タグ

shibayan1954のブックマーク (244)

  • 光秀は山崎の合戦で死んでいないのではないか…「光秀=天海説」を考える その1

    天正10年(1582)6月13日の深夜に、山崎の合戦に敗れた明智光秀が坂城を目指して落ち延びる途中の京都山科の小栗栖(おぐるす)という地で、農民に竹槍で刺されて死んだという通説は作り話である事を前回の記事で書いた。 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-345.html 山崎の合戦の後に秀吉が書いた書状(『浅野家文書』)には「山科之藪之中へ北入、百姓ニ首をひろはれ申候」とある。 秀吉配下の武士は武功を上げるために、競って光秀を討ってその首を狙おうとする。 一方、光秀の家臣は必死で主君を守ろうし、もし主君が討たれても首だけは敵に渡すまいとするので、いずれにせよ主君の首が放置されることはあり得ない。 普通に考えれば、光秀の顔を知っているはずがない百姓が拾ったような首が、光秀のような重要人物のものであるはずがない。 秀吉も、百姓が拾ったよ

    光秀は山崎の合戦で死んでいないのではないか…「光秀=天海説」を考える その1
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/15
    岐阜県山県郡美山町に、山崎の合戦で明智光秀は死んでおらず、荒深小五郎と名乗って西洞の寺の林間に隠宅に住み、その後雲水の姿になって諸国遍歴の旅に出て、慶長5年(1600)に死んだという伝承がある。
  • 慈眼堂、滋賀院門跡から明智光秀の墓のある西教寺を訪ねて考えたこと

    日吉東照宮からケーブルの坂駅方面に抜けて右折し、坂を下って県道47号線を超えると、すぐ近くに滋賀院門跡につながる小道がある。しばらくこの小道を歩くと、木々に囲まれて、スギ苔と石畳の美しい空間に辿りつく。 石灯籠が導く先には、天台宗の僧で徳川家康の政治顧問であった南光坊天海の坐像のある廟所で、三代将軍徳川家光が作らせたという延暦寺慈眼堂(滋賀県文化財:大津市坂4-6)という建物がある。 慈眼堂の向かって左には、近世以降の天台座主らの廟所になっていて多くの石造五輪塔や宝篋印塔がある。あまり詳しく見なかったのだが、桓武天皇、後陽成天王、後水尾天皇や、徳川家康、新田義貞、紫式部、和泉式部などの供養塔もここにあるそうだ。 慈眼堂から右に進むと下り坂が続いてすぐに滋賀院門跡(077-578-0130、大津市坂4-1772)が見えてくる。 案内板には寺の由来をこう解説している。 「元和元年(161

    慈眼堂、滋賀院門跡から明智光秀の墓のある西教寺を訪ねて考えたこと
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/15
    光秀は山崎の合戦に敗れて落ち延びる途中、小栗栖という地で農民に竹槍で刺された後、家臣に介錯させて自害したとされているのだが、墓のある西教寺には光秀本人の首が確認されていないのである。
  • GHQが日本人に封印した歴史を読む~~イギリスとインド・中国

    前回の記事で、GHQ焚書である菊池寛の『大衆明治史』に書かれている文章を紹介した。 今回は、GHQが終戦直後から実施した検閲に引っかかって、抹消された文章を紹介しよう。 アメリカのメリーランド大学にあるマッケルディン図書館に、プランゲ文庫といってGHQの検閲官が検閲したゲラ原稿の資料が持ち帰られて保存され、マイクロフィルム化されて誰でも自由に閲覧ができるようになっているそうだ。このプランゲ文庫を5年間にわたり調査して、日歴史がいかにGHQによって歪められたかを紹介したがある。 『抹殺された大東亜戦争~~米軍占領下の検閲が歪めたもの』(勝岡寛次著:明成社)というがこれから紹介するなのだが、プランゲ文庫を引用する場合は検閲官が当初の論文のどの部分を削除したかがわかるようにして近世以降の日史を纏めておられる。このと他のを対比すると、占領軍がどんな歴史を日人の頭に叩き込みたかった

