三十余年を過ぎてなお、その情景は細川親文軍医のまぶたに色鮮やかに焼き付いていた。 敗戦の前日、昭和二十年八月十四日の朝早く。彼の勤める第十八野戦兵器廠チチハル本部の営門に、魔のように飛び込んだ影がある。 将校一人と兵卒三人、いずれも埃まみれの軍服を着て、顔面を戦塵でどす黒く染めた、関東軍の面々だった。 「部隊長はおるか。砲をくれ」 一晩中馬を飛ばして来たのだろう。既に表情に鬼気がある。両眼を爛々と光らせて、将校は吼えるように呼ばわった。 「一〇サンチでも一五でもよい。三門でもよい。今すぐだったら興安嶺山脈でソ連軍を直撃できる。必ず食い止める。たのむ」 (Wikipediaより、十四年式十糎加農砲) 去る八日、ソ連は大日本帝国に宣戦を布告。翌九日午前一時を潮として、「八月の嵐」と名付けられた対日攻勢作戦を開始している。 餓狼の如き赤軍が、雪崩となって振り落ちて来たのだ。 戦局の悪化に伴って方
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