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ブックマーク / www.tapthepop.net (8)

  • ぼくたちの失敗・森田童子〜引退から10年後に突如として注目を集めた謎のカリスマ歌手

    森田童子。 彼女は、人前ではサングラスを決して外さなかったといわれている。 名も素顔もすべて謎のアーティストである。 公表しているパーソナルデータといえば…1952年1月15日に東京都で生まれたということくらいだ。 1970年代の中頃…音楽ファンの一部からはカリスマ的な存在として注目も浴びていたが、人がメジャーな展開を望んでいなかったこともあり、メディアなどで表立って紹介されることもなかったという。 活動当時にはさほどヒットを飛ばすこともなく1983年に引退。 そして10年の歳月が流れる…。 この「ぼくたちの失敗」は、1993年にヒットしたTVドラマ『高校教師』の主題歌に起用され、突如としてヒットチャートに躍り出ることとなった。 真田広之と桜井幸子の主演によって、教師と生徒の愛という禁断のテーマが描かれた物語は、野島伸司がTBSで初めて連続ドラマの脚を手掛け、最終回に33%という高視

    ぼくたちの失敗・森田童子〜引退から10年後に突如として注目を集めた謎のカリスマ歌手
  • ボ・ガンボスの「トンネルぬけて」と山口冨士夫の「トンネル天国」をつないだ村八分

    ボ・ガンボスを結成することになる前のどんとは、京都が生んだ伝説的なロックバンド、村八分に歌い方も詩も全部が染まったという時期があったという。 村八分との出会いについて、こんな文章を残している。(注1) おれは京都でバンドを始めたばかりで、来る日も来る日もボロボロの練習場でガンガン演奏してたのだが、ある日真っ黒い服を着た髪のボサボサ不気味な兄ちゃんが、フラフラと現れ、おれたちの演奏に合わせてマラカスをシャカシャカ振り始めた。 何も言わずにヨロヨロして兄ちゃんは、おれたちのライブにもやってきてずっとマラカスを振って、終わると「ありがとう。楽しかったワ」と言って去っていった。 「誰や?あの人は」と聞くと先輩の男が「あれは村八分というスゴイバンドのボーカルやったチャー坊という強力な奴だ。」と教えてくれた。 それからしばらく経ってローザ・ルクセンブルグを結成したどんとは、1985年にヨーロッパを3ヶ

    ボ・ガンボスの「トンネルぬけて」と山口冨士夫の「トンネル天国」をつないだ村八分
  • 2019年に逝ってしまったレジェンド~内田裕也語録その1「ロックという生き方」

    1976年に出版した著書「俺はロッキンローラー」(高平哲郎構成 講談社) の中で、当時の内田裕也が語っていた99 人の著名人についてのコメントが残っている。 当時は30代の半ばだった内田裕也は、1974年8月に福島県郡山市で地元の有志が始めたワンステップフェスティバルに協力し、日中のロックバンドの他に海外からオノ・ヨーコとプラスティック・オノ・バンドを呼んだことで大いに注目された。 1975年8月には念願であった「第1回ワールドロック・フェスティバル」を開催し、ジェフ・ベックやニューヨーク・ドールズを招聘するなどなど、内外のロックの発展に力を尽くした。 世界のロック・アーティストと対等に話ができる数少ない日人として、フェスの裏方という役割を務めるかたわら、俳優としてユニークな個性を発揮していったのも、この時期からからのことだった。 そんな頃に出た最初の著書で「一体何人くらいの人間にあっ

    2019年に逝ってしまったレジェンド~内田裕也語録その1「ロックという生き方」
  • 伝説となった紅白歌合戦の「夜へ急ぐ人」~ちあきなおみとジャニス・ジョプリンの狂気|TAP the LIVE|TAP the POP

    まったく面識もなければ縁もなかったちあきなおみから、友川カズキが楽曲を依頼されたのは突然のことだった。 それが1977年のことで、友川はそのとき大阪にいた。 「ちあきさん、その頃ステージでジャニスの曲も歌ってたのよ。 だから、曲は意外とあっさり作れたの。 ジャニスに曲書いてるような気分だったからね」 (『友川カズキ独白録 生きてるって言ってみろ』より) ちあきなおみはジャジーなポップスを歌うシンガーとして「雨にぬれた慕情」で1969年にデビューしたが、「四つのお願い」がヒットした翌年に早くもNHK紅白歌合戦への出場を果たしている。 1972年には「喝采」がレコード大賞に輝き、「劇場」「夜間飛行」といったヒット曲が続いて、紅白の常連になった。 しかし1975年に27歳になったちあきなおみは意を決して、13歳の時から15年間も所属した三芳プロを離れた。 それを境にして、音楽活動における表現の幅

