■ 「DRMをかける書店からは電子書籍を買わない」というポリシーは貫けるか 長谷部誠の「心を整える。」が電子書籍化というニュースをみて、以前からちょっと読みたかったこともあり、おまけに印税は被災地に寄付とのことなので、ベストセラーは読まない方針を曲げてじゃあ買ってみるかと思ったのだ。 で、並んだ電子書店の中から特定端末前提ではない書店としてhontoがあったのでログイン(なぜかアカウントを作ってあった)。XMDFって書いてあるから普通にブンコビューアで読めるだろうと思ったが、ふと不安がよぎったので対応デバイス・環境についてを読んでみたら妙な記述が: すでにPCにダウンロード済みの本につきましては、そのままお楽しみいただけます。 PC向け「honto」アプリでも閲覧可能です。 「すでに」って? 「PC向けhontoアプリ」ってなんぞ? で、ぐぐってみたら「hontoのPC向けXMDF/ドット
暇さえあれば人のブログみて「ほぉほぉへぇへぇ」言ってる私ですが、一応朝の新聞くらいは読みます。 テレビに関しては最近あまり見ないですけど、19時から23時の間で息抜き程度に見ます。見ると言ってもPCにつないだUSBポータブルモニターで見るので「ながら見」ですけど。 さて、そんな私ですが、インターネットにおける個人について最近よく考えます。 ソーシャルメディアが急速に普及しているなかで、完全に『人』がコンテンツ化している現象をよく見かけるようになりました。 で、当然のごとく現れるんですが、時代はキュレーションとソーシャルメディアだと。 イヤーなんか違うなーそれーと思ったわけです。 時代はソーシャルメディアだ?? きっかけはソーシャルメディア戦略うんたらというセミナーに参加したことなんだけど、これがなかなか酷かった。 とにかくソーシャルメディアが素晴らしい! Twitter、facebookは
これからのWebサービス いやあ、Web業界が盛り上がっていますね。Webサービスで何かやりたいという人はあと数ヶ月くらいはこの流れが続く気がするので、今のうちにがんばってみるのもオススメかなと思っています。 ところで、僕が最近思っていることとしては、2012年くらいのWebサービスの流行は、「ライフログの入り口か出口のどちらかを担ったもの」になるのではないかと思っています。 そんな話を詳しく説明します。 ライフログとは何か まず、そもそもライフログとはなんでしょうか。 ライフログとは、僕の定義だと「人生のいろいろなものを記録すること」だと思っています。 たとえば - 行った場所の記録 - 食べたものの記録 - 考えていることの記録 - 一緒にいた人の記録 などを記録することを指します。 今でも結構流行っていて、先進的な人たちがEvernoteを使ってやっていたりしますね。こんな本も読みま
暑さ寒さも ⇒ Ochi (12/26) ⇒ ピノコ (12/25) fade out ⇒ Ochi (01/26) ⇒ さわら (01/24) 変貌 ⇒ Ochi (11/18) ⇒ つ (11/17) コーフ ⇒ Ochi (08/20) ⇒ つ (08/20) 意匠 ⇒ Ochi (07/17) ⇒ つ (07/16) 速攻 ⇒ Ochi (04/14) ⇒ つ (04/14) カワゴエ ⇒ Ochi (01/04) ⇒ つ (01/04) ウチボー ⇒ Ochi (10/11) ⇒ つ (10/10) punctual ⇒ Ochi (07/01) ⇒ ひでじ (07/01) 予感 ⇒ Ochi (04/13) ⇒ つ (04/13)
岡本太郎のプライベート映像などを交えたドキュメンタリー映像「岡本太郎」も上映する(写真はイメージ)写真提供:岡本太郎記念館 岡本太郎生誕100年記念事業の一環として開催する同映像祭は、「今の時代に岡本太郎と向き合うことの意味を考えよう」とするもので、当日は、吹き抜け大階段からスペース オーへ向かっては作品やオブジェによる空間演出が施される。 同映像祭のために製作したドキュメンタリー映像「岡本太郎」では、戦後間もないころのニュース映像やプライベートな8ミリフィルムなど、「貴重な蔵出し」映像を含む映像記録を通し、岡本太郎の「人生と向き合う」。 ステージでは、コピーライター・糸井重里さんや漫画家・タナカカツキさん、岡本太郎記念館館長・平野暁臣さん、ワタリウム美術館キュレーター・和多利浩一さんなど4組8人を迎えて、「岡本太郎とは何か」を考えるトークセッションを行う。 ほかにも場内では、アーティスト
クリエイティブビジネス論〜焼け跡に光を灯そう〜 コピーライター・境 治が、焼け跡になりつつあるこの国のクリエイティブ業界で、新たな理念を模索するブログなのだ! ジョブズの訃報を聞いてから、ずっと自分とMacについて考えている。 ある人から「Macに救われました」とTweetをもらったことがある。その時ぼくは確か、それは大げさでしょう、てなことを返した気がする。でも、自分を思い返すと、全然大げさじゃないなあ、と気づいた。 ぼくは93年に代理店を辞めた。いきなりフリーランスになったのではなく、実は半年ほど、あるデザイン会社にいた。いずれフリーになるつもりで、まずはそのデザイン会社で新たな経験を積もうと思ったのだ。 ぼくは部屋をもらい、そこにはパーソナルコンピュータが置いてあった。虹色リンゴのマークがついていて、Macintosh Classicと書かれていた。気の利いたデザイン事務所が”マック
インターネットの身体拡張性について考えている。 といってもARのような仮想現実の話ではなくて、もっと泥臭いことのメモ。 身体性とフィードバック 例えば、現実世界で、大きなリュックを背負ってみる。 すると身体のアタリ判定が巨大化する。 不用意に振り向くと、誰かを跳ね飛ばしたり、壁を削ったりしてしまう。 階段を使うときも慎重になる。 背後に小さい子供がいると、死角になってとても危ない。 色々と注意が必要だけれども、そういった危険性はなんとなく予測できる。 事故はおこるとしても、大抵がはじめてか、注意を怠ったときだけだ。 いつもよりバランスが取りにくいとか、慣性が働きすぎるとか、そういった身体的なフィードバックがあるからだ。 抽象化されすぎた体験 一方でネットやアプリのインターフェースなどを見た場合、どうだろう? そういったネガティブなフィードバックは、「不快」や「不便」や「カイゼンの対象」とし
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く