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映画とfictionに関するsakstyleのブックマーク (6)

  • 『劇場版アイドリッシュセブン』から“推し”文化を考える ライブアニメが持つ演劇性

    『劇場版アイナナ』から「推し」について改めて考える ここ10年ほどの間、ポップカルチャーに関する批評や教育に携わっていると、いわゆる「推し(活)」について考えを巡らさないわけにはいかない。 もはや説明するまでもないだろうが、「推し」とは自分が応援したい対象を指す言葉である。また、そうした「推し」を応援することが「推す」という行為である。もともとはAKB48などのアイドルグループのファンがお気に入りのメンバーを呼ぶために使っていた「推しメン」(推しメンバー)という言葉に由来する。しかしその後、2010年代を通じて、より一般的な文脈にも広がっていった。その言葉の持つ意義は2020年代以降も変わらず、いまや現代人の感性や文化表現、行動様式を象徴するキーワードとして、さまざまな場面で注目を集めている。宇佐見りんの芥川賞受賞作『推し、燃ゆ』(2020年)や平尾アウリのマンガ『推しが武道館いってくれた

    『劇場版アイドリッシュセブン』から“推し”文化を考える ライブアニメが持つ演劇性
  • フィクションは理由付き主張をするか

    応用哲学会第 9 回大会 2017 年 4 月 22 日 フィクションは理由つきの主張を行うか(伊勢田) 1 フィクションは理由つきの主張を行うか 伊勢田哲治(京都大学) アブストラクト クリティカルシンキングの主な吟味の対象は理由つきの主張であるが、果たしてフィクション作品 はそうした吟味の対象となりうるだろうか。 「反戦映画」などの概念が普通に受け入れられていること からすれば、あるフィクションが、たとえば「戦争は悲惨であるからやめるべきである」といった理 由つきの主張をするとみなされることは十分ありそうである。他方、架空の物語を語ることが現実世 界について「理由つきの主張をする」という行為でもありうるというのは奇妙でもある。 発表ではフィクション作品は果たしてクリティカルシンキングの対象となるような理由つき の主張を行うか、そしてもし行うとすれば、それはどうやってか、という問題を考

    sakstyle
    sakstyle 2017/05/04
    伊勢田さんの応哲発表。例えば、映画が「この作品はファシズムを肯定/否定している」といった主張をなすとしたら、それはどのようにしてか。グライス。『スターシップ・トゥルーパーズ』
  • n11books.com

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    sakstyle
    sakstyle 2014/03/01
    「本当らしさ」とは何か。VFX映画というよりもニュージーランドの観光ドキュメンタリー的な『ホビット』
  • Togetter - まとめ「〈一人称的/三人称的〉?──ポルノとゲームにおける操作者表現をどう呼ぶか問題。」

    ・「シューティングゲームについて〈一人称的/三人称的〉って表現は不適切だろ?」(→実は訳語の問題でした)という以上のことは議論できてません。(最後、「プレイヤーキャラクター」の話に繋がる予感を見せつつも、とりあえずそこまでで終わっております。) ・あと、知識の哲学におけるそれついては また別の 議論が必要なようであります。 ・あと、発言者がオトコノコ((c) ヘルシー女子大生)たちばかりなので(?)、もっぱら「攻め」の話に終止しておるのが やや残念な感じです。 ※ご参考: 続きを読む

    Togetter - まとめ「〈一人称的/三人称的〉?──ポルノとゲームにおける操作者表現をどう呼ぶか問題。」
  • 物語から神話へ - 感情レヴュー

    子供の時代は、様々な可能性なり暴力性なり逸脱行為なり多形倒錯的なものなりに対する親和性があって、それを均すことが成長することと同義であるように語られる場合がある。それをとりあえずは古典的なフロイト史観といってもいいと思うけれど、このような史観に立つ場合、大人の側から子供を叱る立場と、郷愁の対象として子供に憧れる立場とがある。そしてその郷愁はしばしば大人批判に向かう。 少年・青年期に愛着がある大林宣彦やティム・バートンの、あのファンタジックなスクリーンに登場する子供(に親和性があるもの)たちを想起しよう。彼らが偶然身につけてしまい、ときに事件を引き起こし、巻き込まれ、繰り出す魔法や超能力の数々は、異形性や多様性に満ち溢れた「子供」の時代*1の隠喩だったはずだ。 しかし、いつのころだろうか。とりあえずハリーポッターとしておけばいいような気がするけれど*2、子供たちが繰り出す魔法や超能力は「神話

    物語から神話へ - 感情レヴュー
  • フィクションの強さ、フィクションのラビリンス - 感情レヴュー

    ギレルモ・デル・トロ『パンズ・ラビリンス』に関する文章の最後が分かりにくいという指摘をいただきました。拙筆ゆえ仕方がないのにくわえ、極度にネタバレを恐れてしまったところにもその原因があるのかもしれません。書き直しました(「話を戻そう」以下)。じゃっかんネタバレ的文章になっているので、未見の方は地雷を踏まぬよう気をつけて。 フィクションの強さといえば、子供が夢見るファンタジーのように、何もかもが思い通りになり、自由自在に編集したり加工できたりするところにあるのだと、私たちは思いがちだけれども、恐らくそれはそのほんの一面しかとらえていない。時の米国大統領のような権力者がとても強く、また脆くもあるのは、世界をフィクションのそのような強さにおいてしか掌握しようとしていないからだ。 他方、私たちがよく理解していながらしばしば忘れがちになるフィクションの強さとは、至極当たり前のことだけれども、だれの手

    フィクションの強さ、フィクションのラビリンス - 感情レヴュー
    sakstyle
    sakstyle 2007/11/03
    ちなみに私は、ラストで嗚咽が止まらず/彼女が世界に関わった一つの身振りが、一面では拍手喝采として受け入れられ、別の面では何をももたらさなかった、ということだ。
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