神奈川県教育委員会は14日、顧問を務める部活動の女子部員2人と性行為をしたとして、県立高校の30代の男性教諭を懲戒免職にしたと発表した。他にも盗撮やわいせつ行為などで5人を免職や減給とした。
神奈川県教育委員会は14日、顧問を務める部活動の女子部員2人と性行為をしたとして、県立高校の30代の男性教諭を懲戒免職にしたと発表した。他にも盗撮やわいせつ行為などで5人を免職や減給とした。
この問題がずっと解けない。 過去の俺は、この問題に対して「輪廻転生があるから、成長は来世に持ち込まれる」ということにしていた。 でもよーく考えたら、これには科学的な根拠がない。 これは単なる俺の願望だったのだ。 それに気付いてから、「どうせ死ぬんだから成長しても意味なくない?」が思考の癖になった。 短期的には、成長は収入や生活の向上になるだろう。 しかし長期的には? 意味なくないか? 特に寿命が近づくにつれ、成長の意味はなくなっていく。 老人が新しいものを受け入れなくなるのも、成長に意味がなくなるからでは? そう考えると、人間という生物にとっては老後に成長は不要なのだと思われる。 惰性でなんとなく苦痛なくそれなりに生活して死んでいければ御の字なんだろう。 そんなことを考えている。
どっかでバズったかなにかしたかで閲覧数が伸びており、さらにいろいろ噛みついてくる人も増えたりして、面倒くさいので言っておきたいと思う。 私は「オタク迫害論争」に加わるつもりもないし、「それでもオタクは迫害されてきたんだ」「差別されてきたんだ」と主張する人たちに文句をつけるつもりはない。 というより、興味がない。 オタクとしてもエヴァガンダムドラクエジョジョの話ばかりする人たちと、ファミコンブームに対するセガ派どころか、それよりさらに忘れ去られているPCゲーム時代からこの方、どこへ行ってもマイナー側にいて、本も小説も初版どまりの物書きが話が合うわけないのである。 つい最近の2025年だって『Kingdom Come: Deliverance2』が圧倒的に素晴らしいと思っていたのに、国内では全く売れてないし、ネットでも話題に鳴らなかったので話し合える人もいなかったのだ。 完全に「今のオタクたち
もともと多かったが、またぞろ「1989年の宮崎勤事件でオタクは社会から徹底的に迫害された」という言説を、やたらと耳にするようになった。 X上でもnoteでも、同じフレーズが繰り返される。「あの頃、俺たちは社会に差別されていた」「だから連帯すべきだ」「フェミや左翼はオタクの敵だ」——という話の枕に、必ず「宮崎勤事件」が出てくる構造だ。 しかし、どうにも1973年産まれでもともとゲームやアニメやマンガが好きで『ガルフォース』(1986年)ではっきりと「自分はオタクなんだ」と自覚して以降、そのまま中高生を過ぎ、1992年にはASCIIのLOGINという「オタクというかPCやゲームマニアのメッカ」に入り込んでから活動を続けているのだが、違和感しかない。 確かに私が周囲から排除されたり、嫌われていたりしたのは事実だが、それは「オタクだったから」ではなく、ひたすら当時の私の態度が攻撃的であり、人格的に
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