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shibayan1954のブックマーク (244)

  • 明治時代に参政権を剥奪された僧侶たち

    私が京都のお寺に生まれたことは何度かこのブログに書いたが、子供のころに何の理由もなく「くそ坊主」とか「洟垂れ小僧」などと罵られていやな思いをするようなことが何度かあった。 このようなことは私に限らずお寺で生まれた人は少なからず経験したとは思うのだが、私が時々このブログで紹介する「廃仏毀釈百年」というの著者である佐伯恵達氏も宮崎県のお寺の息子で、著書の中で「毎日のようにののしられ…、学校に行っても、一人の先生を除いて他の先生はすべて寺院を軽蔑し、…学校へ行くのがつらく、中学時代は、自分が寺などにどうして生まれたのだろうと、自分の出生をのろったものです。」と子供の頃を振り返っておられる。 この著書の中で佐伯氏は、このように僧侶を馬鹿にするような風潮は廃仏毀釈以降の事だと記されており目からウロコが落ちた。 少し長いがしばらく引用させて頂く。(同書p23-24) 「明治以来終戦まで、神職は官吏と

    明治時代に参政権を剥奪された僧侶たち
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/29
    日清戦争が開戦となった明治27年の2月の内務省訓令で僧侶の参政権が剥奪されている。 神官は国家的に保証された官吏であったが、僧侶は選挙運動もできなかった。その状態は昭和20年まで約50年間続いている。
  • 明治の皇室と仏教

    5年ほど前に京都東山にある東福寺の有名な紅葉を見た後に、すぐ近くの泉涌寺に立ち寄ったことがある。このお寺も紅葉で有名なので訪れただけなのだが、この時にこの泉涌寺で南北朝から安土桃山時代および江戸時代の歴代の多くの天皇の御葬儀がここで執り行われ、皇室とは縁の深いお寺であることをはじめて知った。 暗殺されたとの説もある幕末の孝明天皇の御葬儀もここで行われたのだが、孝明天皇の次は明治天皇だ。明治以前は京都に都があって天皇家が仏教徒であったという当たり前のことに気付かされたが、その頃は歴史にそれほど関心がなく、それ以上深くは考えなかった。 昨年あたりから廃仏毀釈の頃に興味を持つようになっていろいろ調べると、明治4年9月24日の「皇霊を宮中に遷祀する詔」により、「上古以来宮中に祀られていた仏堂・仏具・経典等、また天皇・皇后の念持仏など一切を天皇家の菩提寺である泉涌寺に遷し、その代わりとして神棚が宮中

    明治の皇室と仏教
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/29
    明治4年の「皇霊を宮中に遷祀する詔」により、上古以来宮中に祀られていた仏堂・仏具・経典等、また天皇・皇后の念持仏など一切を泉涌寺に遷し、その代わりとして神棚が宮中に置かれ、宮中より仏教色を一掃した。
  • 一度神社になった国宝吉野蔵王堂

    3年前の桜の時期にバス旅行で吉野に行ったことがある。有名な桜の名所だけに凄い人だった。 ここを訪れる人の大半が、行きか帰りに、東大寺大仏殿に次いで日で二番目に大きい木造建築物である金峯山寺(きんぶせんじ)の蔵王堂を参拝して休憩をとると思うのだが、この時はこの寺院の歴史を何も知らずにただ参拝しただけだった。 最近になって廃仏毀釈の事に興味を持つようになりいろいろ調べていくと、金峯山寺のホームページに「明治7年、明治政府により修験道が禁止され、金峯山寺は一時期、廃寺となり」と書いてある。たまたまカメラに収めた寺院の案内板にはもっと踏み込んで「神仏分離政策により、蔵王堂などが強制的に神社に改められる」と書かれてあるのを最近ようやく気がついた。この寺院も明治の初期に大変なことがあったのである。 今回はこの金峯山寺について書くことにしたい。 吉野山は古くからの修験の地であり、蔵王権現を祀る蔵王堂を

