米空軍は2022年1月、B-52H戦略爆撃機の一大輸送“作戦”を実施しました。内容は砂漠にあった機体を2000km以上離れた基地まで陸路で運ぶというもの。これは2050年代までB-52Hを飛ばすために必要だといいます。 巨人機を2050年代まで飛ばすための重大ミッション オクラホマ州にあるアメリカ空軍ティンカー基地は2022年1月23日、アリゾナ砂漠で保管されていたB-52H戦略爆撃機1機が陸路で運び込まれたと発表しました。 到着したのはB-52Hの61-0009号機。この機体はアリゾナ州にあるデビスモンサン空軍基地のアメリカ空軍ライフサイクル管理センター(AFLCMC)でモスボール保管されていたものですが、現役復帰させるためではなく、ある研究のためにティンカー空軍基地へ移送されたそうです。 拡大画像 オクラホマシティにあるボーイングの施設へ到着したB-52H戦略爆撃機の61-0009号機
飛ばないけど重要な任務 ただ、輸送にあたってそのままの状態では不都合が多いため、デビスモンサン空軍基地から搬出された61-0009号機は、まず同じアリゾナ州内にあるピマ航空宇宙博物館(ツーソン)に持ち込まれ、ここで主翼や尾翼などが外されています。 その後、約1500マイル(約2400km)の距離をトレーラーで約1か月かけてオクラホマ州ティンカー空軍基地まで運ばれてきたとのこと。なお、右主翼や水平尾翼などは、カンザス州ウィチタにある研究施設に輸送され、別の解析に用いられることになっているようです。 拡大画像 アリゾナ州からオクラホマ州へ陸路運ばれるB-52H戦略爆撃機の61-0009号機(画像:アメリカ空軍)。 そのため、胴体と一緒にオクラホマシティに運ばれてきたのは左主翼のみだそう。このふたつは、ティンカー空軍基地のすぐ近くにあるボーイングの施設で再びドッキングされ、その後、テスト機材とし
事故のビデオ映像 墜落現場のC-17機の残骸 墜落したC-17機の尾部 アークティック・サンダー航空ショーの期間中に死亡した搭乗員達の献花所として使用された別のC-17機 2010年のアラスカでのC-17機の墜落事故(2010ねんのアラスカでのC-17きついらくじこ)は、2010年7月28日にアメリカ空軍の軍用輸送機がアラスカ州のエルメンドルフ空軍基地で墜落し、乗員4名全員が死亡した航空機事故である。 この事故機はボーイング C-17 グローブマスターIII(tail number 00-0173)で、この事故はC-17が起こした最初の死亡事故であるとされている。搭乗員達はエレメンドルフ基地のアークティック・サンダー航空ショーに参加する準備を行っていたところであったが、この航空ショーは3日後に事故の追悼として開催された。 事故機[編集] 2005年に撮影された事故機 この機体はボーイング社
指揮命令系統におけるアメリカ空軍の航空団(wing)、航空群(group)、飛行隊(squadron)の基本構成 1994年のフェアチャイルド空軍基地でのB-52機の墜落事故は、1994年6月24日にアメリカ合衆国・ワシントン州のフェアチャイルド空軍基地で発生したボーイング B-52爆撃機の墜落事故。 機長のアーサー・「バド」・ホランド中佐が機体の運用限界を超えた操縦をしたため制御不能となり失速墜落した。ホランド中佐他3名のアメリカ空軍(USAF)の搭乗員が死亡する惨事となった。墜落の模様はビデオに記録され、世界中のニュース番組で繰り返し放映された[1]。 その後の事故調査では墜落に至った一連の事象は主にホランド中佐の人柄と素行、ホランド中佐が関わった以前の事件に対するUSAF幹部の対応の遅れや不適切な対応、事故機の最後の飛行中の一連の出来事という3つの要素に起因していると結論付けた。この
首都高の老朽化は、初期の都心部路線だけでなく、湾岸線でも進んでいます。今回は首都高で4番目に長い橋「荒川湾岸橋」に潜入。深刻な損傷状況を実見しました。 「東京タワーの3倍以上の構造物」で話題になった橋 首都高速道路は2022年5月20日(金)、老朽化が進行している「荒川湾岸橋」の損傷状況を報道陣へ公開しました。 拡大画像 荒川湾岸橋のトラス内部。補修用の吊り足場を歩く(中島洋平撮影)。 首都高は開通から半世紀以上を経て老朽化が進行し、各所で大規模な修繕や「作り替え」が行われています。それら箇所は約10年前の有識者会議を経て決定したもので、多くは都心部を中心とした初期の路線です。それから10年、湾岸線のような後からできた路線でも、老朽化が深刻となっています。 今回の荒川湾岸橋は湾岸線の新木場~葛西JCT間にあり、長さ840mで荒川の河口をまたいでいます。首都高では鶴見つばさ橋、レインボーブリ
