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ブックマーク / massneko.hatenablog.com (26)

  • 南高橋(みなみたかはし) - 墳丘からの眺め

    前回のつづき。 中央区新川地区は周囲を川に囲まれた「島」でかつては霊厳島と呼ばれた。 もとは江戸中島と呼ばれた隅田川の中洲だったが、家康の普請で埋め立てられて中央に掘削された新堀の北側を箱崎島、南側を霊岸島としたそう。 霊厳島の名は、寛永期に霊巌上人がこの地に創建した霊厳寺に因むが、寺は明暦の大火で深川へ移り、跡地は門前町や町家となり、上方からの酒を扱う問屋が多く集まったという。 この旧霊厳島とその南西の鉄砲洲とに架かっているのが南高橋(みなみたかはし) どこかで聞いたような名前・・・ 中央区による説明板。昭和7年の竣工だが、明治37年竣工の旧両国橋の一部を再利用しているので、都内に現存する鉄製の道路橋としては最も古いそう。 この橋は、亀島川の河口に位置し。関東大震災の復興事業の一つとして、昭和7年(1932)に架けられました。橋の主要部は、明治37年(1904)に架けられた旧両国橋の材料

    南高橋(みなみたかはし) - 墳丘からの眺め
  • 昨日(7/6)の虹 - 墳丘からの眺め

    夕方に天気雨。 ということは虹が見えるかも、と歩いていたらやはり! ポツポツと降雨中。 反対側にもうっすらとアークは連なり、大きな半円を描いていた。

    昨日(7/6)の虹 - 墳丘からの眺め
    santambo
    santambo 2017/07/07
    素晴らしいですd(^_^o)
  • 檜坂 檜町公園 東京都港区赤坂 - 墳丘からの眺め

    前回のつづき。 赤坂氷川神社から氷川坂を降りて南西に回りこんでいくと、赤坂レジデンシャルホテル。現在はホテルではなく部屋の大半はマンションや事務所となっているようだ。 上記の曲がり角の背面にあった階段&スロープ。 階段の先は行き止まりだった。 元の道に戻り、道なりに左折すると2車線の坂道・檜坂があった。 少し古くなってきた標柱。 ひのきざか 江戸時代には、檜の木が多いため、檜屋敷と呼ばれた山口藩毛利邸(旧防衛庁檜町公園)に添う坂であった。 檜町公園側に赤坂檜町の説明板があった。 赤坂檜町(あかさかひのきちょう) 古くは今井村のうちでしたが、寛永(1624~1644)以後、萩(長州)藩毛利家、松江藩松平家、山家藩谷家の屋敷地となり、幕末まで大きな変化はありませんでした。萩藩毛利家屋敷は元治元年(1964)、幕府と萩藩とが対立したため、召し上げとなっています。町の北部に麻布今井町年貢町屋があ

    檜坂 檜町公園 東京都港区赤坂 - 墳丘からの眺め
    santambo
    santambo 2017/06/27
    (๑>◡<๑)❗️
  • 奈良古墳群 群馬県沼田市奈良町 - 墳丘からの眺め

    前回のつづき。 藤岡市の白石古墳群見学後は関越道を30分ほど北上して沼田市の奈良古墳群を訪ねた。 この日は車だったので、沼田ICから5分という立地から目的地に選んだ。ICからは雪のついている武尊山(ほたかやま:2158m)を横目に見つつ、カーナビに従って進んでいくと、道路脇に青い表示板があった。 砂利道を突き当たりが古墳広場のようになっていた。 武尊山を水源とする利根川の支流・薄根川が東と南を囲むように流れる、台地から一段下がったテラス状の場所だった。 説明板があった。 沼田市指定史跡 奈良古墳群 指定年月日:昭和55年8月30日 所在地:沼田市奈良町110番地他 管理者:沼田市 薄根川右岸の奈良町字大平・八幡平一帯には、かつて奈良の百塚と称されるほど多数の古墳が存在していたが、土地改良工事等によって多くの古墳が失われた。現在は、古墳群東側の古墳公園予定地3万6千㎡を主として比較的状況の良