    一度神社になった国宝吉野蔵王堂
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/29
    明治四年から六年にかけて明治政府は、吉野の神仏分離を徹底せよとする指令をだし、明治七年には吉野一山は金精明神を金峰神社と改めて本社とし、山下の蔵王堂を口宮、山上蔵王堂を奥宮と定め仏像仏具は除去された。
  • 明治期の危機を乗り越えた東大寺

    以前このブログで、明治初期に奈良の大寺院が次々と廃寺になって、石高が大きい寺院で今も残っているのは、興福寺、法隆寺、東大寺、吉野蔵王堂だという事を書いた。興福寺と法隆寺の事はすでに書いたので、今回は東大寺の事を書こう。 ここに明治5年に撮影された、東大寺大仏殿の写真がある。重たい屋根を支えきれずに何か所が垂れ下がり、かなり屋根が歪んでいるように見える。崩れそうな屋根を支えるために、建物の外に木材が何か組み立てられているのも写っている。「軒反り」といわれる軒先の 微妙な反りがほとんどなくなっている。現在の東大寺と比較すればその違いは明らかである。 廃仏毀釈が吹き荒れた明治の初期の東大寺大仏殿がこんなに傷んでいて、大きな地震でもあれば倒壊してもおかしくない状況だったことを私が知ったのはつい最近の事だ。 当時の大仏殿は江戸時代の元禄期に再建されたもであったが、設計に狂いがあったために建築全体に

    明治期の危機を乗り越えた東大寺
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/29
    明治初期の廃仏毀釈の嵐がすぎて、日本の文化が再評価され出してから日本政府が完全に方針が変わるのは明治30年の古社寺保存法の公布の頃だが、それまでの東大寺の苦労は並大抵のものではなかったはずである。
  • 明治の初期に、鹿児島県で何があったのか

    以前「消えた門跡寺院」という表題で安永9年(1780)に刊行された「都名所図会」のことをブログに少し書いたが、その「都名所図会」が刊行されてから、全国で名所図会の出版がブームとなり、「江戸名所図会」「大和名所図会」「江戸名所図会」「木曽路名所図会」などが次々と出版された。 薩摩藩(現在の鹿児島県)についても「薩藩名勝志」という文化3年(1806)に出版されたが、このは薩摩藩の名勝や神社仏閣の由来などを485もの絵図とともに和歌等を織り込みながら解説した、19巻19冊の和装である。また、明治になってから出版されたが大隅藩、日向藩の名勝を書き加えられた「三国名勝図会」(三国とは「薩摩」「大隅」「日向」のこと)という60巻20冊の和装もある。 江戸時代の薩摩の名所や旧跡についてこれだけの案内書があるのなら、今も鹿児島県に観光名所となるような有名な寺院がいくつあってもおかしくないのだが、

    明治の初期に、鹿児島県で何があったのか
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    shibayan1954 2017/11/29
    現在鹿児島県に国宝が銘国宗の太刀1本だけしかないのは、明治初期の廃仏毀釈を抜きにしては語れない。「神仏分離資料」によると、この時期に鹿児島県の寺院1066寺が一つ残らず廃され、僧侶2964人が還俗させられた
  • 明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺

    明治の廃仏毀釈によって、全国で10万ケ寺あった寺院が5万ケ寺に減ったという記事を読んだことがある。その中で、浄土真宗は明治維新直後の廃仏毀釈の影響をあまり受けなかったと言われているが、いったいどういう経緯があったのか。 西願寺は江戸時代を通じ朝廷に忠誠を誓っており、明治に入っても巨額の寄付をしてきた経緯から、政府も手を出さなかったことは理解できる。 ところが東願寺は文久3年(1863)には徳川幕府に1万両の軍資金を提供したり、元治元年(1866)年の蛤御門の変で堂宇が類焼した後慶応2年(1866)には逆に幕府から5万両の寄進を受けている。慶応3年(1867)の大政奉還の後も、末寺の門徒、僧侶による軍隊を編成して、幕府の指揮下に入ることを申し出ているなど、一貫して佐幕派であったが、さすがに、戊辰戦争がはじまった頃には時代の潮流を感じたか、当時の厳如上人は朝廷に一札を入れて勤王方に着き、御

