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伏見城 鳥居元忠の覚悟 最後の攻防戦 - 京都案内 こうへいブログ
激戦地 伏見城 慶長5(1600)年、関ケ原の戦いに突入するころ、京都・木幡山にある伏見城は、前哨... 激戦地 伏見城 慶長5(1600)年、関ケ原の戦いに突入するころ、京都・木幡山にある伏見城は、前哨戦とされる激戦地になっていました。 徳川家康がその生涯で最も信頼したという老臣・鳥居元忠(もとただ)。 その元忠を総司令として伏見城を占拠する東軍、それに対して、襲撃したのは石田三成に統率された西軍でした。 つまりこの時、伏見城を占拠していたのは家康であり、秀吉の臣下だった三成が攻撃を仕掛ける側だったのです。 今後、守備の要となるであろう伏見城を重要視していた家康は、極めて有能な家臣たちを元忠の補佐として宛てがっていました。 内藤家長と、その息子元長、さらに松平家忠、松平近正といった超一級クラスの武人を選んで防衛にあたらせ、万全の体制でそなえていたのです。 友よ 家康が京を離れる前夜、伏見城で家康と元忠は、二人でしみじみと酒を酌み交わしていました。 この時、元忠は顔では笑いながらも、「本軍に存
2021/06/15 リンク