ブックマーク / yukimura1229.hatenablog.com (10)

  • 濃州山中にて一戦に及び(23)【第二部】 - 黒田官兵衛の野望

    こんばんは。 関ケ原の前哨戦として名高い「杭瀬川の戦い」を描いています。 大垣城は東を一級河川である揖斐川、西を「杭瀬川」という揖斐川の支流に囲まれている。 ここら一帯の盆地は河川よりも土地の高度が低い故に常々水害が起こりやすく、「輪中」と呼ばれる独自の水害対策が為されていた。 この輪中というのは河川より高度の低い盆地を堤防で囲うことで構成され、その雛型は鎌倉時代の史料にも散見される。戦国期の輪中は江戸期のものに比べるとまだまだ簡素なものではあったが、水害を防ぐために、揖斐川と杭瀬川に囲まれる大垣一帯にもこの輪中が普請されていた。 河川より低地だけに土は雨期でなくとも湿り気を帯びている。単騎で大垣周辺の物見に出向いていた島左近は杭瀬川の川縁の土を手ですくい握り潰した。 「やはりここら一帯は水はけが悪い。」 彼は予想道理だと言わんばかりの顔をした。 土の水はけが悪く、土地が河川より低地にある

    濃州山中にて一戦に及び(23)【第二部】 - 黒田官兵衛の野望
  • 濃州山中にて一戦に及び(22)【第二部】 - 黒田官兵衛の野望

    こんばんは。筆が乗ったので連投します。 夜書いた文章ってひどいので多少心配ですが 伊勢方面軍の総帥である毛利秀元(輝元の従弟)は戦意旺盛だった。その戦意は何らかの政治的意図からくるものではなく、純粋の若武者の闘志に因るものだったが、三万を率いる将帥の戦意が高いことは西軍にとって好材料だと言えるだろう。 伊勢方面軍はこの毛利秀元および吉川広家、福原広俊、小早川秀秋ら毛利軍と、長宗我部盛親六千、長束正家二千、計三万の軍勢によって構成されていた。 小早川軍が途中離脱したことは先に述べた。伊勢戦線を抜けた時点で小早川軍の戦意は非常に疑わしいものとなったが、毛利秀元を支える家老、吉川広家、福原広俊においても積極的に西軍に加担するかは疑問だった。 吉川は元々、毛利家中でも徳川派としての立場を明確にしており、反徳川派の外交僧安国寺恵瓊と対立していた。福原も同じく徳川派であった。 彼らは西軍が結成されて以

    濃州山中にて一戦に及び(22)【第二部】 - 黒田官兵衛の野望
  • 濃州山中にて一戦に及び(20)【第二部】 - 黒田官兵衛の野望

    こんばんは。 一日空きました。今回は閑話休題的に真田にフォーカスして書いています 美濃の戦況が香ばしくなる中、江戸はいつにもまして平和な状態を保っていた。この時期の江戸は灌漑、街道等が整備されておらず、後に事実上の都となるとは想像できない程の鄙地であった。家康は江戸が鄙地であることを承知の上で拠とした。家臣団の調査の結果、江戸が大都市としての潜在性を備えていることは既に知っていたので、家康は江戸を長い期間かけて開発していくつもりであった。 尤も、彼の現在の関心事は、江戸の開発よりも目下の西軍を打ち破ることにあった。 八月二七日、家康は岐阜城陥落の報せを受けた。家康は意外な心地であった。毛利、宇喜多ら西国の大半の大名が西軍になびいている以上、自軍の苦戦を予想していたのである。 (福島、池田らは意外とやる。) 彼は現在、並み居る大名の中において最長の軍歴を自負していたため、福島正則、加藤清正

    濃州山中にて一戦に及び(20)【第二部】 - 黒田官兵衛の野望
  • 濃州山中にて一戦に及び(19)【第二部】 - 黒田官兵衛の野望

    こんばんは。 前回まで完全に論文調だったので、今回からは人物描写を深めていきたい所存です。 明石全登が新登場人物ですね! 石田率いる美濃方面軍は岐阜城陥落に動揺した。実際に、地味ではあるが、岐阜城の陥落はこの戦いにおける転換点であったといってもよい。犬山城、岐阜城。竹ヶ鼻城など美濃城塞群における防衛線はい破られたといってよく、当初石田が想定していた、畿内を補給線にしつつ、これらの城塞群で敵をい止めるという作戦は修正せざるを得なかった。 石田は島左近を含めた少数の供回りと共に大垣から墨俣へ疾駆していた。岐阜城が陥落したという報を受け、美濃各地に点在している西軍を一度大垣へ撤収させなければいけなかった。 墨俣には主に島津軍千弱が取り残されており、孤軍と化している彼らを一刻も早く救う必要があった。石田たちは田んぼのあぜ道を駆けに駆けた。 墨俣は揖斐川と長良川の中州に位置する要衝で、織田信長が