    明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺
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    shibayan1954 2017/11/28
    東本願寺は江戸幕末期に幕府に軍資金を提供したり、大政奉還の後も門徒、僧侶による軍隊を編成して幕府に協力を申し出るなど一貫して佐幕派であった。この寺が廃仏毀釈による破壊を免れるため大変な努力をしている。
  • 文化財を守った法隆寺管主の英断

    前回、明治の初期に奈良の大寺院が次々に廃寺となったことを書いた。江戸時代に石高の高かった8つの大寺院のうち3寺院が完全に破壊され、1寺院が神社になったのだが、残りの大寺院はどうだったのか。 現存している大寺院は興福寺、東大寺、法隆寺、吉野蔵王堂の4寺院であるが、この時期にいずれの寺院も存亡の危機にあったことは間違いない。 興福寺は以前も書いたが、廃仏毀釈時に僧侶全員が春日大社の神官となって明治5年には廃寺となり、明治14年に再び住職を置くことが認められるまでの9年間は無住の地となり、五重塔も売却されたが近隣住民の反対で焼却されずに済んだ経緯にある。 では他の大寺院はどうだったのか。今回は法隆寺の事を書こう。 岩波新書に関秀夫氏の「博物館の誕生」というがあり、その中に法隆寺の当時の状況を伺い知ることのできる記述がある。 「戒律の厳しい奈良の唐招提寺や聖徳太子ゆかりの法隆寺では、堂宇や仏像の

    文化財を守った法隆寺管主の英断
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/28
    明治初期に法隆寺は経済基盤を奪われ、仏像・仏具を廃棄して「聖徳神社」にされそうになったというが、明治11年に管主の千早定朝師の大英断によりこの経済的危機を乗り越えることになる。どうやって乗り越えたのか。
  • 寺院が神社に変身した談山神社

    3年前に談山神社の紅葉を見に行ったことがある。 事前にネットでこの神社を調べた際に十三重塔の写真を見て、「神社にこんな塔があるのは珍しいな」とは思ったが、その時はあまり深く考えなかった。 昨年来、明治時期の初期の歴史に興味を持つようになり、この、桜と紅葉の名所は廃仏毀釈までは多武峰(とおのみね)寺あるいは妙楽寺と呼ばれるお寺であったことを最近になって知った。 このお寺の歴史は古く、西暦678年に藤原鎌足の長男の僧定恵が、父の鎌足の墓をこの地に移して十三重塔を造立し、680年に講堂が創建され妙楽寺と号し、その後701年に堂が建築され、平安時代になると藤原氏の繁栄とともに隆盛したが、天台宗に転じて叡山の末寺となってからは興福寺と争い、度々興福寺の焼き討ちにあったといわれる。 江戸時代には寺領3000石、42坊の堂宇が存在したそうだが、廃仏毀釈の時に寺院のまま存続するか神社として存続するかで意

    寺院が神社に変身した談山神社
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    shibayan1954 2017/11/28
    紅葉で有名な奈良の談山神社は7世紀に藤原鎌足の長男の僧定恵が建立された妙楽寺という寺院であったが、廃仏毀釈の時に神社となり、多くの仏像・仏具・経典などがその時に二束三文で売却されたり棄却されたという。
  • 悲しき阿修羅像

