ブックマーク / call-of-history.com (80)

  • 「臨時軍事費特別会計 帝国日本を破滅させた魔性の制度」鈴木 晟 著

    太平洋戦争へ至る過程で軍部の台頭を許した大日帝国の制度的欠陥の一つが「臨時軍事費特別会計」である。 臨時軍事費特別会計は大日帝国下で戦時に戦費支出目的で定められる特別会計制度で日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦・シベリア出兵、日中戦争(支那事変)・太平洋戦争の四度設けられた。それぞれの支出額は日清戦争:約二億円、日露戦争:約十五億円、第一次・シベリア:約八億八千万円、日中・太平洋戦争:約一五五三億九千万円。 その特徴は 「一般会計とは異なり、いずれも戦争の勃発から終結までを一会計年度とし不足分は追加予算で補われる」(P90)こと「戦争の終結までが一会計年度であるので、その間に陸海軍省は議会にたいして決算報告の義務がない」(P96)ことである。 臨時軍事費特別会計法(昭和十二年法律八十四号) 第一条 支那事変ニ関スル臨時軍事費ノ会計ハ一般ノ歳入歳出ト区分シ事件ノ終局迄ヲ一会計年度トシテ特

    「臨時軍事費特別会計 帝国日本を破滅させた魔性の制度」鈴木 晟 著
  • 「夜這いの民俗学・夜這いの性愛論」赤松 啓介 著

    著者赤松啓介(一九〇九~二〇〇〇)は一言で言うと反権力の人である。大阪中央郵便局に勤めていたころに大阪の被差別部落に興味をもち、大阪市の実態調査を行ううちに共産党や水平社の運動にのめり込んで特高警察に逮捕され、その後地元の兵庫県に戻り喜田貞吉に師事して格的に考古学や民俗学の調査研究を開始する。その民俗学の研究も”人民戦線運動”と銘打った反権力運動の一環だった。 その反権力指向から、当時民俗学のメインストリームだった柳田國男を痛烈に批判し、対抗意識を燃やしていた。 『柳田民俗学の最大の欠陥は、差別や階層の存在を認めないことだ。いつの時代であろうと差別や階層があるかぎり、差別される側と差別する側、貧しい者と富める者とが、同じ風俗習慣をもっているはずがない。』(「差別の民俗学 (ちくま学芸文庫)」P236-237) 柳田のいう常民が彼の政治的な意識を前提として創出されたファンタジーであり、それ

    「夜這いの民俗学・夜這いの性愛論」赤松 啓介 著
    sampaguita
    sampaguita 2015/07/23
    "語っている当事者の女性たちは成人・年配の女性たちばかりで、娘たちは実際どうだったのかがよくわからない"
  • 「日本軍のインテリジェンス なぜ情報が活かされないのか」小谷 賢 著

    太平洋戦争における日は通信を傍受され、暗号を解読され、偽情報に撹乱され、連合軍の兵力を見誤り、情報分析を疎かにして慢心と理想論とで作戦を立てて失敗を繰り返し・・・と情報戦で完敗したが、書は戦前日の情報活動はどのようなものだったのか、どこに問題があったのかを概観した一冊である。 基的な用語がおさえてあるのでインテリジェンス入門書として有用だ。生情報やデータが「インフォメーション」、「インフォメーション」を分析・加工した情報が「インテリジェンス」で、「インテリジェンスの質は、無数のデータから有益な情報を抽出、加工することによって政策決定サイドに『政策を企画・立案及び遂行するための知識』を提供することにある」(P7)。国益・国家戦略に基づく情報要求「リクワイアメント」が政策・作戦サイドから情報収集・分析(インテリジェンス)サイドに出され、これに対してインテリジェンスサイドは多様な情報を

    「日本軍のインテリジェンス なぜ情報が活かされないのか」小谷 賢 著
    sampaguita
    sampaguita 2015/07/22
    "大本営は敵空母十九隻・戦艦四隻を撃沈・撃破したとの現場からの情報をそのまま発表"(台湾沖航空戦)
  • 「江戸の発禁本 欲望と抑圧の近世」井上 泰至 著

