2021年6月12日のブックマーク (3件)

  • 日本精神医学の歴史⑥「武家政権・医療の変化・芸能文化」 - まだなにも決まっていない blog

    みなさん、こんにちは、私です。 maedaaaclinic.hatenablog.com の続きになります。 中国からもたらされた仏教、医療、社会制度に習い、 日は独自の発展をしていく。 時代は平安時代 丹波康頼(912-995)が多くの中国医書類をまとめ 「醫心方(いしんほう)」(984)を編集します。 医心方の世界 (新装版): 古代の健康法をたずねて 作者:槇 佐知子 人文書院 Amazon 精神疾患については「巻三風病篇」で 驚悸(動悸)・言語錯乱・癲病・狂病を取り上げ、 風邪(ふうじゃ)による気血バランスの失調を原因とし、 症状別に漢方・鍼灸治療法が詳しく記述された。 中国医書の「小品方」を引用して、 突然発狂した者には「一日中顔に冷水を注ぐ」とあり、 灌水療法も知られていた。 平安中期から後期には国風文化が成熟し 「やまい」や「物の怪」が絵巻物や物語に登場するようになった。

    日本精神医学の歴史⑥「武家政権・医療の変化・芸能文化」 - まだなにも決まっていない blog
    roseknight
    roseknight 2021/06/12
    精神疾患が物の怪等に例えられた背景にある「物狂」の観念が日本の精神医療の原点なのかな。地方の国医師制度を破壊した鎌倉仏教はそもそも日本人には合わなかったのでは。平安人時代の人の感覚には学ぶ点があるな。
  • 豊臣秀吉が「大坂城より力入れて造った城」の正体

    大坂城は小豆島の石を大量に切り出して造られた 秀吉は天正10(1582)年6月2日の能寺の変の後、山崎の戦いで明智光秀を討ち、清洲会議を経て、山城・丹波両国を手に入れると、山崎の天王山に新しく山崎城を築いている。 この山崎城に天守が建てられていたことは吉田兼見の『兼見卿記』にも記されているが、どのような天守だったかは明らかでない。ただ、「天守台」といわれる北側あたりから瓦がみつかっているので、瓦葺きの天守だったことがわかる程度である。 そして、翌天正11(1583)年4月の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破ると、同年9月1日から秀吉は大坂城築城にとりかかっている。天守が完成したのは同13年4月のことであった。その後も築城工事は続けられている。 注目されるのは、毛利輝元が臣従の礼をとったため、毛利氏を天下普請に動員できたことで、瀬戸内海の船を利用し、小豆島の石を大量に切り出すことができた点である。

    豊臣秀吉が「大坂城より力入れて造った城」の正体
    roseknight
    roseknight 2021/06/12
    戦の勝利や各種用事に応じて城を新築した豊臣秀吉、江戸城等の既存の城を根本的に修築した徳川家康と興味深い。聚楽第が残っていればまだ豊臣政権が長続きしたのでは。城大工が彼らの力源だったことは間違いない。
  • 伏見城  鳥居元忠の覚悟 最後の攻防戦 - 京都案内  こうへいブログ  

    激戦地 伏見城 慶長5(1600)年、関ケ原の戦いに突入するころ、京都・木幡山にある伏見城は、前哨戦とされる激戦地になっていました。 徳川家康がその生涯で最も信頼したという老臣・鳥居元忠(もとただ)。 その元忠を総司令として伏見城を占拠する東軍、それに対して、襲撃したのは石田三成に統率された西軍でした。 つまりこの時、伏見城を占拠していたのは家康であり、秀吉の臣下だった三成が攻撃を仕掛ける側だったのです。 今後、守備の要となるであろう伏見城を重要視していた家康は、極めて有能な家臣たちを元忠の補佐として宛てがっていました。 内藤家長と、その息子元長、さらに松平家忠、松平近正といった超一級クラスの武人を選んで防衛にあたらせ、万全の体制でそなえていたのです。 友よ 家康が京を離れる前夜、伏見城で家康と元忠は、二人でしみじみと酒を酌み交わしていました。 この時、元忠は顔では笑いながらも、「軍に存

    伏見城  鳥居元忠の覚悟 最後の攻防戦 - 京都案内  こうへいブログ  
    roseknight
    roseknight 2021/06/12
    他者の気持ちを読み取れない点が鳥居元忠の一番の敗因では。謀略への弱さ等を考慮すると、本人は司令官の立場に向いていなかったと思う。徳川家康自身が伏見の守りに当たれば、歴史は大きく変わっただろう。