    今年の春から秋にかけて東京と九州で開催された国宝阿修羅展は、それぞれ95万人、71万人という多数の入場者を集め大変な盛況だったそうだ。私も阿修羅像は大好きで、昨年の秋に正倉院展を見た後に、興福寺の国宝館の阿修羅像を鑑賞して帰った。 その時は興福寺の歴史を良く知らなかったのだが、興福寺は明治時代の初期に廃仏毀釈によって建物を壊されたり仏像仏具が消滅するなど甚大な被害を受けていることを後で知った。 今の奈良公園は廃仏毀釈以前はすべて興福寺の境内であったのだが、当時の奈良県知事が「往来の妨げになる」との理由で土塀を撤去させたらしい。そのために興福寺には今も門もなければ塀もない。正岡子規の俳句に「秋風や 囲いもなしに 興福寺」という作品があるそうだが、この経緯を知らなければこの句を理解することはできないだろう。 興福寺のホームページを見ると「古写真ギャラリー」があって、明治時代の19世紀後半に撮影

    悲しき阿修羅像
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    shibayan1954 2017/11/28
    興福寺のホームページを見ると「古写真ギャラリー」があって、明治時代の19世紀後半に撮影された72枚の写真が公表されている。その中に二本の腕がぽっきりと折れている阿修羅像の写真が残されている。
  • かみがもばなし

    以前、四条大橋が明治初期の廃仏毀釈で強制的に取り壊されたお寺の鐘や仏具を溶かして橋材に使われたことについて書いた。 この時期にどれだけのお寺が取り壊されたかについては良く分からないが、京都でこれだけのお寺が無くなったのであれば、庶民の記録のようなものが何か出てこないのだろうかとネットでいろいろ探したことがある。 当時は神社と寺院が共存していたことをヒントに、有名な神社をいくつか調べていくと、「かみがもばなし」というサイトの中の「お寺の話」が見つかった。しばらく引用させて頂くことにする。 http://www.kyoto.zaq.ne.jp/tyrannosaurus/kamigamo.html (以下引用) 『三百年も続いた江戸時代も、終わりを告げ時代も「明治」と改められた頃、新しい国づくりがはじまりました。 ここ上賀茂の地にも、新しい時代な波が押しよせてきました。そんなある日のこと、 「

    かみがもばなし
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    shibayan1954 2017/11/28
    明治に入るまでは京都の上賀茂神社に8つのお寺があったのだが、それらのお寺が廃仏毀釈で全て毀されるか移転されて全てなくなってしまった。下鴨神社も同様に神宮寺というお寺がこの時期に取り壊されている。
  • 消えた鶴岡八幡宮寺大塔など

    鎌倉の鶴岡八幡宮に以前は薬師堂や護摩堂や経堂や大塔があったことを最近知った。 鶴岡八幡宮は、明治以前は「鶴岡八幡宮寺」という神仏習合の寺院であり、明治初期の廃仏毀釈で仏教施設がすべて撤去されてしまったということである。 上の写真は江戸時代に書かれた境内図、下の写真は現在の境内図だが、現在の社務所や幼稚園、研修道場などのあるあたり一帯に仏教施設が建てられていたことがわかる。 幕末に来日したイギリス人の写真家フリーチェ・ベアトが江戸時代の「鶴岡八幡宮寺」の写真を残している。 上の写真はベアトが撮った大塔の写真と言われている。またこの時期に来日したスイス人の実業家エメェ・アンベールも、著書「絵で見る幕末日」(講談社学術文庫)の中で、当時の大塔の細密画を残している。 4つめの写真は破壊された愛染堂に安置されていた愛染明王の写真である。(今は五島美術館にある) 今でこそ「八幡」といえば神社を連想す

    消えた鶴岡八幡宮寺大塔など
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/28
    鎌倉の鶴岡八幡宮、明治以前は「鶴岡八幡宮寺」という神仏習合の寺院であり、明治初期の廃仏毀釈で護摩堂や経堂や大塔などの仏教施設がすべて撤去されてしまった。
  • 京都四条大橋の話