    江戸幕府は幕府にとって都合の悪いを発禁として絶版にし、売買を禁止した。幕府による出版統制と検閲のシステムはいかにして確立され、発禁とされた出版物にはどのようなものがあり、幕府の規制の中で近世の出版はどのような影響を受け、いかに発展したか、欲望と抑圧のせめぎあいを生々しくも鮮やかに描いた面白いである。 幕府の出版統制令は軍記物の規制から始まった。江戸幕府が成立すると戦国時代を舞台にした様々な軍記物が出版されたが、現存する大名家の当主たちさらには徳川家を悪く書いたものも少なくなく、これらの規制が始められた。最も古い出版統制令は明暦三年(1657)三月、京都で出された触書で軍記物出版時の出版元報告を義務付けたものだったという。 八代将軍徳川吉宗の享保の改革で全国的な出版統制システムが確立する。風説・異説、好色、武家の祖先に関わるもの、徳川家に関わるものなどの出版が禁じられ、屋仲間が結

    「江戸の発禁本 欲望と抑圧の近世」井上 泰至 著
    sampaguita
    sampaguita 2015/07/22
    "幕府の出版統制令は軍記物の規制から始まった" "現存する大名家の当主たちさらには徳川家を悪く書いたものも少なくなく"
  • 「明暦の大火(振袖火事)」と復興、江戸の都市改造 | Kousyoublog

    明暦三年一月十八日(西暦1657年3月2日)から十九日にかけ三次に渡り連続して発生して江戸の町を焼きつくした大規模火災は明暦の大火と呼ばれて「江戸の三大大火」の一つに数えられている。また、この大火災害からの復興の過程で江戸の町が整備され、後の百万都市「大江戸」の土台が整うことになった。 明暦の大火の発生当時の江戸は、約八十日間雨が降っておらず非常に乾燥して火災が起こりやすい状態にあり、また年初より小規模火災が頻発していた。さらに、前日十七日頃から北西の風が吹き、十八日未明から強風となって朝になってもなお砂塵で暗かったという。乾燥した気候と延焼しやすい強風という悪条件が重なっていたのである。 第一次:郷丸山町妙寺から出火一月十八日未の刻(午後二時頃)、郷丸山町(文京区)の寺院妙寺から出火、強風を受けて郷・湯島・駿河台へと延焼、湯島天神・神田明神・東願寺を焼いて神田川南岸(現在の万

    「明暦の大火(振袖火事)」と復興、江戸の都市改造 | Kousyoublog
  • 由比正雪の乱(慶安の変)と江戸時代前期の牢人問題 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    徳川家一門松平定政の乱心慶安四年(1651)四月二十日、三代将軍家光が死に、老中堀田正盛・阿部重次を始め多くの家臣が殉死し、あるいは隠居・出家して一線を退いた。 同七月九日の三河刈谷藩主松平能登守定政・定知親子の出家もその流れかと思われたが、少々様子が違った。定政は徳川家康の異父弟松平定勝の六男で、徳川家一門に連なる二万石の大名であった。定政は出家して「能登入道不白」と号し、現在の老中たちでは世が乱れると語り、老中井伊直孝に自身が見た夢を書き連ねた文書を送りつけ、「天徳大居士」と号して江戸を托鉢して回って人びとを驚かせた。七月十八日、幕府は定政を狂気として改易、兄の伊予松山藩主松平隠岐守定行に預け蟄居とし、この騒動は終わった。 彼が言いたかったことは、人びとが困窮しているのに幕府はその救済を全く行おうとしない、自分の二万石を例えば五石ずつ分ければ四千人に分けられる、自分が二万石の禄をむよ

    由比正雪の乱(慶安の変)と江戸時代前期の牢人問題 | Call of History ー歴史の呼び声ー
    sampaguita
    sampaguita 2015/06/29
    "間違いを素直に認めてそれに同意する酒井忠勝や松平信綱の懐の深さも流石と言って良い" / そういえば知恵伊豆は島原の乱と慶安の変の両方に対応したのだっけ。
  • 「幻の東京オリンピック 1940年大会 招致から返上まで」橋本 一夫 著