    濃州山中にて一戦に及び(19)【第二部】 - 黒田官兵衛の野望
  • 濃州山中にて一戦に及び(18)【第二部】 - 黒田官兵衛の野望

    こんばんはー 過去の連載読み返していたら、ちょくちょく整合性が取れないところ(真田信繁が上杉討伐に従軍していなかったり)があるので訂正していきますね 今回は岐阜城攻めの下りです。割と省略気味です。次回からガッツリ目で描写するつもりです 西軍は前述の通り、伏見城を陥落させた後軍を越前方面、美濃方面、伊勢方面の三つに分割した。 そうして畿内を西軍一色に平定した後、美濃大垣あたりで合流して尾張に雪崩れ込む算段であった。 実際には、尾張清洲城主の福島正則の調略を同時並行的に進めていた。八月中旬の時点で福島正則他多数の東軍諸将が清洲上に集結しているという情報は西軍首脳部も把握していた。 しかしながら、それらの将に去年の石田弾劾事件の中心的人物が多く含まれること、石田が西軍の統括に大きく関わっていることから調略に大きな期待は望めなさそうだった。 石田は美濃方面軍に先行して単身美濃に向かい、各城主を調略

    濃州山中にて一戦に及び(18)【第二部】 - 黒田官兵衛の野望
  • 濃州山中にて一戦に及び(17)【第二部】 - 黒田官兵衛の野望

    えーこんにちは 関ケ原戦に入ってからわりとだらけるかと思ったら、意外とサクサク進みます(筆が) 稿では、家康の小山評定なるものは存在しなかったという仮定の下、進めさせていただきます。 細川討伐と伏見城攻めをもって西軍は軍事行動を開始した。編成は以下の通りである。 伏見城攻撃部隊・・・宇喜多秀家、小早川秀秋、小西行長、大谷吉継、毛利秀元、島津義弘、長曾我部盛親、立花宗茂 細川討伐部隊・・・小野木重勝、織田信包、前田茂勝 西軍の基作戦は、まず畿内の制圧と安定であった。家康が西進してくることを予想し、美濃尾張までを制圧して防衛線としつつ、畿内全体に巨大な補給線を張り巡らして戦うという作戦を立てていた。 この作戦を立てたのは石田三成であった。彼は軍事戦略に関して、補給を中心に考える点、多分に近代的な考えを持っていたといっていい。この時代の戦いにおいて、補給を中心に据えた戦略はいまだ一般的では

    濃州山中にて一戦に及び(17)【第二部】 - 黒田官兵衛の野望
  • Youtubeについて - 黒田官兵衛の野望

    今更ながら、このブログで紹介した自作曲、弾いてみた等は全て自分のYoutubeにアップしてます よかったらチャンネル登録お願いします!このブログで紹介していないものもあるので是非是非覗いてみてください!

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  • 濃州山中にて一戦に及び(16)【第二部】 - 黒田官兵衛の野望

    こんにちは。 更新頻度遅くなり申し訳ございません。 いよいよ大坂で西軍が結成される下りです。 島津にややフォーカスして書きました ともかく、石田三成は挙兵した。のみならず、大坂城にて毛利、宇喜多、小西、島津ら西国の大名らとまたたくまに一大勢力を築きあげてしまった。 ここで石田らに同心した西国の大名である島津の話をしておきたい。 軍事で高名なこの家は、鎌倉時代から薩摩に起居する守護大名の家柄である。 当主義久は薩摩にいる。 島津家は戦国期において一時は九州の九割を手中に収めながら、秀吉の九州征伐によって屈伏せざるをえず、義久もまた頭を丸めて和を乞うたが、秀吉の上洛命令だけはやんわりと断り続け、薩摩に居続けた。 これには二つの理由があった。一つは義久が豊臣政権を長くないと思っており、若干の距離を置いていたためであった。 義久はその多くを生国薩摩で過ごし、他国へ赴かなかったわりには他国の情勢に通

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  • 読者300人突破!! - 黒田官兵衛の野望

    こんばんは! 当ブログですが、、 読者300人を突破いたしました!! 見てくださる皆様のおかげです〜 当ブログは主に ・歴史創作小説 ・作曲 ・弾いてみたシリーズ の3つで構成されています!! 感想等大歓迎してます!これからもどうかよろしくお願い致します!

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  • 濃州山中にて一戦に及び(15)【第二部】 - 黒田官兵衛の野望

    こんばんは。 いよいよ、世にいう関ケ原の戦いが幕を開けます。 最初は説明調になってしまいますがご容赦ください。 なお、ご感想等は切にお待ちしております!!ぜひ! 時はやや遡る。上杉家宰相直江兼続が極秘に佐和山城の石田の元を訪れたのは去年の八月。会津への帰国途上であった。 謹慎中の石田に公に会うのはあらぬ風聞を立てかねないため、直江は道中平民の姿に身をやつした。 佐和山城の石田の居室に通されるなり、直江は「治部殿、戦をするぞ。」と第一声のたまった。 直江は前田家家老の太田長知と軍事同盟を結びはしたが、一枚岩ではない前田家に全幅の信は置いておらず、彼は家康に対抗するにおいて長年の朋友ともいえる石田を頼った。石田は家康の専横に対し、前記した大谷への吐露のような思いを抱いていたので、ついに首を縦に振った。 直江が石田に頼んだのは、石田がかつて主な取次先としていた毛利家の抱き込みだった。 毛利家もま

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