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tmjaさんpostに関するscene-no-mottainai-blogのブックマーク (125)

  • 菅沼キャンプ村に家族でバンガロー泊。電気もねぇ、電波もねぇ - 青い滑走路

    すでに二年程前になりますが、家族で群馬県片品村にある「菅沼キャンプ村」に遊びに行ってきました。日光東照宮で有名な日光から国道120号線を辿り、いろは坂、中禅寺湖、戦場ヶ原と著名な観光地を辿りながら標高を上げて行きます。上の写真は国内で最も高い位置(1,843m)にあるトンネル「金精トンネル」から湯ノ湖、男体山方面の眺めた景色。綺麗に舗装された自動車道が整備されてみるので難なくクルマで快適に来れましたが、数百年前であれば人を寄せ付けない山間部であるのが容易に理解できる場所です。 上の地図の赤マル印が宿泊地の「菅沼キャンプ村」がある場所になります。群馬県と栃木県の県境にあたり、関東で唯一の特別豪雪地帯に指定されている片品村でも特に積雪が多く、冬季は交通が完全に遮断(国道120号線も冬季閉鎖)される厳しい場所です。赤マル印の少し南には深田久弥氏の有名な100名山のひとつ、日光白根山(2,578m

    菅沼キャンプ村に家族でバンガロー泊。電気もねぇ、電波もねぇ - 青い滑走路
  • 間伐材の伐採、薪割り。子供向け林業体験に参加してみました - 青い滑走路

    埼玉県北西部に広がる秩父地方は東京、山梨、長野、群馬と国境を接する場所にあり、市域のおよそ9割は森林に覆われており、多くは秩父多摩甲斐国立公園や埼玉県立公園の区域に指定を受ける緑豊かな地方です。我が家は秩父には何かと縁があり、今回は現地で開催された環境教育イベントに空きがあり家族で参加させて頂いたという話しとなります。 令和初日は秩父での集まり。約束時間を30分過ぎても我が家4人しか来てない...さすがは秩父(*´艸`*) pic.twitter.com/nBs5qSswkQ — たまパパ (@akabekosan) May 1, 2019 4-500年の歴史ある手作り農民ロケットを飛ばす「龍勢祭り」で有名な下吉田地区。その下吉田地区を通り過ぎた更に西の上吉田にある「山逢の里キャンプ場」が集合場所でした。首都高から関越経由で北側より秩父盆地に向かい、自分達がよく訪れる小鹿野に行く手前。自宅

    間伐材の伐採、薪割り。子供向け林業体験に参加してみました - 青い滑走路
  • 田儀櫻井家たたら製鉄遺跡(宮本鍛冶屋跡)を訪れてみた - 青い滑走路

    島根県中部に奥出雲の製鉄御三家である田部家、櫻井家(仁田家)、絲原家に継ぐ家各を持ったと云われる田儀櫻井家の拠点であった江戸時代のたたら遺跡群があると山口県にある大板山たたら遺跡で教わり、仕事の隙間をみてやって来たのでした。上の写真は日海に面する田儀港で、現在は土砂の積み込み作業や漁業に用いられていますが、砂鉄を原料として製鉄をおこなっていた頃には砂鉄や製品である鉄塊の運搬がなされた港でした。たたら遺跡巡りには絶好の晴天(*´艸`*)ウシシ 地図で示すと上のような位置(赤マル位置が田儀櫻井家のたたら遺跡の中心地・宮)にあります。島根半島の最も西側には全国的に名高い出雲大社があり、その南に広がる出雲平野には須佐之男が天上より降り立った船通山より流れ出る斐伊川が流れて宍戸湖に注ぎ込んでいます。そこから道程にして30キロほど西へ向かった山中にあるのでした。田儀櫻井家は宮の大鍛冶場を中心に

