天正10年(1582)6月13日の深夜に、山崎の合戦に敗れた明智光秀が坂本城を目指して落ち延びる途中の京都山科の小栗栖(おぐるす)という地で、農民に竹槍で刺されて死んだという通説は作り話である事を前回の記事で書いた。 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-345.html 山崎の合戦の後に秀吉が書いた書状(『浅野家文書』)には「山科之藪之中へ北入、百姓ニ首をひろはれ申候」とある。 秀吉配下の武士は武功を上げるために、競って光秀を討ってその首を狙おうとする。 一方、光秀の家臣は必死で主君を守ろうし、もし主君が討たれても首だけは敵に渡すまいとするので、いずれにせよ主君の首が放置されることはあり得ない。 普通に考えれば、光秀の顔を知っているはずがない百姓が拾ったような首が、光秀のような重要人物のものであるはずがない。 秀吉も、百姓が拾ったよ
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