2020年5月19日のブックマーク (430件)

  • 劉岱(りゅうたい)B ※あざなは公山(こうざん)、劉繇(りゅうよう)の兄、反董卓(とうたく)連合軍に参加した諸侯

    【姓名】 劉岱(りゅうたい) 【あざな】 公山(こうざん) 【原籍】 東萊郡(とうらいぐん)牟平県(ぼうへいけん) 【生没】 ?~192年(?歳) 【吉川】 第025話で初登場。 【演義】 第005回で初登場。 【正史】 登場人物。 反董卓(とうたく)連合軍に参加した諸侯、青州(せいしゅう)の黄巾軍(こうきんぐん)を迎撃した際に戦死 父は劉輿(りゅうよ。一名を劉方〈りゅうほう〉)だが、母は不詳。劉繇(りゅうよう)は弟。 劉岱は前漢(ぜんかん)の斉孝王(せいこうおう。高祖〈こうそ〉の孫の劉将閭〈りゅうしょうりょ〉。父は斉悼恵王〈せいとうけいおう〉こと劉肥〈りゅうひ〉)の後裔(こうえい)にあたる。 斉孝王の末息子(牟平共侯〈ぼうへいきょうこう〉こと劉渫〈りゅうせつ〉か?)が牟平侯に封ぜられ、その子孫が代々この地に住んだ。 189年4月、霊帝(れいてい)が崩御(ほうぎょ)し、少帝(しょうてい)が

    劉岱(りゅうたい)B ※あざなは公山(こうざん)、劉繇(りゅうよう)の兄、反董卓(とうたく)連合軍に参加した諸侯
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    三国志に登場する、諸侯クラスの人物の個別記事
  • 劉虞(りゅうぐ) ※あざなは伯安(はくあん)

    【姓名】 劉虞(りゅうぐ) 【あざな】 伯安(はくあん) 【原籍】 東海郡(とうかいぐん)郯県(たんけん) 【生没】 ?~193年(?歳) 【吉川】 第017話で初登場。 【演義】 第002回で初登場。 【正史】 登場人物。 袁紹(えんしょう)と韓馥(かんふく)の即位要請をきっぱり拒んだ、帝族きっての名望家 父母ともに不詳。劉和(りゅうか)という息子がいた。 劉虞は後漢(ごかん)の東海恭王(とうかいきょうおう。光武帝〈こうぶてい〉の息子の劉彊〈りゅうきょう〉)の5世孫にあたり、帝族のひとりだった。 しかし当代の天子(てんし)とは遠い間柄だったので、郷里の郯県に出仕して戸曹(こそう)の役人になった。 劉虞はよく身を修めて職務に励んだため、召されて東海郡の役人に転じ、郡から孝廉(こうれん)に推挙されると、朝廷に入って郎(ろう)となった。 昇進を重ねて幽州刺史(ゆうしゅうしし)となり、やがて甘陵

    劉虞(りゅうぐ) ※あざなは伯安(はくあん)
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  • 孟獲(もうかく)

    【姓名】 孟獲(もうかく) 【あざな】 ? 【原籍】 益州郡(えきしゅうぐん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 第259話で初登場。 【演義】 第085回で初登場。 【正史】 登場人物。 益州南部の反乱に加わるも、諸葛亮(しょかつりょう)の南征を受けて心服 父母ともに不詳。 223年4月、蜀(しょく)の劉備(りゅうび)が崩御(ほうぎょ)し、5月には息子の劉禅(りゅうぜん)が跡を継いだ。ほどなく蜀の牂牁太守(そうかたいしゅ)の朱褒(しゅほう)が、郡を挙げて反乱を起こす。 また、これより先には益州郡で豪族の雍闓(ようかい)の反乱があり、益州太守(えきしゅうたいしゅ)の張裔(ちょうえい)を呉(ご)へ追放。郡を占拠して蜀に服従しなかった。 これに呼応する形で、越嶲(えっすい)の蛮族の王である高定(こうてい)も蜀に背く。 孟獲は、西南夷(せいなんい)の首長として声望が高かったが、雍闓から手紙を

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  • 鮑信(ほうしん) ※反董卓(とうたく)連合軍に参加した諸侯

    【姓名】 鮑信(ほうしん) 【あざな】 ? 【原籍】 泰山郡(たいざんぐん)平陽県(へいようけん) 【生没】 152~192年(41歳) 【吉川】 第019話で初登場。 【演義】 第003回で初登場。 【正史】 登場人物。 反董卓(とうたく)連合軍に参加した諸侯、曹操(そうそう)を救って自身は戦死 父は鮑丹(ほうたん)だが、母は不詳。鮑韜(ほうとう)は弟。鮑邵(ほうしょう)と鮑勛(ほうくん)というふたりの息子がいた。 鮑信は鮑宣(ほうせん)の8世の孫にあたる。鮑宣は前漢(ぜんかん)の哀帝(あいてい。在位、前6~前1年)のとき司隷(しれい。司隷校尉〈しれいこうい〉)を務めた。 この鮑宣の子孫に、上党(じょうとう)から泰山に転居した者がいて、そのまま泰山に一家を構えた。 父の鮑丹は少府(しょうふ)・侍中(じちゅう)まで昇り、鮑家は代々儒学を修め、その教養をもって高名だった。 鮑信は、霊帝(れい

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  • 馬騰(ばとう) ※あざなは寿成(じゅせい)

    【姓名】 馬騰(ばとう) 【あざな】 寿成(じゅせい) 【原籍】 扶風郡(ふふうぐん)茂陵県(ぼうりょうけん) 【生没】 ?~212年(?歳) 【吉川】 第025話で初登場。 【演義】 第005回で初登場。 【正史】 登場人物。 韓遂(かんすい)と組んで涼州(りょうしゅう)に勢力を張るも、一族皆殺しの最期 父は馬子碩(ばしせき。名はわからず)だが、母は不詳。羌族(きょうぞく)の女性だったという。馬超(ばちょう)・馬休(ばきゅう)・馬鉄(ばてつ)という3人の息子がいた。 馬騰の先祖は、後漢(ごかん)の伏波将軍(ふくはしょうぐん)の馬援(ばえん。前14~後49年)だという。 父の馬子碩は天水郡(てんすいぐん)の蘭干県尉(らんかんけんい)を務めたが、後に官位を失う。そのまま隴西(ろうせい)に留まり、羌族に混ざって暮らした。 家が貧しく、もいなかったので、馬子碩は羌族の娘を娶(めと)る。やがて生

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  • 董承(とうしょう)

    【姓名】 董承(とうしょう) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~200年(?歳) 【吉川】 第048話で初登場。 【演義】 第013回で初登場。 【正史】 登場人物。 献帝(けんてい)から衣帯の密詔を賜るも、志は果たせず 父母ともに不詳。 董承は、霊帝(れいてい)の母である董太后(とうたいこう)の甥にあたるという。娘の董氏は献帝の貴人(きじん。皇妃の位のひとつ)となった。 195年7月、長安(ちょうあん)にあった献帝が、洛陽(らくよう)への還幸を決断。このとき董承は、安集将軍(あんしゅうしょうぐん)に任ぜられて随行する。 翌196年7月、献帝一行が洛陽にたどり着く。 ★董承は、この年の2月の時点で衛将軍(えいしょうぐん)に昇進していたことがうかがえるが、詳しい経緯はわからず。 同年8月、董承は、輔国将軍(ほこくしょうぐん)の伏完(ふくかん)らとともに列侯(れっこう)に封ぜられる。

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  • 張超(ちょうちょう)B ※張邈(ちょうばく)Bの弟、反董卓(とうたく)連合軍に参加した諸侯

    【姓名】 張超(ちょうちょう) 【あざな】 ? 【原籍】 東平国(とうへいこく)寿張県(じゅちょうけん) 【生没】 ?~195年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第005回で初登場。 【正史】 登場人物。 反董卓(とうたく)連合軍に参加した諸侯、臧洪(そうこう)を重用して政務を委ねる 父母ともに不詳。張邈(ちょうばく)は兄。 霊帝(れいてい。在位168~189年)の末年、広陵太守(こうりょうたいしゅ)を務めていた張超は、官位を捨てて帰郷していた臧洪を招き、郡の功曹(こうそう)に任じた。 190年1月、山東(さんとう。崤山〈こうざん〉・函谷関〈かんこくかん〉以東の地域。華山〈かざん〉以東の地域ともいう)の諸侯が反董卓を旗印に挙兵すると、張超もこの動きに呼応。 張超が、兄の張邈らとともにいち早く決起したのは、臧洪の進言があったからだった。しかし諸侯の足並みがそろわず、やがて連合軍は自然

    張超(ちょうちょう)B ※張邈(ちょうばく)Bの弟、反董卓(とうたく)連合軍に参加した諸侯
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  • 張角(ちょうかく) ※太平道(たいへいどう)の教主

    【姓名】 張角(ちょうかく) 【あざな】 ? 【原籍】 鉅鹿郡(きょろくぐん) 【生没】 ?~184年(?歳) 【吉川】 第001話で初登場。 【演義】 第001回で初登場。 【正史】 登場人物。 「太平道(たいへいどう)」の教主、天公将軍(てんこうしょうぐん)を称して黄巾(こうきん)の乱を主導 父母ともに不詳。張宝(ちょうほう)と張梁(ちょうりょう)は弟。 184年3月(2月とも)、宗教組織「太平道」の教主である張角が、配下の36方(教区)に分かれた各地の帥(すい)らとともに一斉蜂起する。この動きに多くの地方が呼応。郡県の役所を焼き、主だった役人を殺害した。 同年3月、霊帝(れいてい)が詔(みことのり)を下して、河南尹(かなんいん)の何進(かしん)を大将軍(だいしょうぐん)に任じ、兵をひきいて洛陽(らくよう)の都亭(とてい)に駐屯させる。 さらに霊帝は八関都尉(はっかんとい)の官を置き、

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  • 朱儁(しゅしゅん) ※あざなは公偉(こうい)

    【姓名】 朱儁(しゅしゅん) 【あざな】 公偉(こうい) 【原籍】 会稽郡(かいけいぐん)上虞県(じょうぐけん) 【生没】 ?~195年(?歳) 【吉川】 第010話で初登場。 【演義】 第001回で初登場。 【正史】 登場人物。 黄巾(こうきん)討伐などで活躍した名将、剛直さを貫き、董卓(とうたく)にも屈せず 父母ともに不詳。 朱儁は若いころから学問を好み、郡の功曹(こうそう)になった。のち孝廉(こうれん)に推挙された。 181年4月、交趾刺史(こうししし)として、交趾と合浦(ごうほ)の両郡の烏滸蛮(うこばん)を討伐。 ★范曄(はんよう)の『後漢書(ごかんじょ)』にも交趾刺史とあったが、なぜ交州刺史(こうしゅうしし)としないのかよくわからず。 184年3月、黄巾の乱が勃発すると、朱儁は右中郎将(ゆうちゅうろうしょう)として、左中郎将(さちゅうろうしょう)の皇甫嵩(こうほすう)とともに、潁

    朱儁(しゅしゅん) ※あざなは公偉(こうい)
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  • 皇甫嵩(こうほすう) ※あざなは義真(ぎしん)

    【姓名】 皇甫嵩(こうほすう) 【あざな】 義真(ぎしん) 【原籍】 安定郡(あんていぐん)朝那県(ちょうだけん) 【生没】 ?~195年(?歳) 【吉川】 第010話で初登場。 【演義】 第001回で初登場。 【正史】 登場人物。 西羌(せいきょう)討伐や黄巾(こうきん)討伐で活躍した名将ながら、最後は董卓(とうたく)に屈す 父母ともに不詳。射援(しゃえん)に嫁いだ娘がいた。皇甫酈(こうほれき)は甥に、皇甫謐(こうほひつ)は曾孫に、それぞれあたるという。 184年3月、黄巾の乱が勃発すると、皇甫嵩は左中郎将(さちゅうろうしょう)として、右中郎将(ゆうちゅうろうしょう)の朱儁(しゅしゅん)とともに、潁川(えいせん)で討伐にあたる。 同年5月、朱儁とともに、長社県(ちょうしゃけん)で黄巾賊の波才(はさい)らを大破。この戦いでは騎都尉(きとい)の曹操(そうそう)の活躍があった。 同年6月、朱儁

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  • 孔融(こうゆう) ※あざなは文挙(ぶんきょ)、建安七子(けんあんのしちし)のひとり

    【姓名】 孔融(こうゆう) 【あざな】 文挙(ぶんきょ) 【原籍】 魯国(ろこく)魯県(ろけん) 【生没】 153~208年(56歳) 【吉川】 第025話で初登場。 【演義】 第005回で初登場。 【正史】 登場人物。 孔子(こうし)の20代目の子孫にして建安七子(けんあんのしちし)のひとりだが、実務能力に欠ける 父は孔宙(こうちゅう)だが、母は不詳。孔襃(こうほう)は兄。息子と娘がひとりずついた。 孔融は豫州刺史(よしゅうしし)の王允(おういん)に召し出され、従事(じゅうじ)に任ぜられた。 やがて大将軍(だいしょうぐん)の何進(かしん)の推挙により、北軍中候(ほくぐんちゅうこう)や虎賁中郎将(こほんちゅうろうしょう)を務めた。 189年8月、何進が宦官(かんがん)に殺害され、董卓(とうたく)が実権を握ると、翌190年(189年中かも)、孔融は北海国相(ほっかいこくしょう)として地方へ転

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  • 孔伷(こうちゅう) ※あざなは公緒(こうしょ)、反董卓(とうたく)連合軍に参加した諸侯

    【姓名】 孔伷(こうちゅう) 【あざな】 公緒(こうしょ) 【原籍】 陳留郡(ちんりゅうぐん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 第025話で初登場。 【演義】 第005回で初登場。 【正史】 登場人物。 父母ともに不詳。 189年、董卓が実権を握ると、孔伷は豫州刺史(よしゅうしし)に起用された。 翌190年1月、山東(さんとう。崤山〈こうざん〉・函谷関〈かんこくかん〉以東の地域。華山〈かざん〉以東の地域ともいう)の諸侯が反董卓を旗印に挙兵すると、彼もこの動きに呼応。 しかし諸侯の足並みがそろわず、やがて連合軍は自然解散した。その後の孔伷については記事がない。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・鄭渾伝〈ていこんでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く張璠(ちょうはん)の『漢紀(かんき。後漢紀〈ごかんき〉)』によると、

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  • 橋瑁(きょうぼう) ※あざなは元偉(げんい)、反董卓(とうたく)連合軍に参加した諸侯

    【姓名】 橋瑁(きょうぼう) 【あざな】 元偉(げんい) 【原籍】 梁国(りょうこく)睢陽県(すいようけん) 【生没】 ?~190年(?歳) 【吉川】 第020話で初登場。 【演義】 第005回で初登場。 【正史】 登場人物。 父母ともに不詳。 橋瑁は橋玄(きょうげん)の一族で、子の世代にあたるという。 189年4月、霊帝(れいてい)が崩御(ほうぎょ)し、少帝(しょうてい)が即位する。 大将軍(だいしょうぐん)の何進(かしん)は、袁紹(えんしょう)らと相談して宦官(かんがん)の誅滅を計画したものの、何太后(かたいこう。少帝の生母で何進の異母妹)は許可しなかった。 何進は、前将軍(ぜんしょうぐん)の董卓、武猛校尉(ぶもうこうい)の丁原(ていげん)、東郡太守(とうぐんたいしゅ)の橋瑁、河内太守(かだいたいしゅ)の王匡(おうきょう)を召し寄せて、何太后に圧力をかけようとした。 この動きに対し、中

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  • 橋玄(きょうげん) ※あざなは公祖(こうそ)

    【姓名】 橋玄(きょうげん) 【あざな】 公祖(こうそ) 【原籍】 梁国(りょうこく)睢陽県(すいようけん) 【生没】 110~184年(75歳) 【吉川】 第023話で初登場。 【演義】 第001回で初登場。 【正史】 登場人物。 三公すべてを歴任して清廉さをたたえられる、若き日の曹操(そうそう)を高く評価した 父母ともに不詳。 170年9月、橋玄は大鴻臚(だいこうろ)から司空(しくう)に任ぜられた。 翌171年3月、司徒(しと)に転じたものの、7月には罷免される。 178年12月、光禄大夫(こうろくたいふ)から太尉(たいい)に任ぜられる。しかし翌179年3月には、病のため罷免される。 その後、太中大夫(たいちゅうたいふ)として療養生活を送り、184年に死去。このとき75歳だったという。 管理人「かぶらがわ」より 『三国志』には橋玄の伝が立てられていないため、その事績もごく断片的なものし

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  • 韓馥(かんふく) ※あざなは文節(ぶんせつ)、反董卓(とうたく)連合軍に参加した諸侯

    【姓名】 韓馥(かんふく) 【あざな】 文節(ぶんせつ) 【原籍】 潁川郡(えいせんぐん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 第021話で初登場。 【演義】 第005回で初登場。 【正史】 登場人物。 反董卓(とうたく)連合軍に参加した諸侯だが、袁紹(えんしょう)に冀州牧(きしゅうぼく)の地位を奪われる 父母ともに不詳。息子がいたことがうかがえるものの、名は出てこない。 189年、董卓が実権を握ると、韓馥は御史中丞(ぎょしちゅうじょう。尚書〈しょうしょ〉とも)から冀州牧に起用された。 このころ州内には勃海太守(ぼっかいたいしゅ)の袁紹がいたが、韓馥は、彼が董卓に反抗して挙兵することを恐れ、数人の従事(じゅうじ)を遣って監視させ、動きを封じていた。 そのうち東郡太守(とうぐんたいしゅ)の橋瑁(きょうぼう)が、都の三公から回付される公文書を偽造し、董卓の悪行を書き並べて義軍の決起を促す。

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  • 韓遂(かんすい) ※あざなは文約(ぶんやく)

    【姓名】 韓遂(かんすい) 【あざな】 文約(ぶんやく) 【原籍】 金城郡(きんじょうぐん) 【生没】 ?~215年(?歳) 【吉川】 第041話で初登場。 【演義】 第010回で初登場。 【正史】 登場人物。 30年以上にわたり、涼州(りょうしゅう)近辺で勢力を保つ 父母ともに不詳。息子がいたことがうかがえるものの、名は出てこない。ほかに閻行(えんこう)に嫁いだ娘(末娘とある)がいた。 184年11月、湟中(こうちゅう)の義従胡(ぎじゅうこ)の北宮伯玉(ほくきゅうはくぎょく)が、先零羌(せんれいきょう)と反乱を起こす。このとき韓遂は、辺章(へんしょう)とともに軍師を務めた。 彼らの反乱軍は、護羌校尉(ごきょうこうい)の伶徴(れいちょう)や金城太守(きんじょうたいしゅ)の陳懿(ちんい)を攻めて殺害した。 翌185年(186年とも)、韓遂らは朝廷の討伐軍に敗れ、涼州へ逃亡する。 187年、反

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  • 何進(かしん) ※あざなは遂高(すいこう)

    【姓名】 何進(かしん) 【あざな】 遂高(すいこう) 【原籍】 南陽郡(なんようぐん)宛県(えんけん) 【生没】 ?~189年(?歳) 【吉川】 第017話で初登場。 【演義】 第001回で初登場。 【正史】 登場人物。 妹のおかげで大将軍(だいしょうぐん)に昇るも、宦官(かんがん)誅滅に失敗して死す 父は何真(かしん)だが、母は不詳。何苗(かびょう)は異母弟で、何氏(かし。霊帝〈れいてい〉の皇后)は異母妹。息子がふたりはいたことがうかがえる。 何進の家は、もともと屠殺(とさつ)を生業としていた。父の死後、何進は宦官の手引きで妹の何氏を後宮に入れた。 そのうち何氏は霊帝の寵愛を受け、やがて劉辯(りゅうべん。後の少帝〈しょうてい〉)を生み、180年12月には皇后に立てられた。妹のおかげで、何進も霊帝から目をかけられて出世した。 184年3月、黄巾(こうきん)の乱が勃発。何進は大将軍に任ぜら

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  • 王匡(おうきょう) ※あざなは公節(こうせつ)、反董卓(とうたく)連合軍に参加した諸侯

    【姓名】 王匡(おうきょう) 【あざな】 公節(こうせつ) 【原籍】 泰山郡(たいざんぐん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 第020話で初登場。 【演義】 第005回で初登場。 【正史】 登場人物。 反董卓(とうたく)連合軍に参加した諸侯、性格には問題あり 父母ともに不詳。胡母班(こぼはん)に嫁いだ妹がいた。 王匡は財貨を軽んじ、施し好きで、任俠(にんきょう)をもって知られていた。 大将軍(だいしょうぐん)の何進(かしん)に招かれると、割り符を持って徐州(じょしゅう)へ行き、強弩(きょうど)500張を徴発して洛陽(らくよう)へ運んだ。 189年8月、何進が宦官(かんがん)の誅滅に失敗して殺害されると、王匡は郷里へ帰る。しかし、ほどなく河内太守(かだいたいしゅ)に起用された。 翌190年1月、山東(さんとう。崤山〈こうざん〉・函谷関〈かんこくかん〉以東の地域。華山〈かざん〉以東の地域

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  • 王允(おういん) ※あざなは子師(しし)

    【姓名】 王允(おういん) 【あざな】 子師(しし) 【原籍】 太原郡(たいげんぐん)祁県(きけん) 【生没】 137~192年(56歳) 【吉川】 第019話で初登場。 【演義】 第003回で初登場。 【正史】 登場人物。 呂布(りょふ)を手なずけ、董卓(とうたく)誅殺を果たす 父母ともに不詳。王晨(おうしん)と王淩(おうりょう)は甥(ふたりとも兄の息子だという)。 192年4月、司徒(しと)を務めていた王允は、尚書僕射(しょうしょぼくや)の士孫瑞(しそんずい)らとともに呂布を抱き込み、董卓の誅殺に成功した。 しかし同年5月、李傕(りかく)や郭汜(かくし)らが、董卓の復讐(ふくしゅう)と称して長安(ちょうあん)へ攻め寄せ、わずか10日で陥落させる。 翌6月に王允は処刑され、その屍(しかばね)が市場にさらされた。 管理人「かぶらがわ」より 『三国志』には王允の伝が立てられていないため、その

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  • 袁遺(えんい) ※あざなは伯業(はくぎょう)、反董卓(とうたく)連合軍に参加した諸侯

    【姓名】 袁遺(えんい) 【あざな】 伯業(はくぎょう) 【原籍】 汝南郡(じょなんぐん)汝陽県(じょようけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 第028話で初登場。 【演義】 第005回で初登場。 【正史】 登場人物。 反董卓(とうたく)連合軍に参加した諸侯、好学ぶりを曹操(そうそう)に称賛される 父母ともに不詳だが、母は何夔(かき)の従姑(おば)だという。袁紹(えんしょう)の従兄や袁術(えんじゅつ)の兄(従兄とも)という記事も見られるが、イマイチはっきりしない。 袁遺は、長安県令(ちょうあんけんれい)を経て山陽太守(さんようたいしゅ)となった。 190年1月、山東(さんとう。崤山〈こうざん〉・函谷関〈かんこくかん〉以東の地域。華山〈かざん〉以東の地域ともいう)の諸侯が反董卓を旗印に挙兵すると、彼もこの動きに呼応した。 同年2月、董卓は諸侯の挙兵を聞くと、献帝(けんてい)に迫って長

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    三国志に登場する、諸侯クラスの人物の個別記事
  • 士匡(しきょう)