    GHQが日本人に封印した歴史を読む~~イギリスとインド・中国
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/13
    米国メリーランド大にGHQ検閲官が検閲したゲラ原稿が保存されている。これを研究した勝岡寛次氏の著書と日本の教科書とを読み比べると、GHQが日本人に知らせたくなかった歴史があり、真実が歪められているのがわかる。
  • 「宮崎県」が存在しなかった、明治の頃のこと

    今年の1月に、明治の一時期に奈良県が存在しなかったことを書いた。私もこのブログをはじめるまでは、奈良県が存在しなかったことがあることを考えもしなかったが、明治9年に奈良県は大阪南部にあった堺県に編入され、明治14年には堺県が大阪府に編入されてしまっている。その後、恒岡直史議員らの粘り強い活動により明治20年に奈良県が再設置されるのだが、それまでの11年半は「奈良県」が我が国に存在しなかった史実がある。 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-90.html 奈良県の再設置運動は小説にしても良いようなドラマがあったが、いろいろ調べると、明治4年7月には府県数は3府302県もあったのだが、相当組み替えられて同年の11月には3府72県に統合されている。(第一次府県統合)。 また明治9年(1876)4月と8月の二度にわたり、再び全国的な府県統合

    「宮崎県」が存在しなかった、明治の頃のこと
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/10
    明治12年の頃の日本地図には、富山県、福井県、奈良県、鳥取県、徳島県、香川県、佐賀県、宮崎県の8県が存在しない。これらの県はいずれも第二次府県統合の後で、地元民の尽力により復活されたものである。
  • 県名と県庁所在地とが同じ県と違う県の意味?と歴史

    はじめて日の地理を学んだときに、県名と県庁所在地名をセットで覚えた。その時に多くの人は、例えば奈良県・奈良市や岡山県・岡山市というように県庁所在地の名称がそのまま県名になっていることか多いので、三重県・津市のような例外の18都道府県だけしっかり覚えれば良いということに気が付いて、例外の県だけをしっかり学習する。 県名は明治4年の廃藩置県で決まったものだが、何故このような例外が生じたかについてはあまり考えず、何も知らずに過ごしてきた。 最近この問題に興味を持っていろいろ調べると、たとえば司馬遼太郎が「街道を行く(3)」で次のように書いている。 「明治政府がこんにちの都道府県をつくるとき、どの土地が官軍に属し、どの土地が佐幕もしくは日和見であったかということを後世にわかるように烙印を押した。 その藩都(県庁所在地)の名称がそのまま県名になっている県が、官軍側である。 薩摩藩-鹿児島市が鹿児島

    県名と県庁所在地とが同じ県と違う県の意味?と歴史
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/10
    県庁所在地市の名称がそのまま県名になっているケースが大半だが、18の都道府県が例外となっている。 県名は明治4年の廃藩置県で決まったものだが、どういう経緯でこのような例外が生じたのだろうか。
  • 「奈良県」が地図から消えた明治の頃のこと

    奈良県にはかって飛鳥浄御原京や平城京があり、古い寺院や神社が多くて日人の心のふるさとでもある。この重厚な歴史のある「奈良県」という県名が、かって地図から消えたことがあることなど思いもよらなかったが、明治時代の11年半にわたって奈良県が消滅していることを最近インターネットで知った。 「なら」は「奈良」と書いたり「寧楽」と書いたり「平城」とも表記されるが、平安時代から鎌倉時代にかけて東大寺や興福寺の門前町として「奈良町」が生まれ、江戸時代には奈良町に奉行所がおかれて政治の中心地となっていた。 明治新政府も奈良町に大和国(郡山藩、高取藩、柳生藩など)鎮撫総督府をおき、慶応4年に「奈良縣」と名付けられた。 明治時代に「奈良縣」は「奈良府」と呼ばれたり、また「奈良縣」に戻ったりめまぐるしく名前が変わっただけでなく、境界線も何度も変わっている。たとえば、明治3年には吉野郡あたりは「五条縣」であったし

