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講座派 労農派の検索結果1 - 11 件 / 11件

  • 2021年5月10日にAmazonカスタマーサービスによって削除された斉藤幸平著 『人新世の「資本論」』への2020年9月29日投稿のレビュー|Less Than Useful

    2021年5月10日にAmazonカスタマーサービスによって削除された斉藤幸平著 『人新世の「資本論」』への2020年9月29日投稿のレビュー (注) いきなり削除されていたのでAmazonカスタマーサービスに問い合わせて削除の取り消しを希望したところ、30分ほどでガイドラインに抵触云々のテンプレートの返答が帰ってきて削除の取り消しも拒否されたので、ここに再掲しておく。斉藤幸平氏が批判するAmazonのようなワンクリックで何でも手に入る資本主義の極北みたいなシステムが、資本主義システムを批判する本への☆一つのトップレビューを、知識のコモンズを支えるネットというプラットフォームから削除してしまうっていう状況はなかなかアイロニカルでよい。もっと酷い罵倒したレビューは消されてないのに。しかしよく考えてみれば資本主義システムの欲望ドライブ+マルクス思想って、それってまんま近隣の某大国やん?ってこと

      2021年5月10日にAmazonカスタマーサービスによって削除された斉藤幸平著 『人新世の「資本論」』への2020年9月29日投稿のレビュー|Less Than Useful
    • 【書評】労農派ピケティは「バラモン左翼」を乗りこえられるか──トマ・ピケティ『資本とイデオロギー』評|梶谷懐

      リベラル知識人はなぜ「バラモン左翼」と呼ばれるか 東浩紀は、『訂正可能性の哲学』(ゲンロン)や『訂正する力』(朝日新書)などの最近の著作のなかで、次のようなカズオ・イシグロの言葉にたびたび言及している。 俗に言うリベラルアーツ系、あるいはインテリ系の人々は、実はとても狭い世界の中で暮らしています。東京からパリ、ロサンゼルスなどを飛び回ってあたかも国際的に暮らしていると思いがちですが、実はどこへ行っても自分と似たような人たちとしか会っていないのです。[★1] 東は、開放性を掲げるリベラル知識人が、実は同じ心情や生活習慣を持つ人々の中で閉じたサークルを作っている、という実態を批判する文脈でこの発言に触れている。確かにそれも重要な視点だろう。そのうえで、ここではイシグロがそれに続けて語った内容により注意を向けたい。 私は最近妻とよく、地域を超える「横の旅行」ではなく、同じ通りに住んでいる人がどう

        【書評】労農派ピケティは「バラモン左翼」を乗りこえられるか──トマ・ピケティ『資本とイデオロギー』評|梶谷懐
      • 今あらためて『資本論』を読むために 「日本資本主義論争」早わかり|じんぶん堂

        記事:白水社 日本の「近代化」と「豊かさ」をめぐる思索! 野原慎司著『戦後経済学史の群像 日本資本主義はいかに捉えられたか』(白水社刊)は、内田義彦、大河内一男、高島善哉、小林昇、水田洋、伊東光晴という戦後経済学の巨人に即し、社会科学が輝いた時代を解明する。 書籍情報はこちら マルクスが捉えた資本主義社会は、西欧とりわけイギリスをその十全な発展のモデルとしたものであり、日本における資本主義の現状にそのまま当てはまるかは疑義が残ることに気づいた知識人たちがいた。彼らは、日本における資本主義を改めて考えた。彼らが考え出した日本資本主義の段階的発展の理論は、マルクス・レーニンに影響されつつも、日本独自の理論展開であった。彼らの考えは論争となった。日本社会は、どのような資本主義社会であり、どのような段階にあるのかをめぐって、1920年代から30年代にかけて論争が交わされたのである。それが日本資本主

          今あらためて『資本論』を読むために 「日本資本主義論争」早わかり|じんぶん堂
        • ララビアータ:マルクス主義 - livedoor Blog(ブログ)

          マルクス主義について、論争史的に論じてみることにする。わが国では、マルクス主義の理論的研究の歴史が厚いにもかかわらず、冷戦終結以後ほとんど顧みられなくなっているという現実がある。一般にこれは、我が国の思想史一般に言える傾向であり、次々になりゆく勢いにつれて流行を追うあまり、伝統とか正統というものが形成されず、以前に論じられた論争も結論も見ずにただ忘却されてしまうことになる。せっかく江戸時代に議論されてきた儒教の伝統が、明治になってほとんど顧みられなくなったようなものである。今日、マルクス主義が再び脚光を浴びつつあるが、そこでも以前に論争の的になった問題圏が忘却されているように見えるので、あらためて論争史的に議論してみたい。 順不同でこれまで論じられたことのある問題を列挙してみよう。 1) 何故「社会主義革命」が、マルクスの予言したように先進諸国で起こらず、後進地域においてのみ成功したのか?