    【姓名】 士匡(しきょう) 【あざな】 ? 【原籍】 蒼梧郡(そうごぐん)広信県(こうしんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・士燮伝(ししょうでん)』に付された「士匡伝」あり。 士壱(しいつ)の息子 父は士壱だが、母は不詳。 建安(けんあん。196~220年)の末年、士匡の伯父の士燮が、息子の士廞(しきん)を人質として孫権(そんけん)のもとへ遣ったところ、孫権は士燮を武昌太守(ぶしょうたいしゅ)に任じ、士燮や士壱の息子で南方に留まっている者たちを、みな中郎将(ちゅうろうしょう)に任じた。 226年に士燮が死去すると、息子の士徽(しき。士匡の従兄弟)が跡を継いだ。 孫権は、交阯(こうし。交趾)が遠く離れた地にあることから、合浦(ごうほ)以北を分割して広州(こうしゅう)とし、呂岱(りょたい)を広州刺史(こうしゅう

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  • 士䵋(しい)

    【姓名】 士䵋(しい) 【あざな】 ? 【原籍】 蒼梧郡(そうごぐん)広信県(こうしんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・士燮伝(ししょうでん)』に付された「士䵋伝」あり。 士燮の弟、呉(ご)の孫権(そんけん)に降ったものの、結局は刑死 父は士賜(しし)だが、母は不詳。士燮と士壱(しいつ)は兄で、士武(しぶ)は弟。 士䵋は徐聞県令(じょぶんけんれい)を務めていたが、交州刺史(こうしゅうしし)の朱符(しゅふ)が異民族の反乱で殺害された後、士燮の上表によって九真太守(きゅうしんたいしゅ)に任ぜられた。 226年に士燮が死去すると、息子の士徽(しき。士䵋の甥)が跡を継いだ。 孫権は、交阯(こうし。交趾)が遠く離れた地にあることから、合浦(ごうほ)以北を分割して広州(こうしゅう)とし、呂岱(りょたい)を広州刺史(こう

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  • 士壱(しいつ)

    【姓名】 士壱(しいつ) 【あざな】 ? 【原籍】 蒼梧郡(そうごぐん)広信県(こうしんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・士燮伝(ししょうでん)』に付された「士壱伝」あり。 士燮の弟、呉(ご)の孫権(そんけん)に降ったものの、結局は刑死 父は士賜(しし)だが、母は不詳。士燮は兄で、士䵋(しい)と士武(しぶ)は弟。士匡(しきょう)という息子がいた。 士壱は、もともと郡の督郵(とくゆう)を務めていた。 交州刺史(こうしゅうしし)の丁宮(ていきゅう)が都に召し還されることになったとき、士壱は心を込めて送別した。感激した丁宮は、別れに臨んで言った。 「もし私が、いずれ三公の職を務めるようになったら、きっとあなたを召し寄せよう」 188年8月、丁宮は司徒(しと)に昇り、先の言葉通りに士壱を召し寄せた。 ところが、士壱

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  • 士徽(しき)

    【姓名】 士徽(しき) 【あざな】 ? 【原籍】 蒼梧郡(そうごぐん)広信県(こうしんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・士燮伝(ししょうでん)』に付された「士徽伝」あり。 士燮の息子、呉(ご)の孫権(そんけん)に抵抗するも、呂岱(りょたい)の言葉を信じて破滅 父は士燮だが、母は不詳。士祗(しし)は兄で、士幹(しかん)・士頌(ししょう)・士廞(しきん)は弟か? このほかにも兄弟がいたことがうかがえる記事もある。 226年、士徽は士燮が死去したため跡を継いだ。孫権から安遠将軍(あんえんしょうぐん)に任ぜられ、九真太守(きゅうしんたいしゅ)を兼ねる。 孫権は、交阯(こうし。交趾)が遠く離れた地にあることから、合浦(ごうほ)以北を分割して広州(こうしゅう)とし、呂岱を広州刺史(こうしゅうしし)に起用した。 そして交

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  • 士燮(ししょう) ※あざなは威彦(いげん)

    【姓名】 士燮(ししょう) 【あざな】 威彦(いげん) 【原籍】 蒼梧郡(そうごぐん)広信県(こうしんけん) 【生没】 137~226年(90歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・士燮伝』あり。 卓越した判断力で90年の天寿を全う 父は士賜(しし)だが、母は不詳。士壱(しいつ)・士䵋(しい)・士武(しぶ)は弟。士祗(しし)・士徽(しき)・士幹(しかん)・士頌(ししょう)・士廞(しきん)という5人の息子(兄弟順は不明)がいた。 士燮の先祖は、もともと魯国(ろこく)の汶陽県(ぶんようけん)の人だったが、王莽(おうもう)のために天下が混乱に陥ると、交州(こうしゅう)へ避難した。 それから6代目にあたるのが父の士賜で、桓帝(かんてい。在位146~167年)の時代に日南太守(にちなんたいしゅ)を務めた。 士燮は若いころ都で学問に励み、劉陶(りゅうとう

    士燮(ししょう) ※あざなは威彦(いげん)
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  • 劉基(りゅうき)B ※あざなは敬輿(けいよ)、劉繇(りょうよう)の息子

    【姓名】 劉基(りゅうき) 【あざな】 敬輿(けいよ) 【原籍】 東萊郡(とうらいぐん)牟平県(ぼうへいけん) 【生没】 182?~230年?(49歳?) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・劉繇伝(りゅうようでん)』に付された「劉基伝」あり。 劉繇の息子、呉(ご)の孫権(そんけん)に厚遇される 父は劉繇だが、母は不詳。劉鑠(りゅうしゃく)と劉尚(りゅうしょう)は弟。孫霸(そんは)に嫁いだ娘がいた。 195年、劉基は劉繇が死去したため跡を継いだ。このときまだ14歳だったが、父の喪に服して礼に外れるところがなく、もとの部下が届けてくれた糧なども受け取らなかった。 劉基は容姿が端麗で、孫権に仕えて寵遇された。 219年に孫権が驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)になると、劉基は東曹掾(とうそうえん)として招かれ、輔義校尉(ほぎこうい)・建忠中郎将(けん

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  • 劉繇(りゅうよう) ※あざなは正礼(せいれい)

    【姓名】 劉繇(りゅうよう) 【あざな】 正礼(せいれい) 【原籍】 東萊郡(とうらいぐん)牟平県(ぼうへいけん) 【生没】 154~195年(42歳) 【吉川】 第054話で初登場。 【演義】 第011回で初登場。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・劉繇伝』あり。 名門の看板を生かせぬまま埋没 父は劉輿(りゅうよ。一名を劉方〈りゅうほう〉)だが、母は不詳。劉岱(りゅうたい)は兄。息子の劉基(りゅうき)は跡継ぎで、劉鑠(りゅうしゃく)と劉尚(りゅうしょう)も同じく息子。 劉繇は前漢(ぜんかん)の斉孝王(せいこうおう。高祖〈こうそ〉の孫の劉将閭〈りゅうしょうりょ〉。父は斉悼恵王〈せいとうけいおう〉こと劉肥〈りゅうひ〉)の後裔(こうえい)にあたる。 斉孝王の末息子(牟平共侯〈ぼうへいきょうこう〉こと劉渫〈りゅうせつ〉か?)が牟平侯に封ぜられ、その子孫が代々この地に住んだ。 劉繇が19歳(1

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  • 劉璋(りゅうしょう) ※あざなは季玉(きぎょく)

    【姓名】 劉璋(りゅうしょう) 【あざな】 季玉(きぎょく) 【原籍】 江夏郡(こうかぐん)竟陵県(きょうりょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 第082話で初登場。 【演義】 第016回で初登場。 【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・劉璋伝』あり。 成り行きで益州牧(えきしゅうぼく)を引き継ぐも、結局は劉備(りゅうび)へのつなぎ役に 父は劉焉(りゅうえん)だが、母は不詳。劉範(りゅうはん)・劉誕(りゅうたん)・劉瑁(りゅうぼう)は兄。息子の劉循(りゅうじゅん)は跡継ぎで、劉闡(りゅうせん)も同じく息子。ほかに費観(ひかん)に嫁いだ娘もいた。 194年、劉璋は劉焉が死去したため跡を継ぎ、監軍使者(かんぐんししゃ)・益州牧となった。 やがて漢中(かんちゅう)の張魯(ちょうろ)の態度に驕(おご)りが見られるようになり、劉璋の命令に従わなくなった。 205年、劉璋は張魯が命令に

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  • 劉焉(りゅうえん) ※あざなは君郎(くんろう)

    【姓名】 劉焉(りゅうえん) 【あざな】 君郎(くんろう) 【原籍】 江夏郡(こうかぐん)竟陵県(きょうりょうけん) 【生没】 ?~194年(?歳) 【吉川】 第005話で初登場。 【演義】 第001回で初登場。 【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・劉焉伝』あり。 天子(てんし)の気に誘われて益州(えきしゅう)へ 父母ともに不詳。劉範(りゅうはん)・劉誕(りゅうたん)・劉瑁(りゅうぼう)・劉璋(りゅうしょう)という4人の息子がおり、跡を継いだのは劉璋。 劉焉は前漢(ぜんかん)の魯恭王(ろきょうおう。景帝〈けいてい〉の息子の劉余〈りゅうよ〉)の後裔(こうえい)にあたる。後漢(ごかん)の章帝(しょうてい)の元和(げんわ)年間(84~86年)に竟陵に移封され、この地に分家が居を定めた。 劉焉は若いころから州や郡に出仕し、帝族として中郎(ちゅうろう)に任ぜられたが、師の祝恬(しゅくてん)が死

    劉焉(りゅうえん) ※あざなは君郎(くんろう)
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  • 張魯(ちょうろ) ※あざなは公祺(こうき)、五斗米道(ごとべいどう)の3代目教主、魏(ぎ)の閬中原侯(ろうちゅうげんこう)

    【姓名】 張魯(ちょうろ) 【あざな】 公祺(こうき) 【原籍】 沛国(はいこく)豊県(ほうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 第082話で初登場。 【演義】 第016回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・張魯伝』あり。 「五斗米道(ごとべいどう)」の3代目教主、曹操(そうそう)に降って教義を後世に伝える、閬中原侯(ろうちゅうげんこう) 父は張衡(ちょうこう)だが、母は不詳。張衛(ちょうえい)は弟。息子の張富(ちょうふ)は跡継ぎで、ほかに4人の息子がいたことがうかがえる。曹操の息子の曹宇(そうう)に嫁いだ娘もいた。 張魯の祖父の張陵(ちょうりょう)は蜀(しょく)に身を寄せ、鵠鳴山(こくめいざん)へ入って道術を学び、それらに関する書物を著し、人々を惑わせた。 彼の下で道術を学ぼうとする者は、そのお礼として5斗の米を出したので、世間では彼らのことを米賊(べいぞく)と呼ん

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  • 張繡(ちょうしゅう)

    【姓名】 張繡(ちょうしゅう) 【あざな】 ? 【原籍】 武威郡(ぶいぐん)祖厲県(それいけん) 【生没】 ?~207年(?歳) 【吉川】 第063話で初登場。 【演義】 第016回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・張繡伝』あり。 曹操(そうそう)にひと泡吹かせるも、降伏後は列侯(れっこう)に 父母ともに不詳。息子の張泉(ちょうせん)は跡継ぎ。ほかに曹操の息子の曹均(そうきん)に嫁いだ娘もいた。 張繡は、驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の張済(ちょうせい)の族子(おい。同族内で子の世代の者)にあたる。 186年?、辺章(へんしょう)と韓遂(かんすい)が涼州(りょうしゅう)で反乱を起こしたとき、金城(きんじょう)の麴勝(きくしょう)が祖厲県長(それいけんちょう)の劉雋(りゅうしゅん)を襲撃して殺害した。 このとき張繡は県吏を務めていたが、隙を狙って麴勝を暗殺する。郡中の人々は、

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  • 張燕(ちょうえん)

    【姓名】 張燕(ちょうえん) 【あざな】 ? 【原籍】 常山郡(じょうざんぐん)真定県(しんていけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 第083話で初登場。 【演義】 第011回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・張燕伝』あり。 黒山賊(こくざんぞく)の首領から将軍に転身 父母ともに不詳。息子の張方(ちょうほう)は跡継ぎ。 張燕は、もとの姓を褚(ちょ。褚燕)といった。 184年、黄巾賊(こうきんぞく)が蜂起すると、張燕は若者を集めて盗賊団を結成し、山沢地帯を根城に各地を荒らした。真定県へ戻ったときには、配下が1万を超える数になっていた。 そのころ張牛角(ちょうぎゅうかく)も、仲間を集めて将兵従事(しょうへいじゅうじ)と称しており、張燕と合流した。張燕は張牛角を頭目に推し立て、ともに癭陶(えいとう)を攻めた。 しかしこの戦いで、張牛角が矢を受けて負傷。必ず褚燕(張燕)を頭

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  • 公孫淵(こうそんえん)

    【姓名】 公孫淵(こうそんえん) 【あざな】 ? 【原籍】 遼東郡(りょうとうぐん)襄平県(じょうへいけん) 【生没】 ?~238年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第105回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・公孫度伝(こうそんたくでん)』に付された「公孫淵伝」あり。 公孫康(こうそんこう)の息子、遼東一帯で自立して燕王(えんおう)を称す 父は公孫康だが、母は不詳。公孫晃(こうそんこう)は兄。公孫脩(こうそんしゅう)という息子がおり、このほかにも3人の息子がいたことがうかがえる。 公孫康が死去した際、息子の公孫晃や公孫淵らは幼かったため、公孫康の弟の公孫恭が、代わって遼東太守(りょうとうたいしゅ)となった。 しかし、かつて公孫恭は陰萎(いんい)を病んで性的不能者となっており、資質も劣っていて、国を治めていく能力を持っていなかった。 228年、公孫淵は、叔父である公孫

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  • 公孫恭(こうそんきょう)

    【姓名】 公孫恭(こうそんきょう) 【あざな】 ? 【原籍】 遼東郡(りょうとうぐん)襄平県(じょうへいけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第033回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・公孫度伝(こうそんたくでん)』に付された「公孫恭伝」あり。 公孫度の息子、兄の死後に遼東一帯の支配を引き継ぐ 父は公孫度だが、母は不詳。公孫康(こうそんこう)は兄。 204年、公孫度が死去すると、公孫康が跡を継ぐ一方、公孫恭は永寧郷侯(えいねいきょうこう)に封ぜられた。 公孫康が死去すると、息子の公孫晃(こうそんこう)や公孫淵(こうそんえん)らが幼かったため、公孫恭が代わって遼東太守(りょうとうたいしゅ)となった。 221年3月、公孫恭は、魏(ぎ)の曹丕(そうひ)から車騎将軍(しゃきしょうぐん)・仮節(かせつ)に任ぜられ、平郭侯(へいかくこう)に封ぜられた。 2

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  • 公孫康(こうそんこう)

    【姓名】 公孫康(こうそんこう) 【あざな】 ? 【原籍】 遼東郡(りょうとうぐん)襄平県(じょうへいけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 第121話で初登場。 【演義】 第033回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・公孫度伝(こうそんたくでん)』に付された「公孫康伝」あり。 公孫度の息子、父から遼東一帯の支配を引き継ぐ 父は公孫度だが、母は不詳。公孫恭(こうそんきょう)は弟。公孫晃(こうそんこう)と公孫淵(こうそんえん)というふたりの息子がいた。 204年、公孫康は公孫度が死去したため跡を継いだ。 207年、曹操(そうそう)が3郡(遼西〈りょうせい〉・遼東・右北平〈ゆうほくへい〉)の烏丸族(うがんぞく)を討伐し、柳城(りゅうじょう)を攻略。 公孫康は、遼東に逃げ込んだ袁熙(えんき)と袁尚(えんしょう)の兄弟の首を斬り、曹操のもとに届けた。そしてこの功により左将軍(さ

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  • 公孫度(こうそんたく) ※あざなは升済(しょうせい)

    【姓名】 公孫度(こうそんたく) 【あざな】 升済(しょうせい) 【原籍】 遼東郡(りょうとうぐん)襄平県(じょうへいけん) 【生没】 ?~204年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第033回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・公孫度伝』あり。 遼東一帯を支配し、遼東侯(りょうとうこう)・平州牧(へいしゅうぼく)を自称 父は公孫延(こうそんえん)だが、母は不詳。幼名を豹(ほう。公孫豹)といった。息子の公孫康(こうそんこう)は跡継ぎで、公孫恭(こうそんきょう)も同じく息子。 公孫度は、父の公孫延がある事件に関わり、役人から追及を受けたため、玄菟郡(げんとぐん)に移住して郡吏となった。 玄菟太守(げんとたいしゅ)の公孫琙(こうそんよく)は、息子の公孫豹を18歳で亡くしていた。公孫度は公孫豹と同い年で、名(幼名)も同じだったため、公孫琙にかわいがられた。公孫琙は、公孫度に師

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  • 張楊(ちょうよう) ※あざなは雅叔(がしゅく)

    【姓名】 張楊(ちょうよう) 【あざな】 雅叔(がしゅく) 【原籍】 雲中郡(うんちゅうぐん) 【生没】 ?~198もしくは199年(?歳) 【吉川】 第028話で初登場。 【演義】 第005回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・張楊伝』あり。 空腹時の糧は金銀財宝に勝る 父母ともに不詳。 張楊は武勇を見込まれて幷州(へいしゅう)で採用され、武猛従事(ぶもうじゅうじ)となった。 霊帝(れいてい。在位168~189年)の末期に天下が混乱する。そのため188年8月、霊帝は、寵愛していた小黄門(しょうこうもん)の蹇碩(けんせき。蹇磧)を(西園〈せいえん〉)上軍校尉(じょうぐんこうい)に任じた。 このとき天下の豪傑が召し寄せられ、曹操(そうそう)が典軍校尉(てんぐんこうい)に、袁紹(えんしょう)が中軍校尉(ちゅうぐんこうい)に、それぞれ任ぜられ、西園八校尉のひとりとして蹇碩に従うこ

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  • 陶謙(とうけん) ※あざなは恭祖(きょうそ)

    【姓名】 陶謙(とうけん) 【あざな】 恭祖(きょうそ) 【原籍】 丹楊郡(たんようぐん) 【生没】 132~194年(63歳) 【吉川】 第025話で初登場。 【演義】 第005回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・陶謙伝』あり。 人格者のイメージは創作か? 父母ともに不詳。父はもと余姚県長(よようけんちょう)だったが、陶謙が幼いころに亡くなったという。陶商(とうしょう)と陶応(とうおう)というふたりの息子がいた。は同郷で、もと蒼梧太守(そうごたいしゅ)の甘公(かんこう)の娘。 陶謙は若いころから学問好きで、太学(たいがく)の学生となる。のち州郡に出仕し、孝廉(こうれん)や茂才(もさい)に推挙され、尚書郎(しょうしょろう)を経て舒県令(じょけんれい)や盧県令(ろけんれい)を務めた。 このころ西羌族(せいきょうぞく)が国境地帯を荒らしたため、皇甫嵩(こうほすう)が征西将軍(

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  • 公孫瓚(こうそんさん) ※あざなは伯珪(はくけい)

    【姓名】 公孫瓚(こうそんさん) 【あざな】 伯珪(はくけい) 【原籍】 遼西郡(りょうせいぐん)令支県(れいしけん) 【生没】 ?~199年(?歳) 【吉川】 第017話で初登場。 【演義】 第001回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・公孫瓚伝』あり。 一時は河北(かほく)に大きな勢力を張るも、易京(えきけい)とともに散る 父母ともに不詳。公孫続(こうそんしょく)という息子がいた。 初め公孫瓚は、遼西郡の門下書佐(もんかしょさ)に任ぜられた。容姿に優れていたうえによく通る声の持ち主だったため、侯太守(こうたいしゅ)はその人物を認め、自分の娘を嫁がせたという。 侯太守の計らいにより、公孫瓚は涿郡(たくぐん)の盧植(ろしょく)の下で経書(けいしょ)を学び、そのころ同じく遊学していた劉備(りゅうび)らと知り合った。 後に郡の役人として復帰。やがて孝廉(こうれん)に推挙されて郎(

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  • 陳容(ちんよう)

    【姓名】 陳容(ちんよう) 【あざな】 ? 【原籍】 広陵郡(こうりょうぐん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・臧洪伝(そうこうでん)』に付された「陳容伝」あり。 臧洪に付き従った烈士 父母ともに不詳。 陳容は臧洪と同郷で、若いころに書生となった。臧洪を親のように慕い、彼が東郡太守(とうぐんたいしゅ)だったとき、その下で東郡丞(とうぐんじょう)を務めた。 195年、臧洪が張超(ちょうちょう)の救援を巡って袁紹(えんしょう)と対立し、やがて袁紹軍による包囲を受けた。 陳容は臧洪の命を受けて城外へ出たものの、ほどなく城が陥落。臧洪は生け捕られたが、あくまで袁紹の態度を非難し続けた。 陳容は、臧洪が処刑されそうになっているのを見て、袁紹に言った。 「将軍は大事業を興され、天下のために無法者を除き去るお考えのはず。ところ

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  • 臧洪(そうこう) ※あざなは子源(しげん)

    【姓名】 臧洪(そうこう) 【あざな】 子源(しげん) 【原籍】 広陵郡(こうりょうぐん)射陽県(しゃようけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・臧洪伝』あり。 旧主へ尽くした忠義の代償は1万人近い官民 父は臧旻(そうびん)だが、母は不詳。 臧洪は体格や容貌が優れており、人並み外れて立派だった。孝廉(こうれん)に推挙されて郎(ろう)となった。 当時は三署(五官中郎署〈ごかんちゅうろうしょ〉・左中郎署〈さちゅうろうしょ〉・右中郎署〈ゆうちゅうろうしょ〉)の郎から、県長(けんちょう)を選んで任命するのが通例だった。 趙昱(ちょういく)が莒県長(きょけんちょう)に、劉繇(りゅうよう)が下邑県長(かゆうけんちょう)に、王朗(おうろう)が菑丘県長(しきゅうけんちょう)に、それぞれ任ぜられると、臧洪も即丘県長(そくきゅうけん

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    shiromitsu 2020/05/19
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  • 陳登(ちんとう) ※あざなは元龍(げんりょう)

    【姓名】 陳登(ちんとう) 【あざな】 元龍(げんりょう) 【原籍】 下邳国(かひこく)下邳県(かひけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 第044話で初登場。 【演義】 第011回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・呂布伝(りょふでん)』に付された「陳登伝」あり。 劉備(りゅうび)や劉表(りゅうひょう)から高く評価されるも、大志を果たせぬまま病没 父は陳珪(ちんけい)だが、母は不詳。陳応(ちんおう)は弟で、ほかにふたりの弟がいたという。息子の陳粛(ちんしゅく)は跡継ぎ。 陳登は誠実でさわやか、落ち着きがあって思慮深く、優れた計画を胸に秘めていた。若いころから、社会を立て直し、民を救済しようという志を持っていたという。また広く書物を読み、もともと文学的な才能もあったため、古典や文学作品をことごとく究めた。 陳登は25歳で孝廉(こうれん)に推挙され、東陽県長(とうようけん

    陳登(ちんとう) ※あざなは元龍(げんりょう)
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  • 張邈(ちょうばく)B ※あざなは孟卓(もうたく)、張超(ちょうちょう)Bの兄、反董卓(とうたく)連合軍に参加した諸侯

    【姓名】 張邈(ちょうばく) 【あざな】 孟卓(もうたく) 【原籍】 東平郡(とうへいぐん)寿張県(じゅちょうけん) 【生没】 ?~195年(?歳) 【吉川】 第025話で初登場。 【演義】 第005回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・呂布伝(りょふでん)』に付された「張邈伝」あり。 俠気(きょうき。男気)に富む長者も、親友を裏切って死す 父母ともに不詳。張超(ちょうちょう)は弟。 張邈は若いころから俠気があり、困窮者への援助を惜しまなかったため、世人から「八廚(はっちゅう)」のひとりとしてたたえられた。彼のもとには多くの人々が身を寄せ、曹操(そうそう)や袁紹(えんしょう)とも友人だった。 張邈は三公の府から召し出され、成績優秀として騎都尉(きとい)に任ぜられた後、189年には陳留太守(ちんりゅうたいしゅ)に栄転した。 このとき董卓(とうたく)が朝廷の実権を握っていたが、翌

