渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、旧字体:澁澤 榮一、1840年3月16日〈天保11年2月13日〉- 1931年〈昭和6年〉11月11日)は、日本の実業家[1]。位階勲等爵位は正二位勲一等子爵。雅号は青淵(せいえん)。 江戸時代末期に百姓[2](豪農身分)から武士(一橋家家臣)に取り立てられ、のちに主君・徳川慶喜の将軍就任にともない幕臣となり[3]、明治政府で官吏となる。民部省を経て直属の上司である井上馨(大蔵大輔)の下で、吉田清成(大蔵少輔)らと共に造幣、戸籍、出納など様々な政策立案を行い、初代紙幣頭、次いで大蔵省三等官の大蔵少輔事務取扱となる。 井上馨と共に退官後は実業界に転じて実業家の肥田理吉らと日本経済の在り方を論じ[4]、第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京商法会議所(現・東京商工会議所)、東京証券取引所といった多種多様な会社や経済団体の設立・経営に関わった。そのうち企業は約500
小林 一三(こばやし いちぞう、1873年(明治6年)1月3日 - 1957年(昭和32年)1月25日)は、日本の実業家、政治家。阪急電鉄をはじめとする阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の創業者[2]。 鉄道を中心とした都市開発(不動産事業)、流通事業(百貨店、スーパーなど)、観光事業などを一体的に進め相乗効果を上げる私鉄経営モデルの原型を独自に作り上げ、後に全国の大手私鉄や民営化したJRがこの小林一三モデルを採用し、日本の鉄道会社の経営手法に大きな影響を与えた。これらの事業は後に阪急百貨店、宝塚歌劇団・東宝として阪急東宝グループを形成する。その過程で六甲山麓の高級住宅地の開発、学校法人関西学院等の高等教育機関の誘致や温泉、遊園地、野球場など娯楽施設の整備を行い、日本最初の田園都市構想を実現した。 私鉄経営での成功により五代友厚などと同じ関西財界の雄と言われ、阪急東宝グループ以外
柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)は、日本の民俗学者・官僚。大日本帝国憲法下で農務官僚、貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官などを務めた[1]。日本学士院会員、日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は正三位・勲一等。出版物等においては、常用漢字体による「柳田 国男」という表記も使用される。 「日本人とは何か」という問いの答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行した。初期は山の生活に着目し、『遠野物語』で「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べた。日本民俗学の開拓者であり、多数の著作は今日まで重版され続けている。 1875年(明治8年)7月31日、飾磨県(兵庫県)神東郡辻川村(現:兵庫県神崎郡福崎町辻川)生まれで、最晩年に名誉町民第1号となった。父は儒者で医者の松岡操
郡に所属する町村の数には時代によって変動が見られるが、近代以前は概ね80か村程度(幕末には89町村)所属し、郡高は2万石強程度だったようである。 廃藩置県以降、次第に周辺の市・町に吸収合併されて郡域は縮小し、1948年(昭和23年)6月1日に大船町が鎌倉市に編入されたことによって所属する町村がなくなり消滅した。 地理的には、境川以東の柏尾川流域が主な郡域であった。 1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域に相当する。 鎌倉市(全域) 横浜市 戸塚区・泉区・栄区の全域 瀬谷区(卸本町の一部を除いた全域) 港南区(芹が谷一 - 五丁目、東芹が谷、東永谷一 - 三丁目、上永谷一 - 六丁目、下永谷一 - 六丁目、丸山台一 - 四丁目、日限山一 - 四丁目、上永谷町、野庭町の全域、日野南五 - 七丁目の各一部) 金沢区(朝比奈町の全域、東朝比奈二 - 三丁目の各一部