    田儀櫻井家たたら製鉄遺跡(宮本鍛冶屋跡)を訪れてみた - 青い滑走路
  • タイ王国北部、村中が鍛冶屋の「パーサクターイ」集落訪問 - 青い滑走路

    タイ王国で刃物の街としてはアユタヤ北部のパーサク川沿いにある、ラオスやベトナムから昔に移住してきた人達の子孫が住むアヤンニック鍛治村がタイ国内外で有名ですが、今回はアユタヤから北に向かう事500キロ程、`雲南省(中華人民共和国)との国境にからも遠くない地域にある小さな集落「パーサクターイ」に初めて訪れた時の話しとなります。タイの鍛冶文化は多彩で、アユタヤ王朝時代からの伝統を守る鍛冶屋から、日製の打ち刃物(包丁)を専門に扱うお店もあったりします。タイの刃物マニアのひとりからパーサクターイ集落の話しを聞き興味を持ち、おおよその所在地の目星を付けて乗り込んだのでした。 パーサクターイ集落に入ったところです。村内には30ほど家族が住んでおり、同じ数だけ鍛冶場があるそうです。事前に約束をして待ち合わせをしていたドライバーさんに出発する前に行先の確認をしたのですが、「そんな場所は行ったことも聞いたこ

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  • 越後与板打刃物匠会のイベントで 「切り出し小刀」鍛冶屋体験 - 青い滑走路

    「切り出し」と言われてもピンとこず、ナイフですら鉛筆を削った事のない息子に「切り出し小刀」の鍛冶体験をさせたてみた話しになります。切り出しは鋼板先端に斜め刃を付けたもので、身近なモノでは鉛筆を削るのような木工での使用の意図としたものです。現在では簡易な鉛筆削りが普及しており、カッターナイフで鉛筆を削るのも珍しい時代となり久しいのですが、昭和中頃までは切り出しで鉛筆を削るのは一般的だったそうな。 トンチンカンと叩いて金属を求めるカタチに自在に変える鍛冶屋は今世紀に入る前に斜陽な業態となり、多くは鉄工所等に衣替えをしていきました。自分達の身の回りにある金属製品の多くは手で打ったものではなく、名もない機械が作り出した大量生産品ばかしです。切り出しどころかカッターすら無くなりそうな時代ですので、建築で使用する大工道具も手工品は消えていく方向に確実に進んでいます。かつては集落ごとに野鍛冶がおり、関や

    越後与板打刃物匠会のイベントで 「切り出し小刀」鍛冶屋体験 - 青い滑走路
  • 京町屋ならではの趣きが感じられる宿「十四春旅館」さん - 青い滑走路

    京都へ仕事の出張にて1泊2日で出掛けました。2019年1月。コロナのコの字もまだ見聞きしない頃で、京都は訪日外国人の急増で環境汚染ならぬ"観光汚染"とも揶揄される程に沢山の外国人旅行者を目にしました。京都駅から予約している宿を目指して歩き、東願寺でいつも此の辺りで目にするアオサギ達と暫しの再会を楽しみました。 東願寺のお堀には人に慣れたアオサギ達がおり、昼間は鴨川等で餌を見つけ、夜はこの辺りで過ごしているのだと聞いた事があります。餌付けをしている人達もいるらしく、30センチ程まで人が近付いても逃げる素振りもみせません。市内中心部で見られるのが新鮮に映るのか、鷺達は旅行客の格好の撮影モデルとなっているようでした。 「坊さん頭は丸太町、ツルッとすべって竹屋町、水の流れは夷川♪」と京の数え唄を口にして、自分の覚えている歌詞の最後となる高辻通と松原通を表す「高が知れてる、松どしたろ♪」の南、そ

