□ 原子爆弾(げんしばくだん)が投下(とうか)される前(まえ)の広島(ひろしま)には、美(うつく)しい自然(しぜん)がありました。 大好(だいす)きな人(ひと)の優(やさ)しい笑顔(えがお)、温(ぬく)もりがありました。 一緒(いっしょ)に創(つく)るはずだった未来(みらい)がありました。 広島(ひろしま)には、当(あ)たり前(まえ)の日常(にちじょう)があったのです。 昭和(しょうわ)20年(ねん)(1945年(ねん))8月(がつ)6日午前(むいかごぜん)8時(じ)15分(ふん)、広島(ひろしま)の街(まち)は、焼(や)け野原(のはら)となりました。 広島(ひろしま)の街(まち)を失(うしな)ったのです。 多(おお)くの命(いのち)、多(おお)くの夢(ゆめ)を失(うしな)ったのです。 当時小学生(とうじしょうがくせい)だった語(かた)り部(べ)の方(かた)は、「亡(な)くなった母(はは)
約10万人が亡くなった東京大空襲から72年となった10日、東京都慰霊堂(墨田区)で都慰霊協会主催の法要があった。秋篠宮ご夫妻や小池百合子都知事、遺族ら約600人が参列し、犠牲者を悼んだ。 僧侶らによる読経の後、小池知事はあいさつで、「東京は戦災と震災(関東大震災)で2度、焦土と化した。記憶を決して風化させることのないよう、後の世代にしっかりと受け継ぐ」と述べた。 慰霊堂では、朝から追悼に訪れた人たちが列をつくった。墨田区の田中英雄さん(81)は、家族と疎開せずに都内に残っていた父を空襲で失った。「いかに悲惨な出来事が起こったか、若い人たちも思い起こす日にしてほしい」。祖父を亡くした江戸川区の平野和子さん(80)は「逃げる途中、墨田区内で亡くなったと聞いています。おじいちゃんに会いたいな、話したいなと思い、お参りに来ました」と話した。(伊藤あずさ) ◇ 〈東京大空襲〉 1945年3月10日未
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