    京都市内を南北に流れる鴨川にはいくつもの橋があるが、祇園や東山を散策する際には四条大橋を行きか帰りに渡る人が大半だろう。 京都に生まれ育った私は何度四条大橋を渡ったかわからないが、最近インターネットでこの橋の歴史を調べて驚いた。 福武久さんという方が祇園の花街で発行されている「ぎをん」という雑誌に寄稿された文章を引用させていただくことにする。 http://www.mars.dti.ne.jp/~takefuku/essay/es02/es0209.html 『…鴨川にかかる数ある橋のなかでも、四条大橋は、すでに明治の初めから特別あつかいされてきた。木造だった橋は、明治七年、最初の鉄橋として生れかわっている。 京都で唯一の鉄橋を誕生させたのは、京都府と祇園の町衆だが、隠れた生みの親は廃仏毀釈という社会的現象なのである。 仏教を排斥する廃仏毀釈は明治五年ごろからはじまっているが、そのきっか

    京都四条大橋の話
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/28
    京都の四条大橋は明治七年に廃仏毀釈で強制的に供出させた仏具類を鋳潰して橋材に使われたことはあまり知られていない。その後大正2年に架けかえられ、現在の四条大橋は水害の後、昭和17年に架けられたものである。
  • 仏教伝来についての教科書の記述が書きかえられるのはいつか~~大和朝廷4

    前回の記事で、『日書紀』の「書」という文字は、日列島の中に「日国」とは別の有力な国家が存在していたことを意味しているという中小路駿逸氏の論文を紹介した。この論文を読むと、「4世紀中ごろまでに大和朝廷によってわが国の統一がされた」という日史の常識に、誰しも大きな疑問を持つことになるだろう。 前回記事の最後に、『日書紀』の敏達天皇13年(584)に仏法が播磨から大和に伝わった記録があることを書いたが、学生時代には「仏教伝来」は「538(ご参拝)」と年代を覚え、552年という説もあることを学んだ記憶がある。 584年説は中小路論文を読んで初めて知ったのだが、一体どの説が正しいのだろうか。 たとえば『もういちど読む山川の日史』には、こう解説されている。 「百済の聖明王からの公式の仏教伝来の年代については、壬申年=552年と戊午年=538年の二説がある。」前者は『日書紀』の説だが、その

    仏教伝来についての教科書の記述が書きかえられるのはいつか~~大和朝廷4
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/27
    学生時代には「仏教伝来」は「538(ご参拝)」と年代を覚え、552年という説もあることを学んだが、『日本書紀』の敏達天皇13年(584)に、仏法が播磨から大和に伝わり、「仏法の広まりはここから」と明記されている。
  • 『日本書紀』は、わが国が統一国家でなかった時代を記述している~~大和朝廷の統一3

    前回の記事で中国の正史である『旧唐書』に「倭国」と「日国」とは別の国として書かれていることを紹介した。 そこには「倭国」は昔の倭の奴国であり、代々中国に使節を送っていた国であることが明記されている。 『後漢書』には倭奴国が使節を派遣した際に光武帝が金印を授けたとの記録があり、その金印が江戸時代に福岡市東区の志賀島で発見されている。『隋書』には阿蘇山のことが書かれている。普通に考えれば、「倭国」は九州にあったと考えるしかない。 そして『旧唐書』には、「日國者倭國之別種也」と書かれており、「倭国」と「日国」とは別の国であると当時の中国人は判断したのだ。 中国と古来通交のあった倭国を日国が併合して倭国の歴史をも奪いとったのか、それとも倭国が日国を併合して新しい国名を「日国」としたのか、諸説があって当たり前なのだが、わが国の古代史学界では4世紀中ごろには天皇家を中心とする勢力によりわが

    『日本書紀』は、わが国が統一国家でなかった時代を記述している~~大和朝廷の統一3
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    shibayan1954 2017/11/27
    古代史学界では4世紀中頃には天皇家を中心とする勢力によりわが国は統一されていたことが通説になっている。通説の根拠は『日本書紀』を重視しているところにあるが、この説は中国の正史・旧唐書と矛盾している。
  • 唐の時代の正史では倭国と日本国とは別の国である~~大和朝廷の統一2