    京町屋ならではの趣きが感じられる宿「十四春旅館」さん - 青い滑走路
  • 昭和初期百貨店様式の宿・シタディーン大阪 (旧 松坂屋大阪店) - 青い滑走路

    大阪に出張で行って参りました。令和二年の冬、まだGo Toトラベルが実施された時期(出張なので適応外)で、1泊2日の旅程で出掛けました。上の写真は大阪一の目抜き通り・御堂筋の南端にあたる南海なんば駅前に立つ大阪髙島屋。この髙島屋は旗艦店(店)と位置づけられている店舗で、地域の顔となる建物ともなっています。今回宿泊したのは松坂屋大阪店として昭和九年(1934)に建てられ、戦後に高島屋へ譲渡された経緯を持つ大阪髙島屋の東別館を宿泊施設に転業させたホテルでした。元百貨店のホテルというのはなかなか珍しい... 戦前の大阪の南北に走る目抜き通りは御堂筋から東に一隣りの堺筋でした。大正時代には三越、白木屋、髙島屋、松坂屋と百貨店も次々と開業し、大大阪の賑わいを象徴していた場所です。上の地図で赤マルを付けたのが大正十二年(1922)に木造三階建てで営業開始した松坂屋の場所で、増改築を繰り返して拡張を

    昭和初期百貨店様式の宿・シタディーン大阪 (旧 松坂屋大阪店) - 青い滑走路
  • 慰霊の森、全日空雫石衝突事故現場に設けられた記憶の場 - 青い滑走路

    岩手県の県庁所在地・盛岡市の隣に位置する雫石市に行って参りました。国内最大の航空事故となった御巣鷹山の事故が昭和六十年(1985)に起こってしまうまでは国内最大の航空機事故(死者162名)だった「全日空機雫石衝突事故」の犠牲者を追悼する施設「慰霊の森」が岩目山の森のなかに設けられており、一度訪れてみたいと思っていたのでした。 全日空機雫石衝突事故は昭和四十六年(1971)7月30日午後1時33分に羽田空港に向かって千歳飛行場を出発した全日空58便と、松島基地(赤星マーク)を出発して飛行訓練をおこなっていた自衛隊機が雫石上空8,500メートルで空中衝突をしてしまい、全日空機に乗っていた乗員・乗客併せて162人が亡くなった惨絶な事故でした。高度成長期の万博が前年にあり、航空機を使用して遠方に出掛けるのも一般的なものとなり、航空業界は連日満席が続く活況を見せていた頃でした。 上空1万メートルを北

    慰霊の森、全日空雫石衝突事故現場に設けられた記憶の場 - 青い滑走路
  • 御巣鷹の尾根、日航123便事故の犠牲者が眠る静かな霊山 - 青い滑走路

    昨年の夏、家族4人で群馬県上野村を訪れました。上野村の中心部を通る国道288号線は埼玉県・秩父方面から長野県へと抜けるルートで自分達夫婦には馴染みがあり、その途中にある上野村の道の駅には度々お邪魔していたりした。今回は通称「日航ジャンボ機墜落事故」で知られる事故現場となった「御巣鷹の尾根」が目的地です。前々から一度訪れてみたいと思っていたのですが、軽いハイキングが必要となる山道と聞いており、娘が対応できる年齢になるまで待っていました。御巣鷹の尾根は子供2人は初めての訪問となりました。 520人の犠牲者をだすことなった日航ジャンボ機事故は思い出せる自分の最も古い記憶のひとつで、テレビでその非常事態の重大さを繰り返し放送され、乗客名簿が永遠と読み上げられていたのが脳裏に浮かびます。現在から10年以上は前のことですが、はが友人との登山旅行で長野県に夜間向かう途中、上野村周辺で鳴り止まない消防車

    御巣鷹の尾根、日航123便事故の犠牲者が眠る静かな霊山 - 青い滑走路
  • 南三陸ホテル観洋宿泊と大川小学校訪問、伸びゆく命に光あれ - 青い滑走路

    ちょうど1年程前になりますが、家族で宮城県南三陸町を訪れました。福島県に行く機会の多い我が家では10年前の東日大震災と云えば原発事故の印象が強く、津波被害はより北側で起きたとの印象をと子供達は持っているようでした。機会があれば青森県八戸から三陸海岸をつたって仙台まで南下しようと考えていたのですが、より子供達にはテーマが"重すぎる"と言われてしまい旅程を大幅短縮した上で浜通りを北上しました。上の放射線量1.2マイクロシーベルト/時間は助手席に座っていた息子が撮影しています。 1泊のみですが南三陸町の志津川湾に面した「南三陸ホテル観洋」さんに宿を求めました。リアス式海岸の内湾にある崖の上にあるために美しい海に囲まれた絶景が楽しめ、まるで豪華客船にいるようだと評される景観を誇るホテルです。三陸で広くビジネスを展開されている阿部長商店グループのホテルで、気仙沼にある同系列の気仙沼ホテル観洋/