こんにちは!こはくです。 今回は以前から気になっていた東松島市野蒜(のびる)にある『KIBOCHA』へお出かけしてきたのでご紹介します。 施設名:KIBOTCHA(キボッチャ) 住所:宮城県東松島市野蒜字亀岡80番 電話番号:0225-25-7319 営業時間: (室内パーク)10:00~17:00 (森のKITCHIN)11:00~21:00(平日11:30~) (大浴場)10:00~21:00 定休日:毎週火曜日 参考:公式ホームページ Instagram <電車> JR仙石線 野蒜駅よりおよそ徒歩5分 <車> 三陸自動車道 鳴瀬奥松島ICよりおよそ10分 KIBOTCHA(キボッチャ)の由来は、「希望(きぼう)」「防災(ぼうさい)」「未来(フューチャー)」を組み合わせた言葉で、「これからの時代を支える子どもたちの未来に命の大切さを伝えたい」という気持ちから名付けられたものです。 (引
証言の目撃地点マップは以下のとおり 東日本大震災により東松島市での死者は1047人、不明者75人(いずれも10月18日現在)という大きな被害となった。東松島市は鳴瀬川の東部が仙台平野と同じく高台といえば遥か離れた三陸自動車道の盛土しかない。一方鳴瀬川の西部は背後に小高い山が連なる野蒜地区だが、こちらもその山すそまで津波が襲いかかり、沿岸全域で壊滅的な惨状となった。 東松島市に関する津波証言記事は3月31日、朝日新聞社が最初に報じた。この記事は、津波被害者の証言というよりは「まさかの津波」にたった一人で造り上げた手作り避難所が多くの人命を救った美談として、佐藤さんと避難者の証言とともに報じられている →map <1>手作り避難所、70人救った 野蒜駅近くの佐藤山 <3月31日 朝日新聞> 手作り避難所、10年かけ岩山に 「津波なんてここまで来るわけがない」。そう言われながら、約10年がかり
東松島市立野蒜小学校(ひがしまつしましりつ のびるしょうがっこう)は、かつて宮城県東松島市野蒜にあった公立小学校[1]。2016年3月末をもって東松島市立宮戸小学校と統合により閉校した。統合後の校名は東松島市立宮野森小学校となり2016年4月に開校[2]。 概要[編集] 野蒜海水浴場、松島自然の家、松島簡易保険保養センター、松島ユースホステル、総合体育館バウンズ88などを学区内に有する。 沿革[編集] 2011年地震から1か月後の小学校屋内運動場 1873年(明治6年5月) - 大蔵省旧官舎を校舎として開校 1878年(明治11年5月) - 新町浜横丁に校舎完成 1879年(明治12年6月) - 校名を公立野蒜小学校と改称 1887年(明治20年4月) - 校名を野蒜尋常小学校と改称 1889年(明治22年8月) - 町村制施行により東名尋常小学校を統合し、東名、大塚、浅井に分教場を置く
【発行日】 平成24年9月(初版) 【発行者】 東北の鉄道震災復興誌編集委員会 (事務局 国土交通省東北運輸局 鉄道部:℡ 022-791-7526) 【注意事項】 本誌掲載の写真等の無断掲載を禁じます。 表紙 巻頭言 発行に寄せて グラビア 巻頭 本誌発行のねらいと編集方針等 「東北の鉄道震災復興誌編集委員会」 委員名簿 目次 第1編総論 第1編1章 東日本大震災の爪痕(つめあと) 第1編2章 鉄道被害の概要 第1編3章 復旧に向けた取り組み 第1編4章 復旧復興に向けた支援 第1編5章 より災害に強く安全な鉄道の構築に向けた取り組みについて 第2編各鉄道の被害と復旧 第2編1章 JR東日本(新幹線) 第2編2章 JR東日本(在来線) 第2編3章 三陸鉄道 第2編4章 仙台空港鉄道 第2編5章 仙台市地下鉄(南北線) 第2編6章 阿武隈急行 第2編7章 IGRいわて銀河鉄道 第2編8章