    昭和十五年(1940)の国際オリンピック大会は様々な政治的思惑が絡んで東京に決定したが、開催直前になって返上を余儀なくされた。招致活動の開始から返上に至る過程を丁寧に描いた一冊。 1940年オリンピック返上の理由として「日中戦争の影響」と一言で片付けられることが多いが、書を読むと、むしろ、日側の準備不足と責任能力の欠如こそが大きな要因であったことがわかる。そのドタバタっぷりは、某アニメの台詞ではないが「なんですか、これ」って言いたくなるレベルだ。 オリンピックには普遍主義と国家主義という二つの顔がある。人種・民族・国家を越えて選手一人一人が参加することに象徴される平等と差別排除の追求、主体となる選手の身体性と結びついて増幅される国家の威信と同胞意識。オリンピックの登場以来、この二つは常に表裏一体であった。1940年の東京オリンピックへ至る過程もこの双面から自由ではない。 そもそもの始ま

    「幻の東京オリンピック 1940年大会 招致から返上まで」橋本 一夫 著
  • 幕府代表とペリー艦隊の飲みニケーション全5回まとめ

    先日の記事「「居酒屋の誕生: 江戸の呑みだおれ文化」飯野 亮一 著」にいくつか、ペリー艦隊来航時の日人代表も泥酔していたことを思い出した、といった趣旨のコメントがついていて、そうそうあの酔っぱらいエピソードも面白いんだよね、ということで幕府代表団とペリー艦隊との飲みニケーションエピソードを「ペリー艦隊日遠征記(上)(下)」から紹介しよう。酒を飲むことでのコミュニケーションが相互理解と親睦、異文化交流に大いに役立ち、日米和親条約締結に大きな影響を及ぼしたのだ。両者の酒宴はあわせて五回あった。 1853年7月12日1853年7月8日、ペリー艦隊は浦賀沖に姿をあらわし、米フィルモア大統領から将軍に宛てた親書の受け取りを求めた。これに対し日側は、かねてから黒船来航の情報を元に準備していた通り浦賀での受け取りを拒否、長崎への移動を求めるが、ペリーはこれを拒否して、現在地浦賀での授受を求めた。そ

    幕府代表とペリー艦隊の飲みニケーション全5回まとめ
    sampaguita
    sampaguita 2015/06/12
    "交渉担当者を務めた香山栄左衛門はこの後もペリーからそのふるまいの見事さを激賞されていて、再来航時も彼を窓口にとペリーが求めているほど"
  • 「敗走記」水木 しげる 著

    1970年に発表され、のちの「総員玉砕せよ」につながる水木しげる戦争漫画の代表作のひとつ。表題の「敗走記」のほか「ダンピール海峡」「レーモン河畔」「KANDERE」「ごきぶり」「幽霊艦長」が収録。数年ぶりに再読して、ふと感想書いていなかったことに気付いたので、その中から特に面白かった、「敗走記」「ダンピール海峡」「レーモン河畔」「幽霊艦長」の感想を簡単にメモ。 人の経験もあるが基的には真山という水木の友人の体験を中心に構成された作品だが、主人公は「水木」とされている。昭和十九年南太平洋ニューブリテン島で孤立した主人公「水木」の脱出劇で、とにかく絶望的な状況で九死に一生を得る過程が描かれるのだが、命からがら逃げ延びた彼に、司令部は酷い対応をするのだった・・・ 最後の「戦争は 人間を悪魔にする 戦争をこの地上からなくさないかぎり 地上は天国になりえない」というコメントは、その後の水木しげる

    「敗走記」水木 しげる 著
  • 「ローマ五賢帝 『輝ける世紀』の虚像と実像 」南川 高志 著

    帝政ローマの最盛期を現出したのがネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの五人の皇帝、通称「五賢帝」である、とされる。トラヤヌス帝の時代に最大版図を実現し、政治的にも経済的にも安定して、何かと理想化されるこの時代――紀元九六年から一八〇年までの約一世紀――を統治した五人の皇帝について、近年の研究動向と様々な史料を元にその光と陰を読み解いた非常に面白い一冊。 五賢帝時代に関する一般的な理解は、書によれば「徳望ある理想的な君主が元老院と協調して政治を行い、また元老院の優秀な人材を養子にして帝位を継がせるシステム(養子皇帝制)が機能して帝位をめぐる内乱が生ずることもなく、国の内外が安定した平和な時代」(P229)とされるが、書で明らかにされるのは五賢帝時代の実態はその説明と相容れないということだ。「『養子皇帝制』なるものは、実際には見出し