    南三陸ホテル観洋宿泊と大川小学校訪問、伸びゆく命に光あれ - 青い滑走路
  • 吹けよ春風白根のまちに、勇壮な白根大凧合戦にスポンサーで参加 - 青い滑走路

    だいぶ時間が経ってしまいましたが、家族三世代旅行で新潟県を訪れました。目的地は新潟市南区で平成の大合併前までは白根市と呼ばれていた地域です。新潟空港着陸前に写した上の写真には手前に中ノ口川、奥に信濃川が映っており広大な穀倉地帯が広がっており、手前右側に映る河川沿いが白根の集落です。クネクネと蛇行して日海へと向かう中ノ口川の右岸に白根(旧新発田藩領)、左岸に味方(旧村上藩領)と川を隔てて国境だった経緯があり、現在でも年に一度の大凧を用いた”大喧嘩”がなされている場所だったりします。 その味方側にある公民館のひとつにクルマを停めました。訪れる半年程前から此方の方とやり取りをしており、この日に訪問するとは事前に連絡をしていました。訪れたのは、ここに製作をお願いをしているモノがある筈だからです。宴会をおこなっている賑やかな声が聞こえる建物の中に声を掛けると、やり取りをしていた方が偶然にもおられ、

    吹けよ春風白根のまちに、勇壮な白根大凧合戦にスポンサーで参加 - 青い滑走路
  • 三国第一山・富士山、岳麓の奇祭「吉田の火祭り」 - 青い滑走路

    家族で山梨県に行って参りました。訪れたのは山梨県南東部にある富士吉田市で、我が家の富士山のカタチをしたマスコット人形達+赤ベコさんをクルマのダッシュボードに載せて物の富士山にご挨拶をしました。この地域は富士急ハイランドや河口湖などの著名な観光地がある為、東京の城西地区で育った自分には身近に感じる場所だったりします。 富士吉田市は日一を誇る富士山の北麓、富士山の噴火による堰止湖である富士五湖の河口湖と山中湖の間に位置する町です。北麓域は高冷地であり火山灰地でもあるので稲作には適さず、養蚕と富士の湧き水による織物を主産業としてきた地域で、現在でも織物業が町の基幹産業となっております。 富士吉田は富士山を信仰対象とする富士講にて、拝登をする代表的な4つの登り口のひとつ、富士北口の拠点としても有名です。江戸から3日、富士山登頂に2日、帰路3日の合計8日程の道中。吉田町では宿と事を供し、教義の

    三国第一山・富士山、岳麓の奇祭「吉田の火祭り」 - 青い滑走路
  • 芝愛宕山の急勾配な石段を神輿が登る、愛宕神社「出世の石段祭」 - 青い滑走路

    東京港区にある愛宕神社。各地の武将に軍神として信仰された勝軍地蔵を勧請して、徳川家康の命にて慶長八年(1603)に建てられた神社で、江戸で最も高い25.7mの天然の山(愛宕山)の上にあります。写真に映る階段を登り切った一の鳥居の右手には三角点が置かれており、現在でも東京23区内では現在でも最も高い地点となっております。 上の夕景は京都迎賓館に飾られている愛宕山を撮影したものです。愛宕神社の総社は京都市の西北、丹波との境に聳える標高890mの愛宕山にあります。役行者と白山の開祖として知られる泰澄が神廟を建てたことを起源とし、山岳修験の場も名高く、その修験行者達が全国に広めた事にもより全国で千社にもなる愛宕神社が祀られています。東京港区の愛宕神社はそのなかでも名高い神社とて知られています。 その港区・芝にある愛宕神社はこのような場所(上の赤マル箇所)にあります。写真上部中央は皇居宮殿で、その