    張邈(ちょうばく)B ※あざなは孟卓(もうたく)、張超(ちょうちょう)Bの兄、反董卓(とうたく)連合軍に参加した諸侯
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  • 呂布(りょふ) ※あざなは奉先(ほうせん)

    【姓名】 呂布(りょふ) 【あざな】 奉先(ほうせん) 【原籍】 五原郡(ごげんぐん)九原県(きゅうげんけん) 【生没】 ?~198年(?歳) 【吉川】 第020話で初登場。 【演義】 第003回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・呂布伝』あり。 天下無双の豪傑も、思慮に欠け、大成せず 父母ともに不詳。娘がいたことがうかがえる。 初め呂布は幷州刺史(へいしゅうしし)の丁原(ていげん)に仕え、主簿(しゅぼ)として目をかけられた。 189年4月に霊帝(れいてい)が崩御(ほうぎょ)すると、大将軍(だいしょうぐん)の何進(かしん)の要請に応じた丁原に付き従い、軍勢をひきいて洛陽(らくよう)へ上る。 同年8月、何進が中常侍(ちゅうじょうじ)の段珪(だんけい)らに謀殺されると、代わって董卓(とうたく)が実権を握った。 呂布は董卓の誘いを受けて、丁原を殺害。騎都尉(きとい)に任ぜられたうえ

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  • 劉表(りゅうひょう) ※あざなは景升(けいしょう)

    【姓名】 劉表(りゅうひょう) 【あざな】 景升(けいしょう) 【原籍】 山陽郡(さんようぐん)高平県(こうへいけん) 【生没】 ?~208年(?歳) 【吉川】 第031話で初登場。 【演義】 第006回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・劉表伝』あり。 大州を擁しながらも、座したまま生涯を終える 父母ともに不詳。劉琦(りゅうき)・劉琮(りゅうそう)・劉脩(りゅうしゅう)という3人の息子がいた。 劉表は前漢(ぜんかん)の魯恭王(ろきょうおう。景帝〈けいてい〉の息子の劉余〈りゅうよ〉)に連なる家柄で、帝族のひとりだった。 若いころから儒者として名があり、「八俊(はっしゅん)」「八交(はっこう)」「八顧(はっこ)」「八友(はちゆう)」などと呼ばれた。また身長が8尺(せき)以上もあり、立派な容姿をしていたという。 190年に荊州刺史(けいしゅうしし)に任ぜられると、劉表は州内の豪族

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  • 袁術(えんじゅつ) ※あざなは公路(こうろ)、反董卓(とうたく)連合軍に参加した諸侯

    【姓名】 袁術(えんじゅつ) 【あざな】 公路(こうろ) 【原籍】 汝南郡(じょなんぐん)汝陽県(じょようけん) 【生没】 ?~199年(?歳) 【吉川】 第025話で初登場。 【演義】 第003回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・袁術伝』あり。 四世三公の名門も、帝位を僭称(せんしょう)して自滅 父は袁逢(えんほう)だが、母は不詳。袁基(えんき)と袁遺(えんい)は兄(袁基は同母兄。袁遺は従兄ともいう)で、袁紹(えんしょう)は異母兄。 息子の袁燿(えんよう)は跡継ぎ。ほかに呉(ご)の孫権(そんけん)や黄猗(こうい)に嫁いだ娘もいた。 袁術は若いころ、男気があることで知られていた。孝廉(こうれん)に推挙されて郎中(ろうちゅう)に任ぜられ、中央や地方の官職を歴任した後、折衝校尉(せっしょうこうい)・虎賁中郎将(こほんちゅうろうしょう)となった。 189年8月、大将軍(だいしょう

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  • 袁尚(えんしょう) ※あざなは顕甫(けんほ)

    【姓名】 袁尚(えんしょう) 【あざな】 顕甫(けんほ) 【原籍】 汝南郡(じょなんぐん)汝陽県(じょようけん) 【生没】 ?~207年(?歳) 【吉川】 第115話で初登場。 【演義】 第030回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・袁紹伝(えんしょうでん)』に付された「袁尚伝」あり。 袁紹にかわいがられた三男坊 父は袁紹だが、母は不詳。袁譚(えんたん)と袁熙(えんき)は兄。このほかに袁買(えんばい)も弟の可能性がある(甥ともいう)。 袁尚は容姿に優れており、袁紹の寵愛を受けた。袁紹は彼を跡継ぎにしたいと考えていたが、その意思を公表していなかった。重臣の審配(しんぱい)と逢紀(ほうき)は袁尚を推し、辛評(しんぴょう)と郭図(かくと)は袁譚を推した。 202年、袁紹が死去すると、審配と逢紀は袁尚を跡継ぎに立てた。袁譚は青州(せいしゅう)から鄴(ぎょう)へ駆けつけたものの、跡継ぎ

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  • 袁譚(えんたん) ※あざなは顕思(けんし)

    【姓名】 袁譚(えんたん) 【あざな】 顕思(けんし) 【原籍】 汝南郡(じょなんぐん)汝陽県(じょようけん) 【生没】 ?~205年(?歳) 【吉川】 第097話で初登場。 【演義】 第022回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・袁紹伝(えんしょうでん)』に付された「袁譚伝」あり。 袁紹の長男、兄弟喧嘩(げんか)の末に自滅 父は袁紹だが、母は不詳。袁熙(えんき)と袁尚(えんしょう)は弟。このほかに袁買(えんばい)も弟の可能性がある(甥または息子の可能性もある)。 199年、袁譚は袁紹の意向により、青州刺史(せいしゅうしし)として統治にあたった。 袁紹は年少の袁尚を寵愛し、跡継ぎにと考えていたが、まだこの意思を公表していなかった。重臣の審配(しんぱい)と逢紀(ほうき)は袁尚を推し、辛評(しんぴょう)と郭図(かくと)は袁譚を推した。 202年、袁紹が死去すると、審配と逢紀は袁尚

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  • 袁紹(えんしょう) ※あざなは本初(ほんしょ)、反董卓(とうたく)連合軍の盟主

    【姓名】 袁紹(えんしょう) 【あざな】 初(ほんしょ) 【原籍】 汝南郡(じょなんぐん)汝陽県(じょようけん) 【生没】 ?~202年(?歳) 【吉川】 第017話で初登場。 【演義】 第002回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・袁紹伝』あり。 四世三公の名門も、優柔不断さが破滅を招く 実父は袁逢(えんほう)だが、母は不詳。一説に、実父は袁成(えんせい。袁逢の兄)ともいう。袁基(えんき)と袁遺(えんい)は兄(袁基は異母兄、袁遺は従兄ともいう)で、袁術(えんじゅつ)は異母弟。 袁譚(えんたん)・袁熙(えんき)・袁尚(えんしょう)という3人の息子がいた。このほか袁買(えんばい)も息子の可能性がある(孫ともいう)。 袁紹は袁逢の庶子だったため、家を出て伯父の袁成の跡を継いだ。堂々として風貌にも威厳があったが、身分にこだわることなく人士と接したため、大勢の人々が彼のもとに身を寄

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  • 郭汜(かくし)

    【姓名】 郭汜(かくし) 【あざな】 ? 【原籍】 張掖郡(ちょうえきぐん) 【生没】 ?~197年(?歳) 【吉川】 第028話で初登場。 【演義】 第003回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・董卓伝(とうたくでん)』に付された「郭汜伝」あり。 旧主の董卓亡き後、朝政を壟断(ろうだん)したひとり 父母ともに不詳。一名を多(た。郭多)ともいう。 郭汜は、董卓の娘婿である中郎将(ちゅうろうしょう)の牛輔(ぎゅうほ)の下で校尉(こうい)を務め、李傕(りかく)や張済(ちょうせい)らとともに、陳留(ちんりゅう)や潁川(えいせん)の諸県の攻略にあたった。 192年4月、董卓が呂布(りょふ)らに殺害されると、陝(せん)にいた牛輔は李粛(りしゅく)の攻撃を受けた。牛輔は李粛を撃破し、李粛は弘農(こうのう)へ敗走したものの、呂布に処刑された。 その後、夜間に牛輔の軍営で反乱が起こり、逃亡者

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  • 李傕(りかく)

    【姓名】 李傕(りかく) 【あざな】 ? 【原籍】 北地郡(ほくちぐん) 【生没】 ?~197もしくは198年(?歳) 【吉川】 第028話で初登場。 【演義】 第003回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・董卓伝(とうたくでん)』に付された「李傕伝」あり。 旧主の董卓亡き後、朝政を壟断(ろうだん)したひとり 父母ともに不詳。 李傕は、董卓の娘婿である中郎将(ちゅうろうしょう)の牛輔(ぎゅうほ)の下で校尉(こうい)を務め、郭汜(かくし)や張済(ちょうせい)らとともに、陳留(ちんりゅう)や潁川(えいせん)の諸県の攻略にあたった。 192年4月、董卓が呂布(りょふ)らに殺害されると、陝(せん)にいた牛輔は李粛(りしゅく)の攻撃を受けた。牛輔は李粛を撃破し、李粛は弘農(こうのう)へ敗走したものの、呂布に処刑された。 その後、夜間に牛輔の軍営で反乱が起こり、逃亡者が出た。牛輔は金目の

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  • 董卓(とうたく) ※あざなは仲穎(ちゅうえい)

    【姓名】 董卓(とうたく) 【あざな】 仲穎(ちゅうえい) 【原籍】 隴西郡(ろうせいぐん)臨洮県(りんとうけん) 【生没】 139?~192年(54歳) 【吉川】 第011話で初登場。 【演義】 第001回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・董卓伝』あり。 歴史に残る暴虐宰相 父は董君雅(とうくんが)だが、母は不詳。董擢(とうてき)は兄で、董旻(とうびん)は弟。 董卓は若いころ男だてを気取り、羌族(きょうぞく)の住む地を放浪したことがあった。このときに羌族の顔役たちと交わりを結んだ。 のち郷里の隴西郡へ帰り、農耕に従事したが、羌族の顔役が訪ねてくると、耕牛を殺して宴会を催すほど歓迎した。顔役は意気に感じ、1千頭余りの家畜を集めて董卓に贈ったという。 桓帝(かんてい。在位146~167年)の末年、6郡(漢陽〈かんよう〉・隴西・安定〈あんてい〉・北地〈ほくち〉・上郡〈じょうぐん

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  • 孫冀(そんき)

    【姓名】 孫冀(そんき) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第120回で初登場。 【正史】 登場せず。 創作された人物、呉(ご)の孫晧(そんこう)配下の左将軍(さしょうぐん) 父母ともに不詳。 『三国志演義』(第120回)には以下のようにある。 「孫晧から晋(しん)の襄陽(じょうよう)攻めを命ぜられた鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)の陸抗(りくこう)が、晋の都督(ととく)の羊祜(ようこ)と対峙(たいじ)した」 「対峙を続けるうち、陸抗と羊祜は敵ながら互いの力量を認め合うようになっていたが、そこへ孫晧から進軍を促す詔(みことのり)が届く」 「陸抗は孫晧へ上奏文を届けさせ、今は晋軍を討伐するべきではないと、言葉を尽くして説いた」 「しかし孫晧は上奏文を読むと激怒。陸抗が晋と通じていると決めつけ、彼の指揮権を剝奪したうえ司馬(しば)に降格させ

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    呉(ご)の孫権(そんけん)を中心とした一族に関する個別記事
  • 孫倫(そんりん)

    【姓名】 孫倫(そんりん) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫権(そんけん)配下の部将 父母ともに不詳。呉の孫権の一族なのかは不明。 241年5月、孫倫は朱然(しゅぜん)とともに5万の軍勢をひきい、魏(ぎ)の樊城(はんじょう)を包囲した。 このとき全琮(ぜんそう)が芍陂(しゃくひ)へ、諸葛瑾(しょかつきん)と歩騭(ほしつ)が柤中(そちゅう)へ、それぞれ進攻した。 全琮が敗れた後、なおも呉軍は樊城を厳しく包囲していたが、翌6月、魏の太傅(たいふ)の司馬懿(しばい)が諸軍をひきいて駆けつけると敗走した。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 上で挙げた記事は、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く干宝(かんぽう)

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    呉(ご)の孫権(そんけん)を中心とした一族に関する個別記事
  • 孫楞(そんりょう)

    【姓名】 孫楞(そんりょう) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~255年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫亮(そんりょう)配下の将軍 父母ともに不詳。呉の孫権(そんけん)の一族なのかは不明。 255年2月、孫楞は左将軍(さしょうぐん)の留賛(りゅうさん)や将軍の蔣脩(しょうしゅう)らとともに、魏(ぎ)の諸葛誕(しょかつたん)の別動隊をひきいた蔣班(しょうはん)と菰陂(こひ)で戦って敗れた。 この際、孫楞は留賛や蔣脩らともども殺害されたという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 孫楞の名が正史『三国志』に見えるのは、上で挙げた1か所だけなので、詳しい経歴などはわかりませんでした。

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  • 孫嘿(そんもく)

    【姓名】 孫嘿(そんもく) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫亮(そんりょう)配下の中書令(ちゅうしょれい) 父母ともに不詳。呉の孫権(そんけん)の一族なのかは不明。 253年4月、諸葛恪(しょかつかく)が魏(ぎ)の合肥新城(ごうひしんじょう)を包囲する。しかし疫病が大流行したため、呉の兵士の大半が死んでしまった。 同年8月、諸葛恪は帰還を促す孫亮の詔(みことのり)を受けて、ようやく軍勢を返す。 孫嘿は、諸葛恪が都に帰るなり呼び出され、「なぜ詔をでっちあげてまで帰還を促したりしたのか」と激しく叱責された。 すると孫嘿は、病を理由に屋敷に引き籠もってしまったという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのか

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  • 孫茂(そんぼう)

    【姓名】 孫茂(そんぼう) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫権(そんけん)配下の部将 父母ともに不詳。呉の孫権の一族なのかは不明。 215年、孫茂は呂岱(りょたい)の指揮の下、劉備(りゅうび)に支配されていた長沙(ちょうさ)・零陵(れいりょう)・桂陽(けいよう)の3郡攻略に部将として参加した。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 この孫茂の名が正史『三国志』に見えるのは、上で挙げた1か所だけなので、詳しい経歴などはわかりませんでした。

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  • 孫布(そんふ)

    【姓名】 孫布(そんふ) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫権(そんけん)配下の中郎将(ちゅうろうしょう) 父母ともに不詳。呉の孫権の一族なのかは不明。 231年、孫布は揚州(ようしゅう)へ使者を遣り、魏(ぎ)に降伏したい旨を伝えたうえで、迎えの軍勢を出してほしいと頼む。だが、これは計略だった。 魏の満寵(まんちょう)は偽りと見抜いたが、揚州刺史(ようしゅうしし)の王淩(おうりょう)には見抜けなかった。 ちょうど満寵は曹叡(そうえい)に召されて入朝しなくてはならなかったため、留府長史(りゅうふちょうし)に、王淩から要請があっても兵を与えないよう命じておいた。 王淩は兵を要求したものの認められず、やむなく配下の督将(とくしょう)に700の歩騎を付けて孫布を迎えに行かせた。孫布が夜に紛れて襲撃

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  • 孫耽(そんたん)

    【姓名】 孫耽(そんたん) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫休(そんきゅう)配下の将軍 父母ともに不詳。呉の孫権(そんけん)の一族なのかは不明。 258年9月、孫亮(そんりょう)が実権を握っていた孫綝(そんりん)の誅殺に失敗すると、ほどなく孫綝の意向によって廃位され、会稽王(かいけいおう)に貶(おと)された。このとき孫耽は孫綝の命を受け、孫亮を会稽まで護送したという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 この孫耽の名が正史『三国志』に見えるのは、上で挙げた1か所だけです。孫綝から孫亮の護送を命ぜられるくらいですから、それなりに活躍した将軍なのでしょう。

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  • 孫盛(そんせい)B ※孫権(そんけん)配下の将軍

    【姓名】 孫盛(そんせい) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫権(そんけん)配下の将軍 父母ともに不詳。呉の孫権の一族なのかは不明。 222年、江陵(こうりょう)が魏(ぎ)の曹真(そうしん)・夏侯尚(かこうしょう)・張郃(ちょうこう)らの軍勢に包囲された。 このとき孫盛は孫権の命を受け、1万の軍勢をひきいて長江(ちょうこう)の中洲(なかす。百里洲〈ひゃくりす〉)へ向かった。 そして四方に防御壁を備えた砦を築き、江陵城に立て籠もる朱然(しゅぜん)に外部から助勢しようとした。 しかし張郃の軍勢が中洲に攻め寄せると、孫盛は支えきれずに退却した。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 この孫盛の名が正史『三国志』に見えるのは、上で挙げた魏との戦い絡みの場面だけなので

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  • 孫紹(そんしょう)A ※呉(ご)の朝儀の制定に携わったひとり

    父母ともに不詳。呉の孫権(そんけん)の一族なのかは不明。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・張昭伝〈ちょうしょうでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く張勃(ちょうぼつ)の『呉録(ごろく)』によると、孫紹は張昭・滕胤(とういん)・鄭礼(ていれい)らとともに、周(しゅう)や漢(かん)の時代の礼制から採り入れて、呉における朝廷の儀礼制度を制定したという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 この孫紹は孫邵(そんしょう)と同一人物ではないかと感じました。同様に鄭礼というのも鄭札(ていさつ)と同一人物ではないでしょうか?

    孫紹(そんしょう)A ※呉(ご)の朝儀の制定に携わったひとり
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    shiromitsu 2020/05/19
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  • 孫邵(そんしょう) ※あざなは長緒(ちょうしょ)

    【姓名】 孫邵(そんしょう) 【あざな】 長緒(ちょうしょ) 【原籍】 北海郡(ほっかいぐん) 【生没】 163~225年(63歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の初代丞相(じょうしょう) 父母ともに不詳。 初め孫邵は孔融(こうゆう)の下で功曹(こうそう)を務め、朝廷に立つべき人材であると称賛された。後に江東(こうとう)の劉繇(りゅうよう)のもとへ身を寄せ、やがて江東を支配した孫権(そんけん)に仕えた。 孫邵が、朝廷に公式の使者を遣わして献上品を奉るよう勧めると、すぐに孫権はこの意見を容れた。孫邵は廬江太守(ろこうたいしゅ)に任ぜられ、車騎長史(しゃきちょうし)に昇進した。 219年に孫権が驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)に任ぜられると、孫邵は張昭(ちょうしょう)や鄭札(ていさつ)らとともに、呉における儀礼制度の制定にあたった。 222年には丞相

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  • 孫諝(そんしょ)

    【姓名】 孫諝(そんしょ) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~263年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫晧(そんこう)配下の交趾太守(こうしたいしゅ) 父母ともに不詳。呉の孫権(そんけん)の一族なのかは不明。 263年5月、交趾郡の役人だった呂興(りょこう)らが反乱を起こした際、交趾太守を務めていた孫諝は殺害された。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫晧伝)によると、呂興らの反乱が起きる前、孫諝は郡内に徴用令を出し、優れた職人を1千余人も選んで建業(けんぎょう)へ送っていました。 その後、察戦(さっせん)の役人が交趾郡へやってくると、人々はまた徴用されるのではないかと恐れます。 呂興らはこうした動揺に乗じて兵士や民衆を扇動し、異民族も誘い込んで反乱を起こしたとの

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  • 孫遵(そんじゅん)

    【姓名】 孫遵(そんじゅん) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫晧(そんこう)配下の公安督(こうあんとく) 父母ともに不詳。呉の孫権(そんけん)の一族なのかは不明。 272年8月、西陵督(せいりょうとく)の歩闡(ほせん)が晋(しん)に降ると、晋の車騎将軍(しゃきしょうぐん)の羊祜(ようこ)らが軍勢をひきいて江陵(こうりょう)へ攻め寄せた。 このとき晋の巴東監軍(はとうかんぐん)の徐胤(じょいん)が水軍をひきいて建平(けんぺい)に、荊州刺史(けいしゅうしし)の楊肇(ようちょう)が西陵に、それぞれやってきた。 公安督の孫遵は陸抗(りくこう)の命を受けて、長江(ちょうこう)の南岸を移動しながら羊祜の侵出を防ぎ止めたという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 孫

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  • 孫高(そんこう)

    【姓名】 孫高(そんこう) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫翊(そんよく)配下の帳下(ちょうか。旗) 父母ともに不詳。呉(ご)の孫権(そんけん)の一族なのかは不明。 204年、孫高が長く仕えていた丹楊太守(たんようたいしゅ)の孫翊が、嬀覧(きらん)と戴員(たいうん)の意を受けた辺鴻(へんこう。辺洪)に殺害された。 嬀覧は役所に居座り、孫翊の嬪妾(そばめ)や侍女に加え、の徐氏(じょし)まで自分の物にしようとした。 徐氏は月末の法事を理由に時間稼ぎをする一方、この間に孫高や傅嬰(ふえい)らを呼び、嬀覧誅殺の助力を頼んだ。 やがて、徐氏の使いから喪が明けたことを伝えられた嬀覧が、のこのこと部屋を訪ねると、徐氏の声に応じて孫高と傅嬰が飛び出し、見事に嬀覧を討ち取った。ほかの者も時を移さず、別の場所で戴

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  • 孫弘(そんこう)

    【姓名】 孫弘(そんこう) 【あざな】 ? 【原籍】 会稽郡(かいけいぐん) 【生没】 ?~252年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫権(そんけん)配下の中書令(ちゅうしょれい)・太子少傅(たいししょうふ) 父母ともに不詳。呉の孫権の一族なのかは不明。 孫弘は、242年1月に皇太子に立てられた孫和(そんか)と、同年8月に魯王(ろおう)に封ぜられた孫霸(そんは)との間で後継者争いが起きた際、孫霸に付いた。 そのうち孫霸側の孫和に対する讒言(ざんげん)が効き、250年に孫和は皇太子を廃されたものの、孫霸には自殺が命ぜられた。同年11月、孫亮(そんりょう)が皇太子に立てられた。 翌251年12月、孫権が重い病にかかると、皇太子の孫亮が9歳と幼かったことから、武昌(ぶしょう)にいた大将軍(だいしょうぐん)の諸葛恪(しょかつかく)を召し還し、太子

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  • 孫規(そんき)

    【姓名】 孫規(そんき) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫権(そんけん)配下の部将 父母ともに不詳。呉の孫権の一族なのかは不明。 215年、孫規は呂蒙(りょもう)の指揮の下、鮮于丹(せんうたん)や徐忠(じょちゅう)らとともに、2万の軍勢で長沙(ちょうさ)・零陵(れいりょう)・桂陽(けいよう)3郡の攻略にあたったという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呂蒙伝)によると、長沙と桂陽の両郡は呂蒙の文書を見て孫権に帰順したものの、劉備(りゅうび)配下の零陵太守(れいりょうたいしゅ)の郝普(かくふ)だけは降伏しなかったそうです。 そこで呂蒙は長沙から零陵へ向かう途中、酃(れい)にいた鄧玄之(とうげんし)を車に同乗させます。鄧玄之が

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  • 孫奇(そんき)

    【姓名】 孫奇(そんき) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~250年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫霸(そんは)に加担し、孫和(そんか)を陥れたひとり 父母ともに不詳。呉(ご)の孫権(そんけん)の一族なのかは不明。 孫奇は、242年1月に皇太子に立てられた孫和と、同年8月に魯王(ろおう)に封ぜられた孫霸との間で後継者争いが起きた際、孫霸に付いた。 そのうち孫和への讒言(ざんげん)が効き、250年に孫和は皇太子を廃されたものの、孫霸には自殺が命ぜられた。 孫奇も孫霸と結託して孫和を陥れたという理由で、全寄(ぜんき)や呉安(ごあん)らとともに誅殺された。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 孫和を陥れた孫霸側の中心人物のひとりだったのでしょうが、家系や官爵などもわからず、正史『三国志』にちょこっと登場して