    「奈良県」が地図から消えた明治の頃のこと
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/10
    明治9年4月に府県の統廃合が行われて奈良県は堺県に編入され、ついで明治14年には堺県が大阪府に編入されてしまった。要するに明治20年11月に再び奈良県が誕生する迄の11年半「奈良県」は地図上に存在しなかった。
  • 伊達政宗はいかにして幕府に対する謀反の疑いから逃れたのか~~慶長遣欧使節4

    慶長遣欧使節は日人が初めてヨーロッパの国を訪れて外交交渉をし、1615年1月30日にはエスパーニャ国王フェリペ3世に、同11月3日にはローマ教皇パウルス5世に謁見したのだが交渉は成功せず、支倉常長は、ソテロをフィリピンに残したまま、元和6年8月24日(1620年9月20日)に帰国した。 伊達政宗は常長から遣欧使節の絶望的な報告を聞いたはずなのだが、記録は何も残されていない。 支倉常長が日を出発した慶長18年9月15日(1613年10月28日)から7年が経過し、その間にキリシタン弾圧が強化されていった。まずこの経過を見てみたい。 江戸幕府は遣欧使節が出発する前年の慶長17年3月21日(1612年4月21日)に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じた禁教令を布告している。 そしてその翌年の慶長18年2月19日(1613年1月28日)、幕府は直轄地へ出していた

    伊達政宗はいかにして幕府に対する謀反の疑いから逃れたのか~~慶長遣欧使節4
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/09
    当然幕府は政宗の謀反を疑った。伊達政宗はそれまでキリシタンを弾圧することはなかったのだが、支倉常長が長崎に上陸したという情報を得て豹変し、急遽キリシタンの取り締まりを決意した。
  • 教皇謁見を果たしスペインに戻ると、国外退去を命じられた~~慶長遣欧使節3

    1615年8月22日、遣欧使節一行はスペインのマドリードを出発してローマに向かった。 この直前の8月1日付でスペイン国王フェリペ3世(画像)は、ローマ駐在大使フランシスコ・デ・カストロ伯爵に対し、支倉常長以下使節一行がローマ滞在中に援助をするように命じた書簡を送っている。 「…日における奥州の王の大使が当地に参り、今その地(ローマ)へ渡航しようとしております。その重大な目的については、彼が諸君らに直接告げるでしょう。当地で協議した用件(交渉事)は、われらの主のために非常に有益であった。朕の名において彼(支倉)を助け、彼が諸君に求めることはすべて朕が非常によく奉仕したように、貴下も同様に彼らのために最も都合の良い方法で援助するように命じます。…」(「伊達政宗の密使」p.164所収) この書簡の中で国王は支倉常長を「誠実で尊敬できる人物であり、人柄も賞賛を受けるに値し」と絶賛しているのだ。

    教皇謁見を果たしスペインに戻ると、国外退去を命じられた~~慶長遣欧使節3
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/09
    使節一行はローマに75日間滞在したが、期待した成果をほとんど得ることなく1616年1月7日にローマを去り再びスペインに向かったが、ようやくスペインに戻るとインディアス顧問会議から国外退去の勧告を受けている。
  • メキシコで歓迎されず、スペインでは諸侯並に格下げされた~~慶長遣欧使節2

    前回は、伊達政宗が慶長遣欧使節をスペインやローマに派遣した経緯と、真の派遣目的についての大泉光一氏の説を紹介した。 今回は、この使節が訪れた国々に残された記録から、この使節がどういう行動を取り、派遣先の国にどう記録されているかをみてみよう。 慶長遣欧使節は慶長18年9月15日(1613年10月28日)にサンファンバウティスタ号で牡鹿半島の月ノ浦(現在の宮城県石巻市)を出帆し、3ヶ月後の1614年1月28日にメキシコのアカプルコに入港した。 Wikipediaによると「3月4日、使節団の先遣隊がメキシコシティに入った。先遣隊の武士がメキシコシティで盗人を無礼討ちにし常長ら10人を除き武器を取り上げられた。」と記述されており、メキシコに着くなりいきなりトラブルからスタートしている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E9%81%A3