東日本大震災では、列車も津波の被害を受けました。幸いにも人的被害は発生しませんでしたが、ちょっとした違いが明暗を分けるなど紙一重だった部分もあり、大きな教訓が得られています。 津波被害を受けた5本の列車 2011年3月11日に発生した東日本大震災では鉄道も大きな被害を受け、揺れによる損傷や津波による線路の流出が各所で発生しました。 国土交通省東北運輸局監修『よみがえれ! みちのくの鉄道 ~東日本大震災からの復興の軌跡~』によると、地震発生直後に運転を見合わせたのは全国42鉄道事業者、177路線におよび、そのうち76路線が地震・津波による被害を受けたと記されています(旅客鉄道に限ったデータ。以下同様)。 東北地方太平洋沿岸部のJR在来線、三陸鉄道、仙台空港鉄道ではそのとき、20列車(貨物を除く)が営業運転を行っており、うち5列車が津波による被害を受けてしまいました。しかし乗務員の避難誘導、乗
東日本大震災5年 ふくしま【それでも 進み続ける】 津波から命拾い「感謝感謝です」 乗客が避難したあと津波で破壊された列車=2011年3月30日、新地町、小川智撮影。現在は白河市内のJRの研修施設に移され、社員教育に使われている 助かった庄司タケさんを囲んで笑い合う吉村邦仁消防士(左)と斎藤圭巡査長=郡山市 ●新地駅で誘導 警官らと交流 東日本大震災の津波から、JR常磐線新地駅(新地町)に停車中の上り列車(4両)の約40人の乗客らを救った2人の警察官がいた。そのうちのひとりは、人の命を助ける最前線にいたいと消防に転職し、救急救命士として活躍する。乗客らは5年が過ぎても感謝の気持ちを忘れていない。 避難誘導したのは、郡山署の斎藤圭巡査長(31)と、郡山地方広域消防組合田村消防署の吉村邦仁消防士(28)。乗客だった東京都三鷹市の庄司タケさん(89)が11日、郡山署を訪れ、2人に「皆さんのおかげ
新地駅(震災後) (2011年4月1日撮影) DSC-HX5V 2011年3月11日に発生した東日本大震災後のJR常磐線新地駅の様子です。震災による大津波でここ新地駅では停車中の4両編成普通列車が津波に飲み込まれ横転したり、くの字にねじ曲げられたりしました。駅舎も流出し周辺にはがれき以外何も残っていない悲惨な状況となってしまいました。幸いこの電車に乗っていた福島市から相馬市へ向かう途中の福島県警の新任警察官による誘導で乗客は無事脱出したのが唯一の救いでした。 なお、新地駅前にあったこの電車4両は現在は撤去されています。 大きな地図で見る 津波でがれきや家が流されてきた新地駅周辺 中央部が新地駅 電車がペチャンコに・・・ 新地駅前へ 道路はがれきが除去されなんとか新地駅前に到着 どこからか流れてきた車やがれき JR常磐線・東北線等で活躍する最新型電車E721が無残な姿に・・・ 津波で押しつぶ
新地駅の津波 311常磐線 普通電車244Mの乗務員 原田晋明(はらだくにあき)は、JR東日本の電車の機関士である。 生まれは南相馬市原町区の雫(しどけ)。大甕小学校から原町第三中学校という学区の海辺に近い地域の生まれで、田園のなかの集落が点在する牧歌的な風景の中にある。地元の小高工業高校の電気科を卒業していったんは自動車部本を製造するライン工場の日本オートマチック・マシン(通称JAM)に就職したあと、父親の職業であった鉄道マンへのあこがれを諦めきれずに19歳でJR東日本を二度目に再び受験して合格・仮採用された。翌年二十歳で本採用されて電車の機関士になった。所属は原ノ町運輸区に籍を置いている。 2011年3月11日の朝にはいわき駅の現場に出勤。そこから仙台へ移動。原ノ町駅までの旅客乗務の始業となった。仙台と平の等距離・中間地点の原ノ町駅が運輸区の所在地であり、乗り換えとなる。歴史的な鉄道拠
まもなく東日本大震災から11年ですね…お亡くなりになった方のご冥福を心よりお祈り申し上げます。また、被害に遭われた方の一日も早いご快復と、今もなお不自由な生活を送られている方が平穏な生活を取り戻せるよう心よりお祈り申し上げます。東北地方を襲った巨大津波…沿岸部には多くの列車が停止していました。鉄道マン達は何を考え...
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