    学生時代に歴史を学んだ時に、「倭国」と「日国」とは同じ国のことだと教えられてずっと鵜呑みにしてきたのだが、最近になって中国の正史である『旧唐書(ぐとうしょ)』*東夷伝では「倭国」と「日国」とが別々に書かれている事を知った。それぞれの位置関係を記した部分を中心に、現代語で内容を紹介したい。 *『旧唐書』:中国五代十国時代の後晋出帝の時に編纂された歴史書。完成は開運2年(945) 先ず「倭国」である。 原文と読み下し文は次のURLで読むことが出来る。(原文の10行目までが「倭国」) http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/kutoujo/frame/kutoujo_frame.htm 「倭国は、古(いにしえ)の倭の奴国(なこく)である。都の長安から一万四千里、新羅の東南方の大海の中にある。倭人は山がちの島をねじろとして住んでいる。その島の広さは東端から西

    唐の時代の正史では倭国と日本国とは別の国である~~大和朝廷の統一2
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    shibayan1954 2017/11/27
    『旧唐書』東夷伝においては、冒頭で日本国が倭国とは異なる国であることを述べておきながら、日本国が倭国を併合したのか、倭国が名前を改めて日本国となったのか、真相が掴めきれていない書き方になっている。
  • 聖徳太子の時代にわが国は統一国家であったのか~~大和朝廷の統一1

    学生時代に、遅くとも4世紀の半ばまでには大和朝廷によってわが国が統一されたことを学んだ記憶があるが、最近の教科書もおおむね同様な結論になっているようだ。 たとえば『もういちど読む山川日史』の文では「大和朝廷」という言葉は使わずに「ヤマト政権」という表記をし、「ヤマト政権」が国内統一を行なった時期については文には明確な表現がないのだが、巻末の年表で西暦300年と400年の間に、「この頃大和王権、統一進む」と書いている。 その根拠について最近の教書に書かれているのは、3世紀後半に近畿地方や瀬戸内海沿岸・九州北部に古墳が造られ始め、4世紀は前方後円墳という特異な形状の古墳が多数築かれ、『山川日史』による解説によると 「このような大きな墳丘をもつ古墳は、これまでにみられなかった新しい政治的支配者の出現を示している。その中心は大和であったが、前方後円という一定の墳丘の形が地方に広まったことは

    聖徳太子の時代にわが国は統一国家であったのか~~大和朝廷の統一1
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    shibayan1954 2017/11/27
    聖徳太子は推古天皇即位後5ヶ月後に皇太子となり摂政として天皇の補佐に当たっており、『日本書紀』には「皇太子」という表記で聖徳太子の事績が記録されている。しかし遣隋使に関しては「皇太子」が出てこない。
  • 聖徳太子についての過去の常識はどこまで覆されるのか

    以前このブログで、明治4年の寺領上知の令で法隆寺の境内地が没収され、収入源も断たれたうえに廃仏毀釈で堂宇を荒らされ、雨でも降ればあちこちに水が漏るような状態になっていたことを書いた。 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-80.html この時期には僧侶の生活のために宝物を売りに出した寺院が多かったのだが、法隆寺は管主千早定朝の大英断により聖徳太子にかかわる宝物の多くを、一番安全な皇室に献納して国民の文化財を守り、1万円の下賜金を得て堂宇を修理し、金利を運営費に充てて寺院として存続できる道を開いたのである。 この時に皇室に献納した宝物は300点を超え、その中に「聖徳太子および二王子像」があり、現在皇室ゆかりの品として御物(宮内庁蔵)となっている。 この「聖徳太子および二王子像」が、現存する最古の肖像画として昔の教科書や歴史書に必ず掲載

    聖徳太子についての過去の常識はどこまで覆されるのか
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/26
    『日本書紀』では女帝である推古天皇の在位中であり、聖徳太子が摂政だったことになっている。ところが『隋書』では、この時期に倭国の王位にあったのは、男王であり、裴世清はこの男王に直接会って話をしている。
  • 世界最大級の墳墓である「仁徳天皇陵」が誰の陵墓か分からなくなった経緯

