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ブックマーク / fox-moon.hatenablog.com (406)

  • 隼の特攻 ―占守島血戦綺譚― - 書痴の廻廊

    三十余年を過ぎてなお、その情景は細川親文軍医のまぶたに色鮮やかに焼き付いていた。 敗戦の前日、昭和二十年八月十四日の朝早く。彼の勤める第十八野戦兵器廠チチハル部の営門に、魔のように飛び込んだ影がある。 将校一人と兵卒三人、いずれも埃まみれの軍服を着て、顔面を戦塵でどす黒く染めた、関東軍の面々だった。 「部隊長はおるか。砲をくれ」 一晩中馬を飛ばして来たのだろう。既に表情に鬼気がある。両眼を爛々と光らせて、将校は吼えるように呼ばわった。 「一〇サンチでも一五でもよい。三門でもよい。今すぐだったら興安嶺山脈でソ連軍を直撃できる。必ずい止める。たのむ」 (Wikipediaより、十四年式十糎加農砲) 去る八日、ソ連は大日帝国に宣戦を布告。翌九日午前一時を潮として、「八月の嵐」と名付けられた対日攻勢作戦を開始している。 餓狼の如き赤軍が、雪崩となって振り落ちて来たのだ。 戦局の悪化に伴って方

    隼の特攻 ―占守島血戦綺譚― - 書痴の廻廊
  • 旧足和田村探訪記 ―西湖いやしの里根場― - 書痴の廻廊

    富士五湖が一つ、西湖の名は、長く絶滅種と目されていた「幻の魚」クニマス発見の功により、一躍全国に響き渡った観がある。 それ以前は最大(・・)でも最深(・・)でもないゆえに、これといって特色のない、人々の意識に上りにくい場所だった。 湖名の由来は単純に、河口湖の西に位置しているという地理的条件に過ぎないであろう。 北岳と同じく、何の飾り気もないその朴訥さに却って惹かれる数寄人もいる。 ――そんな西湖の北西に。 野外博物館「西湖いやしの里根場」は存在している。 昭和41年9月、台風災害によって壊滅的被害を喰らい、集団移転を余儀なくされた旧足和田村根場集落を現代に再現したものだ。御坂山地のあしもとに、まるで抱かれるようにしてたたずんでいるその有り様は、否が応にもこの国の原風景を仰ぐ想いを深くする。 清冽な小川のせせらぎに、竹樋を伝って落ちる水。 桶の中ではラムネが揺れて、また郷愁を誘うのだ。 立

    旧足和田村探訪記 ―西湖いやしの里根場― - 書痴の廻廊
  • 霊威あふるる和歌撰集 ―「神術霊妙秘蔵書」より― - 書痴の廻廊

    力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり。 古今和歌集「仮名序」からの抜粋である。 王朝時代の貴族らは、和歌の効能というものをこんな具合に見積もっていた。 要するに和歌さえ詠んでおけば、旱天に雨雲を呼ぶことも、また逆に長雨を吹き払うことも可能だし、それどころか愛し女の心を手に入れ、子孫殷昌を楽しむ願いもまた叶う。疫病退散、鬼神調伏、四海安全、天下泰平、なんでもござれ。まこと歌こそ万能である――。 彼らは一途にそう信じ、日夜せっせと作品づくりに勤しんだ。 ――斯くもありがたき三十一文字(みそひともじ)と。 やはり神秘の業を用いて世に様々な利福を齎す陰陽道とが、いつまでも無縁でいられるわけがなく。やがて両者は絡み合い、別ち難く融合してゆくこととなる。 その実例を、明治四十二年発行、『神術霊妙秘蔵書』に探してみよう。 ま

    霊威あふるる和歌撰集 ―「神術霊妙秘蔵書」より― - 書痴の廻廊
  • 贖罪と逃避の境界 ―あるトラック運転手の死― - 書痴の廻廊

    事のあらましは単純である。 子供が轢かれた。 トラックの車輪と地面との間に挟まれたのだ。 無事でいられるわけがない。 搬送された病院で、翌日息を引き取った。 運転手は、真面目で責任感の強い好漢だった。 それだけに罪の意識もひとしおだったに違いない。やがて堪えられなくなって、海に身を投げ自殺した。 場所は、大島沖であったという。 事故発生から自殺までの数日間。運転手がつけていた日記帳が遺されている。 昭和十二年刊行、島影盟著『死の心境』からその部分を抜粋したい。 五月三十一日 今日は何といふ極悪の日だったらう。ペンを持つさへ恐しい。当時の記憶がまざまざと頭に走馬燈の様に浮び出て来る。一層(いっそ)、菊丸からでも投身自殺でもしようか。そしてせめて保険金で十分の慰藉は出来ぬにしても、出来るだけのことをしてもらはうか。それを想ふとき、父、母、兄、姉、弟と次々にその顔がフィルムのやうに現れる。どんな