    メキシコで歓迎されず、スペインでは諸侯並に格下げされた~~慶長遣欧使節2
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/09
    スペイン・ローマを目指した支倉常長やソテロらは、遂に1614年10月にスペイン王国最大の商業都市セビリヤ市に到着した。スペイン国王にはイエズス会から、日本において幕府がキリスト教を禁止している情報入っていた。
  • 伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1

    学生時代に仙台藩主伊達政宗が、慶長18年(1613)に家臣支倉常長をローマ教皇とスペイン国王のもとに派遣したことを学んだ(慶長遣欧使節)。 改めて「もう一度読む 山川の日史」を読みなおすと、慶長遣欧使節に関しては「メキシコとの直接貿易をめざしたが、目的は達することが出来なかった」とのコメントがあるだけだ。 しかし、なぜ江戸幕府を差し置いて仙台藩がスペインとの交渉を直接行うことになったのであろうか。また、江戸幕府がキリスト教を禁止していた時期にもかかわらずこの使節がローマ教皇に謁見したことに違和感を覚えていた。 幕府が最初のキリスト教の禁教令を布告したのは慶長17年3月(1612)で、この時に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じ、そしてその年の8月にはキリシタン禁止が明確に成文化されて、法令として全国の諸大名に公布され、領内の一般庶民にキリシタン禁制が義務

    伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/09
    前年に公布された幕府の禁教令にも関わらず、仙台藩主伊達政宗が慶長18年(1613)に家臣支倉常長をローマ教皇とスペイン国王のもとに派遣している。この時期に政宗が慶長遣欧使節を送った目的はどこにあったのか。
  • 幕府瓦解後に進行した江戸の荒廃と、政府転覆を目論む勢力の拡大を食い止めた東京遷都

    以前このブログで、明治2年(1869)に『遷都の詔勅』が出されないまま「東京遷都」が強行されたことについて、京都を中心に書いた。 教科書では東京遷都について、 「人心を一新するため、同年(1869)9月、年号を明治とあらため、天皇一代のあいだ一年号とする一世一元の制をたてた。同年7月、江戸は東京とあらためられ、明治天皇が京都から東京に移ったのをはじめ、翌年には政府の諸機関も東京に移された。」(『もういちど読む 山川日史』p.218) などと簡単に書かれているのだが、当時の京都地図を『”超検索”幕末京都地図』で確認すると、今の京都大学のキャンパスには以前は尾張徳川屋敷や土佐山内屋敷などがあり、同志社大学のキャンパスには薩摩島津屋敷や多くの宮家や公家屋敷があり、平安神宮から市立美術館、市立動物園あたりも、彦根井伊屋敷、越前松平屋敷、加賀前田屋敷があったことがわかる。 http://onjwe

    幕府瓦解後に進行した江戸の荒廃と、政府転覆を目論む勢力の拡大を食い止めた東京遷都
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/08
    江戸には徳川家家臣や諸藩の屋敷が数多く置かれていたのだが、参勤交代が無くなりこれらも不要となって空き家となり、江戸の人口は急減して急速に荒廃し、治安も悪化した。東京遷都はその対策として発案された。
  • 東京遷都のあとの京都の衰退にどうやって歯止めをかけたか

    前回の記事で、明治2年(1869)の「東京遷都」の際に「遷都の詔勅」が出ておらず、東京を首都とする法令も政令も出ていないことを書いた。 明治政府は京都市民らを騙して東京移転することを強行したのだが、「遷都の詔勅」が出せなかったほど京都市民らによる反対が大きかったということだろう。 明治政府がそこまでして「遷都」を強行したことを、どう評価すればよいのだろうか。 前回の記事で紹介した故大石慎三郎氏の『日の遷都の系譜』という論文には、もし東京遷都がなければ、中央集権的統一国家が簡単には生まれなかったのではないかと書いておられる。 「…江戸時代の日は…金を主要通貨とする関東・東国経済圏と、銀を主要通貨とする畿内・西国経済圏とがあった。 これを金経済圏に足場をおく徳川氏が力で銀経済圏をおさえこみ、統合していたというのが江戸時代の基構図であった。幕末政争はこのような状況のなか、銀を主要通貨とする