白洲 次郎(しらす じろう、1902年(明治35年)2月17日 - 1985年(昭和60年)11月28日)は、日本の実業家[2]。貿易庁長官(初代)[2]。連合国軍占領下の日本で吉田茂の側近として活躍し、終戦連絡中央事務局や経済安定本部の次長を経て、商工省の外局として新設された貿易庁の長官を務めた[2]。吉田政権崩壊後は、実業家として東北電力の会長を務めるなど多くの企業役員を歴任した[2]。 白洲次郎は1902年(明治35年)2月17日、貿易商白洲文平・芳子夫妻の二男として生まれた。祖父に役人、実業家、神戸女学院の創設者の一人である白洲退蔵がいる。白洲家は元三田藩の士族の出である。 転居と初等・中等教育 次郎の出生地は東京としている本もあれば兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)としている本もあるが[注 1]、いずれにせよ白洲家は兵庫県川辺郡伊丹町[4](現:伊丹市)に転居し、次郎は精道尋常小学
五衣・唐衣・裳姿の美智子 上皇后美智子(じょうこうごうみちこ、1934年〈昭和9年〉10月20日 - )は、日本の皇族。第125代天皇・明仁の皇后。身位は上皇后。敬称は陛下[2]。お印は白樺。勲等は勲一等。旧名は正田 美智子(しょうだ みちこ)。 第126代・今上天皇(徳仁)の母。 明治時代以降初めての民間出身[注釈 1][注釈 2]の皇后ならびに皇族。現皇室典範下で立后した初めての皇后でもある。2019年の明仁の退位に伴い、新たに設けられた身位である上皇后となった。 現在の住居は、東京都港区元赤坂の赤坂御用地にある仙洞御所。 1940年(昭和15年)頃の正田美智子 1934年(昭和9年)10月20日、日清製粉グループ会長の正田英三郎・正田富美(1981年(昭和56年)に富美子と改名した)夫妻の長女として東京府東京市本郷区(現・東京都文京区東部)の東京帝国大学医学部附属病院で誕生[3]。
大規模小売店舗立地法(だいきぼこうりてんぽりっちほう)は、日本の法律である。略称は大店立地法(だいてんりっちほう)[1]。大規模小売店舗法(「大規模小売店舗における小売業の事業活動の調整に関する法律」、略称「大店法」)に代わり制定され、1998年(平成10年)6月3日公布[1]、2000年(平成12年)6月1日より施行された[1]。 大規模小売店舗の立地に関し、その周辺の地域の生活環境の保持のため、大規模小売店舗を設置する者により、その施設の配置および運営方法について、適正な配慮がなされることを確保することにより、小売業の健全な発達を図り、もって国民経済および地域社会の健全な発展、ならびに国民生活の向上に寄与する(第1条)。 背景[編集] IKEA立川 外資系企業による大規模店舗出店の例 日本においては、1960年代後半(昭和40年代)頃から各地でスーパーマーケットを初めとした大型商業店舗
哲学の道(春) 哲学の道にある歌碑 西田 幾多郎(にしだ きたろう、1870年5月19日〈明治3年4月19日〉 - 1945年〈昭和20年〉6月7日)は、日本の哲学者。京都学派の創始者。学位は、文学博士(京都大学・論文博士・1913年)。京都大学名誉教授。著書に『善の研究』(1911年)、『哲学の根本問題』(1933年)など。 東大哲学選科卒。参禅と深い思索の結実である『善の研究』で「西田哲学」を確立。「純粋経験」による「真実在」の探究は、西洋の哲学者にも大きな影響を与え、高く評価される。 加賀国河北郡森村[1](現在の石川県かほく市森)に、西田得登(やすのり)、寅三(とさ)の長男として生まれる。西田家は江戸時代、十村(とむら)と呼称される加賀藩の大庄屋を務めた豪家だった。若い時は、肉親(姉・弟・娘2人・長男)の死、学歴での差別(帝大における選科〔聴講生に近い立場〕への待遇)、父の事業失敗
月刊誌 『Voice』 は、昭和52年12月に、21世紀のよりよい社会実現のための提言誌として創刊されました。このたび、創刊30周年という節目を迎え、PHP総合研究所の研究提言活動の一端を「PHPからの主張」として、連載することになりました。毎号、各研究員が、いま日本が直面する課題に、いかにして取組むべきか、訴えてまいります。 第10回は、「小沢の不誠実、麻生の構想力 」(永久寿夫 PHP総合研究所常務取締役)です。 >> 詳細ページ >> 過去のトピックス
『白鯨』(はくげい、(英: Moby-Dick; or, The Whale)は、アメリカの小説家・ハーマン・メルヴィルの長編小説。 本作は実際に捕鯨船に乗船して捕鯨に従事したメルヴィルの体験をもとに創作され、1851年に発表された。アメリカ文学を代表する名作、世界の十大小説の一つとも称される。たびたび映画化されている。原題は初版(1851年)の英国版が『The Whale』、米国版が『Moby-Dick; or, The Whale』であるが、その後『Moby-Dick; or The White Whale』とする普及版が多く刊行されており、日本では『白鯨』の題が定着している[1]。 本作品は、沈没した悲運の捕鯨船でただ一人だけ生き残った乗組員が書き残した、白いマッコウクジラ「モビィ・ディック」を巡る、数奇な体験手記の形式をとる。 本作品は大長編である上に、難解かつ全体の雰囲気が暗鬱で
