劉氏に関するshiromitsuのブックマーク (58)

  • 蜀(しょく)の劉備(りゅうび)の娘たちについて

    こちらの謎は蜀(しょく)の劉備(りゅうび)の娘たちに関するものです。 このカテゴリーでは「三国志の世界」と付き合う中で、管理人(かぶらがわ)が個人的に疑問を感じたテーマを取り上げます。 ご意見や情報がございましたら、記事の最下部にあるコメント欄またはお問い合わせフォームよりお願いします。 概要 正史『三国志』もそうですが、主要人物の息子に関する記事はあっても、娘(に限らず女性全般)に関する記事はほとんどない、というのが史書では普通ですよね。 劉備の娘たちについても謎が多いのですけど、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・曹仁伝〈そうじんでん〉)に付された「曹純伝(そうじゅんでん)」には以下のような記述があります。 「[建安(けんあん)13(208)年、曹純が曹操(そうそう)に]従征荊州(けいしゅう)、追劉備於長坂(ちょうはん)、獲其二女(ふたりの娘)輜重(しちょう)、収其散卒。進降江陵(こうりょう)

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    shiromitsu 2020/12/05
    蜀(しょく)の劉備(りゅうび)を中心とした一族に関する謎
  • 劉元起(りゅうげんき)と劉徳然(りゅうとくぜん)について

    こちらの謎は劉元起(りゅうげんき)と劉徳然(りゅうとくぜん)に関するものです。 このカテゴリーでは「三国志の世界」と付き合う中で、管理人(かぶらがわ)が個人的に疑問を感じたテーマを取り上げます。 ご意見や情報がございましたら、記事の最下部にあるコメント欄またはお問い合わせフォームよりお願いします。 概要 蜀(しょく)の劉備(りゅうび)の同族として『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・先主伝〈せんしゅでん〉)に名が見えるのが、この劉元起とその息子の劉徳然です。 「[劉備が]年十五、母使行楽、與同宗劉徳然、遼西(りょうせい)公孫瓚(こうそんさん)俱事故九江太守(きゅうこうたいしゅ)同郡盧植(ろしょく)。徳然父元起(劉元起)常資給先主(劉備)、與徳然等」 『三国志』(蜀書・先主伝) 劉備は15歳のとき(熹平〈きへい〉4〈175〉年ごろ)、母の意向を受けて遊学し、一族の劉徳然や遼西の公孫瓚ともども、同郡

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  • 吉川『三国志』や『三国志演義』に登場する、蜀(しょく)の劉備(りゅうび)の先祖について

    こちらの謎は蜀(しょく)の劉備(りゅうび)の先祖に関するものです。 このカテゴリーでは「三国志の世界」と付き合う中で、管理人(かぶらがわ)が個人的に疑問を感じたテーマを取り上げます。 ご意見や情報がございましたら、記事の最下部にあるコメント欄またはお問い合わせフォームよりお願いします。 概要 正史『三国志』には名が見えず、吉川『三国志』(第77話「許田の猟〈きょでんのかり〉」)や『三国志演義』(第20回)には名が見える以下の13人。 吉川『三国志』と『三国志演義』の両方に名が見える4人 劉昂(りゅうこう) ※沛侯(はいこう) 劉禄(りゅうろく) ※漳侯(しょうこう) 劉恋(りゅうれん) ※沂水侯(ぎすいこう) 劉英(りゅうえい) ※欽陽侯(きんようこう) 吉川『三国志』には名が見えず、『三国志演義』には名が見える9人 劉建(りゅうけん) ※安国侯(あんこくこう) 劉哀(りゅうあい) ※広陵

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    蜀(しょく)の劉備(りゅうび)を中心とした一族に関する謎
  • 蜀(しょく)の劉備(りゅうび)の家系について

    こちらの謎は蜀(しょく)の劉備(りゅうび)の家系に関するものです。 このカテゴリーでは「三国志の世界」と付き合う中で、管理人(かぶらがわ)が個人的に疑問を感じたテーマを取り上げます。 ご意見や情報がございましたら、記事の最下部にあるコメント欄またはお問い合わせフォームよりお願いします。 概要 『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・先主伝〈せんしゅでん〉)の冒頭に、劉備は漢(かん)の景帝(けいてい)の皇子である中山靖王(ちゅうざんせいおう)劉勝(りゅうしょう)の後裔(こうえい)だと書かれています。 「先主姓劉、諱備、字玄徳、涿郡(たくぐん)涿県(たくけん)人、漢景帝子中山靖王勝(劉勝)之後也」 『三国志』(蜀書・先主伝) しかしこの劉勝、実は大変な子だくさんでした。 「勝(劉勝)為人楽酒好内、有子百二十餘人」 『漢書(かんじょ)』(景十三王伝〈けいじゅうさんおうでん〉第二十三) 「劉勝の人となり酒