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  • 切腹したキリスト教徒 ―排日移民法への抗議― - 書痴の廻廊

    大正十三年五月三十一日の陽が昇るや、榎坂にある井上勝純(かつずみ)子爵の屋敷はたいへんな騒ぎに見舞われた。 庭に、異物が出現している。 死体である。 白襦袢に羽織袴を着付けたひとりの中年男性が、腹を十文字に掻っ捌き、咽喉を突いてみずからつくった血の海に、うつ伏せに沈んでいたのであった。 (Wikipediaより、井上勝純) 「昨晩まで、確かにこんなものはなかった」 深夜、闇に紛れて侵入し、自害したのは疑いがない。 しかし何故、この庭先で――? 彼の面相を見知る者は誰もなかった。 疑念は死骸の前に置かれた遺書によって明かされる。宛先にはサイラス・E・ウッズ――現職の米国大使の名前が。 内容は、ほんの数日前合衆国大統領クーリッジが署名した、所謂「排日移民法」に対する抗議であった。 余が死を以って排日条項削除を求むるのは、貴国が常に人道上の立場より、平和を愛好唱道せられ、平和指導者として世界の重

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  • 続・太平洋風雲録 ―白船来る― - 書痴の廻廊

    2022年4月より、ハーメルン様に転載させていただいております。 果然、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。 日のみならず、アメリカ社会までもが、だ。 ――宣戦布告に等しい所業ではあるまいか。 主力艦隊を太平洋側に廻航するということは、である。 ――ハーグ国際平和会議を主導した立場でありながら、敢えてそのような挑発的行為に踏み切れば、世界はどんな眼を向けるであろう。 ダブルスタンダードを危惧する声もちらほら上がった。 が、 「予は運河区域をとった。そして議会をして討論せしめた。討論がなお進んでいる間に、運河も進んだ」 パナマ運河にまつわるこの格言からも窺える通り、元々セオドア・ルーズベルトとは、めだって剛腕な政治ぶりのある男。 一旦やると決めたなら万難を排して突進する、ある種猛牛的気質を有する。 このときも、その特性が遺憾なく発動されたものらしい。エリフ・ルートに書簡を送付してからおよ

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  • 太平洋風雲録 ―明治末期の日米間危機― - 書痴の廻廊

    2022年4月より、ハーメルン様に転載させていただいております。 日米開戦の危機というのは、なにも昭和に突入してからにわかに騒がれだした話ではない。 満州事変の遥か以前、それこそ明治の昔から、大真面目に論議され検討され続けてきたテーマであった。 サンフランシスコ・コール紙などは1906年10月に「If Japan should attack us」なる記事を載せ、いざ事が起きた場合の予測を披露。それによれば、サンフランシスコはいっとき日軍の占領下に置かれようが、やがてアメリカはこれを回復、軍艦を進め太平洋の向こう側まで逆撃し、日列島の港湾という港湾を悉く封鎖。 ついには陸軍を上陸せしめ各都市を制圧、終極の勝利を飾るであろう――こんな具合に結んでいる。 旭日旗がサンフランシスコの街路を練り歩く挿絵までつけて、なんともセンセーショナルな報道だ。これを見た市民は、勢い日への敵愾心と危機感

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  • アメリカ草創期の小話 ―エンプレス・オブ・チャイナ号― - 書痴の廻廊

    ワシントンの誕生日にまつわる小話でもしてみよう。 平岡熙の例の逸話に触発されての試みである。 ジョージ・ワシントン。 「アメリカ建国の父」として不朽の名を青史に刻んだこの人物が誕生したのは、1732年2月22日、今で云うバージニア州ウェストモアランドに於いてであった。 それから半世紀ばかり時間を飛ばして、1784年2月22日。 ワシントンが52歳を迎えたこの日、一隻のクリッパー船がニューヨークを出航している。 船名は、エンプレス・オブ・チャイナ号。 持ち主の名はロバート・モリス。 やがて米中貿易の草分けとして語り継がれる、一番最初に両国間を往来した商船だった。 積荷はおよそ50トン。うち10トンを毛皮・呉絽・綿花・鉛・胡椒等が占めており、では残り40トンは何かというと、これがニンジンだったというからなんとも意外な感に打たれる。 もっともニンジンとは言い条、爽やかなオレンジ色をした、卓の常

