青木淳悟『私のいない高校』を読んでいる。 この小説に「何が書いてあるのか」はわかる。ところが、この小説が「何をしているのか」がわからない。 言い換えれば、ふだん小説を読んでいて「この小説はいったい何をしているのか」と首をひねることはない。なぜなら、小説はたいてい小説らしいからだ。書く人は小説を書くようなことをするし、読む人は小説を読むようなことをする。 ふだん読んでいる小説がことごとく小説らしいものであったことに、そうでない小説を読まされれることで、初めて気づかされた。という図式。 では、この小説はふだんの小説とどこが違うのか。「何をしているのか」がわからないのはなぜか。 そう問いかけて誰でも答がわかるようにと、タイトルを「私のいない高校」にしたのだろうか? というわけで、たぶん、この小説には「私」がいない。「私」を「主人公」と捉えてもいいだろう。もうちょっと踏み込んで「近代的自我」とか言
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