    東京遷都のあとの京都の衰退にどうやって歯止めをかけたか
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/08
    首都の機能が東京に移転してしまえば、京都の人口は大幅に減少し、武家や公家が贔屓にしていた店や寺社は収入が激減して産業は衰退し、あちこちに住人不在の屋敷が残され荒廃していく。それをどうやって防いだのか。
  • 正式な手続きなしで「東京遷都」が強行された背景を考える

    京都に生まれ育ったこともあって、京都御所の一般公開には何度か行った。 京都御所は毎年春と秋の2回一般公開が行われ、紫宸殿や清涼殿などが公開されるのだが、公開日数がそれぞれ5日程度と短く、期間中は大勢の観光客が訪れる。 上の画像は3年前の春に公開の時に撮った紫宸殿だが、この建物の中央の奥に天皇が即位される儀式で天皇の御座(ぎょざ)として用いられる「高御座(たかみくら)」の一部が見える。 この時は「現在の高御座は古制に則って、大正天皇即位式の際に造られたものです」との解説板をあまり深く考えずに読んだだけだったのだが、最近になって、「高御座」が東京の皇居には存在せず、京都御所に常設されていることを知った。 「高御座」が京都に常設されているために、明治天皇のあとの大正天皇、昭和天皇の即位の大礼はいずれも京都御所で執り行われている。今上天皇の即位の際には、この「高御座」を東京の皇居まで運んで大礼が行

    正式な手続きなしで「東京遷都」が強行された背景を考える
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/08
    明治二年(1869)三月明治天皇は京都を離れて東京へと遷り、翌年には太政官もそれを追った。しかし遷都の詔は発布されておらず、天皇が即位される儀式で用いられる高御座(たかみくら)は今も京都御所に残されている。
  • 軍部が情報を握りつぶした「昭和東南海地震」

    真珠湾の奇襲攻撃に成功してからほぼ3年が経過した昭和19年(1944)12月7日午後1時36分に、M7.9の巨大地震が起っている。地震の震源は和歌山県新宮市付近で、断層の破壊は北東方向に進んで浜名湖付近まで達したという。 内閣府『防災情報のページ』にはこう記されている。 「…海洋プレートの沈み込みに伴い発生したマグニチュード7.9の地震で、授業・勤務時間帯に重なったこともあり、学校や軍需工場等を中心に死者1,223人の被害が発生した。…震度6弱相当以上となった範囲は、三重県から静岡県の御前崎までの沿岸域の一部にまで及び、津波は伊豆半島から紀伊半島までを襲った。」 http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1944-tounankaiJISHIN/ 三重県津市や四日市市、静岡県御前崎市、長野県諏訪市で震度6を記録し、

    軍部が情報を握りつぶした「昭和東南海地震」
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/07
    昭和19年(1944)12月7日の昼過ぎに、和歌山県新宮市付近を震源とするM7.9の巨大地震(昭和東南海地震)が起こり、死者1,223人の被害が出たのだが、戦意高揚に逆行するためこの地震の情報を軍部が握りつぶしている。
  • 『明暦の大火』の火元の謎を追う

    明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月20日(3月4日)にかけて、猛烈な火が江戸を襲い、江戸市街の約6割が焼け、特に江戸開府以来の古い市街地はほぼすべてが焼失し、焼死者が十万人余を数えたという大火災が発生した。世に言う「明暦の大火」である。 この大火の様子が『むさしあぶみ』という当時の書物に詳細に記載されている。 作家隆慶太郎氏が、自らの歴史小説で参考にした史料をHPの「文献資料室」で公開しておられて、『むさしあぶみ』の「明暦の大火」の記述の一部を原文で読むことができる。 http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/cn14/pg146.html そこには、 「…去年霜月の比より今日にいたるまて。既に八十日ばかり雨一滴もふらて乾切たる家のうへに。火のこ(粉)おちかゝりはげしき風に吹たてられて。車輪のごとくなる猛火地にほとはしり。町中に引出し火急を

