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ブックマーク / d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman (3)

  • 別館:ポスト・ヒューマンの魔術師(旧題:ポスト・ヒューマンの無視界飛行)

    id:chnpkさんとのやり取りでニーチェ読解におけるパラドクスを構成させてしまいました。システム理論的に言えば、もともとこのパラドクスは私の盲点でした。つまり、観えないということが観えないということが観えていなかったのです。しかし、id:Midasさんのはてなブックマーク - 人工知能(笑)特異点(笑)エージェント(笑)マシンラーニング(笑) - 呉市振興委員会でのコメントを読んで、偶然にも視点が動いたので、パラドクスを発見するに至ったのです。 ニーチェを正確に理解しているならば、「おまえのニーチェの読解は間違っている」「俺はニーチェを正確に理解している」と主張することはあり得ません。しかし、あり得ないのですが、あり得ないと主張している私自身は「おまえのニーチェの読解は間違っている」「俺はニーチェを正確に理解している」と言ってしまっているので、ニーチェを正確に理解していないことになります

    rrmmjjff
    rrmmjjff 2009/02/02
    「概念的な思考が苦手な連中は、いつも<現実>や<実践>などといった「概念」を選好している。「理論から実践へ」というキャッチコピーも、<実践の理論>を説いているに過ぎない。自称実践家たちは、脱理論化するための理論を理論化する自己欺瞞な理論家なのだ。真の実践家ならば、ただひたすら実践を遂行するだろう。「机上の空論」などといった概念で難癖を付け、実践化を理論化しようとはしない。」
  • 政治学や歴史学が提起する「学術的な問題」が「政治的な問題」に摩り替えられていく理由の現象学的な観察。政治学的な根拠か、歴史学的な系譜か、それともメディア論的な「速度」か。

    1.はじめに:学術的コミュニケーションなのか、政治的コミュニケーションなのか 「絶対的真実はないんだよキャハハウフフ」と今さら満足げに気取るポストモダニズム系リベラルの輩と、それにわざわざ一々憤慨してみせるポストモダニズム批判者たちの低レベルなやり取りを目撃したころから、疑問に思うことがあった。 ルソーの「一般意思」の延長線上に位置するデュルケムの「集合的興奮」を踏まえるならば、国家についての思想は「国家が歴史的虚構であること」を前提に議論されてきたことが、直ぐにわかる。それにもかかわらず、国家の虚構性に一々激怒する「憤慨ペシミスト」(笑)や、国家の虚構性や近代の魔術性を今頃満足げに指摘する「恣意の戯れ」の馬鹿共が未だに散見されるのは、何故なのだろう? 私見によれば、こうした政治思想の業績が学術的なコミュニケーションに過ぎなかったということが、関係してくるように思える。つまり、近代の政治

    rrmmjjff
    rrmmjjff 2009/02/02
    「政治システムは、学術的なテーマを選択しない。何故か。それは、政治システムが選択するテーマが、以下の三つに絞られてくるためだ。」
  • 素人が「難解な専門用語」や「長文」に不快になる理由(疎外論・埋め合わせ論・ノイラートの船) - はっはっは

    増田氏の素晴しい分析 増田氏が私の記事に関して素晴しい分析をしていた。増田氏によると、当初id:ululunは私に対して次のように反論すべきだったという。「彼の言説はの受け売りのように私には見えるが、の受け売りという発想自体がの受け売りで、の受け売りなんてものは当は存在しないんだけど、彼の言説は素人を不快にさせるほどの「難解な専門用語」や「長文」が多用されており、「馬鹿よけ」として非常に効率的に機能しており、反論しにくい(というより実質不可能)のが問題w」増田(著)『の受け売り』はてな匿名ダイアリー(2009)、閲覧日時:2009 01/13 08:23 増田氏は、「素人を不快にさせるほどの」という言い方をしている。これは私に対する批判なのかもしれないが、私自身は感銘を受けている。素晴しい分析だ。実際、先行研究や科学史を観察し、学術的なコミュニケーションとの接続可能性を担保でき

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    rrmmjjff 2009/01/14
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