          • 志位委員長よ、なぜ私が除名なのか | 文藝春秋 電子版

            松竹 本日はお会いできて大変光栄なのですが、実は知人のなかには、佐藤さんと対談することに反対する人もいまして……。 佐藤 私は学生時代から日本共産党にかなり批判的でした。「佐藤はけしからん反共主義者だ!」と現在の共産党も認識しているはずです。 ただ、思想信条は違っても、心の底から信じるものに従って筋を通されてきた松竹さんの生き方自体に私は魅了されて、ずっとお会いしたかったので、本日は念願叶って大変うれしく思っています。 佐藤氏 ©文藝春秋 共産党は「佐藤はどういう反共主義者なのか?」は掴みかねているでしょう。私の「反共」が分かりにくいのは、3つの要素からなるからです。(1)講座派に対する労農派的な意味での「反共」、(2)ブント系の新左翼的な意味での「反共」――(1)と(2)の混合はよくあるケースですが――、そこに、インテリジェンスに関わった経験から(3)公安警察的な意味での「反共」も加わっ

              志位委員長よ、なぜ私が除名なのか | 文藝春秋 電子版
            • 「マルクスの大霊言」では近代資本主義経済批判にはなっても、現代社会の危機への処方箋にはなり得ない (10月29日再読後に追記 SDGsへの補足と資本「論」)

              「眠っているマルクスを久々に呼び起こそう。彼ならきっと人新世からの呼びかけにも応えてくれるはずだ (p138)」。この一文を読んで評者は、この本は要するに「マルクスの大霊言」なのだと思ってしまったのだが、あまりに手放しで絶賛するレビューばかりなのに驚いたので敢えて☆一つ。読む価値がないという意味ではないのだが,マルクスに立脚した近代資本主義批判が広く浸透せず、また実効性も持ちえていない現状の理由が本書の論の進め方に顕れてしまっているように思えるのだ。 1. まず著者は本書冒頭で「SDGsは大衆のアヘンである!」と、マルクスにならって声高に宣言したかったようだが、いきなり大きな見当違いをしている。最近、巷で皮相的な「SDGsビジネス本」や「SDGsビジネスモデル」が氾濫し、いわゆるグリーン・ウォッシュならぬ「SDGsウオッシュ」の様相を呈していて、アリバイ作りというかこうした便乗ビジネスには

              • 『対決! 日本史2 幕末から維新編』レビュー - sugarless time

                出典:対決! 日本史2 幕末から維新篇 | 潮出版社 歴史にはロマンがあります。 あの時にこうだったらとか過去の歴史事象をを振り返り思いを巡らすだけでその先は無尽蔵の広がりを見せます。 そんなことに思い巡らすことは私以外でもあると思うんですけど、これを読んでくださっている方はどうなんでしょう? 私は時々思い巡らすことがあります。 明治維新というものがなかったら、薩長主導の明治政府がなかったら、きっと第二次世界大戦(太平洋戦争)で日本が敗戦ということも、広島、長崎に原子力爆弾が投下されることもなかったのではないかということ。 ちょっと前になりますが、2023年年始に久しぶりにちゃんとした書店に行ったさいに目にはいったのが新書『対決! 日本史3 維新から日清戦争編』 著者が『安部龍太郎』と『佐藤優』というのにも惹かれます。 手にとりざっくり目を通すと『安部龍太郎』と『佐藤優』がテーマ(本著は

                  『対決! 日本史2 幕末から維新編』レビュー - sugarless time
                • 批評の練習帳 東アジア同時革命についての走り書き的覚書