    「ローマ五賢帝 『輝ける世紀』の虚像と実像 」南川 高志 著
  • 「居酒屋の誕生: 江戸の呑みだおれ文化」飯野 亮一 著

    幕末に日を訪れた外国人が驚いたことの一つに、日人がひどく酒癖が悪いというものがある。例えばヘボン式ローマ字で知られるヘボン(日在住1859~92)は昼間っから酒を飲んで酔いつぶれ、あるいは大暴れしている人びとの多さに驚き、また酔って仕事もままならなくなる日人家事使用人たちに悩まされている。せめて仕事中ぐらいは酒を飲まない労働者を雇えないかと日人商人に尋ねるが、そんな日人を見つけるのは難しいと言われて途方に暮れていた。他の外国人もすっかり出来上がった武士の姿に恐怖を感じている。昼間っから刀持った酔っぱらいが歩いているんだからそりゃ怖い。ヘボンに遡ること三百年、ルイス・フロイスも戦国時代の日人の酒癖の悪さを書き留めていて、もちろん欧米でも酔っぱらいは多かったものの、西洋人からは日人の酔い方は度を越して酷いと見られていた。 武士も町人も昼間っから酒を飲んで仕事もそこそこに、そこら

    「居酒屋の誕生: 江戸の呑みだおれ文化」飯野 亮一 著
  • 「ヴァイキングの経済学―略奪・贈与・交易」熊野聰 著

    ヴァイキングという言葉から連想される一般的なイメージは、欧州沿岸を容赦なく略奪してまわる北方の荒ぶる海賊たちだろう。角の生えた冑(かぶと)をかぶりロングシップ上で戦斧を振り回す赤ら顔の巨漢たち、おそらくは北方の社会からもあぶれた、ならず者の集まりか・・・というのは通俗的なイメージで、実際には彼らはその大多数が普段は広大な農園を持つ領主層とその従士たちであり、略奪だけではなく交易にも積極的で、夏の一時期だけ略奪と交易を行う遠征に出て、それ以外は農地を耕し、土地の支配者として振る舞う人々であった。 ヴァイキングはスカンディナヴィアの貴族・豪族による組織的な活動であって、無法者たちの好き勝手な暴虐ではない。書は、そんなヴァイキングの略奪と交易、その行為を支えるヴァイキング社会の慣習と名誉、贈与の習慣を紹介した一冊である。 ヴァイキングとは何か、九世紀初頭から十一世紀半ばにかけての二世紀半、バル

    「ヴァイキングの経済学―略奪・贈与・交易」熊野聰 著
    sampaguita
    sampaguita 2015/05/11
    "実際には彼らはその大多数が普段は広大な農園を持つ領主層とその従士たち" / そういえば「バイキング料理」という名称は、と思って調べたら案の定?日本発らしい。
  • 十九世紀オーストラリアの中国人排斥運動と白豪主義国家の誕生

    オーストラリアで1850年代から始まった中国人移民排斥運動は、白豪主義として知られる白人至上主義的潮流を生み出し、1901年のオーストラリア連邦成立以降1970年代まで国家として非白人を排除する人種主義政策を続けることになった。 十九世紀半ばのオーストラリアで起きた中国人移民排斥の原因を、白人社会と中国人との文化的差異に求める見方は適切ではない。まずは当時のオーストラリアの社会構造がはらんでいた矛盾と急激に表面化した経済的要因があり、彼らが直面した問題を説明しうる理由として「中国人の脅威」を見出すようになったのである。 オーストラリアの植民地化オーストラリアの歴史は古くて新しい。先住民アボリジナル(アボリジニ)の祖先はおそらく四万年前にはオーストラリア南部に到達していたと考えられ、以後、西暦1700年代まで外部の侵入もなく独自のアボリジナル社会を形成していた。 1770年ジェイムズ・クック

    十九世紀オーストラリアの中国人排斥運動と白豪主義国家の誕生
  • チンギスの称号はカン?ハン?カーン?ハーン?