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  • 「プカプカ」のモデルとなったのは激動の時代を駆け抜けたジャズ・シンガーの安田南だった|TAP the SONG|TAP the POP

    その昔、安田南というジャズ・シンガーがいた。 1960年代の前半から米軍キャンプなどで歌うようになったが、一時は俳優座養成所に籍をおいていたこともあった。 アングラ演劇の勃興期だった1960年代後半になると、自由劇場や演劇センター68/71(現・劇団黒テント)の舞台にも立った。 人気小説家だった瀬戸内晴美(現・寂聴)が連載エッセイで、「はじめて安田南の存在を知ったのは、歌手としてではなく、役者としてでもなく、とてつもなくチャーミングな女の子としてであった」と、雑誌に紹介したのは1971年のことだった。 つきあった男(もちろんセックスで)は七十人だとか八十人だとかケロリとして口にしているけれど、色情狂でもない。 横で見ていると、ちょうどでもはきかえるように男を変えているだけの話だ。 まだ宵の口に六木を男の腕にすがってはだしで歩いている南に逢ったことがある。 新しいが痛くていやだからはだ

    「プカプカ」のモデルとなったのは激動の時代を駆け抜けたジャズ・シンガーの安田南だった|TAP the SONG|TAP the POP
  • 今も色褪せない極彩色の衝撃──ボ・ガンボス特集

    1989年4月にデビュー。6年2ヶ月という短い活動期間ながら、日のロックに衝撃を与えたボ・ガンボス。1995年6月にバンドは解散、2000年1月にはボーカルのどんとも他界してしまいましたが、彼らの音楽は今もなお色褪せない輝きとメッセージを放ち続けています。 デビュー25周年を記念し、TAP the POPではどんとの20回目の命日でもある2015年1月28日から特集としてコラムを集中連載しました。 1989年のボ・ガンボスにフォーカスを絞った記事や、当時の活動を振り返る関係者へのインタビュー、またボ・ガンボスの音楽やどんとの綴ってきた歌が次の世代にもたらした影響など、さまざまな角度からバンドの魅力を切り取っています。豊富なライブ映像とともに、ボ・ガンボスの世界にぜひ触れてみてください。

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  • 時代を超えて現在を撃つメッセージと演奏~スーパー・ジャンキー・モンキー

    1993年11月、CBSソニーで国内新人発掘部門を担当していたミュージック・マンの野中規雄は、ニューヨークのライブハウス「CBGB」に来ていた。 ラモーンズやテレヴィジョン、パティ・スミス、トーキング・ヘッズなど、パンクに影響を受けたバンドが出演していたことで知られるCBGBに野中が足を運んだのは、日で行われたオーディション優勝者に与えられた副賞だった「CBGBで演奏できる権」の立ち合いのためだ。 アメリカのインディーズ・バンドによる街フェスとして始まった「CMJミュージックマラソン」に、日から参加していたのはオルタナティブ・ロックの4人組、SUPER JUNKY MONKEYである。 地元インディーズ・バンドに混じっての出演だったこともあって、 前のバンドが終わると観客たちは引き上げ始めた。 スーパー・ジャンキー・モンキーのメンバーたちがセッティングを始めるのを見て、まるで期待できな

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    shichimin
    shichimin 2015/12/18
  • B.B.キング〜ブルース・シンガーになるということは、二度黒人になるようなものだ

    Home Extra便 B.B.キング〜ブルース・シンガーになるということは、二度黒人になるようなものだ - TAP the POP B.B.キング(B.B.King)のブルース 少年時代のB.B.はある日、お金を貯めようと思いついて、舗道に座ってギターを抱えてゴスペルを歌うことにした。すると、通り掛かった男が立ち止まって聞き入りながらハミングをし始めた。いい兆しだ。気分が良くなったので次々と歌い続けた。 「神のご加護がありますように」 男は上機嫌でそう言った。B.B.も同じ台詞を返してチップを待った。 「なかなかうまいぞ、坊主」 「ありがとうございます」 「その調子で歌い続けるこった」 男は肩をポンと叩いて行ってしまった。他の人々のポケットからも1セントたりとも出てこない。そこでB.B.少年は方針を変更。別の日に世俗の歌を弾いて歌ってみた。歌詞など覚えていないので、自分で適当に作った。ゴ

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