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  • 長禄の江戸、慶長の江戸 ―古地図見比べ― - 書痴の廻廊

    かつての江戸の民草は、台風の接近を察知するとはや家財道具を担ぎ出し、船に積み込み、その纜(ともづな)を御城近くの樹々の幹に繋いだという。 高潮来れば、この一帯は海になる。 狂瀾怒涛渦を巻き、人も家も噛み砕いては沖へと浚う荒海に、だ。 無慈悲な自然の暴威に対し、せめてもの抵抗を試みるならそれしかなかった。家康公が入府して、土地自体に抜的な改革を施すまでこの習慣(ならわし)は続いたという。 当時の江戸がどれほど海にほど近く、そこいらじゅう沼沢だらけの湿った土地であったか示す、格好の逸話であるだろう。このことについては、既に幾度も触れてきた。 近頃購(もと)めた『丸ノ内 今と昔』(昭和十六年、冨山房より発刊)の効により、このあたりの智識が更に補強されたので記したい。 何はともあれ、まずはこれを見て欲しいのだ。 長禄年間、太田道灌が築城してから間もない江戸の地図である。 ところどころに漁村が点在

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  • 平岡熙ものがたり ―春畝と吟舟― - 書痴の廻廊

    まだある。 洋行を通して平岡熙が積み上げたモノは、だ。 人との縁も、彼はこのとき手に入れた。 平岡がまだボストンで、素直に学生をやっていたころ。総勢107名もの日人が、この大陸にやって来た。 世に云う岩倉遣欧使節団のことである。 (Wikipediaより、岩倉使節団) 尊王攘夷を名目に徳川幕府をぶっ倒し、事が成るやその直後、さっそく看板を取り替えて、鎖国を解除し近代国家を目指しはじめた新政府。その手並みは鮮やかとしかいいようがないが、さて文明とは、国家とは何かということになると、どの男にも定見がない。 海図も羅針盤もなく、突如大海原に放り出されたみずからに、漸く彼らは気が付いた。 (まずい。どうにもまずい状況だ) 漂流の恐怖から脱出するには、せめて岸のある方角くらい知らなければどうにもなるまい。 ということで、彼らは見に行くことにした。自分達の到達すべき「文明」とやらが如何なる相をしてい

    平岡熙ものがたり ―春畝と吟舟― - 書痴の廻廊
  • 平岡熙ものがたり ―その血筋― - 書痴の廻廊

    そも、平岡の家系をたどってみると、その遠祖は家康公が関八州に入府した折、江戸城御掃除番を担当していた平岡庄左衛門まで遡り得る。 「河内国に鎮座まします平岡大明神に縁因(ゆかり)ある者」 と称したらしいが、なにぶん戦国時代の話、どこまで信用していいものか。 兎にも角にもそれ以来、幕臣として代々禄に与り続けた。 (Wikipediaより、枚岡神社拝殿) やがて幕末に逢着したとき、当主は第十三代目、平岡熙一(きいち)なる男。名前からおおよそ察せる通り、平岡熙の父親である。 この男はこの男で、息子に負けず劣らずの「出世魚」に他ならなかった。一介の御家人から出発したにも拘らず、たちまち才能を見出され、御目付・御留守居役といった諸役に歴仕。ついには田安中納言――「十六代様」徳川家達の父親である――の附家老にまで登り詰め、江戸城明け渡しの談判の席にも同坐したというのだから、尋常一様の器量ではない。 無血

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  • 平岡熙ものがたり ―巾着切りか大老か― - 書痴の廻廊

    大正帝が未だ明宮(はるのみや)殿下と呼ばれていた年少の折。 御巡覧あそばされた鉄道局にて、特に脚を留め置かれた一室があった。 その部屋には、未来(・・)が溢れていたのである。日どころか米国にも未だ存在しないであろう、新発想の機関車・客車・貨車の模型――。 (岡帰一 「桃林」) (なんと) 意匠美麗にして仕掛けは稠密。この手の品が少年の心にとりわけまばゆく映るのは、今も昔も変わらない。 興奮した面持ちで、扈従の者を引き寄せた。 ほそぼそと、なにごとかが囁かれる。 ほどなくして部屋の主が呼びつけられた。彼の名前は平岡熙(ひろし)。新橋工場の設営や、東京―横浜間の複線工事で辣腕をふるった技師だった。 「殿下は其方の模型をいたくお気に召されたようである」 このように仰せつかったならば、感激してどうかお部屋の片隅にでもと自ら差し出すのが当時に於ける常識だろう。 ところがこの平岡熙なる男、元服前は