    『明暦の大火』の火元の謎を追う
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/07
    明暦3年1月18日から1月20日にかけて、江戸市街の約6割が焼けた『明暦の大火』の火元は本郷丸山町の本妙寺と言われているが、その本妙寺のHPには「幕府の要請により(本妙寺が)火元の汚名をかぶった」と書かれている。
  • 国宝の明通寺本堂・三重塔から紅葉名所・萬徳寺などの古刹を訪ねて~~若狭カニ旅行2

    前回は「お水送り」の神事を行う若狭神宮寺のことを中心に書いたが、今回はほかのお寺のことを書くことにする。小浜には歴史のある素晴らしいお寺がいくつもあり、とても一日では巡りきれないくらいだ。 福井県の建築物で国宝あるいは重要文化財に指定されているものは26棟あるのだが、このうち小浜市に7棟が存在する。うち2棟は国宝で、福井県の国宝はこの2棟しかない。また彫刻では46躯のうち24躯が小浜市に存在しその大半が仏像だ。 http://info.pref.fukui.jp/bunka/bunkazai/sitei/itiran.html 旅行から帰ってから見つけたのだが、若狭おばま観光案内所作成のデジタルパンフレットは、非常によくできている。小浜の古刹の素晴らしい仏像の画像とマップとを古刹の由来と住所・電話番号が記載されており、小浜の古刹巡りは、このファイルを印刷しておけば、自転車で巡るにせよ、カー

    国宝の明通寺本堂・三重塔から紅葉名所・萬徳寺などの古刹を訪ねて~~若狭カニ旅行2
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/07
    福井県の建築物で国宝あるいは重要文化財に指定されているものは26棟あり、このうち小浜市に7棟が存在する。うち2棟は国宝で、福井県の国宝はこの2棟だけだ。彫刻では46躯のうち24躯が小浜市に存在しその大半が仏像だ。
  • 東大寺二月堂に向け毎年「お水送り」神事を行う若狭神宮寺を訪ねて~~若狭カニ旅行1

    東大寺の有名な「お水取り」は修二会(しゅにえ)と呼ばれ、天平勝宝4年(752)東大寺開山良弁(ろうべん)僧上の高弟、実忠和尚によってはじめられた春を迎える法会で、尊の十一面観音の前で、11人の僧侶(練行衆)たちが、全ての人の罪を背負って懺悔をし、全ての人に代わって祈る法会である。 この行事は過去一度も途絶えることなく続けられて今年は1260回目の「お水取り」が行われたことになる。 この「お水取り」という行事の前に「お水送り」という神事があり、それが福井県小浜市にある古刹で、毎年行われていることに興味を覚えて、「お水送り」の舞台となる若狭神宮寺や鵜の瀬(うのせ)を訪ねてきた。 上の画像はネットで検索した毎年3月2日に行われる「お水送り」の画像だが、白い装束で身を包んだ僧侶や神人が松明を掲げて鵜の瀬に進み、若狭神宮寺の住職が東大寺の「若狭井」に向かって送水文を読み上げ、邪気払いをしたのち後御

    東大寺二月堂に向け毎年「お水送り」神事を行う若狭神宮寺を訪ねて~~若狭カニ旅行1
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/07
    若狭神宮寺は今も神仏混淆の伝統を​継いでいる寺で、東大寺の二月堂のお水取りに先立って、お​水送りの神事を奈良・平安の時代から続けている古刹である。ここから平安京、平城京、飛鳥、熊野はほぼ直線上にある。
  • 赤穂浪士の討入りの後、吉良上野介の跡継ぎの義周はどうなったのか~~忠臣蔵5

