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政治学や歴史学が提起する「学術的な問題」が「政治的な問題」に摩り替えられていく理由の現象学的な観察。政治学的な根拠か、歴史学的な系譜か、それともメディア論的な「速度」か。
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政治学や歴史学が提起する「学術的な問題」が「政治的な問題」に摩り替えられていく理由の現象学的な観察。政治学的な根拠か、歴史学的な系譜か、それともメディア論的な「速度」か。
1.はじめに:学術的コミュニケーションなのか、政治的コミュニケーションなのか 「絶対的真実はない... 1.はじめに:学術的コミュニケーションなのか、政治的コミュニケーションなのか 「絶対的真実はないんだよキャハハウフフ」と今さら満足げに気取るポストモダニズム系リベラルの輩と、それにわざわざ一々憤慨してみせるポストモダニズム批判者たちの低レベルなやり取りを目撃したころから、疑問に思うことがあった。 ルソーの「一般意思」の延長線上に位置するデュルケムの「集合的興奮」を踏まえるならば、国家についての思想は「国家が歴史的虚構であること」を前提に議論されてきたことが、直ぐにわかる。それにもかかわらず、国家の虚構性に一々激怒する「憤慨ペシミスト」(笑)や、国家の虚構性や近代の魔術性を今頃満足げに指摘する「恣意の戯れ」の馬鹿共が未だに散見されるのは、何故なのだろう? 私見によれば、こうした政治思想の業績が学術的なコミュニケーションに過ぎなかったということが、関係してくるように思える。つまり、近代の政治や
2009/01/29 リンク