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歴史と増田に関するsh2ysdのブックマーク (8)

  • エジプトにいた増田です。 思いのほか多くの方に読んで頂けたことに当惑し..

    エジプトにいた増田です。 思いのほか多くの方に読んで頂けたことに当惑しつつ、大変感謝しています。 そんなに人の興味のあることではないとは思うのですが、せっかくの機会なので、自分の考える(自分の出会ってきた)アラビア語とイスラームのことを、ちょっと書かせて頂きます。 大前提ですが、自分は基、道楽で勉強してきた人間で、職業的な研究者ではありません。大学の専門も西南アジア史とかではないです。あくまで個人の体験を元にした個人の感想で、学問的裏付けのあやふやな大雑把なお話だとご理解下さい。 (いきなり余談ですが、わたしが出会ってきた「アラビア語の達者な日人」は必ずしも研究者ではなく、一番多いのはマリッジムスリム、つまりムスリムと結婚した日人です。彼女たちはエジプト社会に溶け込んで普通に暮らしているので、普通は言葉が達者です……十年いても全然ダメでかつ謎の力で意思疎通できる不思議な人もいましたが

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  • n=1だし、革命前に国をでたイラン人から聞いた話だから偏ってるかもしれな..

    n=1だし、革命前に国をでたイラン人から聞いた話だから偏ってるかもしれないが、イランの国民性がちょっと特殊。 イラン人は強烈なプライドがある。 自分たちがずっと世界史の中心にいたと思ってる。 西洋の文化はギリシャ由来で、それもペルシャの真似だと思ってる。 イランというのは、アーリア人の国って意味で、ペルシャはイランの一地方の名前。 イラン人の歴史観は、いつの時代もまずイラン人が文化的な国を作り、栄華を極めたあとに必ず内紛でグダグダになり、その度に馬やラクダにのった蛮族(トルコ人やアラブ人)に滅ぼされるけど、イラン人は優秀だから官僚として取り立てられ、力を蓄え新しいイラン人の帝国を再興させる。それの繰り返しという歴史感。 彼らの中では、アラビア人の国もトルコ人の国もモンゴル人の国も、結局はイラン人官僚が支えてたし、それらの国が栄えたのもその前にイラン人が作った国とその文化があったからという理

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  • パーレビ国王時代はイランは親アメリカだったけど、革命が起きてホメイニ..

    パーレビ国王時代はイランは親アメリカだったけど、革命が起きてホメイニ師が出てくる。エルサレムがユダヤ教徒の影響下にあることをイランのホメイニ師は快く思っていなくて、イスラエルに死をと叫ぶようになった。でもイランからイスラエルは遠い。ので、イランは反イスラエルの組織に援助を続けてる。パレスチナのスンニ派のハマスはもちろんレバノンの同じシーア派のヒスボラもそう。 イランの動きが面白くはないトランプさんのときに米国の仲介でイスラエルはバーレーン(王族はスンニ派)とかの湾岸諸国と国交正常化した(俗にアブラハム合意という)。パレスチナに国家が樹立されることなく和平を進めたのだけど、それってスンニ派とユダヤ系からなる対イラン包囲網にもなる。イランは面白くはないよね。 話がズレて恐縮なんだけどアラブの盟主たるサウジはスンニ派で以前は国交が無くても対イランではイスラエル寄りともとれる動きをしていたものの、

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  • 「泥のように眠る」の「泥」は生物のことなのか?

    まず、土と水の混合物という意味での「泥」(以下「ドロ」と書く)ではない、生きものとしての「泥」(以下「デイ」と書く)については、中国の沈如筠が書いた『異物志』という書物で紹介されているという。 泥为虫名。无骨,在水则活,失水则醉,如一堆泥。 泥は虫の名である。骨がなく、水に在ればすなわち活き、水を失えばすなわち酔う、一堆の泥のごとし。 『能改斎漫録』『夜航船』などにも同様の記述がある。なぜ「水を失えば酔う」のかといえば、言い伝えによると「デイ」は身体から酒を分泌しているので、周囲に水が無くなると自分の酒で酔って、ドロのようになって死んでしまうかららしい(が、この言い伝えのソースも不明なので信用できるかどうか)。おそらくナマコかクラゲのようなものを指しているのではないかと思われる。 「酔如泥(泥の如く酔う)」という表現の初出は『後漢書』の周沢伝だ……という説が一般的なのだが、現在の『後漢書』