    芝愛宕山の急勾配な石段を神輿が登る、愛宕神社「出世の石段祭」 - 青い滑走路
  • 安来にどうじょ。猫(どじょう)すくいに挑戦してみました - 青い滑走路

    島根県に家族で行って参りました。島根は神代からの名を冠する地名が現在も多く残る"神話の故郷"とも呼ばれる歴史の古い土地で、近代では国内生産の9割にも及ぶ鉄生産シェアを誇り、北前船の出荷港である安来湊は大変な賑わいをみました。島根県内にて今回最初に訪れたのは安来市で、日一と名高い庭園のある足立美術館の近くにて、安来節(男踊/どじょうすくい)体験ができると聞きやって来たのでした。 ベベンとの2枚撥がこれでもかと盛り込まれた安来節は江戸末期に安来の花街に生まれたと伝わり、大正期には大阪・吉興業を初めとして東京でも大ブームをもって迎えられた事により全国的に知られる新民謡です。座敷で生まれたと言われる安来節はもっと猥雑な即興唄だったものが整えられたようで、現在最も一般的に歌われる歌詞は「安来千軒 名の出たところ 社日桜に 十神山」等の土地の有名どころが沢山盛り込まれた"観光歌"となっております。

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  • 萩市に残る遊郭建築の宿、旅館・芳和荘(ほうわそう) - 青い滑走路

    もう2年以上経っていますが、山口県北部にある萩市を以前に訪れました。日海を望む萩市は毛利家の治めた長州藩の城下町で、明治維新に活躍した人々縁の地や武家/町屋/寺社建築が空襲を受けなかった為に多く保存されており、萩市は古地図で散策ができると称される程に情緒溢れる町として有名です。平成二十七年には「明治日の産業革命遺産」として萩の城下町を含む複数の市内の史跡が世界遺産に登録され、観光客が押し寄せたニュースもまだ記憶に新しいところです。 阿武川の河口にできた三角州にある萩は、萩城を含む西側の「城内」、三角州を東西に分ける新堀川の北側に設けられた「町屋」、その南側に広がる「武家屋敷」と他の城下町同様に3つのエリアから成り立っていました。自分が萩市で今回宿泊したのは町屋地区の外れだった場所(三角州の端っこ、上地図で青星マーク)で、遊郭の貸座敷として建てられた建物を利用した旅館でした。 現在萩橋が

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  • 大和郡山市所有の遊郭建築・旧川本楼(町屋物語館)を見学 - 青い滑走路

    1泊2日の関西出張にて奈良県・大和郡山市を訪れました。最初に立ち寄ったのは創業天正十三年(1585)の老舗和菓子屋・菊屋さんで、新市庁舎の工事をしている大和郡山市庁舎の目の前にあるお店です。天正十三年は豊臣秀吉が関白となった年で、秀吉公が「鶯」と名付けた「御城之口」が現在でもお店では売られていたりします。 粒あんをで包み、きな粉をまぶした御城之口と定番の菊之寿、寒天に色付けした琥珀糖の金魚菓子等を午後の集まりにと買い求めてみました。奈良県には門前町や寺内町は数多くあれど、城下町は珍しく大和郡山は異色な存在です。自分は縁が有りしばしば訪れる場所なのですが、菊屋の店にお邪魔したのはまだ2回目だったりします... 大和郡山を出発すべき時間まで1時間ほど余裕あったので、市役所から2-300メートルのところにある「洞泉寺町」を散策してみることにしました。5年程前になるのでしょうか?  この

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  • ANA4761/ADO62(羽田→帯広)遥か日高の麓、十勝野へ - 青い滑走路