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  • 孫彧(そんいく)

    【姓名】 孫彧(そんいく) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫権(そんけん)の一族 父母ともに不詳。呉の孫権の分家筋にあたるという。 初め孫彧は呉の部将として、南陵督(なんりょうとく)の徐紹(じょしょう)とともに寿春城(じゅしゅんじょう)を守っていたが、魏(ぎ)に捕らえられた後は(魏に)仕えた。 264年10月、水曹掾(すいそうえん)を務めていた孫彧は、相国参軍事(しょうこくさんぐんじ)だった徐紹とともに魏の曹奐(そうかん)の詔(みことのり)を受け、帰国して孫晧(そんこう)に降伏を勧告するよう命ぜられた。 このとき、別に相国の司馬昭(しばしょう)から手紙を託された。 孫彧は徐紹の副官という位置づけだったが、兼給事黄門侍郎(けんきゅうじこうもんじろう)に任

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  • 孫氏(そんし)E ※孫恭(そんきょう)の娘、孫綝(そんりん)の従姉、全尚(ぜんしょう)の妻

    【姓名】 孫氏(そんし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第113回で初登場。 【正史】 登場人物。 父は孫恭だが、母は不詳。孫峻(そんしゅん)は弟。 孫氏は全尚(ぜんしょう)に嫁ぎ、息子の全紀(ぜんき)と娘の全氏(ぜんし。孫亮〈そんりょう〉の皇后)を儲けた。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫綝伝〈そんりんでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞溥(ぐふ)の『江表伝(こうひょうでん)』には、以下のようにある。 「258年9月、孫亮は全紀を召し寄せ、孫綝を誅殺する計画を進めていることを打ち明け、父の全尚にも詔(みことのり)を伝えるよう命じた。その際、全紀の母である孫氏には、決して事を漏らさないよう注意を促した」 「全紀が詔を伝えると、全尚は成り行きをよく考えず、この話をの孫氏にもしてしまう

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  • 孫闓(そんかい)

    【姓名】 孫闓(そんかい) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~258年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第113回で初登場。 【正史】 登場人物。 孫綽(そんしゃく)の息子 父は孫綽だが、母は不詳。孫綝(そんりん)・孫恩(そんおん)・孫拠(そんきょ)・孫幹(そんかん)は兄。 257年4月に孫亮(そんりょう)が親政を行って以来、しばしば問責が加えられるようになり、孫綝はひどく不安を感じていた。 孫綝は朱雀橋(すざくきょう)の南に私邸を建て、弟で威遠将軍(いえんしょうぐん)の孫拠を蒼龍門(そうりょうもん。建業〈けんぎょう〉の東門)内に置いて宿衛にあたらせた。 長水校尉(ちょうすいこうい)だった孫闓も、兄の孫恩や孫幹とともに、都のいくつかの軍営に配下の軍勢を置いて孫綝を支えた。 258年9月、孫綝は、自身の誅殺を計画した孫亮、および計画に加担し

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  • 孫幹(そんかん)

    【姓名】 孫幹(そんかん) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~258年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第113回で初登場。 【正史】 登場人物。 孫綽(そんしゃく)の息子 父は孫綽だが、母は不詳。孫綝(そんりん)・孫恩(そんおん)・孫拠(そんきょ)は兄で、孫闓(そんかい)は弟。 257年4月に孫亮(そんりょう)が親政を行って以来、しばしば問責が加えられるようになり、孫綝はひどく不安を感じていた。 孫綝は朱雀橋(すざくきょう)の南に私邸を建て、弟で威遠将軍(いえんしょうぐん)の孫拠を蒼龍門(そうりょうもん。建業〈けんぎょう〉の東門)内に置いて宿衛にあたらせた。 偏将軍(へんしょうぐん)だった孫幹も、兄の孫恩や弟の孫闓とともに、都のいくつかの軍営に配下の軍勢を置いて孫綝を支えた。 258年9月、孫綝は、自身の誅殺を計画した孫亮、および計画に

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  • 孫拠(そんきょ)

    【姓名】 孫拠(そんきょ) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~258年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第113回で初登場。 【正史】 登場人物。 孫綽(そんしゃく)の息子 父は孫綽だが、母は不詳。孫綝(そんりん)と孫恩(そんおん)は兄で、孫幹(そんかん)と孫闓(そんかい)は弟。 257年4月に孫亮(そんりょう)が親政を行って以来、しばしば問責が加えられるようになり、孫綝はひどく不安を感じていた。 孫綝は朱雀橋(すざくきょう)の南に私邸を建てたが、威遠将軍(いえんしょうぐん)だった孫拠は蒼龍門(そうりょうもん。建業〈けんぎょう〉の東門)内で宿衛にあたるよう命ぜられた。 258年9月、孫綝は、自身の誅殺を計画した孫亮、および計画に加担した太常(たいじょう)の全尚(ぜんしょう)と将軍の劉丞(りゅうじょう)を押さえるべく動いた。 孫亮が廃されて

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  • 孫恩(そんおん)

    【姓名】 孫恩(そんおん) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~258年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第113回で初登場。 【正史】 登場人物。 孫綽(そんしゃく)の息子 父は孫綽だが、母は不詳。孫綝(そんりん)は兄で、孫拠(そんきょ)・孫幹(そんかん)・孫闓(そんかい)は弟。 257年5月、魏(ぎ)の諸葛誕(しょかつたん)が寿春(じゅしゅん)で反乱を起こし、城に立て籠もったまま呉(ご)への投降を申し入れる。 これに対して呉は文欽(ぶんきん)・唐咨(とうし)・全端(ぜんたん)・全懌(ぜんえき)らを遣わし、3万の軍勢をもって諸葛誕の救援に向かわせた。魏は中央軍と地方軍、合わせて20余万を動員して寿春の包囲を強めた。 呉の朱異(しゅい)は、別に3万の軍勢をひきいて安豊城(あんぽうじょう)に陣を置き、文欽らのために外部から魏軍を牽制(けんせ

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  • 孫慮(そんりょ。孫憲〈そんけん〉)B ※孫綝(そんりん)の従兄

    【姓名】 孫慮(そんりょ) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~256年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 父母ともに不詳。一名を憲(けん。孫憲)ともいう。孫峻(そんしゅん)は従兄に、孫綝は従弟に、それぞれあたる。 256年10月、孫憲(孫慮)は孫綝の命を受け、丁奉(ていほう)や施寛(しかん)らとともに水軍をひきい、孫綝と対立した呂拠(りょきょ)を江都(こうと)で迎え撃つ。 ほどなく呂拠は新州(しんしゅう。建業〈けんぎょう〉近くにあった長江〈ちょうこう〉の中洲〈なかす〉)で捕らえられた(自殺したともいう)。 翌11月、孫綝は大将軍(だいしょうぐん)に任ぜられて仮節(かせつ)となり、永寧侯(えいねいこう)に封ぜられた。 孫慮(孫憲)は、孫峻が253年10月に諸葛恪(しょかつかく)を誅殺した際の計画に加わっていた

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  • 孫丞(そんじょう) ※あざなは顕正(けんせい)

    【姓名】 孫丞(そんじょう) 【あざな】 顕正(けんせい) 【原籍】 呉郡(ごぐん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫慎(そんしん)の息子 父は孫慎だが、母は不詳。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫桓伝〈そんかんでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『文士伝(ぶんしでん。撰者〈せんじゃ〉は諸説あり)』には、以下のようにある。 「孫丞は学問を好み、文才もあった。彼の作った『蛍火賦(ほたるのふ)』は世間で流行した」 「孫丞は黄門侍郎(こうもんじろう)に任ぜられ、顧栄(こえい)とともに皇帝の側近として仕えた。孫晧(そんこう)の時代(264~280年)には、側近の多くが罪を得たりとがめを受けたりしたが、孫丞と顧栄は無事に過ごすことができた」 「いつも孫晧はふたりに出来事の記録を担当させ、問題点があれば諮問した。その働きを見た孫晧

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  • 孫慎(そんしん)

    【姓名】 孫慎(そんしん) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫俊(そんしゅん)の息子 父は孫俊だが、母は不詳。孫建(そんけん)は兄。息子の孫丞(そんじょう)は跡継ぎ。 277年夏、孫慎は夏口督(かこうとく)として江夏(こうか)から汝南(じょなん)へ軍勢を進め、焼き討ちを掛けて住民を略奪した。 また『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫桓伝〈そんかんでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書』によると、孫慎は鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)まで昇ったという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 『三国志』(呉書・孫韶伝〈そんしょうでん〉)によると、「(孫慎の祖父の)孫河(そんか)はもともと愈姓(ゆせい。愈河)で、孫氏と同じ

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  • 孫建(そんけん)

    【姓名】 孫建(そんけん) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫俊(そんしゅん)の息子 父は孫俊だが、母は不詳。孫慎(そんしん)は弟。 孫建は250年に死去した孫俊の跡を継ぎ、平虜将軍(へいりょしょうぐん)となった。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫韶伝〈そんしょうでん〉)によると、「(孫建の祖父の)孫河(そんか)はもともと愈姓(ゆせい。愈河)で、孫氏と同じく呉郡の人だった。孫策(そんさく)は愈河を寵愛し、孫姓を与えて一族の籍に加えた」ということです。 一方で同じく「孫韶伝」の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)

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  • 孫俊(そんしゅん)A ※あざなは叔英(しゅくえい)、孫河(そんか)の息子

    【姓名】 孫俊(そんしゅん) 【あざな】 叔英(しゅくえい) 【原籍】 呉郡(ごぐん) 【生没】 ?~250年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 父は孫河だが、母は不詳。孫助(そんじょ)・孫誼(そんぎ)・孫桓(そんかん)は兄。息子の孫建(そんけん)は跡継ぎ。孫慎(そんしん)も同じく息子。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫桓伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書』によると、「孫俊は度量が広く、文武の才能を備えていた。250年に定武中郎将(ていぶちゅうろうしょう)として薄落(はくらく)に駐屯していた際に死去し、息子の孫建が跡を継いだ」という。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 『三国志』(呉書・孫韶伝〈そんしょうでん〉)によると、「(孫俊の父の)孫河はもともと愈姓(ゆせい。愈河

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  • 孫誼(そんぎ)

    【姓名】 孫誼(そんぎ) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫河(そんか)の息子 父は孫河だが、母は不詳。孫助(そんじょ)は兄で、孫桓(そんかん)と孫俊(そんしゅん)は弟。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫桓伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書』によると、孫誼は海塩県長(かいえんけんちょう)となったが早くに亡くなったという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(呉書・孫韶伝〈そんしょうでん〉)によると、「(孫誼の父の)孫河はもともと愈姓(ゆせい。愈河)で、孫氏と同じく呉郡の人だった。孫策(そんさく)は愈河を寵愛し、孫姓を与

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  • 孫助(そんじょ)

    【姓名】 孫助(そんじょ) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫河(そんか)の息子 父は孫河だが、母は不詳。孫誼(そんぎ)・孫桓(そんかん)・孫俊(そんしゅん)は弟。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫桓伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書』によると、孫助は曲阿県長(きょくあけんちょう)となったが早くに亡くなったという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(呉書・孫韶伝〈そんしょうでん〉)によると、「(孫助の父の)孫河はもともと愈姓(ゆせい。愈河)で、孫氏と同じく呉郡の人だった。孫策(そんさく)は愈河を寵愛し、孫姓を与えて一

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  • 孫河(そんか) ※あざなは伯海(はくかい)

    【姓名】 孫河(そんか) 【あざな】 伯海(はくかい) 【原籍】 呉郡(ごぐん) 【生没】 ?~204年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第082回で初登場。 【正史】 登場人物。 孫韶(そんしょう)の伯父 父母ともに不詳。孫韶は甥にあたる。孫助(そんじょ)・孫誼(そんぎ)・孫桓(そんかん)・孫俊(そんしゅん)という4人の息子がいた。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫韶伝)によると、「孫河はもともと愈姓(ゆせい。愈河)で、孫氏と同じく呉郡の人だった。孫策(そんさく)は愈河を寵愛し、孫姓を与えて一族の籍に加えた」という。 一方で同じく「孫韶伝」の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書』によると、「孫河は孫堅(そんけん)の族子(おい。同族内で子の世代にあたる者)であり、姑(おば)の愈氏の養子となったが、後に孫姓に戻った」という。 孫河は実直な性格で、

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    呉(ご)の孫権(そんけん)を中心とした一族に関する個別記事
  • 孫恢(そんかい)

    孫韶(そんしょう)の息子 父は孫韶だが、母は不詳。孫楷(そんかい)・孫越(そんえつ)・孫異(そんい)・孫奕(そんえき)は兄。 孫恢は武陵太守(ぶりょうたいしゅ)となった。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

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  • 孫奕(そんえき)

    孫韶(そんしょう)の息子 父は孫韶だが、母は不詳。孫楷(そんかい)・孫越(そんえつ)・孫異(そんい)は兄で、孫恢(そんかい)は弟。 孫奕は宗正卿(そうせいけい)となった。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

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  • 孫異(そんい)

    【姓名】 孫異(そんい) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第117回で初登場。 【正史】 登場人物。 孫韶(そんしょう)の息子 父は孫韶だが、母は不詳。孫楷(そんかい)と孫越(そんえつ)は兄で、孫奕(そんえき)と孫恢(そんかい)は弟。 孫異は領軍将軍(りょうぐんしょうぐん)まで昇った。 263年11月、孫異は丁封(ていほう)とともに沔中(べんちゅう)へ進軍し、魏(ぎ)を牽制(けんせい)することで蜀(しょく)を援護しようとした。 しかし、蜀の劉禅(りゅうぜん)が魏に降伏したことが伝わると、こうした軍事行動は取りやめになった。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がほとんどなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

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  • 孫越(そんえつ)

    【姓名】 孫越(そんえつ) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫韶(そんしょう)の息子 父は孫韶だが、母は不詳。孫楷(そんかい)は兄で、孫異(そんい)・孫奕(そんえき)・孫恢(そんかい)は弟。 孫越は241年に死去した孫韶の跡を継ぎ、右将軍(ゆうしょうぐん)まで昇った。 264年4月、魏(ぎ)の新附督(しんぷとく。呉から魏に寝返った者たちで編制された部隊の隊長)の王稚(おうち)が海側から句章(こうしょう)に侵入する。 これを孫越が迎撃し、船1隻を拿捕(だほ)して30人を捕虜とした。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 孫韶の跡を兄の孫楷が継いでいないことから、孫楷と孫越は異母兄弟で、孫越の母のほうが孫韶の正室だったのかもしれません。

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  • 孫泰(そんたい)

    【姓名】 孫泰(そんたい) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~234年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫匡(そんきょう)の息子 父は孫匡、母は曹氏(そうし)。息子の孫秀(そんしゅう)は跡継ぎ。 孫泰は長水校尉(ちょうすいこうい)となった。 234年、孫権(そんけん)に付き従って魏(ぎ)の合肥新城(ごうひしんじょう)を包囲した際、流れ矢に当たって戦死した。 息子の孫秀が跡を継いだものの、孫晧(そんこう)から圧力をかけられたことがきっかけで、270年に晋(しん)へ亡命した。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫匡伝)には「孫泰が曹氏の甥にあたる」とあります。これは孫泰の母が曹操(そうそう)の弟の娘であるためです。 この件について吉川『三国志』(

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  • 孫氏(そんし)J ※孫輔(そんほ)の娘、駱統(らくとう)の妻

    父は孫輔だが、母は不詳。孫興(そんこう)・孫昭(そんしょう)・孫偉(そんい)・孫昕(そんきん)は兄弟。 孫氏は駱統(らくとう)に嫁いだ。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・駱統伝)によると、212年に駱統は20歳で烏程国相(うていこくしょう)として試用され、大いに治績を上げたそうです。 「孫権(そんけん)はこのことを喜び、駱統を召し寄せて功曹(こうそう)に任じ、騎都尉(きとい)の官を与えたうえ、従兄の孫輔の娘を嫁がせた」ともありました。

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  • 孫昕(そんきん)

    【姓名】 孫昕(そんきん) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫輔(そんほ)の息子 父は孫輔だが、母は不詳。孫興(そんこう)・孫昭(そんしょう)・孫偉(そんい)は兄。ほかに駱統(らくとう)に嫁いだ姉妹もいた。 孫昕は孫輔が死去した後、しかるべき官職に就いたという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫輔伝)によると、孫昕の父の孫輔は、孫権(そんけん)の時代に曹操(そうそう)と通じたことが発覚して幽閉され、数年後に亡くなったそうです。 それでも孫権は孫輔の死後、その息子たちをしかるべき官職に就けたというので、何か語られていない事

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  • 孫偉(そんい)

    【姓名】 孫偉(そんい) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫輔(そんほ)の息子 父は孫輔だが、母は不詳。孫興(そんこう)と孫昭(そんしょう)は兄で、孫昕(そんきん)は弟。ほかに駱統(らくとう)に嫁いだ姉妹もいた。 孫偉は孫輔が死去した後、しかるべき官職に就いたという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫輔伝)によると、孫偉の父の孫輔は、孫権(そんけん)の時代に曹操(そうそう)と通じたことが発覚して幽閉され、数年後に亡くなったそうです。 それでも孫権は孫輔の死後、その息子たちをしかるべき官職に就けたというので、何か語られてい

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  • 孫昭(そんしょう)

    【姓名】 孫昭(そんしょう) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫輔(そんほ)の息子 父は孫輔だが、母は不詳。孫興(そんこう)は兄で、孫偉(そんい)と孫昕(そんきん)は弟。ほかに駱統(らくとう)に嫁いだ姉妹もいた。 孫昭は孫輔が死去した後、しかるべき官職に就いたという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫輔伝)によると、孫昭の父の孫輔は、孫権(そんけん)の時代に曹操(そうそう)と通じたことが発覚して幽閉され、数年後に亡くなったそうです。 それでも孫権は孫輔の死後、その息子たちをしかるべき官職に就けたというので、何か語られてい

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  • 孫興(そんこう)

    【姓名】 孫興(そんこう) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫輔(そんほ)の息子 父は孫輔だが、母は不詳。孫昭(そんしょう)・孫偉(そんい)・孫昕(そんきん)は弟。ほかに駱統(らくとう)に嫁いだ姉妹もいた。 孫興は孫輔が死去した後、しかるべき官職に就いたという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫輔伝)によると、孫興の父の孫輔は、孫権(そんけん)の時代に曹操(そうそう)と通じたことが発覚して幽閉され、数年後に亡くなったそうです。 それでも孫権は孫輔の死後、その息子たちをしかるべき官職に就けたというので、何か語られていない事

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  • 孫歆(そんきん)

    【姓名】 孫歆(そんきん) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~280年?(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第120回で初登場。 【正史】 登場人物。 孫鄰(そんりん)の息子 父は孫鄰だが、母は不詳。孫苗(そんびょう)・孫旅(そんりょ)・孫述(そんじゅつ)・孫震(そんしん)・孫諧(そんかい)は兄。 孫歆は楽郷督(らくきょうとく)となった。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志演義』(第120回)では、孫歆が驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)として登場し、江陵(こうりょう)に進出した晋(しん)の(とよ)の迎撃にあたっています。 ★杜預については、慣例として「どよ」と読まれるとのこと。 このとき杜預の命令を受けた部将の周旨(しゅ

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  • 孫諧(そんかい)

    孫鄰(そんりん)の息子 父は孫鄰だが、母は不詳。孫苗(そんびょう)・孫旅(そんりょ)・孫述(そんじゅつ)・孫震(そんしん)は兄で、孫歆(そんきん)は弟。 孫諧は城門校尉(じょうもんこうい)となった。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

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  • 孫震(そんしん)

    【姓名】 孫震(そんしん) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~280年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫鄰(そんりん)の息子 父は孫鄰だが、母は不詳。孫苗(そんびょう)・孫旅(そんりょ)・孫述(そんじゅつ)は兄で、孫諧(そんかい)と孫歆(そんきん)は弟。 孫震は無難督(ぶなんとく)となった。 その後、280年に晋(しん)の総攻撃を受けた際、護軍将軍(ごぐんしょうぐん)として奮戦した末、丞相(じょうしょう)の張悌(ちょうてい)や丹楊太守(たんようたいしゅ)の沈瑩(しんえい)らとともに捕らえられて殺された。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 晋軍の総攻撃に対して呉軍は目立った抵抗を見せられず、張悌らの奮戦が唯一とも言えるものでした。孫震も呉の滅亡に殉じた将軍のひとりです。

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  • 孫述(そんじゅつ)

    孫鄰(そんりん)の息子 父は孫鄰だが、母は不詳。孫苗(そんびょう)と孫旅(そんりょ)は兄で、孫震(そんしん)・孫諧(そんかい)・孫歆(そんきん)は弟。 孫述は武昌督(ぶしょうとく)として荊州(けいしゅう)の統治にあたった。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

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  • 孫旅(そんりょ)

    孫鄰(そんりん)の息子 父は孫鄰だが、母は不詳。孫苗(そんびょう)は兄で、孫述(そんじゅつ)・孫震(そんしん)・孫諧(そんかい)・孫歆(そんきん)は弟。 孫旅は249年に孫鄰が死去すると、叔父たちとともにしかるべき官職に就いたという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

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  • 孫苗(そんびょう)

    【姓名】 孫苗(そんびょう) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫鄰(そんりん)の息子 父は孫鄰だが、母は不詳。孫旅(そんりょ)・孫述(そんじゅつ)・孫震(そんしん)・孫諧(そんかい)・孫歆(そんきん)は弟。 孫苗は249年に死去した孫鄰の跡を継ぎ、夏口(かこう)・沔中督(べんちゅうとく)・威遠将軍(いえんしょうぐん)となった。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

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  • 孫恵(そんけい)A ※あざなは徳施(とくし)、孫賁(そんほん)の曾孫

    【姓名】 孫恵(そんけい) 【あざな】 徳施(とくし) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(47歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 父母ともに不詳。孫賁の曾孫にあたるという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫賁伝)に付された「孫鄰伝(そんりんでん)」の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『孫恵別伝(そんけいべつでん)』によると、孫恵は学問を好み、才知のある人物だったそうです。 晋(しん)の永寧(えいねい)元(301)年、斉王(せいおう)の司馬冏(しばけい)が義兵を挙げた際に加わり、功績によって晋興侯(しんこうこう)に封ぜられ、大司馬(だいしば)の役所に招かれて賊曹(ぞくそう)を務めました。 ところが司馬冏はクーデターの成功後、驕(おご)り高ぶって僭上(せん

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  • 孫氏(そんし)F ※孫賁(そんほん)の娘、曹彰(そうしょう)の妻

    【姓名】 孫氏(そんし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 父は孫賁だが、母は不詳。孫鄰(そんりん)・孫安(そんあん)・孫熙(そんき)・孫績(そんせき)は兄弟。 孫氏は、建安(けんあん)年間(196~220年)の初めに曹操(そうそう)の息子の曹彰(そうしょう)に嫁いだ。しかし、その後の動静については記事がない。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績に関する記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 孫氏が曹彰に嫁いだことは『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫策伝〈そんさくでん〉)に見えますが、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)には見えないようです。 「孫策伝」によると「袁紹(えんしょう)の勢いが最

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  • 孫績(そんせき)

    【姓名】 孫績(そんせき) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫賁(そんほん)の息子 父は孫賁だが、母は不詳。孫鄰(そんりん)・孫安(そんあん)・孫熙は兄。ほかに曹操(そうそう)の息子の曹彰(そうしょう)に嫁いだ姉妹もいた。 孫績については、孫賁の息子であることと、しかるべき官職に就いたこと以外の記事がない。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績に関する記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 孫績の兄たちのうち孫鄰だけは、『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫賁伝)に付される形の伝があります。孫績のものはないので、彼には目立った活躍が少なかったということなのでしょうか?