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    sh2ysd
    sh2ysd 2024/03/09
    酔如泥
  • いたばし花火大会に関して

    火事が起きて途中中止になったけど花火は最期まで上がっていたといういたばし花火大会だが、実は戸田市との共同開催になっていて、荒川を挟んで板橋側だけが中止になったのだ。荒川を挟んで両岸で打ち上げまくるのね。 でも板橋区の方では「いたばし花火大会」としてしかアナウンスされないし、戸田市側の方は「戸田橋花火大会」としてしか案内されないから、東京都民or板橋区民の中には戸田市の方でも打ち上げてるのを知らない人が結構いるし、反対側の埼玉県民、戸田市民の方も然りで、「中止になったのに最後まで打ちあがってたのは何故???」というなぞなぞみたいな事になってしまった。 そして両岸で共同開催という珍しい形になったのは、荒川の改修工事が元になっている。 荒川放水路工事と河道直線化赤羽の岩淵に岩淵水門という隅田川入口を締め切る水門があるんだが、そこから下流の荒川は大正から昭和初めに掛けて開削した放水路だ。それまでは

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  • 1分でわかるウクライナの歴史

    16世紀:ポーランド「なんや荒野に『コサック』っていう連中が住み着いてオスマン帝国を襲撃して略奪しとるわ…怖…」 →ポーランド「自治を認めたるからワイらのためにオスマン帝国と戦ってくれや」 →コサック「やったりますわ」 1648年:フメリニツキー「ポーランドの貴族どもが横暴やからコサックのみんなを集めて独立するで!」 →「ヘーチマン国家」誕生(現在のウクライナの中部あたり) 1654年:フメリニツキー「同盟しとったクリミア国に裏切られたから、ポーランドに対抗するにはロシアの保護下に入るしか無いわ…」 →ロシア「共通の先祖から分かれた兄弟がまた元通りひとつになれたんやね(にっこり)」 →ロシアウクライナの共通の源流にキエフ大公国があり、ロシア的には「生き別れの弟が兄を慕ってやってきた」みたいに受け取ったらしい 1656年:フメリニツキー「スウェーデンに対抗するためにポーランドとロシアが同盟

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  • アフガニスタン覚書

    たぶん専門の人から見るといろいろ間違っていると思う。 アフガニスタン国土現在の国境線は英領インドとロシア(とペルシア)との緩衝国として残ったもの。ほぼ乾燥した山。 国民山がちな国土もあって民族構成は複雑。パキスタンにまたがるパシュトゥーン人(最大勢力)・バローチ人、タジキスタンにまたがるタジク人、テュルク・モンゴルの血を引くハザーラ人、トルクメニスタンにまたがるトルクメン人、ウズベキスタンにまたがるウズベク人、その他イラン系、テュルク系を中心に多民族が混在している。 パシュトゥーン人アフガニスタンとパキスタンにまたがる民族。アフガニスタンでは4割程度を占める。山間部ではパシュトゥーンワリという独特の復讐感や名誉感を重んじる割と血なまぐさい掟に従っている。 政治背景氏族社会が強い、最後の王ザーヒル・シャーの時代ですら氏族長会議が後ろ盾だったし、今(2004年憲法)でも上院・下院の上に氏族長の

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  • 1分でわかるアフガニスタンの歴史

    1747年:アフマド・シャー「イランから独立するで!」 →アフガニスタンの建国 1838年:イギリス「ロシアがインドを狙っとるからアフガンにイギリス軍を置かせてくれや」 →交渉決裂 →イギリス「ほな戦争や!」 →第一次アフガン戦争 1842年:イギリス「あかん、とりあえずアフガンを占領したけど、反乱が多すぎるから撤退するわ」 →和睦 1878年:イギリス「今度のアフガン国王はロシア寄りっぽくて怪しいわ! また戦争するで!」 →第二次アフガン戦争 1881年:イギリス「今回は勝ったけど、めちゃくちゃ苦労したわ…」 →イギリスがアフガンを保護国化 1919年:アフガン国王「世界大戦でイギリスが弱っとるみたいやで! いまこそアフガンから追い出す好機や! ジハードや!」 →第三次アフガン戦争 →アフガン国王「あかん、勝てへんわ。和睦するで!」 →イギリス「こっちも戦争はうんざりやし、もう独立してえ

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