    モンゴル帝国の建設者、「蒼き狼」の異名でも知られる歴史上屈指の「世界征服者」というと、チンギス・・・カン?ハン?カーン?ハーン?ということで、混乱する彼の称号について簡単にまとめ。 歴史学上正しい呼び方はチンギス・カン結論からいうと、歴史学上正しいのは、ちょっと前までチンギス・ハンだったが今はチンギス・カンである。 「カン(ハン)」はトルコ系・モンゴル系遊牧民が用いていた称号で王や族長を表す。ここでやっかいなのがモンゴル語の発音では丁度「カ」と「ハ」の間の発音であることで、時代によってカに近かったりハに近かったりするが、近年の研究でチンギスが生きていた十三世紀は「カ」に近い音だったことがわかった。一方で、現代モンゴル語ではカンではなくハンと発音するが、モンゴル史では当時の発音に則ってほぼ「チンギス・カン」と呼ぶことが定着しつつある。 また、「カーン(ハーン)」について、それぞれの部族の長が

    チンギスの称号はカン?ハン?カーン?ハーン?
    sampaguita
    sampaguita 2015/04/20
    "時代によってカに近かったりハに近かったりする" "それぞれの部族の長が「カン(ハン)」だが、それら諸部族を統合する地位を「カーン(ハーン)」"
  • 「チンギス・カン ”蒼き狼”の実像」白石 典之 著

    ソ連の崩壊により北アジア・ユーラシアの考古学研究は九〇年代後半から二〇〇〇年代にかけて様々な発見が相次ぎ非常に大きく進歩している。書は、日人として現地に赴きモンゴル史上の様々な発見をリードしている著者が、近年の様々な研究成果を盛り込み、あらためてチンギス・カンと彼の打ち立てたモンゴル帝国草創期についてまとめた、非常に面白い一冊だ。 これまでヴェールに包まれていたチンギス・カン以前のモンゴル史に始まり、モンゴルの軍事・政治・社会・生活・信仰、そして様々な遺跡からわかるモンゴル帝国の実情まで広く深く描かれているが、やはり面白かったのは「ヘルレンの大オルド」と伝わるチンギスの都としてほぼ確実視されているアウラガ遺跡の話だろう。 『アウラガ遺跡はモンゴル中東部、ヘルレン河上流のヘンティ県デリゲルハーン郡にある十三世紀の集落跡で』(P85)、1967年に発見されていたが、格的調査が進んだのは九

    「チンギス・カン ”蒼き狼”の実像」白石 典之 著
    sampaguita
    sampaguita 2015/04/20
    たしか血縁関係でないと裏切りを防げないのでオルド必須だった記憶。<『蒼き狼と白き牝鹿』 / 調べたら4まで出ていてそのあたりも変更されているみたい。
  • 「徳川慶喜 (人物叢書)」家近 良樹 著

    江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜の評伝である。近年の幕末史の様々な知見をふんだんに盛り込んで、複雑怪奇、敵味方がくるくると入れ替わる幕末諸勢力の情勢の中に一橋慶喜の行動を位置づけて、彼の事績を描いており、さすが家近氏といったところだ。それほど多くの評伝を読んだわけではないが、それでもこれまで読んだこのような人物伝の中でも屈指の面白さだった。2014年1月刊。 江戸幕府を終わらせ鳥羽伏見の戦いでは無様に敵前逃亡をして、以後表舞台に一切姿を表さなかったゆえ、彼には悪いイメージが強く残っている。一方で大政奉還に至るその政治過程では確かに他を圧倒する巧みな政治手腕を見せ、いち早くばっさりと髷を落として開明的な姿勢でも知られ、切れ者としての評価も高い。この評価が一定しないところが慶喜の慶喜たるゆえんとでも言おうか、その毀誉褒貶と彼の行動原理もまた、その足跡を丁寧に追うことで浮き彫りにされている。 とりあ

    「徳川慶喜 (人物叢書)」家近 良樹 著
  • 「幕末日本と対外戦争の危機―下関戦争の舞台裏」保谷 徹 著

    幕末、諸外国と修好通商条約が結ばれて一気に開国すると、それに反対する人びとによる外国人排斥運動(攘夷)が盛んになった。過激な攘夷運動の盛り上がりは諸外国を警戒させ、やがて米仏艦隊による長州報復攻撃、英国海軍と薩摩との薩英戦争、さらに英国による日侵攻作戦の立案、そして長州征伐と連動しての下関戦争と対外戦争の危機が顕在化していくことになる。書は主に英国側の資料を中心にして当時日が直面していた対外戦争の危機について具体的に描かれた一冊である。 奉勅攘夷と横浜鎖港問題日米修好通商条約とそれに続く安政の五カ国条約によって諸外国に対し神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と領事裁判権、関税自主権の放棄、片務的最恵国待遇などが約されると、日中に攘夷の嵐が吹き荒れ、外国人に対するテロ行為が頻発。文久二年(1862)、島津久光の行列を遮ったとして英国商人リチャードソンらが殺害されると、英国との間で緊張が高ま