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  • 孫熙(そんき)A ※孫賁(そんほん)の息子

    父は孫賁だが、母は不詳。孫鄰(そんりん)と孫安(そんあん)は兄で、孫績(そんせき)は弟。ほかに曹操(そうそう)の息子の曹彰(そうしょう)に嫁いだ姉妹もいた。 孫熙については、孫賁の息子であることと、しかるべき官職に就いたこと以外の記事がない。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績に関する記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 孫熙の兄弟のうちで兄の孫鄰だけは、『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫賁伝)に付される形の伝があります。孫熙のものはないので、彼には目立った活躍が少なかったということなのでしょうか?

    孫熙(そんき)A ※孫賁(そんほん)の息子
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  • 孫安(そんあん)

    【姓名】 孫安(そんあん) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫賁(そんほん)の息子 父は孫賁だが、母は不詳。孫鄰(そんりん)は兄で、孫熙(そんき)と孫績(そんせき)は弟。ほかに曹操(そうそう)の息子の曹彰(そうしょう)に嫁いだ姉妹もいた。 孫安については、孫賁の息子であることと、しかるべき官職に就いたこと以外の記事がない。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績に関する記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 孫安の兄弟のうちで兄の孫鄰だけは、『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫賁伝)に付される形の伝があります。孫安のものはないので、彼には目立った活躍が少なかったということなのでしょうか?

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  • 孫氏(そんし)L ※孫奐(そんかん)の娘、呂拠(りょきょ)の妻

    父は孫奐だが、母は不詳。孫承(そんしょう)と孫壱(そんいつ)は兄で、孫封(そんほう)も兄弟。ほかに滕胤(とういん)に嫁いだ姉妹がいた。 孫氏は呂拠(りょきょ)に嫁いだ。 その後、256年に孫峻(そんしゅん)が亡くなると、実権を引き継いだ孫綝(そんりん)と呂拠や滕胤が対立する。 呂拠と滕胤は孫綝の誅殺を計ったものの失敗し、呂拠は自殺、滕胤も殺害され、ふたりの一族も皆殺しになった。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績に関する記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 呂拠が自殺した後の孫氏については言及がないようですが、「一族も皆殺しになった」の中に含まれているものと思われます。

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  • 孫氏(そんし)K ※孫奐(そんかん)の娘、滕胤(とういん)の妻

    父は孫奐だが、母は不詳。孫承(そんしょう)と孫壱(そんいつ)は兄で、孫封(そんほう)も兄弟。ほかに呂拠(りょきょ)に嫁いだ姉妹がいた。 孫氏は滕胤(とういん)に嫁いだ。 その後、256年に孫峻(そんしゅん)が亡くなると、実権を引き継いだ孫綝(そんりん)と呂拠や滕胤が対立する。 呂拠と滕胤は孫綝の誅殺を計ったものの失敗し、呂拠は自殺、滕胤も殺害され、ふたりの一族も皆殺しになった。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績に関する記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 滕胤が殺害された後の孫氏については言及がないようですが、「一族も皆殺しになった」の中に含まれているものと思われます。

    孫氏(そんし)K ※孫奐(そんかん)の娘、滕胤(とういん)の妻
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  • 孫封(そんほう)

    【姓名】 孫封(そんほう) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~256年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫奐(そんかん)の息子 父は孫奐だが、母は不詳。孫承(そんしょう)と孫壱(そんいつ)は兄。呂拠(りょきょ)と滕胤(とういん)に嫁いだ姉妹もいた。 256年に孫峻(そんしゅん)が亡くなると、実権を引き継いだ孫綝(そんりん)と呂拠や滕胤が対立する。 呂拠と滕胤は孫綝の誅殺を計ったものの失敗し、孫封もその計画に関与していたため自殺した。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

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  • 孫承(そんしょう)

    【姓名】 孫承(そんしょう) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~243年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫奐(そんかん)の息子 父は孫奐だが、母は不詳。孫壱(そんいつ)と孫封(そんほう)は弟。呂拠(りょきょ)と滕胤(とういん)に嫁いだ妹もいた。 孫承は234年に亡くなった孫奐の跡を継ぎ、昭武中郎将(しょうぶちゅうろうしょう)として兵をひきい、江夏太守(こうかたいしゅ)を兼ねた。 243年に孫承が亡くなると息子がいなかったため、庶弟の孫壱が跡を継いだ。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

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  • 孫儀(そんぎ)

    【姓名】 孫儀(そんぎ) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~255年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫皎(そんこう)の息子 父は孫皎だが、母は不詳。孫胤(そんいん)・孫晞(そんき)・孫咨(そんし)・孫弥(そんび)は兄。 孫儀は将軍となって無難督(ぶなんとく)を務め、侯(こう)に封ぜられた。 255年、孫儀は張怡(ちょうい)や林恂(りんじゅん)らと計り、実権を握る孫峻(そんしゅん)を誅殺しようとした。 しかし、計画が漏れたため孫儀は自殺、張怡や林恂らは処刑された。 この事件では巻き添えとなって死んだ者が数十人も出たうえ、公主(こうしゅ)の孫魯育(そんろいく。孫権〈そんけん〉の娘。朱公主〈しゅこうしゅ〉)までもが連座して殺された。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 『三国

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  • 孫弥(そんび)A ※孫皎(そんこう)の息子

    父は孫皎だが、母は不詳。孫胤(そんいん)・孫晞(そんき)・孫咨(そんし)は兄で、孫儀(そんぎ)は弟。 孫弥は将軍となり、侯(こう)に封ぜられたという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 孫皎の5人の息子たちは終わりがパッとしませんが、この孫弥については終わりすらはっきりしません。

    孫弥(そんび)A ※孫皎(そんこう)の息子
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  • 孫咨(そんし)

    【姓名】 孫咨(そんし) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~256年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫皎(そんこう)の息子 父は孫皎だが、母は不詳。孫胤(そんいん)と孫晞(そんき)は兄で、孫弥(そんび)と孫儀(そんぎ)は弟。 孫咨は将軍となって羽林督(うりんとく)を務め、侯(こう)にも封ぜられた。 256年に孫峻(そんしゅん)が亡くなると、実権を引き継いだ孫綝(そんりん)と呂拠(りょきょ)や滕胤(とういん)が対立した。 孫綝が侍中(じちゅう)・左将軍(さしょうぐん)の華融(かゆう)と中書丞(ちゅうしょじょう)の丁晏(ていあん)を滕胤のもとへ遣わし、呂拠を捕縛するよう命じたうえ、大司馬(だいしば)に任ぜられた滕胤に、任地の武昌(ぶしょう)へ向かうよう伝えさせた。 滕胤は自身に災禍が迫っていると感じ、そのま

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  • 孫晞(そんき)

    【姓名】 孫晞(そんき) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫皎(そんこう)の息子 父は孫皎だが、母は不詳。孫胤(そんいん)は兄で、孫咨(そんし)・孫弥(そんび)・孫儀(そんぎ)は弟。 孫晞は、孫皎の跡を継いだ孫胤が亡くなった(時期は不明)とき、孫胤に息子がいなかったため丹楊侯(たんようこう)の爵位を継ぎ、兵士たちを預かった。 だが、後に罪を得て自殺し、封国は没収された。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 孫晞が罪を得て自殺したことについても、状況がはっきりしません。

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  • 孫胤(そんいん)

    【姓名】 孫胤(そんいん) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫皎(そんこう)の息子 父は孫皎だが、母は不詳。孫晞(そんき)・孫咨(そんし)・孫弥(そんび)・孫儀(そんぎ)は弟。 孫胤は、219年に亡くなった孫皎の跡を継ぎ、丹楊侯(たんようこう)に封ぜられた。 孫胤が亡くなる(時期は不明)と息子がいなかったため、弟の孫晞が爵位を継いで兵士を預かった。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

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  • 孫紘(そんこう)

    孫瑜(そんゆ)の息子 父は孫瑜だが、母は不詳。孫弥(そんび)・孫熙(そんき)・孫燿(そんよう)・孫曼(そんまん)は兄。 孫紘については、孫瑜の息子であるという以外の記事がない。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績に関する記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

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  • 孫曼(そんまん)

    孫瑜(そんゆ)の息子 父は孫瑜だが、母は不詳。孫弥(そんび)・孫熙(そんき)・孫燿(そんよう)は兄で、孫紘(そんこう)は弟。 孫曼については、孫瑜の息子であることと、将軍に昇進して侯(こう)に封ぜられたこと以外の記事がない。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績に関する記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

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  • 孫燿(そんよう)

    孫瑜(そんゆ)の息子 父は孫瑜だが、母は不詳。孫弥(そんび)と孫熙(そんき)は兄で、孫曼(そんまん)と孫紘(そんこう)は弟。 孫燿については、孫瑜の息子であるという以外の記事がない。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績に関する記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

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  • 孫熙(そんき)B ※孫瑜(そんゆ)の息子

    父は孫瑜だが、母は不詳。孫弥(そんび)は兄で、孫燿(そんよう)・孫曼(そんまん)・孫紘(そんこう)は弟。 孫熙については、孫瑜の息子であるという以外の記事がない。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績に関する記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

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  • 孫弥(そんび)B ※孫瑜(そんゆ)の息子

    父は孫瑜だが、母は不詳。孫熙(そんき)・孫燿(そんよう)・孫曼(そんまん)・孫紘(そんこう)は弟。 孫弥については、孫瑜の息子であるという以外の記事がない。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績に関する記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

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  • 孫恭(そんきょう)

    【姓名】 孫恭(そんきょう) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第108回で初登場。 【正史】 登場人物。 孫暠(そんこう)の息子 父は孫暠だが、母は不詳。孫綽(そんしゃく)と孫超(そんちょう)は兄で、孫恭(そんきょう)は弟。孫峻(そんしゅん)は息子で、全尚(ぜんしょう)に嫁いだ娘もいた。 孫恭については、孫暠の息子で散騎常侍(さんきじょうじ)を務めていたことと、孫峻の父であること以外の記事がない。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績に関する記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

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  • 孫超(そんちょう)

    孫暠(そんこう)の息子 父は孫暠だが、母は不詳。孫綽(そんしゃく)は兄で、孫恭(そんきょう)は弟。 孫超については、孫暠の息子で偏将軍(へんしょうぐん)を務めていたという以外の記事がない。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績に関する記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

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  • 孫綽(そんしゃく)B ※孫暠(そんこう)の息子

    父は孫暠だが、母は不詳。孫超(そんちょう)と孫恭(そんきょう)は弟。 孫綝(そんりん)・孫恩(そんおん)・孫拠(そんきょ)・孫幹(そんかん)・孫闓(そんかい)という5人の息子がいた。 孫綽については、孫暠の息子で安民都尉(あんみんとい)を務めていたという以外の記事がない。 管理人「かぶらがわ」より登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績に関する記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

    孫綽(そんしゃく)B ※孫暠(そんこう)の息子
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  • 孫謙(そんけん)C ※孫静(そんせい)の息子

    父は孫静だが、母は不詳。孫暠(そんこう)・孫瑜(そんゆ)・孫皎(そんこう)・孫奐(そんかん)は兄。 孫謙には、孫静の息子であるという以外の記事がない。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 孫謙の兄たちのうちで孫暠を除いた孫瑜・孫皎・孫奐には、『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫静伝)に付される形の伝があります。孫謙のものはないので、彼には目立った活躍が少なかったということなのでしょうか?

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  • 孫暠(そんこう)

    【姓名】 孫暠(そんこう) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫静(そんせい)の息子 父は孫静だが、母は不詳。孫瑜(そんゆ)・孫皎(そんこう)・孫奐(そんかん)・孫謙(そんけん)は弟。孫綽(そんしゃく)・孫超(そんちょう)・孫恭(そんきょう)という3人の息子がいた。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・虞翻伝〈ぐはんでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書』には、以下のようにある。 「200年に孫策(そんさく)が亡くなり、孫権(そんけん)が跡を継ぐことが決まった。このとき孫暠は定武中郎将(ていぶちゅうろうしょう)として烏程(うてい)にいたが、配下の軍吏や兵士をひきいて会稽郡(かいけいぐん)を乗っ取ろうとした」 「会稽郡の役所は情報

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  • 代王(だいおう) ※孫晧(そんこう)の息子

    【姓名】 代王(だいおう) ※名とあざなは不詳 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫晧(そんこう)の息子 父は孫晧だが、母は不詳。孫瑾(そんきん)は兄。名がわからないものの、ほかにも10人以上の兄弟がいたことがうかがえる。 280年春に代王に封ぜられた。 同年中に呉が晋(しん)によって滅ぼされると、孫晧は孫瑾らとともに洛陽(らくよう)へ移住したが、彼も移住した孫氏一族に含まれていたのかイマイチはっきりしない。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 姓名のところに代王と入れてしまいましたが、もちろん姓は孫のはずです。 孫晧の息子たちには名のわからない人物が多いのです

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  • 中山王(ちゅうざんおう) ※孫晧(そんこう)の息子

    【姓名】 中山王(ちゅうざんおう) ※名とあざなは不詳 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫晧(そんこう)の息子 父は孫晧だが、母は不詳。孫瑾(そんきん)は兄。名がわからないものの、ほかにも10人以上の兄弟がいたことがうかがえる。 280年春に中山王に封ぜられた。 同年中に呉が晋(しん)によって滅ぼされると、孫晧は孫瑾らとともに洛陽(らくよう)へ移住したが、彼も移住した孫氏一族に含まれていたのかイマイチはっきりしない。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 姓名のところに中山王と入れてしまいましたが、もちろん姓は孫のはずです。 孫晧の息子たちには名のわからない人物

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  • 宣威王(せんいおう) ※孫晧(そんこう)の息子

    【姓名】 宣威王(せんいおう) ※名とあざなは不詳 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫晧(そんこう)の息子 父は孫晧だが、母は不詳。孫瑾(そんきん)は兄。名がわからないものの、ほかにも10人以上の兄弟がいたことがうかがえる。 278年7月に宣威王に封ぜられた。 その後、280年に呉が晋(しん)によって滅ぼされると、孫晧は孫瑾らとともに洛陽(らくよう)へ移住したが、彼も移住した孫氏一族に含まれていたのかイマイチはっきりしない。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 姓名のところに宣威王と入れてしまいましたが、もちろん姓は孫のはずです。 孫晧の息子たちには名のわから

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  • 成紀王(せいきおう) ※孫晧(そんこう)の息子

    【姓名】 成紀王(せいきおう) ※名とあざなは不詳 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫晧(そんこう)の息子 父は孫晧だが、母は不詳。孫瑾(そんきん)は兄。名がわからないものの、ほかにも10人以上の兄弟がいたことがうかがえる。 278年7月に成紀王に封ぜられた。 その後、280年に呉が晋(しん)によって滅ぼされると、孫晧は孫瑾らとともに洛陽(らくよう)へ移住したが、彼も移住した孫氏一族に含まれていたのかイマイチはっきりしない。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 姓名のところに成紀王と入れてしまいましたが、もちろん姓は孫のはずです。 孫晧の息子たちには名のわから

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  • 章陵王(しょうりょうおう) ※孫晧(そんこう)の息子

    【姓名】 章陵王(しょうりょうおう) ※名とあざなは不詳 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫晧(そんこう)の息子 父は孫晧だが、母は不詳。孫瑾(そんきん)は兄。名がわからないものの、ほかにも10人以上の兄弟がいたことがうかがえる。 273年9月に章陵王に封ぜられた。 その後、280年に呉が晋(しん)によって滅ぼされると、孫晧は孫瑾らとともに洛陽(らくよう)へ移住したが、彼も移住した孫氏一族に含まれていたのかイマイチはっきりしない。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 姓名のところに章陵王と入れてしまいましたが、もちろん姓は孫のはずです。 孫晧の息子たちには名の

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  • 陳留王(ちんりゅうおう) ※孫晧(そんこう)の息子

    【姓名】 陳留王(ちんりゅうおう) ※名とあざなは不詳 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫晧(そんこう)の息子 父は孫晧だが、母は不詳。孫瑾(そんきん)は兄。名がわからないものの、ほかにも10人以上の兄弟がいたことがうかがえる。 273年9月に陳留王に封ぜられた。 その後、280年に呉が晋(しん)によって滅ぼされると、孫晧は孫瑾らとともに洛陽(らくよう)へ移住したが、彼も移住した孫氏一族に含まれていたのかイマイチはっきりしない。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 姓名のところに陳留王と入れてしまいましたが、もちろん姓は孫のはずです。 孫晧の息子たちには名のわ

    陳留王(ちんりゅうおう) ※孫晧(そんこう)の息子
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  • 東平王(とうへいおう) ※孫晧(そんこう)の息子

    【姓名】 東平王(とうへいおう) ※名とあざなは不詳 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫晧(そんこう)の息子 父は孫晧だが、母は不詳。孫瑾(そんきん)は兄。名がわからないものの、ほかにも10人以上の兄弟がいたことがうかがえる。 269年1月に東平王に封ぜられ、273年9月には斉王(せいおう)に移封された。 その後、280年に呉が晋(しん)によって滅ぼされると、孫晧は孫瑾らとともに洛陽(らくよう)へ移住したが、彼も移住した孫氏一族に含まれていたのかイマイチはっきりしない。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 姓名のところに東平王と入れてしまいましたが、もちろん姓

    東平王(とうへいおう) ※孫晧(そんこう)の息子
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  • 淮陽王(わいようおう) ※孫晧(そんこう)の息子

    【姓名】 淮陽王(わいようおう) ※名とあざなは不詳 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫晧(そんこう)の息子 父は孫晧だが、母は不詳。孫瑾(そんきん)は兄。名がわからないものの、ほかにも10人以上の弟がいたことがうかがえる。 269年1月に淮陽王に封ぜられ、273年9月には魯王(ろおう)に移封された。 その後、280年に呉が晋(しん)によって滅ぼされると、孫晧は孫瑾らとともに洛陽(らくよう)へ移住したが、彼も移住した孫氏一族に含まれていたのかイマイチはっきりしない。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 姓名のところに淮陽王と入れてしまいましたが、もちろん姓は孫

    淮陽王(わいようおう) ※孫晧(そんこう)の息子
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  • 孫瑾(そんきん)A ※孫晧(そんこう)の息子

    【姓名】 孫瑾(そんきん) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫晧(そんこう)の息子 父は孫晧だが、母は不詳。名がわからないものの、10人以上の弟がいたことがうかがえる。 孫瑾は269年1月に皇太子に立てられた。 その後、280年に呉が晋(しん)によって滅ぼされると、孫晧らとともに洛陽(らくよう)へ移住。司馬炎(しばえん)から中郎(ちゅうろう)に任ぜられた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・薛綜伝〈せつそうでん〉)に付された「薛瑩伝(せつえいでん)」によると、薛瑩は孫休(そんきゅう)の時代(258~264年)に散騎

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  • 孫ホウ(そんほう。亠+先+攴) ※あざなは㷏(よう)

    【姓名】 孫ホウ(そんほう。亠+先+攴) 【あざな】 㷏(よう) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫休(そんきゅう)の息子 父は孫休だが、母は不詳。孫ワン(そんわん。雨+單)・孫コウ(そんこう。雷+大)・孫壾(そんもう)は兄。 孫ホウは、264年10月に孫晧(そんこう)から陳王(ちんおう)に封ぜられた。しかし、その後の事績に関する記事はない。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 孫ホウら兄弟の命名については、『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫休伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く張勃(ちょうぼつ)の『呉録(ごろく)』に、孫休の詔(みことのり)が載せられていました。 そ

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  • 孫壾(そんもう) ※あざなはキョ(囚+皿)

    【姓名】 孫壾(そんもう) 【あざな】 キョ(囚+皿) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫休(そんきゅう)の息子 父は孫休だが、母は不詳。孫ワン(そんわん。雨+單)と孫コウ(そんこう。雷+大)は兄で、孫ホウ(そんほう。亠+先+攴)は弟。 孫壾は、264年10月に孫晧(そんこう)から梁王(りょうおう)に封ぜられた。しかし、その後の事績に関する記事はない。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 孫壾ら兄弟の命名については、『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫休伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く張勃(ちょうぼつ)の『呉録(ごろく)』に、孫休の詔(みことのり)が載せられていまし

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  • 孫コウ(そんこう。雷+大) ※あざなはケン(襾+升)

    【姓名】 孫コウ(そんこう。雷+大) 【あざな】 ケン(襾+升) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~265年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫休(そんきゅう)の息子父は孫休だが、母は不詳。孫ワン(そんわん。雨+單)は兄で、孫壾(そんもう)と孫ホウ(そんほう。亠+先+攴)は弟。 孫コウは、264年10月に孫晧(そんこう)から汝南王(じょなんおう)に封ぜられたが、翌265年には呉郡の小城に幽閉され、ほどなく殺害された。 管理人「かぶらがわ」より登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 孫コウら兄弟の命名については、『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫休伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く張勃(ちょうぼつ)の『呉録(ごろく)』に、孫休の詔(みこ

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    shiromitsu 2020/05/19
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  • 孫ワン(そんわん。雨+單) ※あざなは莔(きつ)

    【姓名】 孫ワン(そんわん。雨+單) 【あざな】 莔(きつ) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~265年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第120回で初登場。 【正史】 登場人物。 孫休(そんきゅう)の息子 父は孫休だが、母は不詳。孫コウ(そんこう。雷+大)・孫壾(そんもう)・孫ホウ(そんほう。亠+先+攴)は弟。 孫ワンは262年8月に皇太子に立てられた。 264年、孫休は病が重くなり話せなくなると、字を書いて丞相(じょうしょう)の濮陽興(ぼくようこう)を呼び、孫ワンに彼の前で拝礼するよう命じた。孫休は濮陽興の腕(かいな)を取り、孫ワンを指さして後事を託した。 ところが同年7月に孫休が崩ずると、濮陽興は左将軍(さしょうぐん)の張布(ちょうふ)と相談し、孫晧(そんこう)を迎えて帝位に即けた。 同年10月、孫ワンは孫晧から豫章王(よしょうおう)に封ぜられたが

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  • 孫壱(そんいつ)A ※孫霸(そんは)の息子

    【姓名】 孫壱(そんいつ) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 父は孫霸だが、母は不詳。孫基(そんき)は兄。 孫壱は五鳳(ごほう)年間(254~256年)に宛陵侯(えんりょうこう)に封ぜられた。 その後、264年に孫和(そんか)の息子である孫晧(そんこう)が帝位に即くと、孫和と孫霸の仲が悪かったことが採り上げられる。 これにより孫基と孫壱は爵位と封国を削られ、祖母の謝氏(しゃし)ともども会稽郡(かいけいぐん)の烏傷県(うしょうけん)へ強制移住させられた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 孫晧が帝位に即いてしまってはどうしようもない、という感じでしょうか?