    奈良古墳群 群馬県沼田市奈良町 - 墳丘からの眺め
  • 七輿山古墳 群馬県藤岡市上落合 - 墳丘からの眺め

    今回からは群馬県。4/14に藤岡市、沼田市、吉岡町の3ヶ所の古墳群を探訪した。 一番見たかったのは初めに訪れた藤岡市の七輿山(ななこしやま)古墳。 4年前の夏に行った国史跡だが、昇寛さんのサイト・埼群古墳館別館: 古墳探訪記群馬を目にして、桜の時期に再訪したいと思っていた。 車であれば上信越自動車道・藤岡ICを降りて10分ほどの距離で、無料の駐車場もある。 休息所を兼ねた「七輿の門展示館」の側から。 左が後円部、右が前方部となる。 説明板があった。 国指定史跡 七輿山古墳 所在地:藤岡市上落合831-1ほか 所有者:国・藤岡市 指定日:昭和2年6月14日 追加指定:平成8年9月26日 古墳は、鏑川と鮎川に形成された舌状の河岸段丘に造られた三段築成の前方後円墳である。大きさは全長145m、後円部径87m、前方部幅106m、前方部と後円部の高さは16mを計る。 4回にわたる確認調査の結果、中堤

    七輿山古墳 群馬県藤岡市上落合 - 墳丘からの眺め
  • 国史跡・座喜味城跡(世界遺産:琉球王国のグスク及び関連遺産群) 沖縄県中頭郡読谷村座喜味 - 墳丘からの眺め

    前回のつづき。 太平洋に突き出た伊計島から、車で1時間強かけて東シナ海に面した読谷村にある座喜味(ざきみ)グスクへ行ってみた。 入場無料、駐車場も無料。 休館中の資料館の向かい側に案内図があった。周辺の森も含めて公園となっている。 石段とゆるやかな坂道を少し上ると琉球石灰岩の城壁が現われた。 座喜味城は15世紀前期に、中山軍の今帰仁城攻略に参加した按司・護佐丸が築いている。 首里城と緊密な連携を図るために首里城から望むことができる丘陵上に立地し、北山が滅びた後も残存勢力を監視する役目を担っていたそうだ。 ~世界遺産と無形文化遺産 文化遺産オンラインより。 詳細な内容の説明板があった。 国指定史跡 座喜味城跡 座喜味城は、15世紀の初頭築城家としても名高い護佐丸によって築かれたといわれる。護佐丸は当初、座喜味の北東約4kmにある山田グスクに居城していたが、1416年(1422年の説もあり)中

    国史跡・座喜味城跡(世界遺産:琉球王国のグスク及び関連遺産群) 沖縄県中頭郡読谷村座喜味 - 墳丘からの眺め
  • 浜比嘉島 家並みと比嘉グスク 沖縄県うるま市勝連比嘉界隈 - 墳丘からの眺め

    前回のつづき。 藪地島のジャネー洞を見た後は、海中道路を渡って対岸の浜比嘉島へ行った。 グーグルマップに「赤瓦屋根」というサインが出たので、そこを目指した。 島の北西に「浜」集落が、東沿岸に「比嘉」集落がある。 比嘉集落で海岸近くの駐車場に停めて、ブラ歩きをした。 趣のある道があった。 博物館のような民家。正面の石壁は「ヒンプン」(中国語の屏風)といい、目隠しであるとともに魔除けの意味がある。美ら島物語 島くとぅば ヒンプン こちらは別のお宅。見張りをしているシーサー。 細道と瓦屋根の組み合わせ。 こちらがマップに位置が出ていた赤瓦屋根のお宅。 ブロック塀も趣きはある。 崖沿いには井戸があった。 きれいな水が樋から流れていて、溜まっている水も澄んでいた。 こちらの住宅街の井戸(?)は水は出ていなかった。 川の跡らしき場所の横に御嶽(うたき)が。 自然石の石積みと土の道。 自然に還りつつある

    浜比嘉島 家並みと比嘉グスク 沖縄県うるま市勝連比嘉界隈 - 墳丘からの眺め
  • 国史跡・勝連城(世界遺産:琉球王国のグスク及び関連遺産群) 沖縄県うるま市勝連南風原 - 墳丘からの眺め