    大阪府堺市にある百舌鳥(もず)古墳群には、4世紀後半から5世紀後半に造られた47基の古墳が残されている。 なかでも「仁徳天皇陵」は墳長486mもあり、エジプトのクフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵とともに世界三大墳墓の一つに数えられていると学生時代に学んだ記憶がある。 現地にある「仁徳天皇陵」の説明版によると、「仁徳天皇67年の冬10月5日に、河内の石津原(堺市石津町~中百舌鳥町一帯)に行幸して陵地を定め、同月18日から工事を始めました。」とある。 また「仁徳天皇は、それから20年後の87年の春正月16日になくなり、同年の冬10月7日に百舌鳥野に葬られました。(古事記には毛受[もず]耳原陵と書かれています)」とも書かれている。在位が87年というのは長すぎて違和感を覚えるが、説明版には明確に「仁徳天皇陵」と書かれており、工事の時期から葬儀の時期までこんなに具体的に解説されていると、誰しもここが仁

    世界最大級の墳墓である「仁徳天皇陵」が誰の陵墓か分からなくなった経緯
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/26
    考古学の視点から陵墓の製作年代を調べると、履中天皇陵と比定されている上石津ミサンザイ古墳が一番古いという事が分かっている。履中天皇は仁徳天皇の子供で、子供の古墳の方が親の古墳より古いことはありえない。
  • 栄華を極めた藤原道長の晩年を襲った相次ぐ不幸な出来事

    藤原道長(966-1028)といえば摂関政治の全盛期を築き上げた人物で名高いが、この地位に昇りつめた経緯はすさまじいものがある。 教科書を読むと藤原道長の「4人の娘が天皇の后(きさき)となった」と簡単に書いてあるが、その異常性は西暦で生存期間や天皇家との関係を付記しておくとよくわかる。 道長の長女の彰子(しょうし:988-1074)は999年11月に一条天皇(980-1011)のもとに女御として入内させるが、翌1000年の2月に道長は彰子を皇后(号は「中宮」)とした。 一条天皇には先立の后(定子)がおり皇子もすでにいたのだが、道長は定子を「皇后宮」と号することで一帝二后を強行したという。「中宮」というのは二人の后が並立する場合の、「皇后」に次ぐ后の称である。 1008年に彰子は皇子・敦成親王(あつひらしんのう)を出産し、翌年に敦良親王(あつながしんのう)も生まれた。 1011年には一条天皇

    栄華を極めた藤原道長の晩年を襲った相次ぐ不幸な出来事
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/25
    藤原道長は、国家の実権を掌握し栄華の絶頂に達して頼通へ権力の承継も成功した。しかしながら、その生涯を調べると道長の晩年はまるで怨霊にたたられたかのように悲劇的なものであった。
  • 菅原道真が全国の天満宮で祀られることになった経緯

    「菅原道真」といえば「学問の神様」で有名だ。 菅原道真公をお祀りしている神社は全国にあり、「天満宮」あるいは「天神」と呼ばれて、京都の北野天満宮と大宰府天満宮が全国の天満宮の総社とされている。下の画像は北野天満宮の殿だ。 どれだけ「天満宮」が全国にあるかというと、1万社を超えるという説もあるようだが、次のサイトの記事では3,953社なのだそうだ。 http://miraikoro.3.pro.tok2.com/study/quiz/gb01-8.htm 「天満宮」では牛の像をよく見かけるのだが、これは「菅原道真公が丑年の生まれである」、「亡くなったのが丑の月の丑の日である」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など多くの説があり、どこまでが真実なのかは今となっては良くわからないそうだ。 しかし、なぜこれだけ多くの神社

    菅原道真が全国の天満宮で祀られることになった経緯
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/25
    菅原道真は北九州に左遷された二年後の延喜三年(903)に大宰府で死去し同地(現大宰府天満宮)で葬られたのだが、その後、京で異変が相次いで起こっている。道真の左遷に関係のある人々死に、自然災害も頻繁に起きた。