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  • 孫基(そんき)

    【姓名】 孫基(そんき) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫霸(そんは)の息子 父は孫霸だが、母は不詳。孫壱(そんいつ)は弟。 孫基は五鳳(ごほう)年間(254~256年)に呉侯(ごこう)に封ぜられた。 孫基は宮廷で孫亮(そんりょう)の側近として仕えていたが、257年に皇帝の御馬を盗んで乗ったとして投獄され、裁判に付された。 このとき孫亮が侍中(じちゅう)の刁玄(ちょうげん)の進言を容れ、宮中に限定した恩赦を行ったため刑を免れた。 その後、264年に孫和(そんか)の息子である孫晧(そんこう)が帝位に即くと、孫和と孫霸の仲が悪かったことが採り上げられる。 これにより孫基と孫壱は爵位と封国を削られ、祖母の謝氏(しゃし)ともども会稽郡(かいけいぐん)の烏傷県(うしょうけん

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  • 孫俊(そんしゅん)B ※孫和(そんか)の息子

    【姓名】 孫俊(そんしゅん) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 父は孫和、母は張氏(ちょうし)。孫晧(そんこう)・孫徳(そんとく)・孫謙(そんけん)は兄。 孫俊は258年10月に騎都尉(きとい)に任ぜられた。 聡明で物事の道理にも通じており、国中で評判が高かったものの、後に異母兄の孫晧に殺害された。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 孫俊が孫晧に殺されたというのは、『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫和伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く胡沖(こちゅう)の『呉歴(ごれき)』によるもの。 この記事からは、孫俊が266年の施但(したん)の反乱に絡んで殺された

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  • 孫謙(そんけん)A ※孫和(そんか)の息子

    【姓名】 孫謙(そんけん) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~266年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 父は孫和だが、母は不詳。孫晧(そんこう)と孫徳(そんとく)は兄で、孫俊(そんしゅん)は弟。 孫謙は258年10月に永安侯(えいあんこう)に封ぜられた。 266年10月、永安の山賊の施但(したん)らが数千の徒党を集めて反乱を起こし、孫謙を脅して自分たちの頭領に立てた。 施但は孫謙とともに烏程(うてい)へ進み、孫和の陵から楽器や曲蓋(柄の曲がった貴人用の傘)を奪った。 さらに建業(けんぎょう)まで進んだが、このころ徒党は1万余に増えていた。 丁固(ていこ)と諸葛靚(しょかつせい)が迎撃に出てきたため、牛屯(ぎゅうとん)で激しく戦い、施但らは敗走する。取り残された孫謙は保護されたものの、ほどなく自殺した。 管

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  • 孫徳(そんとく)

    【姓名】 孫徳(そんとく) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫和(そんか)の息子 父は孫和だが、母は不詳。孫晧(そんこう)は兄で、孫謙(そんけん)と孫俊(そんしゅん)は弟。 孫徳は258年10月に銭唐侯(せんとうこう)に封ぜられた。しかし、その後の事績に関する記事はない。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 孫晧の生母は孫和の側室だった何氏(かし)ですが、孫徳の生母も彼女なのかイマイチはっきりしません。 即位後の孫晧の変貌ぶりを見ると、弟である孫徳の動静も知りたいところですが、ほとんど記事がないのは残念。

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  • 孫希(そんき)

    【姓名】 孫希(そんき) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫登(そんとう)の息子 父は孫登だが、母は不詳。孫璠(そんはん)と孫英(そんえい)は兄。 孫希は早くに亡くなった。241年に孫登が亡くなると兄の孫英が跡を継ぎ、呉侯(ごこう)に封ぜられた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 孫登の3人の息子たちのうち、孫璠が長男であることは確かですが、孫英と孫希はどちらが年長なのかイマイチはっきりしません。

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  • 孫英(そんえい)

    【姓名】 孫英(そんえい) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~254年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫登(そんとう)の息子 父は孫登だが、母は不詳。孫璠(そんはん)は兄で、孫希(そんき)は弟。 孫英は241年に亡くなった孫登の跡を継ぎ、呉侯(ごこう)に封ぜられた。このときすでに兄の孫璠と弟の孫希は亡くなっていた。 その後、254年に丞相(じょうしょう)・大将軍(だいしょうぐん)の孫峻(そんしゅん)の暗殺を計ったものの、発覚して自殺。これを受けて封国は除かれた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 孫登の3人の息子たちのうち、孫璠が長男であることは確かですが、孫英と孫希はどちらが年長なのかイマイチはっきりしませんでした。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫登伝)の裴松之注(

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  • 孫璠(そんはん)

    【姓名】 孫璠(そんはん) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫登(そんとう)の息子 父は孫登だが、母は不詳。孫英(そんえい)と孫希(そんき)は弟。 孫璠は早くに亡くなった。241年に孫登が亡くなると弟の孫英が跡を継ぎ、呉侯(ごこう)に封ぜられた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 孫登の3人の息子たちのうち、孫璠が長男であることは確かですが、孫英と孫希はどちらが年長なのかイマイチはっきりしません。

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  • 張氏(ちょうし)D ※孫和(そんか)の妻

    【姓名】 張氏(ちょうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 彭城国(ほうじょうこく) 【生没】 ?~253年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫和(そんか)の正室 父は張承(ちょうしょう)、母は諸葛氏(しょかつし)。張震(ちょうしん)は兄弟。 夫の孫和は250年に皇太子を廃されたが、252年1月には南陽王(なんようおう)に封ぜられ、長沙(ちょうさ)に住むことになった。このとき張氏も付き従った。 同年4月に孫亮(そんりょう)が即位すると、補佐役として孫峻(そんしゅん)が政治を牛耳るようになった。 孫峻は普段から全公主(ぜんこうしゅ。孫魯班〈そんろはん〉)の機嫌を取ることに努めていたが、全公主は孫和の母である王氏(おうし。大懿皇后〈たいいこうごう〉。琅邪〈ろうや〉の人)と仲が良くなかった。 翌253年、全公主は孫峻を唆して、孫和を新都郡(しんとぐん)へ強

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  • 何氏(かし)B ※孫和(そんか)の妻、何姫(かき)

    【姓名】 何氏(かし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 丹楊郡(たんようぐん)句容県(こうようけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第120回で初登場。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫和何姫伝(そんかかきでん)』あり。 孫和の側室、何姫 父は何遂(かすい)だが、母は不詳。何洪(かこう)・何蔣(かしょう)・何植(かしょく)は弟。孫和との間に孫晧(そんこう)を儲けた。 孫権(そんけん)が軍営を視察した際、何氏は一行の様子を見物していた。孫権は遠くから彼女を見て、並の女性でないと感じたという。そこで宦官(かんがん)に命じて後宮へ入れ、息子の孫和に下賜した。 242年に何氏が息子を生むと、喜んだ孫権は彭祖(ほうそ)という名を付けてやった。これが後の孫晧である。 250年に皇太子を廃された孫和だったが、252年1月には南陽王(なんようおう)に封ぜられ、長沙(ちょ

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  • 孫魯育(そんろいく) ※あざなは小虎(しょうこ)、朱公主(しゅこうしゅ)

    【姓名】 孫魯育(そんろいく) 【あざな】 小虎(しょうこ) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~255年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫権(そんけん)の娘、朱公主(しゅこうしゅ) 父は孫権、母は歩氏(ほし)。 孫登(そんとう)・孫慮(そんりょ)・孫和(そんか)・孫霸(そんは)・孫奮(そんふん)・孫休(そんきゅう)・孫亮(そんりょう)は兄弟。同母姉の孫魯育(そんろいく)に加え、劉纂(りゅうさん)に嫁いだ異母姉もいた。 孫魯育は229年に朱拠(しゅきょ)に嫁いだ。このことから朱公主とも呼ばれる。250年?に朱拠が亡くなると、後に劉纂と再婚した。 朱拠との間に儲けた娘の朱氏(景皇后〈けいこうごう〉)は、赤烏(せきう)年間(238~251年)の末に孫休に嫁いだ。 238年に歩氏が亡くなった後、241年5月には皇太子

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  • 孫氏(そんし)G ※孫権(そんけん)の娘、劉纂(りゅうさん)の先妻

    【姓名】 孫氏(そんし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫権(そんけん)の娘 父は孫権だが、母は不詳。 孫登(そんとう)・孫慮(そんりょ)・孫和(そんか)・孫霸(そんは)・孫奮(そんふん)・孫休(そんきゅう)・孫亮(そんりょう)は兄弟。孫魯班(そんろはん)は異母姉で、孫魯育(そんろいく)は異母妹。 孫氏は劉纂(りゅうさん)に嫁いだものの、早くに亡くなった。その後、劉纂は孫魯育と再婚した。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 この孫氏は、『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫権歩夫人伝〈そんけんほふじんでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く

    孫氏(そんし)G ※孫権(そんけん)の娘、劉纂(りゅうさん)の先妻
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  • 孫魯班(そんろはん) ※あざなは大虎(たいこ)、全公主(ぜんこうしゅ)

    【姓名】 孫魯班(そんろはん) 【あざな】 大虎(たいこ) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第108回で初登場。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫権(そんけん)の娘、全公主(ぜんこうしゅ) 父は孫権、母は歩氏(ほし)。 孫登(そんとう)・孫慮(そんりょ)・孫和(そんか)・孫霸(そんは)・孫奮(そんふん)・孫休(そんきゅう)・孫亮(そんりょう)は兄弟。同母妹の孫魯育(そんろいく)に加え、劉纂(りゅうさん)に嫁いだ妹もいた。 孫魯班は初め周瑜(しゅうゆ)の息子の周循(しゅうじゅん)に嫁いだが、周循が若くして亡くなったため全琮(ぜんそう)と再婚した。このことから全公主とも呼ばれる。 全琮の息子として全緒(ぜんしょ)・全寄(ぜんき)・全懌(ぜんえき)・全呉(ぜんご)の名が出てくるが、末子の全呉の母が孫魯班であること以外は

    孫魯班(そんろはん) ※あざなは大虎(たいこ)、全公主(ぜんこうしゅ)
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  • 孫奮(そんふん) ※あざなは子揚(しよう)

    【姓名】 孫奮(そんふん) 【あざな】 子揚(しよう) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫奮伝』あり。 呉(ご)の孫権(そんけん)の息子、斉王(せいおう)、章安侯(しょうあんこう) 父は孫権、母は仲氏(ちゅうし)。 孫登(そんとう)・孫慮(そんりょ)・孫和(そんか)・孫霸(そんは)は兄で、孫休(そんきゅう)と孫亮(そんりょう)は弟。孫魯班(そんろはん)と孫魯育(そんろいく)に加え、劉纂(りゅうさん)に嫁いだ姉妹もいた。 名は不詳だが、5人の息子がいたことがうかがえる。 252年1月、孫奮は斉王に封ぜられて武昌(ぶしょう)に住んだ。 同年4月、孫権が崩御(ほうぎょ)し、弟の孫亮が帝位を継いだ。 遺詔によって実権を握った太傅(たいふ)の諸葛恪(しょかつかく)は、諸王が長

    孫奮(そんふん) ※あざなは子揚(しよう)
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  • 孫霸(そんは) ※あざなは子威(しい)

    【姓名】 孫霸(そんは) 【あざな】 子威(しい) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~250年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫霸伝』あり。 呉(ご)の孫権(そんけん)の息子、魯王(ろおう) 父は孫権、母は謝氏(しゃし。謝姫〈しゃき〉)。 孫登(そんとう)・孫慮(そんりょ)・孫和(そんか)は兄で、孫奮(そんふん)・孫休(そんきゅう)・孫亮(そんりょう)は弟。孫魯班(そんろはん)と孫魯育(そんろいく)に加え、劉纂(りゅうさん)に嫁いだ姉妹もいた。 孫基(そんき)と孫壱(そんいつ)という息子がいた。妃(きさき)は劉基(りゅうき。劉繇〈りゅうよう〉の長男)の娘。 242年8月、孫霸に魯王に封ぜられた。同年1月には兄の孫和が皇太子に立てられたものの、孫権は孫霸にも目をかけて、孫和と同等の待遇を与えたのである。

    孫霸(そんは) ※あざなは子威(しい)
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  • 孫和(そんか) ※あざなは子孝(しこう)、呉(ご)の文皇帝(ぶんこうてい)

    【姓名】 孫和(そんか) 【あざな】 子孝(しこう) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 224~253年(30歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第108回で初登場。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫和伝』あり。 呉(ご)の孫権(そんけん)の息子、南陽王(なんようおう)、文皇帝(ぶんこうてい) 父は孫権、母は王氏(おうし。大懿皇后〈たいいこうごう〉。琅邪〈ろうや〉の人)。 孫登(そんとう)と孫慮(そんりょ)は兄で、孫霸(そんは)・孫奮(そんふん)・孫休(そんきゅう)・孫亮(そんりょう)は弟。孫魯班(そんろはん)と孫魯育(そんろいく)に加え、劉纂(りゅうさん)に嫁いだ姉妹もいた。 跡を継いだ孫晧(そんこう)のほか、孫徳(そんとく)・孫謙(そんけん)・孫俊(そんしゅん)という息子がいた。 母の王氏が孫権に寵愛されたため、孫和も幼いころからかわいがられた。 23

    孫和(そんか) ※あざなは子孝(しこう)、呉(ご)の文皇帝(ぶんこうてい)
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  • 孫慮(そんりょ)A ※あざなは子智(しち)、孫権(そんけん)の息子

    【姓名】 孫慮(そんりょ) 【あざな】 子智(しち) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 213~232年(20歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫慮伝』あり。 呉(ご)の孫権(そんけん)の息子、建昌侯(けんしょうこう) 父は孫権だが、母は不詳。 孫登(そんとう)は兄で、孫和(そんか)・孫霸(そんは)・孫奮(そんふん)・孫休(そんきゅう)・孫亮(そんりょう)は弟。 孫魯班(そんろはん)と孫魯育(そんろいく)に加え、劉纂(りゅうさん)に嫁いだ姉妹もいた。は潘濬(はんしゅん)の娘の潘氏。 孫慮は幼いころから聡明で器用だったため、孫権は才能を高く評価してかわいがった。 228年に建昌侯に封ぜられ、その2年後、丞相(じょうしょう)の顧雍(こよう)らが孫慮の聡明さをたたえ、爵位を進めて王とするよう上奏したものの、孫権は許可

    孫慮(そんりょ)A ※あざなは子智(しち)、孫権(そんけん)の息子
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  • 孫登(そんとう)B ※あざなは子高(しこう)、孫権(そんけん)の息子、呉(ご)の宣太子(せんたいし)

    【姓名】 孫登(そんとう) 【あざな】 子高(しこう) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 209~241年(33歳) 【吉川】 第135話で初登場。 【演義】 第073回で初登場。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫登伝』あり。 呉(ご)の孫権(そんけん)の息子、宣太子(せんたいし) 父は孫権だが、母は不詳。生母の身分が卑しかったため、孫権の側室だった徐氏(じょし)に養育されたという。 孫慮(そんりょ)・孫和(そんか)・孫霸(そんは)・孫奮(そんふん)・孫休(そんきゅう)・孫亮(そんりょう)は、みな異母弟。孫魯班(そんろはん)と孫魯育(そんろいく)に加え、劉纂(りゅうさん)に嫁いだ姉妹もいた。 孫璠(そんはん)・孫英(そんえい)・孫希(そんき)という3人の息子がいた。 221年、孫権が魏(ぎ)の曹丕(そうひ)から呉王(ごおう)に封ぜられると、孫登も東中郎将(と

    孫登(そんとう)B ※あざなは子高(しこう)、孫権(そんけん)の息子、呉(ご)の宣太子(せんたいし)
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  • 孫奉(そんほう)

    【姓名】 孫奉(そんほう) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~270年?(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫紹(そんしょう)の息子 父は孫紹だが、母は不詳。 孫奉は、孫紹が死去(時期は不明)したため跡(上虞侯〈じょうぐこう〉)を継いだ。 270年、孫晧(そんこう)は左夫人(さふじん)の王氏(おうし)を亡くした悲しみに耐えられず、数か月も人前に姿を見せなかった。 このとき呉(ご)の人々は「孫晧が死んでしまったのだ」とか「孫奮(そんふん)か上虞侯の孫奉が帝位に即くだろう」などとうわさした。 これが孫晧の怒りを買い、孫奉も孫奮やその5人の息子たちと同様に誅殺された。ただ、誅殺された年はイマイチはっきりしない。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、

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    shiromitsu 2020/05/19
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  • 孫氏(そんし)N ※孫策(そんさく)の娘、陸遜(りくそん)の妻

    父は孫策だが、母は不詳。 孫紹(そんしょう)は兄弟で、ほかに顧邵(こしょう。顧劭)と朱紀(しゅき)に嫁いだ姉妹もいた。 孫氏は叔父の孫権(そんけん)の計らいにより、陸遜(りくそん)に嫁いだ。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 孫策のと言えば橋氏(きょうし。姉妹の姉の大橋〈だいきょう〉)が有名ですけど、この孫氏を生んだのが彼女なのかイマイチはっきりしません。

    孫氏(そんし)N ※孫策(そんさく)の娘、陸遜(りくそん)の妻
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  • 孫氏(そんし)M ※孫策(そんさく)の娘、朱紀(しゅき)の妻

    父は孫策だが、母は不詳。 孫紹(そんしょう)は兄弟で、ほかに顧邵(こしょう。顧劭)と陸遜(りくそん)に嫁いだ姉妹もいた。 孫氏は、朱治(しゅち)の息子の朱紀(しゅき)に嫁いだ。 管理人「かぶらがわ」より登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 孫策のと言えば橋氏(きょうし。姉妹の姉の大橋〈だいきょう〉)が有名ですけど、この孫氏を生んだのが彼女なのかイマイチはっきりしません。

    孫氏(そんし)M ※孫策(そんさく)の娘、朱紀(しゅき)の妻
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  • 孫氏(そんし)H ※孫策(そんさく)の娘、顧邵(こしょう。顧劭)の妻

    父は孫策だが、母は不詳。 孫紹(そんしょう)は兄弟で、ほかに朱紀(しゅき)と陸遜(りくそん)に嫁いだ姉妹もいた。 孫氏は叔父の孫権(そんけん)の計らいにより、顧雍(こよう)の息子の顧邵(こしょう。顧劭)に嫁いだ。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 孫策のと言えば橋氏(きょうし。姉妹の姉の大橋〈だいきょう〉)が有名ですけど、この孫氏を生んだのが彼女なのかイマイチはっきりしません。

    孫氏(そんし)H ※孫策(そんさく)の娘、顧邵(こしょう。顧劭)の妻
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  • 孫紹(そんしょう)B ※孫策(そんさく)の息子

    父は孫策だが、母は不詳。 顧邵(こしょう。顧劭)・朱紀(しゅき)・陸遜(りくそん)に嫁いだ姉妹がいた。息子の孫奉(そんほう)は跡継ぎ。 229年に叔父の孫権(そんけん)が帝位に即くと、孫紹は呉侯(ごこう)に封ぜられた。その後、上虞侯(じょうぐこう)に移封された。 孫紹が死去(時期は不明)すると、息子の孫奉が跡を継いだ。 管理人「かぶらがわ」より登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 孫策のと言えば橋氏(きょうし。姉妹の姉の大橋〈だいきょう〉)が有名ですけど、この孫紹を生んだのが彼女なのかイマイチはっきりしません。

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  • 孫朗(そんろう。孫仁〈そんじん〉)

    袁紹(えんしょう)と袁術(えんじゅつ)が仲たがいすると、長沙(ちょうさ)にいた孫堅(そんけん)は袁術から密書を受け取る。 これを好機と捉えた孫堅は自ら船団をひきい、荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)を攻めるべく出撃した。 第033話の... さらに、劉備に嫁いだ孫氏を孫仁という名の娘として登場させており、孫朗とは同母姉弟の設定にしている。しかし正史『三国志』には、孫朗と孫氏が同母姉弟だったという記事は見えない。 222年、魏(ぎ)の曹休(そうきゅう)が洞口(どうこう)へ進軍した際、呂範(りょはん)が軍勢を指揮して防戦にあたった。 このとき孫朗は定武中郎将(ていぶちゅうろうしょう)だったが、呂範の命令に背いて火を放ち、茅芒(チガヤ)を焼いてしまい、軍用資材の不足を招いた。 呂範は事情を説明した書面とともに、孫朗を呉郡へ送還した。 怒った孫権は、孫朗の一族を孫氏から外して丁氏(ていし)と

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  • 孫香(そんこう) ※あざなは文陽(ぶんよう)

    【姓名】 孫香(そんこう) 【あざな】 文陽(ぶんよう) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫孺(そんじゅ)の息子 父は孫孺だが、母は不詳。孫策(そんさく)の族兄(いとこ。一族の同世代の年長者)にあたるという。 孫香は孫堅(そんけん)に付き従って手柄を立て、郎中(ろうちゅう)に任ぜられた。 その後、袁術(えんじゅつ)のために働き、征南将軍(せいなんしょうぐん)を加官されたが、寿春(じゅしゅん)で亡くなったという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 上で挙げた記事は、『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫賁伝〈そんほんでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く韋昭(いしょう。

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  • 孫孺(そんじゅ) ※あざなは仲孺(ちゅうじゅ)

    【姓名】 孫孺(そんじゅ) 【あざな】 仲孺(ちゅうじゅ) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。

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  • 孫氏(そんし)I ※孫堅(そんけん)の妹、徐真(じょしん)の妻

    【姓名】 孫氏(そんし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 父母ともに不詳。孫羌(そんきょう)と孫堅は兄で、孫静(そんせい)も兄弟。 孫氏は、兄の孫堅と親交のあった徐真(じょしん)に嫁ぎ、徐琨(じょこん)を儲けた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫権徐夫人伝〈そんけんじょふじんでん〉)によると、孫氏の息子の徐琨が、孫策(そんさく)の下で横江(おうこう)の樊能(はんのう)と于麋(うび)らを討伐する作戦に参加し、当利口(とうりこう)で張英(ちょうえい)と戦ったことがありました。 しかし船が不足していたため、孫策は軍勢を留めて補充しようとします。そのとき軍中にいた孫氏は徐琨に言いました。 「揚州(ようし

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  • 孫綝(そんりん) ※あざなは子通(しとう)

    【姓名】 孫綝(そんりん) 【あざな】 子通(しとう) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 231~258年(28歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第111回で初登場。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫綝伝』あり。 孫綽(そんしゃく)の息子、孫静(そんせい)の曾孫にあたる 父は孫綽だが、母は不詳。孫恩(そんおん)・孫拠(そんきょ)・孫幹(そんかん)・孫闓(そんかい)は弟。 孫綝は偏将軍(へんしょうぐん)だったが、256年9月に従兄の孫峻(そんしゅん)が亡くなった後、侍中(じちゅう)・武衛将軍(ぶえいしょうぐん)・領中外諸軍事(りょうちゅうがいしょぐんじ)に昇進。 中央と地方の軍事を総括したうえ、孫峻に代わって朝政を取り仕切ることになった。 さらに、対立した呂拠(りょきょ)と滕胤(とういん)を死に追いやると、同年11月には大将軍(だいしょうぐん)に昇進。仮節

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  • 孫峻(そんしゅん) ※あざなは子遠(しえん)

    【姓名】 孫峻(そんしゅん) 【あざな】 子遠(しえん) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 219~256年(38歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第108回で初登場。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫峻伝』あり。 孫恭(そんきょう)の息子、孫静(そんせい)の曾孫にあたる父は孫恭だが、母は不詳。全尚(ぜんしょう)に嫁いだ姉がいた。 孫峻は若いころより弓術や馬術に巧みで、優れた決断力を持っていた。孫権(そんけん)の末年に武衛都尉(ぶえいとい)から侍中(じちゅう)となった。 252年、孫権の臨終の際、諸葛恪(しょかつかく)・孫弘(そんこう)・滕胤(とういん)とともに後事を託され、武衛将軍(ぶえいしょうぐん)を兼任したうえ、これまで通り宮中における宿衛を統括し、都郷侯(ときょうこう)に封ぜられた。 翌253年10月、孫亮(そんりょう)と相談したうえで諸葛恪を誅

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  • 孫桓(そんかん) ※あざなは叔武(しゅくぶ)

    【姓名】 孫桓(そんかん) 【あざな】 叔武(しゅくぶ) 【原籍】 呉郡(ごぐん) 【生没】 198~223年(26歳) 【吉川】 第251話で初登場。 【演義】 第082回で初登場。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫桓伝』あり。 孫河(そんか)の息子 父は孫河だが、母は不詳。孫助(そんじょ)と孫誼(そんぎ)は兄で、孫俊(そんしゅん)は弟。 222年、孫桓は25歳で安東中郎将(あんとうちゅうろうしょう)に任ぜられ、陸遜(りくそん)とともに蜀(しょく)の劉備(りゅうび)の東征軍を防ぐ。 このとき劉備軍には圧倒的な勢いがあり、その軍勢が山谷に満ちていた。孫桓は命を惜しまず武器を振るい、陸遜と力を合わせて戦ったため、劉備は何もできないまま敗走した。 孫桓は劉備を追撃し、夔城(きじょう)へ通ずる道を断って要所を封鎖した。 劉備は山中の険阻を越え、何とか白帝城(はくていじょう)へ逃げ込んだが