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    蜀(しょく)の劉備(りゅうび)を中心とした一族に関する謎
  • 「蜀(しょく)の劉氏(りゅうし)の謎」収録テーマ一覧

    「三国志の世界」と付き合う中で、管理人(かぶらがわ)が個人的に疑問を感じた、蜀(しょく)の劉備(りゅうび)を中心とした一族に関するテーマの一覧です。

    「蜀(しょく)の劉氏(りゅうし)の謎」収録テーマ一覧
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    蜀(しょく)の劉備(りゅうび)を中心とした一族に関する謎
  • 劉承(りゅうしょう)B ※劉備(りゅうび)の曾孫、蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の安平殤王(あんぺいしょうおう)

    【姓名】 劉承(りゅうしょう) 【あざな】 ? 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~257年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 劉胤(りゅういん)の息子、安平殤王(あんぺいしょうおう) 父は劉胤だが、母は不詳。 劉承は、256年に薨去(こうきょ)した劉胤の跡を継ぎ、安平王に封ぜられた。しかし、翌257年に薨去して殤王と諡(おくりな)された。 その後、261年に劉禅(りゅうぜん)が詔(みことのり)を下し、劉胤の弟で劉承の叔父にあたる武邑侯(ぶゆうこう)の劉輯(りゅうしゅう)を、跡継ぎとして立てた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 また、劉承が劉胤の息子なのか、劉理(りゅうり)の息子(つまり劉胤の弟?)なのか、イマイ

    劉承(りゅうしょう)B ※劉備(りゅうび)の曾孫、蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の安平殤王(あんぺいしょうおう)
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    蜀(しょく)の劉備(りゅうび)を中心とした一族に関する個別記事
  • 劉玄(りゅうげん)A ※劉備(りゅうび)の曾孫

    【姓名】 劉玄(りゅうげん) 【あざな】 ? 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 劉永(りゅうえい)の孫、安楽公(あんらくこう) 父母ともに不詳。劉永の孫とだけある。 『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・劉璿伝〈りゅうせんでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く孫盛(そんせい)の『蜀世譜(しょくせいふ)』によると、「263年に蜀が滅亡した後、洛陽(らくよう)に移住した劉備(りゅうび)の子や孫たちは、その後の永嘉(えいか)の大乱(西晋〈せいしん〉時代の永嘉年間〈307~312年〉に起こった騒乱)でほぼ絶えてしまった。しかし、劉永の孫にあたる劉玄だけは蜀へ逃亡。当時、蜀の地を支配していた李雄(りゆう)が勝手に劉玄を安楽公に封じ、劉禅(りゅうぜん)の跡継ぎとした」という。 管理人「かぶらがわ」

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  • 劉林(りゅうりん)

    【姓名】 劉林(りゅうりん) 【あざな】 ? 【原籍】 長沙郡(ちょうさぐん)? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 劉封(りゅうほう)の息子 父は劉封だが、母は不詳。 劉林の父の劉封は220年、関羽(かんう)を救援しなかった件や、同僚の孟達(もうたつ)を追い込んで魏(ぎ)に奔らせた件を問責され、劉備(りゅうび)から死を賜った。 しかし、劉封の息子の劉林は誅殺されず、牙門将(がもんしょう)に任ぜられ、蜀(しょく)滅亡後の264年に河東(かとう)へ移ったという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 上で挙げた記事は『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・劉封伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)によるもの。劉禅(りゅうぜん)や劉理(

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    蜀(しょく)の劉備(りゅうび)を中心とした一族に関する個別記事
  • 劉輯(りゅうしゅう)

    【姓名】 劉輯(りゅうしゅう) 【あざな】 ? 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 劉理(りゅうり)の息子 父は劉理だが、母は不詳。劉胤(りゅういん)は兄。 劉輯は、武邑侯(ぶゆうこう)だった261年、去る257年に薨去(こうきょ)した甥の劉承(りゅうしょう)の跡継ぎとして立てられ、安平王(あんぺいおう)に封ぜられた。 その後、263年に伯父の劉禅(りゅうぜん)が魏(ぎ)の曹奐(そうかん)に降伏すると、翌264年には劉禅に付き従って洛陽(らくよう)へ移り、奉車都尉(ほうしゃとい)に任ぜられたうえ、郷侯(きょうこう)に封ぜられた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 この劉輯が、

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  • 劉胤(りゅういん) ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の安平哀王(あんぺいあいおう)