    沖縄2日目はレンタカーで3つの世界遺産・グスクを中心に回ってみた。 「琉球王国の城(グスク)及び関連遺産群」が世界遺産として登録されたのは2000年で、5つのグスク(首里城、中城城跡、座喜味城跡、勝連城跡、今帰仁城跡)と、その関連遺産の4つの遺物(園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園、斎場御嶽)の9ヶ所が登録されている。 世界遺産と無形文化遺産 文化遺産オンラインによれば、琉球列島では14世紀中頃には三つ王国(南山・中山・北山)が鼎立し、15世紀前半に統一がなされて琉球王国となった。今帰仁城・座喜味城・勝連城・中城城は、いずれも三国鼎立期から琉球王国成立期にかけて築かれた城。首里城は中山国王の居城として14世紀に築かれ1429年から1879年まで琉球王国の政治・経済・文化の中心となった。 この日は、今帰仁城跡(なきじんじょうあと:13世紀末~15世紀初期・北山王統の居城)のみ少し離れているので、

    国史跡・勝連城(世界遺産:琉球王国のグスク及び関連遺産群) 沖縄県うるま市勝連南風原 - 墳丘からの眺め
  • 胸突坂~浄心寺坂~八百屋お七の墓(円乗寺) 東京都文京区白山 - 墳丘からの眺め

    前回のつづき。 路地エリアから郷台地の端にある区立誠之(せいし)小学校の西側崖下に道を北へ。 小学校は平成30年から34年にかけて建て替え工事が行われるとのこと。 道沿いの土地が売り出し中になっていた。 その先に面白い遺構があった。 入れないようにはなっているが、崖上から下りる階段。 ブロックで塞がれているのでそのまま上るしかない、”トマソン物件” その先は一旦道が細くなる。 崖上へ連絡する坂があった。 名前のある坂だった。 胸突坂(峰月坂・新道坂)西片2-15と白山1-24の間 「丸山新町と駒込西片町との界にある坂を胸突坂といふ、坂道急峻なり、因って此名を得、左右石垣にて、苔滑か」と「新撰東京名所図会」にある。 台地の中腹から、郷台地に上る坂、坂上から白山通りをへだてて、白山台を望む。「胸突坂」とは急な坂道の呼び名で区内に三ヶ所ある。 この坂のすぐ南の旧西片町一帯は、福山藩の中屋敷跡

    胸突坂~浄心寺坂~八百屋お七の墓(円乗寺) 東京都文京区白山 - 墳丘からの眺め
  • 島薗邸 東京都文京区千駄木 - 墳丘からの眺め

    3月4日の土曜日、墓参と富士塚探訪の帰途に、文京区千駄木にある昭和初期建築の島薗邸を訪ねた。 昭和7年(1932)に建てられ、昭和16年(1941)に2階部分が増築された個人住宅で、現在も島薗家が所有る。 住居としては使われておらず、たてもの応援団という地域のボランティア団体が月2回公開を運営している。第1・第3土曜日の11時~16時、入館料一般300円。 通りから見える建物。 住宅の南側の行き止まり道にも塀は続いていた。 庭の木々の向こうに2階のベランダが見える。 門から中へ。 塀と建物との間。 一階の軒下には軽快な感じのレリーフが回っている。 玄関扉の横の灯り窓。 内側から見ると、一ヶ所ガラスが透明になっていて来客を確認することができるようになっている。 ベンチもある玄関。 布目地のタイルが貼られている。 ベンチに座って右手を見ると・・・ 玄関入ってすぐ右手が書斎。 島薗家は代々和歌山