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  • 孫韶(そんしょう) ※あざなは公礼(こうれい)

    【姓名】 孫韶(そんしょう) 【あざな】 公礼(こうれい) 【原籍】 呉郡(ごぐん) 【生没】 188~241年(54歳) 【吉川】 第033話で初登場。 【演義】 第007回で初登場。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫韶伝』あり。 孫河(そんか)の甥 父母ともに不詳。孫楷(そんかい)・孫越(そんえつ)・孫異(そんい)・孫奕(そんえき)・孫恢(そんかい)という5人の息子がおり、跡継ぎは孫越。 孫韶は、204年に伯父の孫河が嬀覧(きらん)と戴員(たいうん)に殺害されると、その配下の兵士を取りまとめた。そして京城(けいじょう。京口〈けいこう〉)の補修工事を行い、楼櫓(ものみやぐら)を建てて兵器や設備を整え、敵の侵攻に備えた。 この年、孫権(そんけん)は丹楊郡(たんようぐん)で弟の孫翊(そんよく)が殺害されたと聞くや、豫章郡(よしょうぐん)の椒丘(しょうきゅう)から引き返す。丹楊の混乱を

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  • 孫匡(そんきょう) ※あざなは季佐(きさ)

    【姓名】 孫匡(そんきょう) 【あざな】 季佐(きさ) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 第033話で初登場。 【演義】 第007回で初登場。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫匡伝』あり。 呉(ご)の孫権(そんけん)の弟父は孫堅(そんけん)、母は呉氏(武烈皇后〈ぶれつこうごう〉)。 同母兄には孫策(そんさく)・孫権・孫翊(そんよく)がおり、異母弟には孫朗(そんろう。孫仁〈そんじん〉)がいる。また、妹?の孫氏は蜀(しょく)の劉備(りゅうび)に嫁いだものの、後に呉へ戻った。 は曹操(そうそう)の弟の娘。この曹氏が生んだ息子の孫泰(そんたい)は跡継ぎ。 孫匡は孝廉(こうれん)と茂才(もさい)に推挙されたものの、任官される前に死去した。このとき20余歳だったという。息子の孫泰が跡を継いだ。 管理人「かぶらがわ」より登場箇所が少ないためコ

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  • 孫松(そんしょう) ※あざなは子喬(しきょう)

    【姓名】 孫松(そんしょう) 【あざな】 子喬(しきょう) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~231年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫翊伝(そんよくでん)』に付された「孫松伝」あり。 孫翊の息子 父は孫翊だが、母は不詳。 孫松は、204年に死去した孫翊の跡を継いだ。後に射声校尉(しゃせいこうい)・都郷侯(ときょうこう)となったが、231年に死去した。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 孫翊のとしては徐氏(じょし)の名が見えますが、この孫松の生母が彼女なのかはっきりしません。 伝には孫松が亡くなった後、諸葛亮(しょかつりょう)が兄の諸葛瑾(しょかつきん)に送った手紙の中で、彼の死を悼ん

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  • 孫翊(そんよく) ※あざなは叔弼(しゅくひつ)

    【姓名】 孫翊(そんよく) 【あざな】 叔弼(しゅくひつ) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 184~204年(21歳) 【吉川】 第033話で初登場。 【演義】 第007回で初登場。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫翊伝』あり。 呉(ご)の孫権(そんけん)の弟 父は孫堅(そんけん)、母は呉氏(武烈皇后〈ぶれつこうごう〉)。一名を儼(げん。孫儼)ともいう。 同母兄には孫策(そんさく)と孫権がおり、同母弟には孫匡(そんきょう)がいる。異母弟には孫朗(そんろう。孫仁〈そんじん〉)がいる。妹?の孫氏は蜀(しょく)の劉備(りゅうび)に嫁いだものの、後に呉へ戻った。息子の孫松(そんしょう)は跡継ぎ。 孫翊は勇猛果敢で、孫策に似たところがあった。 呉郡太守(ごぐんたいしゅ)の職務にあたった朱治(しゅち)によって孝廉(こうれん)に推挙され、司空(しくう)の役所から招かれた

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  • 孫奐(そんかん) ※あざなは季明(きめい)

    【姓名】 孫奐(そんかん) 【あざな】 季明(きめい) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 195~234年(40歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫静伝(そんせいでん)』に付された「孫奐伝」あり。 孫静の息子 父は孫静だが、母は不詳。孫暠(そんこう)・孫瑜(そんゆ)・孫皎(そんこう)は兄で、孫謙(そんけん)は弟。 息子の孫承(そんしょう)は跡継ぎ。孫壱(そんいつ)と孫封(そんほう)も同じく息子。ほかに呂拠(りょきょ)と滕胤(とういん)に嫁いだ娘もいた。 219年に兄の孫皎が亡くなると、孫奐は代わって配下の軍勢を指揮し、揚武中郎将(ようぶちゅうろうしょう)として江夏太守(こうかたいしゅ)を兼ねた。 その任にあったのは1年だったが、孫皎のやり方を引き継ぎ、劉靖(りゅうせい)・李允(りいん)・呉碩(ごせき)・張梁(ちょ

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  • 孫皎(そんこう) ※あざなは叔朗(しゅくろう)

    【姓名】 孫皎(そんこう) 【あざな】 叔朗(しゅくろう) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~219年(?歳) 【吉川】 第232話で初登場。 【演義】 第075回で初登場。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫静伝(そんせいでん)』に付された「孫皎伝」あり。 孫静の息子 父は孫静だが、母は不詳。孫暠(そんこう)と孫瑜(そんゆ)は兄で、孫奐(そんかん)と孫謙(そんけん)は弟。 跡継ぎの孫胤(そんいん)をはじめ、孫晞(そんき)・孫咨(そんし)・孫弥(そんび)・孫儀(そんぎ)という5人の息子がいた。 初め孫皎は、護軍校尉(ごぐんこうい)に任ぜられて2千余の兵を預かる。 このころ曹操(そうそう)がしばしば濡須(じゅしゅ)へ軍勢を送り込んでいたが、そのたびに孫皎が駆けつけて防いだため、彼の軍は精鋭ぞろいだと評判になった。 都護(とご)・征虜将軍(せいりょしょうぐん)

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  • 孫瑜(そんゆ) ※あざなは仲異(ちゅうい)

    【姓名】 孫瑜(そんゆ) 【あざな】 仲異(ちゅうい) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 177~215年(39歳) 【吉川】 第178話で初登場。 【演義】 第057回で初登場。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫静伝(そんせいでん)』に付された「孫瑜伝」あり。 孫静の息子 父は孫静だが、母は不詳。孫暠(そんこう)は兄で、孫皎(そんこう)・孫奐(そんかん)・孫謙(そんけん)は弟。 孫弥(そんび)・孫熙(そんき)・孫燿(そんよう)・孫曼(そんまん)・孫紘(そんこう)という5人の息子がいた。 初め孫瑜は、恭義校尉(きょうぎこうい)として兵を預かることになった。 当時の幕客や部将には江西(こうせい。合肥〈ごうひ〉・寿春〈じゅしゅん〉一帯)の出身者が多かったが、孫瑜は己をむなしくして丁重にもてなすことで歓心を得る。 204年、孫瑜が丹楊太守(たんようたいしゅ)になる

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  • 孫静(そんせい) ※あざなは幼台(ようだい)

    【姓名】 孫静(そんせい) 【あざな】 幼台(ようだい) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 第033話で初登場。 【演義】 第007回で初登場。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫静伝』あり。 孫堅(そんけん)の弟 父母ともに不詳。孫羌(そんきょう)と孫堅は兄。 孫暠(そんこう)・孫瑜(そんゆ)・孫皎(そんこう)・孫奐(そんかん)・孫謙(そんけん)という5人の息子がいた。 189年、兄の孫堅が董卓(とうたく)討伐のために挙兵したとき、孫静は一族や同郷の者たち5、600人を集めて後方の守りを固めた。みなよく孫静の指示に従ったという。 甥の孫策(そんさく)が劉繇(りゅうよう)を討ち破り、周辺の諸県を安定させると、196年には軍勢を進めて会稽(かいけい)の攻略に向かった。 孫静は孫策の使者から話を聞き、一家眷属(けんぞく)を引き連れて銭唐

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  • 孫輔(そんほ) ※あざなは国儀(こくぎ)

    【姓名】 孫輔(そんほ) 【あざな】 国儀(こくぎ) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫輔伝』あり。 孫羌(そんきょう)の息子 父は孫羌だが、母は不詳。孫賁(そんほん)は兄。 孫興(そんこう)・孫昭(そんしょう)・孫偉(そんい)・孫昕(そんきん)という4人の息子がおり、このほかに駱統(らくとう)に嫁いだ娘もいた。 孫輔は揚武校尉(ようぶこうい)として、従弟の孫策(そんさく)の3郡(会稽〈かいけい〉・丹楊〈たんよう〉・豫章〈よしょう〉)の平定を助けた。 196年、孫策が丹楊郡の7県を討伐した際には、孫輔が西進して歴陽(れきよう)に軍営を置き、袁術(えんじゅつ)の侵攻を阻む。また、その地に残っていた民を説得して配下に入れ、逃散していた者を呼び集めさせた。 さらに孫策に従

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  • 孫鄰(そんりん) ※あざなは公達(こうたつ)

    【姓名】 孫鄰(そんりん) 【あざな】 公達(こうたつ) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~249年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫賁伝(そんほんでん)』に付された「孫鄰伝」あり。 孫賁の息子 父は孫賁だが、母は不詳。 孫安(そんあん)・孫熙(そんき)・孫績(そんせき)は弟。ほかに曹操(そうそう)の息子の曹彰(そうしょう)に嫁いだ姉妹もいた。 息子の孫苗(そんびょう)は跡継ぎ。そのほかに孫旅(そんりょ)・孫述(そんじゅつ)・孫震(そんしん)・孫諧(そんかい)・孫歆(そんきん)という5人の息子がいた。 孫鄰は、わずか9歳で父の代理として豫章太守(よしょうたいしゅ)の職務にあたり、後に都郷侯(ときょうこう)に封ぜられた。豫章での在任期間は20年近くにも及び、この間に反乱を平定するなどの治績を上げた。 やが

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    呉(ご)の孫権(そんけん)を中心とした一族に関する個別記事
  • 孫賁(そんほん) ※あざなは伯陽(はくよう)

    【姓名】 孫賁(そんほん) 【あざな】 伯陽(はくよう) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~218年?(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫賁伝』あり。 孫羌(そんきょう)の息子 父は孫羌だが、母は不詳。孫輔(そんほ)は弟。 息子の孫鄰(そんりん)は跡継ぎ。孫安(そんあん)・孫熙(そんき)・孫績(そんせき)も、同じく息子。ほかに曹操(そうそう)の息子の曹彰(そうしょう)に嫁いだ娘がいた。 孫賁は早くに両親を亡くし、まだ赤ん坊だった弟の孫輔の親代わりとして、よく面倒を見たという。やがて出仕して、郡の督郵守長(とくゆうしゅちょう)となった。 190年、叔父の孫堅(そんけん)が長沙(ちょうさ)で義兵を挙げると、官吏を辞めて討伐に付き従う。 192年(191年とも)に孫堅が亡くなった後は残された軍勢をひきい、柩(ひ

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  • 孫羌(そんきょう) ※あざなは聖台(せいだい)

    【姓名】 孫羌(そんきょう) 【あざな】 聖台(せいだい) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫堅(そんけん)の同母兄 父母ともに不詳。孫堅と孫静(そんせい)は弟。孫賁(そんほん)と孫輔(そんほ)という息子がいた。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫賁伝)によると、孫賁は早くに両親を亡くし、まだ赤ん坊だった弟の孫輔の親代わりとして、よく面倒を見たという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 孫堅の同母兄なのに扱いが小さいのは、特筆するような事績がなかったからでしょうか? 『三国志』の訳者注(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉氏)によると、「孫羌のあざなは『宋紹熙刊(そうしょうき

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  • 張氏(ちょうし)F ※孫晧(そんこう)の妻、張美人(ちょうびじん)

    【姓名】 張氏(ちょうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫晧(そんこう)の側室、張美人(ちょうびじん) 父は張布(ちょうふ)だが、母は不詳。姉の張氏も孫晧の側室だった。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫和何姫伝〈そんかかきでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞溥(ぐふ)の『江表伝(こうひょうでん)』には以下のようにある。 「張氏は孫晧の美人(びじん。皇妃の位のひとつ)として寵愛されていた」 「あるとき孫晧が張氏に『お前の父はどこにいるのか?』と尋ねたところ、張氏は『(父の張布が264年に孫晧に誅殺されていたため、)悪者に殺されました』と答えた。孫晧はひどく腹を立て、張氏を棒で殴り殺した」 「ところが、しばらくして張氏のことを懐かしく思うようになり、腕のいい工人に命じて木彫り

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  • 張氏(ちょうし)E ※孫晧(そんこう)の妻、左夫人(さふじん)

    【姓名】 張氏(ちょうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫晧(そんこう)の側室(左夫人〈さふじん〉) 父は張布(ちょうふ)だが、母は不詳。妹の張氏も孫晧の側室だった。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫和何姫伝〈そんかかきでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞溥(ぐふ)の『江表伝(こうひょうでん)』には以下のようにある。 「(張氏の妹の)張氏は孫晧の美人(びじん。皇妃の位のひとつ)として寵愛されていた」 「あるとき孫晧が張氏に『お前の父はどこにいるのか?』と尋ねたところ、張氏は『(父の張布が264年に孫晧に誅殺されていたため、)悪者に殺されました』と答えた。孫晧はひどく腹を立て、張氏を棒で殴り殺した」 「ところが、しばらくして彼女のことを懐かしく思うようになり、腕のいい工人に

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  • 王氏(おうし)F ※孫晧(そんこう)の妻、左夫人(さふじん)

    【姓名】 王氏(おうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~270年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫晧(そんこう)の側室(左夫人〈さふじん〉) 父母ともに不詳。 王氏は孫晧から寵愛されていたが、270年に亡くなった。 孫晧は悲しみと思慕の気持ちに耐えられず、朝夕に柩(ひつぎ)のそばで哭(こく。死者に対して大声を上げて泣く礼)し、数か月も人前に姿を見せなかった。 呉の人々は「孫晧が死んでしまったのだ」とか「章安侯(しょうあんこう)の孫奮(そんふん)か上虞侯(じょうぐこう)の孫奉(そんほう)が帝位に即くだろう」などとうわさした。 孫奮の母である仲氏(ちゅうし)の墓が豫章(よしょう)にあった。豫章太守(よしょうたいしゅ)の張俊(ちょうしゅん)は、うわさを信じて仲氏の墓を掃除させた。 この話を聞いた孫晧は激怒し、張俊を車裂きにし

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  • 滕氏(とうし) ※孫晧(そんこう)の妻、滕皇后(とうこうごう)

    【姓名】 滕氏(とうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 北海国(ほっかいこく)劇県(げきけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫晧滕夫人伝(そんこうとうふじんでん)』あり。 呉(ご)の孫晧の正室、滕皇后(とうこうごう) 父は滕牧(とうぼく。滕密〈とうみつ〉)だが、母は不詳(何姓〈かせい〉か?)。滕胤(とういん)は同族。 256年、孫綝(そんりん)との争いに敗れた滕胤が一族皆殺しとなる。このとき滕牧は、滕胤との親戚関係が遠かったため死罪を許され、辺境の郡へ強制移住させられた。 258年に孫休(そんきゅう)が帝位に即くと、滕胤は大赦によって都へ戻り、五官中郎(ごかんちゅうろう)に任ぜられた。 この年、滕氏は烏程侯(うていこう)に封ぜられた孫晧の妃(きさき)として迎えられた。 264年7月、孫休が崩御(ほうぎょ)し、

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  • 朱氏(しゅし)C ※孫休(そんきゅう)の妻、景皇后(けいこうごう)

    【姓名】 朱氏(しゅし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 呉郡(ごぐん)呉県(ごけん) 【生没】 ?~265年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第120回で初登場。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫休朱夫人伝(そんきゅうしゅふじんでん)』あり。 呉(ご)の孫休の正室、景皇后(けいこうごう) 父は朱拠(しゅきょ)、母は孫魯育(そんろいく。朱公主〈しゅこうしゅ〉)。朱熊(しゅゆう)と朱損(しゅそん)は兄弟。 なお、孫休の4人の息子(孫ワン〈そんわん。雨+單〉・孫コウ〈そんこう。雷+大〉・孫壾〈そんもう〉・孫ホウ〈そんほう。亠+先+攴〉)は、みな生母がはっきりしない。 朱氏は赤烏(せきう)年間(238~251年)の末、孫権(そんけん)の意向を受けて孫休の妃(きさき)となった。 252年1月、孫休が孫権から琅邪王(ろうやおう)に封ぜられると、朱氏も任地の丹楊郡(たんようぐん)へ随行す

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  • 全氏(ぜんし) ※孫亮(そんりょう)の妻、全皇后(ぜんこうごう)

    【姓名】 全氏(ぜんし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 呉郡(ごぐん)銭唐県(せんとうけん) 【生没】 ?~301もしくは302年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第113回で初登場。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫亮全夫人伝(そんりょうぜんふじんでん)』あり。 呉(ご)の孫亮の正室、全皇后(ぜんこうごう) 父は全尚(ぜんしょう)、母は孫氏(そんし。孫峻〈そんしゅん〉の姉)。全紀(ぜんき)は兄弟。 孫権(そんけん)の娘である全公主(ぜんこうしゅ。孫魯班〈そんろはん〉)は、皇太子の孫和(そんか)とその母の王氏(おうし。大懿皇后〈たいいこうごう〉)を讒言(ざんげん)したことがあったため、仕返しを恐れて不安だった。 そこで全公主は、孫権の気持ちが末息子の孫亮に傾いているのを見て、弟の孫亮との関係を深めておこうと考えた。 全公主は、しばしば全氏を褒めて孫権を動かし、彼女を孫亮の

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  • 仲氏(ちゅうし) ※孫権(そんけん)の妻、仲姫(ちゅうき)

    【姓名】 仲氏(ちゅうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫権(そんけん)の側室、仲姫(ちゅうき) 父母ともに不詳。孫権との間に孫奮(そんふん)を儲けた。 252年1月、孫奮が斉王(せいおう)に封ぜられ、武昌(ぶしょう)に住むことになった。 同年4月、孫権が崩御(ほうぎょ)すると孫亮(そんりょう)が帝位を継ぎ、諸葛恪(しょかつかく)が実権を握る。 諸葛恪は、諸王が長江(ちょうこう)沿いの軍事的な要地に住むことを好まず、孫奮を豫章郡(よしょうぐん)へ移そうとした。しかし孫奮は従わず、たびたび法を犯すようになった。 諸葛恪から諫止の手紙が届いたため、やむなく孫奮は南昌(なんしょう)へ移ったが、狩猟などにふけって属官を苦しめた。 253年に諸葛恪が誅殺されると、孫奮は長江を下って蕪湖(ぶこ

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  • 謝氏(しゃし)B ※孫権(そんけん)の妻、謝姫(しゃき)

    【姓名】 謝氏(しゃし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫権(そんけん)の側室、謝姫(しゃき) 父母ともに不詳。孫権との間に孫霸(そんは)を儲けた。 242年、孫権が孫和(そんか)を皇太子に立てる一方、孫霸を魯王(ろおう)に封じて溺愛したことで、皇太子派と魯王派による国を二分した権力争いが起こる。 250年、孫権が皇太子の孫和を廃して故鄣(こしょう)に幽閉し、魯王の孫霸には自殺を命じた。 その後、264年に孫和の息子である孫晧(そんこう)が帝位に即くと、孫和と孫霸の仲が悪かったことが採り上げられた。 これにより、孫霸の息子で謝氏の孫にあたる孫基(そんき)と孫壱(そんいつ)は、爵位と封国を削られたうえ、謝氏ともども会稽郡(かいけいぐん)烏傷県(うしょうけん)へ強制移住させられた。 管理

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  • 袁氏(えんし)A ※孫権(そんけん)の妻、袁術(えんじゅつ)の娘、袁夫人(えんふじん)

    【姓名】 袁氏(えんし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 汝南郡(じょなんぐん)汝陽県(じょようけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫権(そんけん)の側室、袁夫人(えんふじん) 父は袁術(えんじゅつ)だが、母は不詳。袁燿(えんよう)は兄弟。 199年に袁術が亡くなると、袁氏は母や兄弟たちとともに、廬江太守(ろこうたいしゅ)の劉勲(りゅうくん。袁術の臣下だったことがある)のもとへ身を寄せた。 ほどなく孫策(そんさく)が劉勲を討ち破ると、今度は孫策の世話になり、その後、孫権の後宮へ入ることになった。 孫権に寵愛されたものの、子は生まれず、やがて潘氏(はんし)の讒言(ざんげん)を受けて死に追いやられた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫権潘夫人伝)の裴松之

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  • 潘氏(はんし)B ※孫権(そんけん)の妻、潘皇后(はんこうごう)

    【姓名】 潘氏(はんし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 会稽郡(かいけいぐん)句章県(こうしょうけん) 【生没】 ?~252年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第108回で初登場。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫権潘夫人伝(そんけんはんふじんでん)』あり。 呉(ご)の孫権の正室、潘皇后(はんこうごう) 父母ともに不詳。父は役人だったが、法に触れたため死刑に処せられたという。孫権との間に孫亮(そんりょう)を儲けた。 潘氏は姉とともに織室(しょくしつ。宮中にある織物部屋。罪人の娘などが奴隷として入れられる)へ送られていたが、孫権から器量を見込まれて後宮に迎えられた。 やがて懐妊すると、誰かが自分に龍の頭を授け、それを蔽膝(へいしつ。エプロン)で受け取るという夢を見た。こうして243年に生まれたのが孫亮だった。 その後、250年に孫亮が皇太子に立てられると、潘氏は孫権に、姉を織

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  • 王氏(おうし)D ※孫権(そんけん)の妻、敬懐皇后(けいかいこうごう)

    【姓名】 王氏(おうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 南陽郡(なんようぐん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫権王夫人伝(そんけんおうふじんでん)』あり。 呉(ご)の孫権の側室、敬懐皇后(けいかいこうごう) 父母ともに不詳。王文雍(おうぶんよう)は同母弟。孫権との間に孫休(そんきゅう)を儲けた。 王氏は孫権の後宮に迎えられると寵愛を受け、235年に孫休を生んだ。 241年に皇太子の孫登(そんとう)が亡くなり、翌242年に孫和(そんか)が皇太子に立てられると、孫和の母である王氏(琅邪〈ろうや〉の人)が重んぜられるようになった。 孫権の寵愛を受けたことがある女性はみな地方へ移され、王氏も移住先の公安(こうあん)で亡くなり、その地に葬られた。 その後、258年に孫休が帝位に即くと、王氏は敬懐皇后と追尊されたうえ、敬

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  • 王氏(おうし)E ※孫権(そんけん)の妻、大懿皇后(たいいこうごう)

    【姓名】 王氏(おうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 琅邪郡(ろうやぐん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第108回で初登場。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫権王夫人伝(そんけんおうふじんでん)』あり。 呉(ご)の孫権の側室、大懿皇后(たいいこうごう) 父は王盧九(おうろきゅう)だが、母は不詳。孫権との間に孫和(そんか)を儲けた。 王氏は孫権の後宮に迎えられると寵愛を受け、224年に孫和を生んだ。孫権の寵愛は歩氏(ほし)に次ぐものだったという。 238年に歩氏が亡くなり、241年に皇太子の孫登(そんとう)が亡くなると、翌242年には孫和が皇太子に立てられた。 孫権は王氏を皇后に立てようとしたが、それを全公主(ぜんこうしゅ。孫魯班〈そんろはん〉)が阻んだ。 孫権の娘(生母は歩氏)である全公主は、日ごろから王氏を憎んでおり、孫権に彼女の悪口を吹き込んで

