「里山」の言葉を生んだ森林生態学者で京都府立大学長などを務めた京都大名誉教授、四手井綱英(しでい・つなひで)さんが26日、肺炎のため亡くなった。97歳。葬儀は親族のみで行う。喪主は妻淑子(よしこ)さん。 京都市生まれ。今西錦司らと共に京都大学士山岳会を結成した物理学者の故四手井綱彦・京都大名誉教授は次兄。妻の淑子さんはキノコ研究者でエッセイスト。 京都帝国大農学部林学科を卒業後、農林省林野庁林業試験場技官を経て1954年、母校の教授に就任。「造林学の基礎は生態学」との理念から、日本の大学で初の「森林生態学講座」を開講した。その後、日本モンキーセンター所長などを歴任。 戦後の林業政策を「木材生産一辺倒」と批判。森を一斉に伐採し杉やヒノキを植える「皆伐一斉人工造林」や大規模な林道開発に警鐘を鳴らした。晩年まで各地の自然保護活動にかかわり、ワシ、タカなど野鳥の保護でも積極的に発言した。 林学では
日本における森林生態学の草分けで、自然保護の指導的な存在だった京都大名誉教授で元京都府立大学長の四手井綱英(しでい・つなひで)さんが26日、肺炎のため死去した。97歳だった。葬儀は近親者だけで営む。喪主は妻淑子さん。 京都市出身。幼いころから山に親しみ、京大農学部林学科を卒業。秋田営林局に入った。1954年、母校・京大の教授に。「生態学の助けを借りなければ、造林に関する基礎的な研究はできない」と、教室の専門科目名を「造林学」から「森林生態学」に変更した。「里山」という言葉の提唱者であり、科学的な森林研究の基礎を築いた。 75年に京大を退官したあと、日本モンキーセンター所長を経て、80年から6年間、京都府立大学長を務めた。その後も、和歌山県新宮市の「浮島の森」や大阪府と和歌山県の境にある葛城山系のブナ林保全など、自然保護の指導者として精力的に活動。98年に南方熊楠賞を受けた。
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