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  • 東北地方地獄変・後編 ―末法世界― - 書痴の廻廊

    2022年4月以降、ハーメルン様に転載させていただいております。 …卯年飢饉に及び、五穀既に尽て千金にも一合の米も得る事能はず、草木の根葉其外藁糠或は、犬牛馬鼠鼬に至るまで、力の及程は取尽して尽して、後には道路に行倒、みちみちたる死人の肉を切取ふ事になりけるに、是も日久しく饑て、自然と死したる人の肉ゆえ、既に腐たる同然にて、其味甚あしく、生きたる人をうち殺しふは味も美なれば、弱りたる人は殺してふも多かりしなり。 宿の主人は訥々と語った。まるで腹の底に溜まった「何か」を、少しづつ千切り捨てでもするかのように。 それも仕方ない――話す内容が内容である。 「この近くにも家人ばたばたと死に続け、とうとう父と息子だけになった家というのがございましてな」 こんなことをにたにた(・・・・)笑み崩れながら喋れるやつが居たならば、そちらの方が不気味であろう。人間性に欠陥がある。少なくとも私なら、

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  • 東北地方地獄変・前編 ―骨の大地― - 書痴の廻廊

    2022年4月以降、ハーメルン様に転載させていただいております。 東北地方が定期的に地獄と化する場所というのは、以前の記事で僅かに触れた。 この土地――特に岩手・青森・秋田の三県に於ける農業は、五年のうち一年は大飢饉、二年が飢饉、残り一年が平作あるいは豊作という上代以来のサイクルを、つい最近まで延々繰り返していたのだと。 それゆえか、彼の地方には他に見られぬ特異な文化が根付いてもいる。保存の発達が著しいのだ。干し菊などは、今でも青森の名産として名が高い。 秋、黄菊の花を採取して、蒸し上げたあと型に入れて天日に晒し干しあげる。蒸し過ぎると黒く変色してしまうので、そのあたりの加減がなかなかどうして難しい。慣れを要する。 出来上がった干し菊は胡桃や胡麻の和え物にしたり、ひたし物にしたりして、特に冬から春への物になる。栄養価は意外と高い。東北の花でないと苦くて喰えたもんじゃないとは古老の言

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  • 掏摸物語 ―吉村・徳富・伊藤の反応― - 書痴の廻廊

    指先の精妙なるはたらきに命を懸ける掏摸(スリ)師ども。この連中がもっとも精力的に活動するのは七・八・九月、太陽光線が痛いほどに肌を焼く、そう、ちょうど今日のこの日のような頃合いにこそ於いてであった。 明治・大正期の話である。 暑中休暇を利用して帰省せんと目論む者や、涼を求めて田舎へ避暑に出掛ける輩。そうした手合いで汽車は軒並み混雑し、乗客同士の接触が不自然ではなくなれば、彼らの仕事もやり易くなる。衣類が薄くて懐具合がよく分かるのもポイントだ。中には一度掏摸行為をはたらいた後、中身だけをごっそりいただき、軽くなったその財布を元の通り戻し置く、妙ちくりんな「熟練者」まで居たという。 夏目漱石に薫陶を受けること甚大だった物理学者にして随筆家、吉村冬彦こと寺田寅彦が懐のものを盗まれたのも、やはり夏の盛りに於いてであった。 なんでもその日、寅彦は、伊香保榛名を見る目的で自宅の門を出たという。評判を聞

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  • 非常時に於ける詩人の貢献 - 書痴の廻廊

    十徳の一つ、「毎號大家の傑作を満載するキング」そのままに。 「非常時国民大会」は少なからぬ文化人の力添えあって完成している。 それは漫画家のみならず、詩人もまた同様だ。 北原白秋、篠原春雨、土井晩翠、川路柳虹――実に豪華な顔触れである。 折角なのでめぼしい作品を幾つか撰び、ここに掲載させてもらうとしよう。 【川柳】 君が代に 九千萬の 気が揃ひ (谷孫六) 日中 皆楠に なった気で 決死隊 命を三(み)つも 四(よ)つも持ち (井上剣花坊) 【都々逸】 海の外まで桜を咲かせ 今年ゃ肩身の広い春 見たか張さん手並みのほどを 伊達にゃさゝない日刀 (中内蝶二) 張さんとは、十中八九張学良のことだろう。 書が出版された昭和八年、日軍は熱河作戦の遂行により、彼の勢力を山海関の向こう側へと追っ払っている。 親は畑(はた)打つ嫁藁を打つ 主(ぬし)は御国の敵を討つ 日可愛の一念凝って 今日も

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  • 百折不撓の体現者 ―大谷米太郎の野望― - 書痴の廻廊