    実質的に全日空の傘下にあるエア・ドゥは主に首都圏と北海道(千歳、旭川、函館、帯広、釧路、女満別)を結ぶ路線を運航をしており、羽田発の便は全日空とコードシェアをおこなっています。帯広空港行きのANA4761便を予約したものの、詳細の確認を怠った為に当日空港に来てエア・ドゥ便と知り、コードシェア便かと軽くオドロキながら搭乗。搭乗したのは10月の良く晴れた秋の日でした。 搭乗機は国内各地の空港で最も目にすることの多いボーイング737。中央の通路を挟んで左右に3席づつある140席程の中型機です。羽田第2ターミナルビルから誘導路をのたのた進み、滑走路34Rに侵入する場面で写真を1枚撮ってみました。 この日の飛行ルートは概ね上の赤線の通り。東京湾上空で進路を北に取った後は一直線で北海道へと向かうコースです。左翼側の座席なので、離陸後すぐに富士山、途中で日光、海を渡って襟裳岬や日高山地が見所といったとこ

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  • 房総半島南部の丘陵地のケモノ道を子供達と辿ってみる - 青い滑走路

    今回は千葉県に家族で出かけた話しになります。三方を海に囲まれた房総半島南部は上総丘陵や安房丘陵と呼ばれる丘陵地が広がり、それらの丘陵地と海の間にある僅かな平地に人々が集まり住んでいます。 また、丘陵地には河川の侵でできた谷が沢山見られ、山里には人間が、山中には多くの野生動物が棲む場所となっています。うちの子供達は動物が好きで、息子などは「俺、街中より田舎の方が好きかも...」と牛舎で牛達を眺めながら呟く程です。そんな子供達を連れて獣道を辿りに千葉県南部を訪れたのでした。 房総半島の丘陵地は他の山地と地理的に独立している為に、生存競争に生き残ったハクビシンやキョン等の外来種の比率が高いのが特徴で、全国的に厄介者と知られる猪すら"外来種"です。古来より房総半島に生息している猪がおりましたが、農作物が荒らされるのを嫌い乱獲がおこなわれ1970年代に一度絶滅。現在は人為的に放たれた"国内外来種"

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  • 山と熊と田を生業とした集落・山熊田の元教員宿舎に宿泊 - 青い滑走路

    家族で新潟県に出掛けた時のことです。訪れたのは新潟県最北部の村上市のなかでも、最も北側に位置する山北地区。平成の大合併で村上市の一部となるまでは山北町だった場所です。その山北地区でも最も山奥にある山村集落「山熊田」に今回はお邪魔してきたのでした。山熊田は「東北文化を色濃く残す集落」として有名で、是非とも訪れてみたいと考えていた場所でした。日海側より県道248号線を内陸に進み、こじんまりとした荒川中の集落で山熊田へと続く分岐を左折し向かったのでした。 西に日海が広がり、北側の山形県鶴岡と南の新潟県村上に挟まれた山間部。朝日岳(1,870m)や以東岳(1,774m)を始めとする山々が西側に傾斜しており、有名な景勝地「笹川流れ」はそれが海中に突出して浸されたのだったりします。現在は大部分が舗装路となっていますが、村上より庄内を結ぶ出羽街道が宿場町の面影を残す北中、小俣集落を通っており、山熊

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  • 泊まって遊べる学校・四万十楽舎があった土佐(とさ) - 青い滑走路

    令和元年の夏、家族4人で夏休みの旅行に高知県西部の四万十川へ遊びに行きました。現地で宿泊したには、元小学校の校舎を利用した川遊び場として有名な「泊まって遊ぶ学校 四万十楽舎」さん。四万十川は世界初となるトンボ保護区を持つ程のトンボ王国であるのを受けてか、コンクリート造りの校舎壁面には大きなトンボが描かれており、その下の四万十川と子供達が描かれた壁の端には「西土佐村立中半小学校」と書かれた木札が掛かっていました。 台風銀座で高温多湿、都市部より遠く山がちで開発に向かない土地。最後の清流との枕詞を持つ四万十川は直線化された箇所は少なく、蛇行率全国ナンバーワンの一級河川で、四万十楽舎はその全長196キロメートル河口より20キロ程遡った場所にあります。周囲の航空写真(赤〇が四万十楽舎)を見ても分かる通り、この地域は山域に流れる四万十川沿いにできた僅かな土地に人々が暮らしていた場所で、以前は地域の9

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