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2018年1月23日のブックマーク (3件)

  • 徳川家旧幕臣らが士族身分を捨てて開拓した牧之原台地

    前回まで、徳川の旧幕臣達が明治維新によって悲惨な生活を強いられていたことを書いてきた。確かに転業に失敗し没落した者が多かったのだが、彼らを救うには彼らが生活できる程度の収入の得られる仕事がなければならなかった。そこで、手付かずの原野の開拓に第二の人生を賭けようとした人物が士族の中から現われた。 岩波文庫の『海舟座談』に、旧幕臣達が士族の身分を捨てて茶畑の開墾を始めた経緯について述べているところがある。 明治2年(1869)、戊辰戦争が終結した頃に勝海舟は二人の旧幕臣の訪問を受けている。 この2人の人物は中條(ちゅうじょう)金之助(景昭)と大草多起次郎(高重)といい、大政奉還後は徳川慶喜を警護する精鋭隊の中心メンバーであり、江戸開城の際には仲間と共に江戸城内で自決するつもりであったが勝海舟の説得で思いとどまり、駿府(静岡)に移住して徳川家康を祀る久能山八幡宮を守護する任務(新番組:精鋭隊を改

    徳川家旧幕臣らが士族身分を捨てて開拓した牧之原台地
    shibayan1954
    shibayan1954 2018/01/23
    徳川の旧幕臣達は明治維新によって悲惨な生活を強いられ、転業に失敗して没落した者が多かったのだが、旧幕臣の中から、手付かずの原野の開拓に第二の人生を賭けようとした人物も現われた。
  • 徳川家と共に静岡に移住した士族が記した「士族の商法」

    前回まで、幕臣の家に生まれた塚原渋柿園が記した『歴史の教訓』という書物の中から、徳川家と共に静岡に無禄移住した士族たちが悲惨な生活をした体験談を記した部分を紹介してきた。 塚原が記している通り、徳川の旧幕臣には明治政府に帰順して「朝臣」として働くか、士族の身分を捨てて農業や商業に従事するか、徳川家と共に静岡に移住するかの3つの選択肢が呈示されていたのだが、大多数が「無禄移住」という一番厳しい選択をしてしまったのである。 明治新政府の官吏の道を選んだ場合は収入などの条件は良く、べることに窮するようなことにはならなかっただろうが、やはり仲間を裏切るようなことはしたくないという思いの方が強かったのだろう。「朝臣」になった旧幕臣の割合は全体の「千分の1位(くらい)」だったそうで、千石以上の旗に何人かいたレベルだったという。 帰農した者もいたが、千石以上の知行取りが旧采地に引っ込むというケースに

    徳川家と共に静岡に移住した士族が記した「士族の商法」
    shibayan1954
    shibayan1954 2018/01/23
    武士は利得に遠ざかることを理想とし、蓄財することは盗人であるとの考え方に染まっていた士族たちが多く、商売を始めても手許に資金が残ったらそれを単純に「儲け」と考えてしまう習性をすぐに矯正できなかった。
  • 静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし

    前回は、徳川家が駿府(静岡)に移封されることになり、徳川家とともに駿府に移住することを希望した誇り高き旧幕臣とその家族を乗せた米船は、奴隷を運搬するのと同様の方法で彼らを運んだことを書いた。劣悪な環境で二昼夜半帆船に揺られて清水港に着いたあとの彼等の生活はどんな具合であったのか興味を覚えて、引き続き塚原渋柿園の『五十年前』を読み進む。 たとえ無禄であっても徳川家をお供して駿府に移住(無禄移住)するという旧幕臣がかなりいたのだが、武士とはいえ収入がなくては生活が成り立たないことは言うまでもない。 塚原も無禄移住者の一人であったが、藩としても何も与えないわけにはいかなかったようで、わずかながら給料を支給していたようだ。塚原はこう記している。 「私の給料というものは、1ヶ月に1人半扶持に1両2分という取前だ。(部屋住だから当主の半減)かねての約束だから、私はその金1両で自分を賄って、残余の1人半

    静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし
    shibayan1954
    shibayan1954 2018/01/23
    塚原は東京にいた時は、敷地が400坪程度で部屋数が11間もあったのだが、静岡で住んだ家は、天井もなく6畳に2畳と台所があるだけの小さな古家だった。しかし徳川家家臣移住者の中では良い方だったという。