    島薗邸 東京都文京区千駄木 - 墳丘からの眺め
  • 二本榎通りからの細道 東京都港区高輪 - 墳丘からの眺め

    前回のつづき。 泉岳寺を出た後、中門の南側の道を進むと、台地の端がむき出しになっている場所があった。 ストリートビューで過去の写真を見ると、2009年には高級そうなマンションが建っていて、道沿いには石垣と竹囲いがあった。 2012年に解体され、新たに分譲マンションが建つようだが現地で進捗の様子はなかった。 www.kentsu.co.jp 期間限定で鑑賞できる崖面。 その先には完成間近のマンションがあった。 ストリートビューには昔の建物が写っている。 その先は、斜度22%の登り。 坂上から。坂の名はわからなかった。 上った先には高輪台小学校があった。 小学校の向かいにも広めの更地。個人の邸宅が建つようだった。 そのまま進むと二榎通りに出る。道の向かいの松光寺の山門を入った。 二榎通りは南北に伸びる高輪台の細い尾根筋を通る。よって通りを越えると今度は下りになる。 途中の二股道。 右手は行

    二本榎通りからの細道 東京都港区高輪 - 墳丘からの眺め
  • 東郷神社 東京都渋谷区神宮前 - 墳丘からの眺め

    新年おめでとうございます。年もどうぞよろしくお願いします。 年は改まりましたが、年末に訪れた場所から始めさせていただきます。 東郷神社は原宿駅の近く、入口は明治通りにも面しています。 すぐ左には建築中のビル。 今年の9月に、高さ115m、地上23階が建つようです。着工から13年にもなるのですね。 鳥居をくぐって振り返ったところ。 見上げると工事中のビルの上部外観は完成しているようだった。 境内案内図。東郷神社 (渋谷区) - Wikipediaによれば、昭和9年(1934年)に東郷平八郎が亡くなった後、神社の創建が全国からの献金で計画されて昭和15年(1940年)に鎮座祭が行われている。 表参道を進むと神池があり対岸に東郷記念館があった。 東郷神社が建つ前は、元鳥取藩主池田侯爵邸だった。<公式> 由緒 | 東京原宿 東郷神社 | 東郷平八郎 ”東京時層地図”で調べると、池田邸が建つ前の明

    東郷神社 東京都渋谷区神宮前 - 墳丘からの眺め
  • 旧柳澤家住宅 東京都世田谷区大原 - 墳丘からの眺め

    今回も東京文化財ウィーク2016での特別公開案件。 11月6日に世田谷区大原の旧柳澤家住宅を訪ねた。戦後間もない昭和26年に建てられた国登録有形文化財の小住宅。 京王線の代田橋駅で下車し、環状7号線を南に大原2丁目交差点。 井の頭通りと環七通りが交わる大きな交差点。その南東すぐ裏手が目的地。 大通りのそばだが、高い建物で隔てられているせいか静かになる。生け垣で囲われた一画を回り込んでいく。 敷地の南側に門があった。 植木の間のアプローチを進むと玄関があった。 こちらは庭の散策路から見た主屋。 貫や束を見せている切。 テラスの前に説明板があった。 国登録有形文化財(建造物) 柳澤家住宅主屋 一棟 建築年代:昭和26年(1951)/昭和54年(1979)改修 建築面積:52.282㎡ 設計者:伊東安兵衛 柳澤家住宅は、玄関・ホール・四畳半に納戸(旧台所)と便所を配した小規模な住宅です。外観の

    旧柳澤家住宅 東京都世田谷区大原 - 墳丘からの眺め
    santambo
    santambo 2016/11/28
    思い出の地でした...m(._.)m
  • 七面坂・大黒坂・狸坂・一本松坂 東京都港区麻布十番・元麻布 - 墳丘からの眺め

    少し前に訪ねた元麻布エリア。 元麻布の細道 東京都港区元麻布界隈 - 墳丘からの眺め そのすぐ近くに「がま池」があることに後で気づき、再訪した。 麻布十番駅で降りて麻布台地の上を目指す。”十番通り”を歩いて七面坂で左折した。 標柱の解説。 しちめんざか 坂の東側にあった善寺(戦後五反田へ移転)に七面大明神の木造が安置されていたためできた名称である。 移転先の五反田・善寺に確かに七面明神座像が祀られているようだ。 管内寺院紹介 | 日蓮宗東京都南部宗務所 坂の途中に、小石を貼った壁が魅力的な店があった。 その店の前あたりが坂の上の突き当たりになる。短い坂。 七面坂が突き当たるのは大黒坂。右手が上り。 標柱があった。 だいこくざか 大国坂とも書く。坂の中腹北側に大黒天(港区七福神のひとつ)をまつる大法寺があったために呼んだ坂名である。 左に下りると、道の真ん中にパティオ(中ノ島)がある場所

