.nikkei.com%2Fatcl%2Fgen%2F19%2F00241%2F020900004%2Ffb.jpg)
かつての蜜月関係が甦(よみがえ)ったかのようだ。日本と英国は1923年に失効するまで同盟関係にあった。太平洋戦争後は同じ民主主義的価値観を共有する国として長らく友好関係を築いてきたが、それは同盟関係と呼べるものではなかった。しかし、高まる中国の覇権主義が再び両国を急接近させている。日米同盟に次ぐ安全保障の要となりうる「新・日英同盟」関係は今後どうなっていくのか、全6回にわたり解説していく。 日英の2プラス2を演出した東郷元帥 「対馬沖海戦(日本海海戦)の約半年前に撮られたアドミラル・トーゴーだ」 ロンドン南東の郊外。子午線が通り、世界標準時を定めた旧王立天文台があり、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の世界遺産に登録されたグリニッジで、2017年12月14日に開催された第3回日英外務・防衛閣僚会合(2プラス2)。河野太郎外相、小野寺五典(いつのり)防衛相と、英国のボリス・ジョンソン外相、
「京都大復興の立役者」は誰か? 被支配階層が団結によって惣村や寺内町をつくって生活の安全を図り、逃散や土一揆、一向一揆によって己の要求を貫徹した現実を紹介してきた。じつは、商売やもの作りで生活している人々も、室町から戦国時代にかけて同じような状況をつくっていた。 例えば京都である。応仁の乱で京都の中心部は戦場になり、大きな被害を受けた。それを復興させたのは、町衆と呼ばれる豊かな商工業者たちだった。市中には彼らが運営する「町」という自治組織が続々と誕生していった。地方の荘園における惣村と同じように、町衆は町掟(規則)をもうけて自検断(独自の裁判)を行い、町の出入り口には木戸をつくって防御機能を高めた。 町は、さらにいくつか集まって町組となり、町組は町衆から選ばれた代表である月行事によって運営・統括されるという自治体制が京都に誕生した。1500年には、約30年ぶりに祇園会を開催、三十六基の山鉾
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