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考察と文化に関するsakushaのブックマーク (2)

  • QBさんのアニメ論考(まどマギの感想に併せて)※暫定版

    キュゥべえ @QB0 実は、ボクは最終話を見たときにすぐ劇場版ラーゼフォンを思い出したんだよ。これにはちょっとした事情があるんだ。まどかは「鏡の国」のアリスは知っているかい? 2011-04-28 00:46:39 キュゥべえ @QB0 鏡の国のアリスは、最後にある詩が書いてあるんだ。どんなものかというと「不思議なる 国をさまよい 長き日を 夢見て暮らす つかのまの 夏は果てるまで 金色の 夕映えのなか どこまでも たゆたいゆかん 人の世は 夢にあらずや?」っていうんだ。これは岩波少年文庫の訳らしいけれどね。 2011-04-28 00:48:51 キュゥべえ @QB0 これを劇場版ラーゼフォンではヒロインの美嶋玲香(遥)が冒頭と、最後の場面でつぶやいているんだけれど、劇場版ではちょっとした演出があってね。玲香がこれを読み終えた後、孫娘からこう聞かれるんだ。「お婆ちゃん、アリスは当に現実

    QBさんのアニメ論考(まどマギの感想に併せて)※暫定版
  • 日本人はなぜクトゥルーを怖がらないのか : 族長の初夏

    最近、ちまちまとラヴクラフト全集を再読しているのですが、あらためて強く意識させられるのが、恐怖感についての日米文化の違いです。たとえばラブクラフトがさも自明のごとく使う「冒涜的」という表現の、いったい何がどう冒涜的なのか、まるでぴんとこないこと。また、クトゥルーや南極の〈古きもの〉がさほど怖いとも思えず、それどころか、むしろちょっとかわいいじゃん。などと愛着に近い感情すらおぼえてしまったりすること。こういった反応、恐怖の感じ方がひどく違うことについて、どこまでが個人の感性でどこまでが文化の差異によるものか、きちんと切り分けができたら面白かろうなあ、と思いながら読んでいます。 ラブクラフト作品での「冒涜的」という形容は、宗教上の教義と相容れないものごとだけでなく、普通でない、なじみがない、理解できない、ありえない、と語り手が感じる対象ことごとくに向かってつかわれます。キリスト教文化圏では、何

    日本人はなぜクトゥルーを怖がらないのか : 族長の初夏
    sakusha
    sakusha 2011/03/04
    怖がるポイントの文化差 / 個人的には,日本人は身近なものが理解できなくなった瞬間に恐怖を感じている気がする
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