    七面坂・大黒坂・狸坂・一本松坂 東京都港区麻布十番・元麻布 - 墳丘からの眺め
  • 重要文化財・旧高橋家住宅 埼玉県朝霞市根岸台 - 墳丘からの眺め

    前回のつづきで、所沢~朝霞シリーズの最終回。 朝霞二小の近くの道に「重要文化財 旧高橋家⇒」と出ていたので、行ってみることにした。徒歩5分ほどで到着。 根岸台市民センターの隣にある。 敷地の案内図。主屋の周りに納屋・倉・木小屋・井戸小屋・祠などもあり、樹林の部分は斜面になっていた。 荒川流域の平地と接する武蔵野台地北辺のこの場所で古くから農業を営んできた農家で、関東地方における18世紀前期に遡る古民家として価値が高いそうだ。 ⇒旧高橋家住宅(埼玉県朝霞市根岸台) 文化遺産オンラインより。 標柱の裏の解説。 旧高橋家住宅は、18世紀前半の建築と推定される農家建築です。創建時の部材が数多く残っており、閉鎖的な構造で、押板があるなど、古風な建築の特徴が見られます。周囲には附属屋や畑・雑木林などが展開し、武蔵野台地の農家の構成をよく伝えています。 木造平屋建て、茅葺屋根の主屋。 土間から見た内部。

    重要文化財・旧高橋家住宅 埼玉県朝霞市根岸台 - 墳丘からの眺め
    santambo
    santambo 2016/09/13
    (^O^☆♪
  • 薬師岳登山・折立~太郎平小屋 2016年8月6日 - 墳丘からの眺め

    毎年夏に山旅をしていますが、今年は富山県の薬師岳に登りました。 いつもの山仲間の一人が2月に急逝したので、今年は追悼登山になりました。 山の先輩の墓参 - 墳丘からの眺め 山は8月6日から1泊2日の行程ですが、富山駅周辺に前泊して当日到着組みを待って8:30頃駅を出発。東京から富山までは北陸新幹線「かがやき」で2時間10分なので、始発に乗れば8:26には富山駅に着きます。 6名だったのでジャンボタクシーを利用して登山口へ。 こちらは前日の富山駅。 富山は路面電車が元気。新幹線の改札前に路面電車乗り場がありました。 富山駅南口の外観。 南口には地鉄( 富山地方鉄道株式会社)のターミナルがありました。 改札の外から、仲良く並ぶ2編成を。 別の色の立山行きが入線。 いつかこれに乗って、立山黒部アルペンルートへ行ってみたいです。 今回目指す薬師岳の場所はこちら。 薬師岳(2,926 m)は剱岳・立

    薬師岳登山・折立~太郎平小屋 2016年8月6日 - 墳丘からの眺め
  • 重要文化財・旧下野煉化製造会社煉瓦窯(野木町煉瓦窯ホフマン館) 栃木県野木町 - 墳丘からの眺め

    5月14日の土曜日、 4月末に旧日煉瓦製造ホフマン輪窯で見たポスターに惹かれ、5月10日に修復を終えて公開が始まった栃木県野木町の煉瓦窯(重要文化財)を見に行った。 明治23年(1890)に完成した、美しい煉瓦積みのホフマン式輪窯。5月15日までは「グランド オープン ウィーク」期間中だった。 東北自動車道の加須ICから車で30分ほどの場所にある。家を早めに出て9時半ごろに着いたがすでに見学ツアーは始まっていた。 10~20名のグループに分かれてガイドの方の説明を聞く。 テント脇にあった解説板。 野木町(旧下野煉火製造会社)煉瓦窯 ・下野煉化製造会社の概要 下野煉化製造会社は、明治21年(1888)10月に設立、明治・大正・昭和期と赤煉瓦を中心に製造を続けました。 前身となる東輝煉化石製造所が明治21年(1888)1月に先行して近くの旧谷中村(現在の渡良瀬遊水地)に設立され、そこで製造さ

