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ブックマーク / mojimoji.hatenablog.com (5)

  • なにが暴力か/なにを暴力とみなすのか - モジモジ君のブログ。みたいな。

    http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20091008 面倒なんで、記憶に頼って書くけれど。 追記。なんかおもしろいトラックバックが来た。>http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20091009/p1 暴力の原イメージが直接的暴力であるのはそのとおり。その上で、直接的暴力だけを問題にすれば、人が平和に暮らせるうまいやり方を考えることができるか。できない。どうしてか。直接的に殴られているわけではない場合でも、人の生命が危険にさらされていることはあるし、そこに作為や怠慢が働いていることもある。たとえば、人を殴り倒せば直接的暴力だけど、飢えている人にべ物を「与えない」ことも、直接的暴力と同じように人を傷つける。こうして、直接的暴力とは異なるけれども、暴力と同様に人を傷つけたり破壊したりする構造を「構造的暴力」として問題化す

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    sadamasato
    sadamasato 2009/10/09
    「表現の自由の実現のために暴力や抑圧のない社会を目指そう」と言ったら、「表現の自由に紐をつける」と非難され、「私達は暴力や抑圧の当事者でしょ」と返したら、「暴力は物理的暴力だけだ」と言われたということ
  • 排外主義それ自体が暴力です、その2 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090929/p1の続き。たとえば、「「暴力」の意味がブレてる。暴行・障害罪等の意味で取れば思想は関係なくなる。排外主義を暴力的思想として批判するなら暴行・障害罪とは別の話。殴らなくても排外主義だが、暴行・障害罪にはならない」みたいな意見がバカげている、ということについて。 「殴る」という直接的暴力も、差別のような構造的暴力も、人を傷つけ、そこから追い立て、当たり前の尊厳を奪い取るという意味で、まったく等しく、暴力です。では、どうして一方に対しては法で取り締まられ、警察・監獄に象徴される制度化された対抗暴力が発動されるのに、他方に対してはそうではなく、ほとんど何もなされないのか。それは、少なくとも、暴力としての程度が小さいからではありません。程度の大小について何かを言える根拠などどこにもありません。 直接的暴力は、行為であり

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    sadamasato
    sadamasato 2009/10/05
    「いじめの当事者が、いじめを禁止する校則に反対するなら、せめていじめに反対する意思を見せろ」でしょ。いじめるものも、いじめを黙認するものも、いじめの当事者として、いじめ問題について責任があるのでは?
  • 道徳の算術から道徳哲学へ - モジモジ君のブログ。みたいな。

    救助隊員のあなたが、沈没事故の連絡を受けて現場に急行したとしよう。ところが、救助隊員のあなたが乗っている船には一人分の余裕しかないのに、現場では二人の人間が溺れていたとしよう。・・・ いつも不思議なのは、人間の生死は最も重大な問題であるはずなのに、最も算術的に処理しやすい問題になってしまうということである。二人を救助する方が一人を救助するよりも正しいということには、2が1より大きいということ以外に根拠はない。二人を救助できない場合には一人を選択して救助するのが正しいということには、マイナス2よりマイナス1が大きいということ、マイナス1よりプラス1が大きいということ以外に根拠はない。救命船問題とは、道徳の問題ではなく、算術の問題にすぎないのだ。そして、二人を救命できない状況を引き起こした人間の責任を問わないとすれば、また、こうした作為的ストーリーをことさらにこしらえる道徳学者の責任を問わない

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  • 村上春樹、エルサレム賞授賞式でイスラエルを批判 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    とりあえず、速報的に、気になることをいくつか。 とりあえずの感想 イスラエル最高の文学賞、エルサレム賞が15日、作家の村上春樹さん(60)に贈られた。エルサレム市で開かれた授賞式の記念講演で、村上さんはイスラエルによるパレスチナ自治区ガザへの攻撃に触れ、人間を壊れやすい卵に例えたうえで「私は卵の側に立つ」と述べ、軍事力に訴えるやり方を批判した。 …… 村上さんは、授賞式への出席について迷ったと述べ、エルサレムに来たのは「メッセージを伝えるためだ」と説明。体制を壁に、個人を卵に例えて、「高い壁に挟まれ、壁にぶつかって壊れる卵」を思い浮かべた時、「どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側に立つ」と強調した。 また「壁は私たちを守ってくれると思われるが、私たちを殺し、また他人を冷淡に効率よく殺す理由にもなる」と述べた。イスラエルが進めるパレスチナとの分離壁の建設を意識した発言と

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    sadamasato
    sadamasato 2009/02/16
    "目標はまだ先にあり、その仕事に対する責任は、すべての人にある。"
  • 政治的直接性からの逃走 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    font-daさんの記事後半で紹介されている、ピンターについての書評記事より。 決して感情的にならず、あくまで劇の対話のように、ユーモアとアイロニーを手放さない。それがために、かえってBBCの愚挙が鮮明になってくるのだ。あくまで「表現」を通しているから、その研ぎ澄まされた言葉は読者のなかに通り一遍でない感情を巻きおこす。 劇作家らしく、ピンターの言葉は直接的でない。必ずユーモアとシニカルな目をたたえて、事態を見据えている。彼は政治的問題を「政治」で解決できないことを知っている。そこで前述した「知性」や「言葉」の問題が出てくるのだ。 一読して違和感を持つのは、ここではピンターの主張に対してではなく、ピンターが「劇作家らしく」「直接的でない」表現を使っていることに対して共感が寄せられている点です。もちろん、ピンターの主張にも賛成なのでしょうけれど、その手つきは、どこかピントがずれている。たとえ

    政治的直接性からの逃走 - モジモジ君のブログ。みたいな。
    sadamasato
    sadamasato 2009/01/30
    湾岸戦争における藤井貞和の詩が「直接的政治的表現が稚拙だ」と批判にさらされたのを思い出す。
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