    【姓名】 劉胤(りゅういん) 【あざな】 ? 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~256年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 劉理(りゅうり)の息子、安平哀王(あんぺいあいおう) 父は劉理だが、母は不詳。劉輯(りゅうしゅう)は弟。息子の劉承(りゅうしょう)は跡継ぎ。 劉胤は、244年に薨去(こうきょ)した劉理の跡を継ぎ、安平王に封ぜられた。その後、256年に薨去して哀王と諡(おくりな)され、息子の劉承が跡を継いだ。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 また、劉承が劉胤の息子なのか、劉理の息子(つまり劉胤の弟?)なのか、イマイチはっきりしませんでした。普通に考えれば、劉承は劉胤の息子だと思いますが……。

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  • 劉氏(りゅうし)M ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の劉禅(りゅうぜん)の娘、費恭(ひきょう)の妻

    【姓名】 劉氏(りゅうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん)の娘 父は劉禅だが、母は不詳。 劉璿(りゅうせん)・劉瑶(りゅうよう)・劉琮(りゅうそう)・劉瓚(りゅうさん)・劉諶(りゅうしん)・劉恂(りゅうじゅん)・劉虔(りゅうけん。劉璩〈りゅうきょ〉)は兄弟。ほかに姉妹がふたりはいたことがうかがえる。 劉氏は、費禕(ひい)の息子の費恭(ひきょう)に嫁いだ。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・費禕伝)および裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『費禕別伝(ひいべつでん)』によると、費禕の跡を継

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  • 劉氏(りゅうし)L ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の劉禅(りゅうぜん)の娘、関統(かんとう)の妻

    【姓名】 劉氏(りゅうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん)の娘 父は劉禅だが、母は不詳。 劉璿(りゅうせん)・劉瑶(りゅうよう)・劉琮(りゅうそう)・劉瓚(りゅうさん)・劉諶(りゅうしん)・劉恂(りゅうじゅん)・劉虔(りゅうけん。劉璩〈りゅうきょ〉)は兄弟。ほかに姉妹がふたりはいたことがうかがえる。 劉氏は、関興(かんこう)の息子の関統(かんとう)に嫁いだ。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・関羽伝〈かんうでん〉)によると、関統は、二十数歳で亡くなった関興の跡を継ぎ、公主(こうしゅ)を娶

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  • 劉氏(りゅうし)K ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の劉禅(りゅうぜん)の娘、諸葛瞻(しょかつせん)の妻

    【姓名】 劉氏(りゅうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第117回で初登場。 【正史】 登場人物。 蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん)の娘 父は劉禅だが、母は不詳。 劉璿(りゅうせん)・劉瑶(りゅうよう)・劉琮(りゅうそう)・劉瓚(りゅうさん)・劉諶(りゅうしん)・劉恂(りゅうじゅん)・劉虔(りゅうけん。劉璩〈りゅうきょ〉)は兄弟。ほかに姉妹がふたりはいたことがうかがえる。 劉氏は、諸葛亮(しょかつりょう)の息子の諸葛瞻(しょかつせん)に嫁いだ。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・諸葛亮伝)に付された「諸葛瞻伝」によると、諸葛瞻は17歳の時に公主(こう

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  • 劉虔(りゅうけん。劉璩〈りゅうきょ〉)

    【姓名】 劉虔(りゅうけん) 【あざな】 ? 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第118回で初登場。 【正史】 登場人物。 蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん)の息子 父は劉禅だが、母は不詳。 劉璿(りゅうせん)・劉瑶(りゅうよう)・劉琮(りゅうそう)・劉瓚(りゅうさん)・劉諶(りゅうしん)・劉恂(りゅうじゅん)は兄。ほかに姉妹が3人はいたことがうかがえる。同母兄弟、同母姉妹なのかはイマイチはっきりしない。(劉虔は)劉璩と表記されている箇所もある。 劉虔は、259年6月に上党王(じょうとうおう)に封ぜられた。その後、263年に劉禅が魏(ぎ)の曹奐(そうかん)に降伏すると、翌264年には劉禅に付き従って洛陽(らくよう)へ移った。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がな

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  • 劉恂(りゅうじゅん)

    【姓名】 劉恂(りゅうじゅん) 【あざな】 ? 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第118回で初登場。 【正史】 登場人物。 蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん)の息子 父は劉禅だが、母は不詳。 劉璿(りゅうせん)・劉瑶(りゅうよう)・劉琮(りゅうそう)・劉瓚(りゅうさん)・劉諶(りゅうしん)は兄で、劉虔(りゅうけん。劉璩〈りゅうきょ〉)は弟。ほかに姉妹が3人はいたことがうかがえる。同母兄弟、同母姉妹なのかはイマイチはっきりしない。 劉恂は、259年6月に新興王(しんこうおう)に封ぜられた。その後、263年に劉禅が魏(ぎ)の曹奐(そうかん)に降伏すると、翌264年には劉禅に付き従って洛陽(らくよう)へ移った。 『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王隠(おういん)の『蜀