    「幕末日本と対外戦争の危機―下関戦争の舞台裏」保谷 徹 著
    sampaguita
    sampaguita 2015/04/16
    あぁ、そうか。 / "この時期、米国は南北戦争(1861~65)のためわずかな駐留艦隊を残してほぼ全艦隊が極東から離れており" "最大の軍事的脅威は英国"
  • 「幕末の朝廷―若き孝明帝と鷹司関白」家近 良樹 著

    まぁ絶版なので最初は書評書かなくてもいいかと思ったのだが、やはり書の幕末史における重要度から言っても紹介しておく方が良いかなと。2007年のなので、たぶんあと五年か十年かしたら中公文庫なり講談社学術文庫なりから再販されるんじゃないかと思うが、とりあえず良いなので、古書なり図書館なりで一読おすすめします。一応、先日紹介した同じ著者の「江戸幕府崩壊 孝明天皇と「一会桑」 (講談社学術文庫)」2~5章で同時代の大まかなアウトラインはつかめます。 天皇の地位の急激な上昇日近世・近代政治史上最大のテーマ、それは「天皇は何故これほど急激に地位を向上させたのか」ということだ。 豊臣氏を滅ぼした徳川幕府は元和元年(1615)、禁中並公家諸法度を制定して天皇と朝廷を事実上支配下に置いた。表面上幕府と朝廷は対等という体裁を整えてはいたが摂関家以下公家は将軍に臣従し、武家伝奏を通じて朝廷統制が行われ天皇

    「幕末の朝廷―若き孝明帝と鷹司関白」家近 良樹 著
    sampaguita
    sampaguita 2015/04/14
    "みんなの意見を聞く、が彼らの地位を押し上げる一方で、意見が対立しあう者同士の衝突を産みつつ" / 意見を聞いたり出させたりして、けど採用はされないとなると。
  • 「江戸幕府崩壊 孝明天皇と『一会桑』」家近 良樹 著

    ペリー来航から大政奉還・王政復古・鳥羽伏見に至る江戸幕府解体の過程は長く西南雄藩を中心にしての見方が支配的だったが、1980~90年代以降、幕府朝廷・朝敵諸藩に関する研究が進み、勝者側である薩長中心の王政復古史観に批判が加えられ、より大局的に幕末を考える視点へと研究の主軸が移ってきた。 その中で非常に重視されるようになった幕末の勢力に一橋慶喜・会津松平容保・桑名松平定敬による「一会桑」がある。近年では大河ドラマでも当たり前のように使われているし、概ね一般的になってきているのではないだろうか。近年の主流となりつつある「一会桑」を提唱したのが書の著者家近良樹教授で、その「一会桑」とやはり再評価されてきた孝明天皇の朝廷の動きを中心に据えて幕末政治史を捉え直したのが書である。2002年に新書として発売されたものに改訂が加えられて2014年に講談社学術文庫から再発売された。 武力倒幕を目指す西南

    「江戸幕府崩壊 孝明天皇と『一会桑』」家近 良樹 著
  • ケープ植民地から南アフリカ連邦成立までの歴史まとめ | Call of History ー歴史の呼び声ー

    アパルトヘイト体制成立に至る南アフリカ史の簡単なまとめで、とりあえず1910年の南アフリカ連邦の成立までを大まかに。 オランダ領ケープ植民地十五世紀末まで南アフリカはヨーロッパと隔絶された地であったが、1497年ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰経由でのインド航路を開拓すると、まずポルトガルが、続いて十六世紀末までに欧州諸国が相次いでアジアへと進出する。南アフリカは航海の難所であったため補給地としてそれほど重視されていなかったが、十七世紀に入り、スペインとオランダとの海上覇権争いが熾烈なものとなると、オランダ東インド会社(VOC)は南アフリカに中継拠点を築くことを考え、1652年、ヤン・ファン・リーベックによってケープ半島とテーブル湾一帯に植民地(オランダ領ケープ植民地)が築かれた。 当初のVOCの目的は現地民との交易で船舶の水・糧や薪等を調達することだったが、周辺のコイコイ人部族にはそのニーズ

    ケープ植民地から南アフリカ連邦成立までの歴史まとめ | Call of History ー歴史の呼び声ー