北海道のオホーツク海地域は18世紀後半から19世紀初めに日本の歴史に登場する。だが、それ以前にもアイヌやツングース系の人びとの豊かな歴史があった。 北海道のオホーツク海地域、すなわちオホーツク世界が日本の歴史に登場するのは、18世紀後半から19世紀初めにかけて、千島列島を南下して来たロシア人とそれを排除しようとした日本人の間に衝突が頻繁に発生した以降のことである。しかしながら、北海道に居住していたアイヌ民族は13世紀ごろから北はサハリンに、東は千島列島からカムチャツカ半島に進出して北方の諸民族と交易や交流を展開していた。 アイヌ民族のサハリン進出――13世紀―― 図1 『元史』巻5、フビライ統治期の至元元年(1264年)11月、骨嵬を征討した記事(右から4~6行目)が記載されている。 1263年11月に、モンゴル帝国の第5代皇帝フビライはアムール川下流域を支配下に組み込むと、そこに居住し
豪華絢爛な絹織物をもたらした北の交易路 江戸時代、大陸を流れる大河アムール川(中国名・黒龍江)を経て、中国・南京から北海道に至る全長約5千キロにおよぶ壮大な交易路があった。「蝦夷錦(えぞにしき)」と呼ばれた中国の豪華な絹織物などを日本にもたらした「北のシルクロード」。日本人や中国人、幾多の先住民族が支えた、はるかなる北の交易路の残映を求めて、ロシア極東各地を歩いた。 この交易は日本で「山丹(さんたん)交易」と呼ばれた。山丹とは現在のウリチやニブヒなど流域の諸民族を指す。代表的な交易品が、黄色や紺色の絹地に金糸や銀糸で竜などの紋様を刺しゅうした「蝦夷錦」。江戸時代に蝦夷地(北海道)から渡って来た豪華な錦は、人々の北方へのロマンをかき立て、ブランド品として広く流通、僧侶のけさやふくさなどに使われた。現在でも京都・祇園祭のシンボルである山鉾の飾りとして250年前の蝦夷錦が使われている。逆にサハリ
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