    赤穂浪士四十七人が吉良屋敷に討ち入りをし、主君であった浅野内匠頭に代わって吉良上野介を討ち果たしたのだが、この時吉良の家臣たちはどう戦ったのだろう。 『忠臣蔵新聞第234号』に、赤穂市発行の『忠臣蔵第一巻(概説編)』にまとめられた吉良家側の死傷者の数がでている。 http://chushingura.biz/gisinews07/news234.htm それによると、 「屋内での死者二人、負傷者二人、屋外での死者・負傷者は六人と一七人、合わせて死者は一七人、負傷者は二八人、合計四五人であった。死者の過半は瀕死の重傷をうけ一五日中に死亡した者、負傷者は寝ていて起き上がったところで切られた者がほとんどである」 「長屋に閉じ込められ外へ出られなかった者は用人一人、中間頭一人、徒士の者五人、足軽七人、中間八六人であり、抵抗しなかった裏門番一人と合わせて一○一人が死傷をまぬかれた。それに、この夜

    赤穂浪士の討入りの後、吉良上野介の跡継ぎの義周はどうなったのか~~忠臣蔵5
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/06
    吉良義周の墓には「世論に圧され​ていわれなき無念の罪を背負い、配流された先でつぎつぎに肉親​の死を知り、悶々のうちに若き命を終えた。公よ、あなたは元禄事​件最大の被害者であった。」と記されている。
  • 江戸幕府が赤穂浪士の吉良邸討入りを仕向けたのではないのか~~忠臣蔵4

    赤穂浪士による吉良邸討入りの前日である十二月十三日に赤穂藩筆頭家老の大石内蔵助が赤穂の花岳寺の恵光師、正福寺の良雪師、神護寺にあてた手紙が残されている。大石の遺書とも呼ぶべきものだが、そこには驚くべきことが書かれている。 次のURLで原文と現代語訳が掲載されている。現代語訳を引用させていただく。 http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/gisinews07/news194.htm 「東下りの関所においても無事であり、心配していたことも無く下向できました。他の同志も追々に江戸に入り、私も江戸に入りました。これについては噂も色々あるようです。若年寄もご存じの様に思いますが、何のおかまいもありません。吉良邸を打ち破ることは特別で、その通りにさせておこうとしていると推察しています。私たちが亡君のための忠義の死と感じたのでしょうか、何の障害もなく、安堵しています。」

    江戸幕府が赤穂浪士の吉良邸討入りを仕向けたのではないのか~~忠臣蔵4
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/06
    大石内蔵助が吉良邸討入りの前日に書いた手紙に、幕府​は赤穂浪士がいよいよ吉良邸に討入りすること​を知りながら、その通りにさせようとしていると書いている。
  • 赤穂浪士に切腹を許した江戸幕府の判断は正しかったのか~~忠臣蔵3

    吉良邸討ち入りを決行した赤穂浪士を死罪とするか、切腹させるか、助命するかで意見が割れて幕府がその判断に随分苦慮したことを前回の記事で書いた。 当時の著名な学者にも意見を求め、結局荻生徂徠の意見が採用されて赤穂浪士たちには切腹が命じられたのだが、五代将軍徳川綱吉はこの裁断を下すのに、なんと四十日近くかけたのだそうだ。 将軍綱吉といえば貞享4年(1687)に出した「生類憐みの令」があまりに有名で、厳しい態度で政治に臨んで民衆を苦しめたイメージがあるのだが、学問を重んじて文治政治を推進し、好景気を現出して近松門左衛門、井原西鶴、松尾芭蕉らの文化人を生み、新井白石、室鳩巣、荻生徂徠らの学者を多く輩出し、最近では少なくとも綱吉の治世の前半については評価が高まっているという。 綱吉は特に儒学(朱子学)を重視した影響から尊皇心が非常に厚く、元禄14年(1701)の松の廊下事件の際に、浅野内匠頭が大名とし

    赤穂浪士に切腹を許した江戸幕府の判断は正しかったのか~~忠臣蔵3
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/06
    赤穂浪士の討入りで上野介を討ち果たした後、将軍綱吉は赤穂浪士の処分を決めるのに四十日近くかけている。結局全員に切腹が命じられたのだが、赤穂浪士の討入りを義挙とする幕府の判断に、問​題はなかったか。