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2008年9月11日、中国新聞社は中国国営通信社・新華社の元カメラマンとして毛沢東元国家主席の写真加工を担当していた陳石林氏のインタビューを掲載した。写真は北京市天安門の毛主席の肖像画。2006年に新たなものと交換された。 2008年9月11日、中国新聞社は中国国営通信社・新華社の元カメラマンである陳石林(チェン・シーリン)氏のインタビューを掲載した。 【その他の写真】 陳氏は10歳から江蘇省南京市のカメラ店で修行をはじめ、後に香港、台湾で写真加工技術を習得した。1950年に大陸へ戻ったが、当時は写真加工技術を習得している人間は少なく、すぐに中央新聞撮影局に登用、後に新華社撮影部に配属され、幹部相当の好待遇を受けた。 陳氏がてがけたなかでも最も重要な仕事は毛沢東(マオ・ツォートン)元国家主席の写真加工。現在知られている写真はほぼすべてが加工されたものだという。例えば毛主席はヘビースモーカー
28日、中国は現在の共産党政権発足後、南京から北京に遷都した。その背景には「建国の父」毛沢東の深い戦略があったと言われている。写真は南京の町並み。 2009年1月28日、中国は現在の共産党政権発足後、南京から北京に遷都した。その背景には「建国の父」毛沢東の深い戦略があったと言われている。中評社が伝えた。 【その他の写真】 毛沢東は新中国を建設する上で、首都選びを非常に重視していた。蒋介石率いる国民党政権時代の首都は南京市。毛は当時、「人民主体の新中国と蒋介石の独裁政権との違い」を明確にするため、「南の京」に対抗して「北の京」である北京を選んだ。19年の反帝国主義を掲げる大衆運動「五四運動」が起きたのも北京。湖南省出身の毛だが北京での滞在経験もあり、個人的にも古都の美しい文化や景色が気に入っていた。 首都を北京に選んだ理由がもう1つある。当時の中国を全面的にバックアップした旧ソ連や同じ社会主
[メインページに戻る | 前のページ | 次のページ] 研究者が語る清・チベット関係 ■平野聡著『清帝国とチベット問題』(古屋大学出版会2004/07)は、筆者によると、時代に存在したというチベットと中国との間に存在した民族統合の歴史を、成立から瓦解まで述べたものである。本書が発表された際、依頼原稿により二つの書評を出した。現在、清とチベットの関係について、いろいろな言説が錯綜しているため、新たな文を書こうかと思ったが、煩わしいため、この二つの書評を転載して清・チベット関係を歴史資料に基づいて研究する者の見解を述べたい。 最初の書評が『歴史学研究』に掲載されたもので、後の書評が『東洋史研究』に掲載されたものである。清朝史の研究者、杉山清彦氏も『史学雑誌』(115-9, 2006.9)に本書の書評をだしているため、そちらも併せて参照されたい。 『歴史学研究』(No.804, pp.57-59
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