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  • 等々力渓谷 等々力渓谷3号横穴 東京都世田谷区等々力 - 墳丘からの眺め

    何十年も東京近辺に住んでいながら等々力(とどろき)渓谷へ行ったことはなかった。 渓谷を見に行くときは奥多摩や千葉県の養老渓谷へ向っていた。もし古墳に興味を持たなかったら、ずっと行かないままだったかも知れない。 が、等々力渓谷横穴墓は「関東古墳探訪ベストガイド」にも掲載されているので、行く機会を窺っていた。 関東古墳探訪ベストガイド 作者: 東京遺跡散策会 出版社/メーカー: メイツ出版 発売日: 2011/07/10 メディア: 単行 購入: 1人 クリック: 2回 この商品を含むブログを見る 東急大井町線の等々力駅下車。 地上の島式ホームで改札を出ると踏切となる。 出口の案内に沿って左へ向うと渓谷入口がある。歩道にあるケヤキの大木が目印。 下は曲って駅のほうを振り返ったところ。 すぐに”ゴルフ橋”が現れ、手前を階段で下へ降りていく。橋の名はかつてこの一帯がゴルフ場であった名残り。 橋の

    等々力渓谷 等々力渓谷3号横穴 東京都世田谷区等々力 - 墳丘からの眺め
  • 佐味田狐塚古墳 倉塚古墳 一本松古墳 国史跡・乙女山古墳 @馬見丘陵公園  - 墳丘からの眺め

    前回のつづき。 ナガレ山古墳(下記の公園の古墳/奈良県公式ホームページにある6番)を堪能させていただいた後、公園の古墳を左回りに8番:佐味田狐塚古墳~3番:倉塚古墳~4番:一松古墳~2番:乙女山古墳の順で見学した。(7番は前々回の巣山古墳) 最初は8番の佐味田狐塚(さみたきつねづか)古墳 5世紀前期、全長86mの帆立貝式古墳。北側から後円部。 緩やかな丘の上に造られていて、周濠もある。 墳頂への階段を上っていくと… そこには陸橋が。 下記の実測図のように後円部を袈裟懸けに切られている。 佐味田狐塚古墳 佐味田狐塚古墳は南北方向の主軸をもつ古墳時代前期の帆立貝形の前方後円墳である。史跡巣山古墳の西北方に位置する。墳丘全長約78m、後円部径約55m、前方部幅約31m、くびれ部幅20m、と復元される。後円部では周濠が確認されている。後円部中央の墓壙は南北約10m、東西約4.5mで、盗掘されてい

    佐味田狐塚古墳 倉塚古墳 一本松古墳 国史跡・乙女山古墳 @馬見丘陵公園  - 墳丘からの眺め
  • 三吉石塚古墳 新木山古墳 奈良県北葛城郡広陵町三吉 - 墳丘からの眺め

    前回のつづき。 牧野古墳へ行くときには結構な風雨だったが、見学後は陽が射してきた。 馬見丘陵公園へ行く前に、少し南にある三吉石塚(みつよしいしづか)古墳へも行ってみることにした。 住宅街の中をスマホ頼りに歩く。 住宅街の公園にあった観光案内図。 結構縮尺が小さく、おすすめウォーキングルートの「神社仏閣古墳めぐりコース」は6時間18kmにもなる。 住宅街の先は低地になっており、その先の台地に墳丘が見えた。 台地沿いには川があった。北方向。 住宅地側を振り返ったところ。 丘を上ると墓地があり、その向こうに古墳があった。 後円部は2段に造られていて、墳頂と1段目の上のテラスの周囲に埴輪列が再現されている。 1段目も周濠部分には葺石で復元している。 いよいよ墳丘へ上がらせていただく。晴れ間が見えて嬉しい。 1段目テラス上の埴輪列。右端が「朝顔形」埴輪で、もともと口の開いた壺を下から円筒で支えていた

    三吉石塚古墳 新木山古墳 奈良県北葛城郡広陵町三吉 - 墳丘からの眺め