2021年5月7日のブックマーク (2件)

  • 「徳川秀忠」安定の手腕 律儀すぎると酷評された三男が、なぜ将軍職を継げたのか? | AERA dot. (アエラドット)

    徳川秀忠の再建開始から400年を迎えた大阪城(c)朝日新聞社 150年におよぶ戦乱の世に終止符を打ち、慶長8年(1603)、幕府を開いた徳川家康。そして、父・家康がつけた道筋を愚直なまでに継承した二代・秀忠。武断政治を進め幕府の支配をさらに強化した三代・家光。週刊朝日ムック『歴史道 vol. 14』では、「徳川300年の泰平」と謳われた時代の礎はいかにして築かれたのかを特集。ここでは「秀忠」を解き明かす。 【最強の将軍は? 徳川十五代将軍「全採点表」はこちら!】 *  *  * 秀忠は天正七年(1579)四月七日、家康の三男として生まれた。 同年九月十五日に、長男信康が切腹することになるが、同二年生まれの次男秀康は跡継ぎにならなかった。その背景には、秀康の母お万( 小督局)が、正室築山殿に幼少の頃から侍女として仕えていた人物だったことがある。築山殿の不興を避けるため、重臣の多忠勝を頼り、

    「徳川秀忠」安定の手腕 律儀すぎると酷評された三男が、なぜ将軍職を継げたのか? | AERA dot. (アエラドット)
    roseknight
    roseknight 2021/05/07
    徳川秀忠は豊臣秀頼やお江のことをどう思っていたのかな。本人は自分の立場を正確に把握していたことは間違いない。後、家康による大御所政治は本当に戦国の雰囲気の残存故か?秀忠は将軍に向かない人だったのでは。
  • 中国とベトナムが見せる〝図太い神経〟を学ぶ

    4月26日に中国国防部が表明したところでは、訪越中の魏鳳和国防部長がべトナム共産党中央委員会のグエン・フー・チュン書記長、グエン・スアン・フック国家主席と会談した際、べトナム側は「他の国家に追随して中国に反対することは永遠にありえない」と伝えたとのことだ。 その際、グエン書記長は(1)べトナム革命、民族独立闘争、社会主義建設における中国からの一貫した貴重な支持を高く評価する。(2)双方は信義と尊重を基礎に、友好的な協議と妥当な処理を通じて南シナ海問題を処理し、この問題が両国関係の大局に影響を与えることを回避する――と付け加えている。 一連のべトナム側の発言を、現在の中越関係からどのように捉えたらいいのか。 中越両国が南シナ海の領有問題をめぐって激しく対立している現状から考えるなら、やはりグエン書記長の発言は理解に苦しむ。これが日人の一般的反応だろう。だが両国関係の歴史に照らすなら、強ち荒

    中国とベトナムが見せる〝図太い神経〟を学ぶ
    roseknight
    roseknight 2021/05/07
    中共はベトナム共産党と反米という観念を共有するだろう。キッシンジャーの極秘訪中をベトナムは知っていたか?ベトナム戦争における中越間での認識の齟齬は国益故か。米国に国防を頼る日本は邪悪さを学べ。