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  • 劉諶(りゅうしん)

    【姓名】 劉諶(りゅうしん) 【あざな】 ? 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~263年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第118回で初登場。 【正史】 登場人物。 蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん)の息子、北地王(ほくちおう)、蜀の滅亡時に国に殉ずる 父は劉禅だが、母は不詳。 劉璿(りゅうせん)・劉瑶(りゅうよう)・劉琮(りゅうそう)・劉瓚(りゅうさん)は兄で、劉恂(りゅうじゅん)と劉虔(りゅうけん。劉璩〈りゅうきょ〉)は弟。ほかに姉妹が3人はいたことがうかがえる。同母兄弟、同母姉妹なのかはイマイチはっきりしない。 劉諶は、259年6月に北地王に封ぜられた。その後、263年に魏軍(ぎぐん)が成都(せいと)に迫った際、劉禅に抗戦を訴えたが容れられず、先に子を殺して自殺した。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 『三国志』(蜀

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  • 劉瓚(りゅうさん)

    【姓名】 劉瓚(りゅうさん) 【あざな】 ? 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第118回で初登場。 【正史】 登場人物。 蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん)の息子 父は劉禅だが、母は不詳。 劉璿(りゅうせん)・劉瑶(りゅうよう)・劉琮(りゅうそう)は兄で、劉諶(りゅうしん)・劉恂(りゅうじゅん)・劉虔(りゅうけん。劉璩〈りゅうきょ〉)は弟。ほかに姉妹が3人はいたことがうかがえる。同母兄弟、同母姉妹なのかはイマイチはっきりしない。 劉瓚は、256年に新平王(しんぺいおう)に封ぜられた。その後、263年に劉禅が魏(ぎ)の曹奐(そうかん)に降伏すると、翌264年には劉禅に付き従って洛陽(らくよう)へ移った。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だっ

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  • 劉琮(りゅうそう)A ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の劉禅(りゅうぜん)の息子

    【姓名】 劉琮(りゅうそう) 【あざな】 ? 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~262年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第118回で初登場。 【正史】 登場人物。 蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん)の息子、西河王(せいかおう) 父は劉禅だが、母は不詳。 劉璿(りゅうせん)と劉瑶(りゅうよう)は兄で、劉瓚(りゅうさん)・劉諶(りゅうしん)・劉恂(りゅうじゅん)・劉虔(りゅうけん。劉璩〈りゅうきょ〉)は弟。ほかに姉妹が3人はいたことがうかがえる。同母兄弟、同母姉妹なのかはイマイチはっきりしない。 劉琮は、252年に西河王に封ぜられたが、262年1月に薨去(こうきょ)した。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・劉璿伝)の

    劉琮(りゅうそう)A ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の劉禅(りゅうぜん)の息子
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  • 劉瑶(りゅうよう)

    【姓名】 劉瑶(りゅうよう) 【あざな】 ? 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第118回で初登場。 【正史】 登場人物。 蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん)の息子 父は劉禅だが、母は不詳。 劉璿(りゅうせん)は兄で、劉琮(りゅうそう)・劉瓚(りゅうさん)・劉諶(りゅうしん)・劉恂(りゅうじゅん)・劉虔(りゅうけん。劉璩〈りゅうきょ〉)は弟。ほかに姉妹が3人はいたことがうかがえる。同母兄弟、同母姉妹なのかはイマイチはっきりしない。 劉瑶は、238年1月に安定王(あんていおう)に封ぜられた。その後、263年に劉禅が魏(ぎ)の曹奐(そうかん)に降伏すると、翌264年には劉禅に付き従って洛陽(らくよう)へ移った。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物

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  • 劉璿(りゅうせん) ※あざなは文衡(ぶんこう)

    【姓名】 劉璿(りゅうせん) 【あざな】 文衡(ぶんこう) 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 224~264年(41歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第118回で初登場。 【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・劉璿伝』あり。 蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん)の息子 父は劉禅、母は王氏(おうし)。 劉瑶(りゅうよう)・劉琮(りゅうそう)・劉瓚(りゅうさん)・劉諶(りゅうしん)・劉恂(りゅうじゅん)・劉虔(りゅうけん。劉璩〈りゅうきょ〉)は弟。ほかに姉妹が3人はいたことがうかがえる。妃(きさき)は費禕(ひい)の長女。 劉璿は、238年1月に15歳で皇太子に立てられた。 その後、263年冬に蜀が滅亡すると、翌264年1月に魏(ぎ)の鍾会(しょうかい)が成都(せいと)で反乱を起こした際、劉璿は乱兵に殺害された。 管理人「かぶらがわ」より 『三国志』(蜀書・霍峻伝〈かくし

    劉璿(りゅうせん) ※あざなは文衡(ぶんこう)
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