                  東アジア同時革命は、東アジア的専制主義(注1)とそれを支える精神の廃止を意味する。それは「一国革命」あるいは民族問題やフェミニズム、エコロジ―などの「小さな物語」の水準における革命ではなく、また「世界革命」という「大きな物語」の水準における革命でもなく、東アジアという中程度のスケールにおける革命である。それは「左」による「右」の打倒ではなく「下」による「上」の打倒でもなく、上下左右の方向感覚の根本的刷新であり、共産主義革命ではなく市民革命である。二〇世紀の共産主義革命運動の歴史が実証したのは、市民革命を経験しない社会において直接共産主義革命を実行することは、その過程において封建的あるいは権威主義的家父長制を温存し、再生させるということである。 これは二段階革命論ではない。そもそも私たちは「左翼」とは何か、「右翼」とは何かを知らない。日本人は朝鮮人や中国人と横に並んでいるのではなく、向き合っ

                  • ララビアータ:アレントとマルクス主義 - livedoor Blog(ブログ)

                    カルチャーセンターの講義で「アレントとマルクス主義」を扱ったので、そのメモワールをここに挙げておこう。 宇野弘藏の恐慌論 宇野の恐慌論から始めよう。それは、一種の景気循環論であり、シュンペーターの議論に近いものを持っている。かつて我が国の戦後経済学はほぼマルクス経済学派によって占められていた。特に東大経済学部は、労農派マルクス主義者の牙城であった。宇野弘藏は労農派から出てマルクス研究を精緻化し、ある程度学問的議論に耐えるものに仕上げた。宇野経済学に学んだ経済エリートたちが、経済諸官庁を席巻していた50年から60年代初期にかけて、果たして彼らの教養がどれほど役に立ったか疑問に思う向きもあるかもしれないが、意外にもそれが通用したのである。それは宇野弘藏の学問理念によるところが大きい。彼はマルクスの『資本論』の所説を、イデオロギー的価値観から峻別し、ブルジョワ社会の原理的な分析に純化した。科学的

                    • ララビアータ:【近代政治哲学における自然】(1) - livedoor Blog(ブログ)

                      近代政治哲学における社会契約説は、さまざまな形で自然状況に言及する。自然状況において社会契約を結ぶことによって、権力や法を人為的に設立するという理論的虚構が社会契約説の骨子である。しかし、自然状況がどのようなものと観念されるかによって、そこから創設される政治社会の性格もさまざまに異なることになる。たとえば、ホッブズの想定した自然状況は、万人が万人にいかなる留保もなく戦争状態にあるという極めて過酷なものであり、それに応じてそこから創設される権力も絶対的独裁制となる。 ホッブズの自然状況では、死の恐怖から逃れるために己れの自然権を放棄することが合理的となる。しかし、自然状況においてはいかなる約束もいつでも裏切ることが許されており、それは単に相手を欺くマヌーヴァに終わる危険がある。それでは「社会契約」が成立することは不可能であろう。 これに対してロックにおいては、自然状況ははるかにマイルドなもの

                      • 【書評】労農派ピケティは「バラモン左翼」を乗りこえられるか──トマ・ピケティ『資本とイデオロギー』評|梶谷懐

                        リベラル知識人はなぜ「バラモン左翼」と呼ばれるか 東浩紀は、『訂正可能性の哲学』(ゲンロン)や『訂正する力』(朝日新書)などの最近の著作のなかで、次のようなカズオ・イシグロの言葉にたびたび言及している。 俗に言うリベラルアーツ系、あるいはインテリ系の人々は、実はとても狭い世界の中で暮らしています。東京からパリ、ロサンゼルスなどを飛び回ってあたかも国際的に暮らしていると思いがちですが、実はどこへ行っても自分と似たような人たちとしか会っていないのです。[★1] 東は、開放性を掲げるリベラル知識人が、実は同じ心情や生活習慣を持つ人々の中で閉じたサークルを作っている、という実態を批判する文脈でこの発言に触れている。確かにそれも重要な視点だろう。そのうえで、ここではイシグロがそれに続けて語った内容により注意を向けたい。 私は最近妻とよく、地域を超える「横の旅行」ではなく、同じ通りに住んでいる人がどう

                          【書評】労農派ピケティは「バラモン左翼」を乗りこえられるか──トマ・ピケティ『資本とイデオロギー』評|梶谷懐
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