    青雲の志やみがたく。富山県西部、草ぶかい西砺波郡の田舎から大谷米太郎が念願の上京を遂げたのは、明治四十五年四月二十四日のことだった。 懐は寂しい。十銭銀貨が二枚入っているだけに過ぎない。 むろん銀行預金などある筈もなく、正真正銘、これが彼の全財産に相違なかった。 (Wikipediaより、十銭銀貨) 齢三十一にもなって、これはなんということであろう。彼の半分も生きていない学生の月の小遣いにさえ、あるいは劣るのではなかろうか。 学生といえば、大谷はろくに学校へも通っていない。物心ついたときにはもう小作人として働きに出され、汗と泥に塗れていた。 貧農の家に生まれた者の、どうしようもない現実である。 牛馬の如く酷使される毎日。この状況下で、しかし脳内まで牛さながらに鈍磨せず、 ――いつかは。 やがていつかは功成り名遂げ、日に大谷米太郎ありと仰がれるだけの大人物になってやる、と。 野心を忘れるこ

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  • 昭和八年の「キング」十徳 ―諷刺画を添えて― - 書痴の廻廊

    キング十徳 ○面白い点では天下第一のキング ○楽しみながら修養出来るキング ○世の中のことは何でもわかるキング ○読者のためには努力を惜しまぬキング ○毎號大家の傑作を満載するキング ○いつも新計画で天下を驚かすキング ○どんな人にもよろこばれるキング ○国を良くし家庭を明るくするキング ○創刊以来雑誌界の覇王キング ○どこまでも発展して行くキング 大日雄弁会講談社発行、「キング」昭和八年五月號附録、『非常時国民大会』冒頭に掲げられている条々だ。 なんと景気のいい、大風呂敷であることか。 どうせ見栄を張るのなら、これぐらいデカデカと張るべきだ。 そして事実「キング」には、これを言う資格があるだろう。なんとなれば「キング」こそ、日ではじめて出版部数百万を超え、「一番読まれた雑誌」の栄冠を恣にしたレーベルだからだ。 俺たちこそが社会を、国を牽引してやると言わんばかりの気宇壮大さは、真に見習

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  • 日立造船所の苦闘 ―松原與三松の鐘― - 書痴の廻廊

    鐘一つ 売れぬ日もなし 造船所 戦後まもなくの日立造船所を題材にした歌である。 宝井其角の古川柳、 鐘一つ うれぬ日はなし 江戸の春 を、あからさまにもじった(・・・・)ものであるだろう。 それにしても何故(なにゆえ)に、造船所が鐘など鋳ねばならぬのか。答えは明瞭、敢えて論ずるまでもない。敗戦以降、来の仕事が全く入って来なくなった所為である。 軍の解体ばかりではない。マッカーサー・ラインの制定、船舶保有量150万総トン以下方針――煩雑の弊に陥るゆえ詳述は避けるが、敗北した日は、その代償としてありとあらゆる権利を縛られ、まったく海を(・・)奪われた(・・・・)。 およそ島国にとってこれほどみじめな境遇もない。 海運の立ち直りは絶望的、遠洋漁業も遠き日の夢。このような悲惨な状況で、造船所にお呼びがかかる道理もなかろう。日立造船所八代目社長・松原與三松(よさまつ)は当時を顧み、 「暗黒時代」

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  • 黒田清隆の配偶者・後編 ―小人の妬心、恐るべし― - 書痴の廻廊

    実に多くの東京市民が、彼と、彼の邸宅に、羨望のまなざしを送ったものだ。 材木商、丸山傳右衛門のことである。 ときに「金閣寺擬(まが)い」と揶揄されもしたその屋敷の結構は、山笑月の『明治世相百話』に於いて特に詳しい。 建坪はさまで広くないが総て唐木造り、一階大広間の九尺床は目の覚めるような紅花櫚の一枚板、左右一丈二尺余の大柱は世にも珍しい鉄刀木の尺角、上から下まで精密な山水の総彫、多分は堀田瑞松あたりの仕事であろう。この柱一で立派な邸宅が建つという代物。左右のわき床は紫檀黒檀の棚板、三方の大障子は花櫚の亀甲組白絹張りで、開閉にも重いくらいの頑丈造り、一間幅の回り縁は欅の厚板、天井は三尺角樟の格天井、いや全くお話ですぞ。 (明治十九年以前の金閣寺) 如何に富強といえど、商人がこれほどの豪邸を拵えるなど、門構えひとつにすら一々厳格な規定のあった江戸時代では考えられぬ、新政府治下ならではの、あ

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