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "モダニズム建築" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2013年4月) モダニズム建築(モダニズムけんちく、英: Modern Architecture)または近代建築(きんだいけんちく)は、機能的、合理的な造形理念に基づく建築である。産業革命以降の工業化社会を背景として19世紀末から新しい建築を求めるさまざまな試行錯誤が各国で行われ、1920年代に機能主義、合理主義の建築として成立した。19世紀以前の様式建築(歴史的な意匠)を否定し、工業生産による材料(鉄・コンクリート、ガラス)を用いて、それらの材料に特有の構造、表現をも
山階 芳麿(やましな よしまろ、1900年〈明治33年〉7月5日 - 1989年〈平成元年〉1月28日)は、日本の旧皇族。日本の鳥類学者。山階宮菊麿王と同妃範子(先妃)の第2王子。旧名:芳麿王。山階鳥類研究所の創設者。階級は陸軍中尉。位階勲等は正三位勲一等。爵位は侯爵。学位は理学博士(北海道帝国大学)。生前に受けた栄誉及び表彰歴としては第1級ゴールデンアーク勲章受勲及びジャン・デラクール賞受賞などがある。 生涯[編集] 大正の頃の山階芳麿 1900年(明治33年)7月5日、皇族・山階宮菊麿王の第2子として東京市麹町区に誕生した。昭和天皇とは実母(範子妃)を、香淳皇后とは継母(常子妃)を通じての従兄にあたる。山階宮邸は敷地が約5500坪。幼い頃から鳥に興味を持ち、6歳の誕生日に一つがいのオシドリの剥製を贈られる。 1907年(明治40年):学習院初等科入学。学習院中等科のとき、陸軍中央幼年学
創作活動初期は、『D坂の殺人事件』『心理試験』など、いわゆる本格派推理小説(探偵小説)の短編作品を執筆し、日本人の創作による探偵小説の基礎を築いた。トリックや題材に欧米の諸作からの影響を感じさせるが、単なる模倣でなく乱歩の独創性が活かされている。 探偵小説の王道というべき本格派を志向していたが、それらの作品は大衆からあまり支持されなかった。大衆は幻想・怪奇小説、犯罪小説に分類できる変格ものと称される作品を好んだ。『赤い部屋』『人間椅子』『鏡地獄』などが代表的な変格ものといえる。 1926年(大正15年)12月より1927年(昭和2年)2月までの約3か月間、朝日新聞に『一寸法師』を連載する。病欠の山本有三の代役だった。作品は評判がよく、映画化された。しかし乱歩は小説の出来に満足できず休筆宣言をし、各地を放浪したという(以後、戦前の乱歩は「休筆中に放浪」というパターンが多くなる)。 1928年
夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日〈慶応3年1月5日〉 - 1916年〈大正5年〉12月9日)は、日本の小説家、英文学者。武蔵国江戸牛込馬場下横町(現:東京都新宿区喜久井町)出身。本名は夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。俳号は愚陀仏。 明治末期から大正初期にかけて活躍し、今日に通用する言文一致の現代書き言葉を作った近代日本文学の文豪のうちの一人。代表作は、『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』など。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなった。講演録に「私の個人主義」がある。漱石の私邸に門下生が集まった会は木曜会と呼ばれた。 大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学んだ。帝国大学(のちの東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めたあと、イギリスへ留学。大ロンドンのカムデン区、ランベ
スーパーのチラシといえば、日常生活に溶け込み過ぎた「ザ・チラシ・オブ・チラシ」であり「チラシ界の雄」もしくは「ドン」と呼べる存在である。わざわざ手元に残しておく人は、まずいないだろう。 しかし、これが50年前のチラシとなれば途端に話は変わってくる。古いパンフレットは古本屋等で入手可能だが、スーパーのチラシとなるとそうもいか ない。身近すぎるあまり保管しようとすら思わないせいか、新聞紙と一緒にちり紙交換に出されるパターンがほとんどだと思われる。 そんな絶滅危惧種レベルに貴重な大昔のチラシを、大量に見せてもらえる機会に恵まれた。じっくり読み込んでみたい。
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