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  • 歩氏(ほし) ※孫権(そんけん)の妻、歩皇后(ほこうごう)

    【姓名】 歩氏(ほし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 臨淮郡(りんわいぐん)淮陰県(わいいんけん) 【生没】 ?~238年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫権歩夫人伝(そんけんほふじんでん)』あり。 呉(ご)の孫権の側室、歩皇后(ほこうごう) 父母ともに不詳。歩騭(ほしつ)とは同族。 歩氏は、漢(かん)の末年に母とともに廬江(ろこう)へ移住し、孫策(そんさく)が廬江を攻略(195年ごろ)すると、今度は一家そろって長江(ちょうこう)を渡り、江南(こうなん)へ移った。 後に孫権に嫁いだが、その美貌により後宮第一の寵愛を受け、孫魯班(そんろはん)・孫魯育(そんろいく)というふたりの娘を生む。 歩氏は嫉妬せず、しばしば後宮のほかの女性たちの後ろ盾にもなったので、孫権から大切にされたという。 229年に孫権が呉の帝位に即くと、心中では歩氏を

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  • 徐氏(じょし)B ※孫権(そんけん)の妻、徐夫人(じょふじん)

    【姓名】 徐氏(じょし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第108話で初登場。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫権徐夫人伝(そんけんじょふじんでん)』あり。 呉(ご)の孫権の側室、徐夫人 父は徐琨(じょこん)だが、母は不詳。 祖父の徐真(じょしん)は孫堅(そんけん)と親しかったため、その妹を娶(めと)った。徐真と孫堅の妹との間に生まれたのが、父の徐琨である。徐矯(じょきょう)は兄で、徐祚(じょそ)は弟。 徐氏は初め同郡の陸尚(りくしょう)に嫁いだが、先に夫を亡くす。 その後、孫権が討虜将軍(とうりょしょうぐん)として呉郡にいたとき(200年ごろか)妃(きさき)に迎えられた。 209年に孫権の長男として生まれた孫登(そんとう)は、生母の身分が卑しかった。そこで孫権は、徐氏に孫登の養育を任せ

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  • 謝氏(しゃし)A ※孫権(そんけん)の妻、謝夫人(しゃふじん)

    【姓名】 謝氏(しゃし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 会稽郡(かいけいぐん)山陰県(さんいんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫権謝夫人伝(そんけんしゃふじんでん)』あり。 呉(ご)の孫権の側室、謝夫人 父は謝煚(しゃけい)だが、母は不詳。 弟の謝承(しゃしょう)は『後漢書(ごかんじょ)』100余巻を著したが、これは范曄(はんよう)の『後漢書』とは別の書物である。 謝氏は、孫権の母である呉氏(ごし)の意向により孫権に嫁ぎ、その寵愛を受けた。 その後、孫権は姑(おば)の孫にあたる徐氏(じょし)を娶(めと)った。謝氏は徐氏に仕えることを拒んで寵愛を失い、早くに亡くなったという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわか

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  • 橋氏(きょうし)B ※孫策(そんさく)の妻

    【姓名】 橋氏(きょうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 廬江郡(ろこうぐん)皖県(かんけん)? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 第112話で初登場。 【演義】 第029回で初登場。 【正史】 登場人物。 孫策(そんさく)の正室 父は橋公(きょうこう)だが、母は不詳。 姉妹ともに絶世の美女で、姉である彼女は大橋(だいきょう)と呼ばれた。妹の橋氏(小橋〈しょうきょう〉)は周瑜(しゅうゆ)の正室となった。 橋氏姉妹は、199年?に孫策と周瑜が皖城を攻略した際に捕虜となり、孫策が姉を、周瑜が妹を、それぞれ娶(めと)った。だが、その後の動静は不明である。 孫策の息子の孫紹(そんしょう)に加え、顧邵(こしょう。顧劭)・朱紀(しゅき)・陸遜(りくそん)に、それぞれ嫁いだ娘の孫氏を生んだのが、この橋氏なのかもはっきりしない。 管理人「かぶらがわ」より 『三国志演義』では、この美人姉妹の父が橋玄(き

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  • 呉氏(ごし)D ※孫堅(そんけん)の妻

    袁紹(えんしょう)と袁術(えんじゅつ)が仲たがいすると、長沙(ちょうさ)にいた孫堅(そんけん)は袁術から密書を受け取る。 これを好機と捉えた孫堅は自ら船団をひきい、荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)を攻めるべく出撃した。 第033話の... 管理人「かぶらがわ」より 正史『三国志』には見えない人物です。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫堅伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞喜(ぐき)の『志林(しりん)』によると、「孫堅には5人の息子がおり、そのうち孫策(そんさく)・孫権(そんけん)・孫翊(そんよく)・孫匡(そんきょう)は正室の呉氏(武烈皇后)が生んだ子」。そして「末の息子の孫朗は庶子で、一名を孫仁と言った(つまり孫仁は娘ではない)」ということです。 正史『三国志』には庶子としかないので、この呉氏が孫朗を生んだという可能性は否定できません。 ですが、正史『三国志』には姉にあたる呉

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    呉(ご)の孫権(そんけん)を中心とした一族に関する個別記事
  • 呉氏(ごし)C ※孫堅(そんけん)の妻、武烈皇后(ぶれつこうごう)

    【姓名】 呉氏(ごし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 呉郡(ごぐん)呉県(ごけん) 【生没】 ?~202年?(?歳) 【吉川】 第033話で初登場。 【演義】 第007回で初登場。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫堅呉夫人伝(そんけんごふじんでん)』あり。 孫堅の正室、武烈皇后(ぶれつこうごう) 父母ともに不詳。呉景(ごけい)は弟。 孫堅との間に、孫策(そんさく)・孫権(そんけん)・孫翊(そんよく)・孫匡(そんきょう)という4人の息子と、蜀(しょく)の劉備(りゅうび)に嫁ぐことになる娘の孫氏を儲けた。 呉氏は早くに両親を亡くし、弟の呉景と暮らしていたが、彼女が才色兼備であることを聞きつけた孫堅から婚姻の申し入れを受けた。 しかし、親戚たちは孫堅の人となりを嫌い、この話を断ろうとした。孫堅はひどく侮辱されたと感じて恨みを抱く。 だが呉氏は、わざわざ一族に災いを招いてはならないと親戚を

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  • 孫武(そんぶ。孫子〈そんし〉)

    【姓名】 孫武(そんぶ) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 第010話で初登場。 【演義】 第002回で初登場。 【正史】 登場人物。 春秋(しゅんじゅう)時代の兵法家 その著作と伝わる『孫子(そんし。呉孫子兵法)』で有名。『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫堅伝〈そんけんでん〉)では「孫堅の遠祖は孫武かもしれない」と記している。 管理人「かぶらがわ」より 孫堅が孫武の子孫かも、という話はどうなのでしょう。劉備(りゅうび)が劉勝(りゅうしょう)の子孫だというのと同じようなもの? このサイトでは『三国志』に描かれる時代を中心に進めたいので、「孫武は孫堅の遠祖かもしれないですよ」という程度にしてサラッと流します。

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  • 孫晧(そんこう) ※あざなは元宗(げんそう)

    【姓名】 孫晧(そんこう) 【あざな】 元宗(げんそう) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 242~283もしくは284年(42か43歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第113回で初登場。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫晧伝』あり。 呉(ご)の第4代皇帝 父は孫和(そんか)、母は何氏(かし)。一名を彭祖(ほうそ)、あざなを晧宗(こうそう)といった。 孫徳(そんとく)・孫謙(そんけん)・孫俊(そんしゅん)は弟。跡継ぎの孫瑾(そんきん)をはじめ、10人以上の息子を儲けたことがうかがえるものの、孫瑾以外の名はわからない。 264年7月、叔父の孫休(そんきゅう)が崩御(ほうぎょ)し、丞相(じょうしょう)の濮陽興(ぼくようこう)や左将軍(さしょうぐん)の張布(ちょうふ)の意向を受けて帝位に即く。 即位前の評判は高かったものの、即位後ほどなく性を現し、無意味な遷

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  • 孫休(そんきゅう) ※あざなは子烈(しれつ)、呉(ご)の景皇帝(けいこうてい)

    【姓名】 孫休(そんきゅう) 【あざな】 子烈(しれつ) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 235~264年(30歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第113回で初登場。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫休伝』あり。 呉(ご)の第3代皇帝、景皇帝(けいこうてい) 父は孫権(そんけん)、母は(南陽〈なんよう〉の)王氏(おうし。敬懐皇后〈けいかいこうごう〉)。 孫登(そんとう)・孫慮(そんりょ)・孫和(そんか)・孫霸(そんは)・孫奮(そんふん)は兄で、孫亮(そんりょう)は弟。孫魯班(そんろはん)や孫魯育(そんろいく)など、ほかに姉妹もいた。 孫ワン(そんわん。雨+單)・孫コウ(そんこう。雷+大)・孫壾(そんもう)・孫ホウ(そんほう。亠+先+攴)という4人の息子を儲けた。 258年10月、孫綝(そんりん)により帝位を追われた、弟の孫亮に代わって帝位に即く。 同年

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  • 孫亮(そんりょう) ※あざなは子明(しめい)

    【姓名】 孫亮(そんりょう) 【あざな】 子明(しめい) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 243~260年(18歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第108回で初登場。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫亮伝』あり。 呉(ご)の第2代皇帝 父は孫権(そんけん)、母は潘氏(はんし)。 孫登(そんとう)・孫慮(そんりょ)・孫和(そんか)・孫霸(そんは)・孫奮(そんふん)・孫休(そんきゅう)は兄。孫魯班(そんろはん)や孫魯育(そんろいく)など、ほかに姉妹もいた。 250年11月、先に兄の孫和が廃位されたことに伴い、末子ながら皇太子に立てられる。 252年4月、父の孫権が崩じたため帝位を継ぐ。 257年4月、自ら政治を執り、大将軍(だいしょうぐん)の孫綝(そんりん)の専横に抵抗する。 258年9月、孫綝の誅殺に失敗して帝位を追われ、会稽王(かいけいおう)に貶(おと

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  • 孫権(そんけん) ※あざなは仲謀(ちゅうぼう)、呉(ご)の大皇帝(たいこうてい)

    【姓名】 孫権(そんけん) 【あざな】 仲謀(ちゅうぼう) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 182~252年(71歳) 【吉川】 第033話で初登場。 【演義】 第007回で初登場。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・呉主伝(ごしゅでん)』あり。 呉(ご)の初代皇帝、大皇帝(たいこうてい) 父は孫堅(そんけん)、母は呉氏(武烈皇后〈ぶれつこうごう〉)。 同母兄には孫策(そんさく)、同母弟には孫翊(そんよく)と孫匡(そんきょう)がおり、異母弟には孫朗(そんろう。孫仁〈そんじん〉)がいる。妹の孫氏は蜀(しょく)の劉備(りゅうび)に嫁いだものの、後に呉へ戻った。 孫登(そんとう)・孫慮(そんりょ)・孫和(そんか)・孫霸(そんは)・孫奮(そんふん)・孫休(そんきゅう)・孫亮(そんりょう)という7人の息子を儲けた。 娘の孫魯班(そんろはん)は初め周循(しゅうじゅん)に嫁

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  • 孫策(そんさく) ※あざなは伯符(はくふ)、呉(ご)の長沙桓王(ちょうさかんおう)

    【姓名】 孫策(そんさく) 【あざな】 伯符(はくふ) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 175~200年(26歳) 【吉川】 第033話で初登場。 【演義】 第007回で初登場。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫策伝』あり。 呉(ご)の孫権(そんけん)の兄、長沙桓王(ちょうさかんおう) 父は孫堅(そんけん)、母は呉氏(武烈皇后〈ぶれつこうごう〉)。 同母弟には孫権・孫翊(そんよく)・孫匡(そんきょう)がおり、異母弟には孫朗(そんろう。孫仁〈そんじん〉)がいる。また、妹の孫氏は蜀(しょく)の劉備(りゅうび)に嫁いだものの、後に呉へ戻った。 息子の孫紹(そんしょう)は跡継ぎ。ほかに顧邵(こしょう。顧劭)・朱紀(しゅき)・陸遜(りくそん)に、それぞれ嫁いだ娘もいた。 229年4月に孫権が呉の帝位に即いた際、長沙桓王と諡(おくりな)された。 主な経歴 -175年(

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  • 孫堅(そんけん) ※あざなは文台(ぶんだい)、呉(ご)の武烈皇帝(ぶれつこうてい)

    【姓名】 孫堅(そんけん) 【あざな】 文台(ぶんだい) 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 156?~192年?(37歳?) 【吉川】 第012話で初登場。 【演義】 第002回で初登場。 【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫堅伝』あり。 呉(ご)の孫権(そんけん)の父、武烈皇帝(ぶれつこうてい) 父母ともに不詳。孫羌(そんきょう)は同母兄で、孫静(そんせい)は弟。 跡を継いだ孫策(そんさく)をはじめとして、孫権・孫翊(そんよく)・孫匡(そんきょう)・孫朗(そんろう。孫仁〈そんじん〉)という5人の息子を儲けた。また、娘の孫氏は蜀(しょく)の劉備(りゅうび)に嫁いだものの、後に呉へ戻った。 229年4月に孫権が呉の帝位に即いた際、武烈皇帝と諡(おくりな)された。 主な経歴 -156年(もしくは155年)- この年、誕生。 -172年(もしくは171年)- 17歳の

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  • 劉承(りゅうしょう)B ※劉備(りゅうび)の曾孫、蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の安平殤王(あんぺいしょうおう)

    【姓名】 劉承(りゅうしょう) 【あざな】 ? 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~257年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 劉胤(りゅういん)の息子、安平殤王(あんぺいしょうおう) 父は劉胤だが、母は不詳。 劉承は、256年に薨去(こうきょ)した劉胤の跡を継ぎ、安平王に封ぜられた。しかし、翌257年に薨去して殤王と諡(おくりな)された。 その後、261年に劉禅(りゅうぜん)が詔(みことのり)を下し、劉胤の弟で劉承の叔父にあたる武邑侯(ぶゆうこう)の劉輯(りゅうしゅう)を、跡継ぎとして立てた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 また、劉承が劉胤の息子なのか、劉理(りゅうり)の息子(つまり劉胤の弟?)なのか、イマイ

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  • 劉玄(りゅうげん)A ※劉備(りゅうび)の曾孫

    【姓名】 劉玄(りゅうげん) 【あざな】 ? 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 劉永(りゅうえい)の孫、安楽公(あんらくこう) 父母ともに不詳。劉永の孫とだけある。 『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・劉璿伝〈りゅうせんでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く孫盛(そんせい)の『蜀世譜(しょくせいふ)』によると、「263年に蜀が滅亡した後、洛陽(らくよう)に移住した劉備(りゅうび)の子や孫たちは、その後の永嘉(えいか)の大乱(西晋〈せいしん〉時代の永嘉年間〈307~312年〉に起こった騒乱)でほぼ絶えてしまった。しかし、劉永の孫にあたる劉玄だけは蜀へ逃亡。当時、蜀の地を支配していた李雄(りゆう)が勝手に劉玄を安楽公に封じ、劉禅(りゅうぜん)の跡継ぎとした」という。 管理人「かぶらがわ」

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  • 劉林(りゅうりん)

    【姓名】 劉林(りゅうりん) 【あざな】 ? 【原籍】 長沙郡(ちょうさぐん)? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 劉封(りゅうほう)の息子 父は劉封だが、母は不詳。 劉林の父の劉封は220年、関羽(かんう)を救援しなかった件や、同僚の孟達(もうたつ)を追い込んで魏(ぎ)に奔らせた件を問責され、劉備(りゅうび)から死を賜った。 しかし、劉封の息子の劉林は誅殺されず、牙門将(がもんしょう)に任ぜられ、蜀(しょく)滅亡後の264年に河東(かとう)へ移ったという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 上で挙げた記事は『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・劉封伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)によるもの。劉禅(りゅうぜん)や劉理(

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  • 劉輯(りゅうしゅう)

    【姓名】 劉輯(りゅうしゅう) 【あざな】 ? 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 劉理(りゅうり)の息子 父は劉理だが、母は不詳。劉胤(りゅういん)は兄。 劉輯は、武邑侯(ぶゆうこう)だった261年、去る257年に薨去(こうきょ)した甥の劉承(りゅうしょう)の跡継ぎとして立てられ、安平王(あんぺいおう)に封ぜられた。 その後、263年に伯父の劉禅(りゅうぜん)が魏(ぎ)の曹奐(そうかん)に降伏すると、翌264年には劉禅に付き従って洛陽(らくよう)へ移り、奉車都尉(ほうしゃとい)に任ぜられたうえ、郷侯(きょうこう)に封ぜられた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 この劉輯が、

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  • 劉胤(りゅういん) ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の安平哀王(あんぺいあいおう)

    【姓名】 劉胤(りゅういん) 【あざな】 ? 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~256年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 劉理(りゅうり)の息子、安平哀王(あんぺいあいおう) 父は劉理だが、母は不詳。劉輯(りゅうしゅう)は弟。息子の劉承(りゅうしょう)は跡継ぎ。 劉胤は、244年に薨去(こうきょ)した劉理の跡を継ぎ、安平王に封ぜられた。その後、256年に薨去して哀王と諡(おくりな)され、息子の劉承が跡を継いだ。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 また、劉承が劉胤の息子なのか、劉理の息子(つまり劉胤の弟?)なのか、イマイチはっきりしませんでした。普通に考えれば、劉承は劉胤の息子だと思いますが……。

    劉胤(りゅういん) ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の安平哀王(あんぺいあいおう)
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  • 劉氏(りゅうし)M ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の劉禅(りゅうぜん)の娘、費恭(ひきょう)の妻

    【姓名】 劉氏(りゅうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん)の娘 父は劉禅だが、母は不詳。 劉璿(りゅうせん)・劉瑶(りゅうよう)・劉琮(りゅうそう)・劉瓚(りゅうさん)・劉諶(りゅうしん)・劉恂(りゅうじゅん)・劉虔(りゅうけん。劉璩〈りゅうきょ〉)は兄弟。ほかに姉妹がふたりはいたことがうかがえる。 劉氏は、費禕(ひい)の息子の費恭(ひきょう)に嫁いだ。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・費禕伝)および裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『費禕別伝(ひいべつでん)』によると、費禕の跡を継

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  • 劉氏(りゅうし)L ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の劉禅(りゅうぜん)の娘、関統(かんとう)の妻

    【姓名】 劉氏(りゅうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん)の娘 父は劉禅だが、母は不詳。 劉璿(りゅうせん)・劉瑶(りゅうよう)・劉琮(りゅうそう)・劉瓚(りゅうさん)・劉諶(りゅうしん)・劉恂(りゅうじゅん)・劉虔(りゅうけん。劉璩〈りゅうきょ〉)は兄弟。ほかに姉妹がふたりはいたことがうかがえる。 劉氏は、関興(かんこう)の息子の関統(かんとう)に嫁いだ。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・関羽伝〈かんうでん〉)によると、関統は、二十数歳で亡くなった関興の跡を継ぎ、公主(こうしゅ)を娶

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  • 劉氏(りゅうし)K ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の劉禅(りゅうぜん)の娘、諸葛瞻(しょかつせん)の妻

    【姓名】 劉氏(りゅうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第117回で初登場。 【正史】 登場人物。 蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん)の娘 父は劉禅だが、母は不詳。 劉璿(りゅうせん)・劉瑶(りゅうよう)・劉琮(りゅうそう)・劉瓚(りゅうさん)・劉諶(りゅうしん)・劉恂(りゅうじゅん)・劉虔(りゅうけん。劉璩〈りゅうきょ〉)は兄弟。ほかに姉妹がふたりはいたことがうかがえる。 劉氏は、諸葛亮(しょかつりょう)の息子の諸葛瞻(しょかつせん)に嫁いだ。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・諸葛亮伝)に付された「諸葛瞻伝」によると、諸葛瞻は17歳の時に公主(こう

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  • 劉虔(りゅうけん。劉璩〈りゅうきょ〉)

    【姓名】 劉虔(りゅうけん) 【あざな】 ? 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第118回で初登場。 【正史】 登場人物。 蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん)の息子 父は劉禅だが、母は不詳。 劉璿(りゅうせん)・劉瑶(りゅうよう)・劉琮(りゅうそう)・劉瓚(りゅうさん)・劉諶(りゅうしん)・劉恂(りゅうじゅん)は兄。ほかに姉妹が3人はいたことがうかがえる。同母兄弟、同母姉妹なのかはイマイチはっきりしない。(劉虔は)劉璩と表記されている箇所もある。 劉虔は、259年6月に上党王(じょうとうおう)に封ぜられた。その後、263年に劉禅が魏(ぎ)の曹奐(そうかん)に降伏すると、翌264年には劉禅に付き従って洛陽(らくよう)へ移った。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がな

    劉虔(りゅうけん。劉璩〈りゅうきょ〉)
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  • 劉恂(りゅうじゅん)

    【姓名】 劉恂(りゅうじゅん) 【あざな】 ? 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第118回で初登場。 【正史】 登場人物。 蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん)の息子 父は劉禅だが、母は不詳。 劉璿(りゅうせん)・劉瑶(りゅうよう)・劉琮(りゅうそう)・劉瓚(りゅうさん)・劉諶(りゅうしん)は兄で、劉虔(りゅうけん。劉璩〈りゅうきょ〉)は弟。ほかに姉妹が3人はいたことがうかがえる。同母兄弟、同母姉妹なのかはイマイチはっきりしない。 劉恂は、259年6月に新興王(しんこうおう)に封ぜられた。その後、263年に劉禅が魏(ぎ)の曹奐(そうかん)に降伏すると、翌264年には劉禅に付き従って洛陽(らくよう)へ移った。 『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王隠(おういん)の『蜀

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  • 劉諶(りゅうしん)

    【姓名】 劉諶(りゅうしん) 【あざな】 ? 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~263年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第118回で初登場。 【正史】 登場人物。 蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん)の息子、北地王(ほくちおう)、蜀の滅亡時に国に殉ずる 父は劉禅だが、母は不詳。 劉璿(りゅうせん)・劉瑶(りゅうよう)・劉琮(りゅうそう)・劉瓚(りゅうさん)は兄で、劉恂(りゅうじゅん)と劉虔(りゅうけん。劉璩〈りゅうきょ〉)は弟。ほかに姉妹が3人はいたことがうかがえる。同母兄弟、同母姉妹なのかはイマイチはっきりしない。 劉諶は、259年6月に北地王に封ぜられた。その後、263年に魏軍(ぎぐん)が成都(せいと)に迫った際、劉禅に抗戦を訴えたが容れられず、先に子を殺して自殺した。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 『三国志』(蜀

    劉諶(りゅうしん)
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    shiromitsu 2020/05/19
    蜀(しょく)の劉備(りゅうび)を中心とした一族に関する個別記事
  • 劉瓚(りゅうさん)

    【姓名】 劉瓚(りゅうさん) 【あざな】 ? 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第118回で初登場。 【正史】 登場人物。 蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん)の息子 父は劉禅だが、母は不詳。 劉璿(りゅうせん)・劉瑶(りゅうよう)・劉琮(りゅうそう)は兄で、劉諶(りゅうしん)・劉恂(りゅうじゅん)・劉虔(りゅうけん。劉璩〈りゅうきょ〉)は弟。ほかに姉妹が3人はいたことがうかがえる。同母兄弟、同母姉妹なのかはイマイチはっきりしない。 劉瓚は、256年に新平王(しんぺいおう)に封ぜられた。その後、263年に劉禅が魏(ぎ)の曹奐(そうかん)に降伏すると、翌264年には劉禅に付き従って洛陽(らくよう)へ移った。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だっ

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  • 劉琮(りゅうそう)A ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の劉禅(りゅうぜん)の息子

    【姓名】 劉琮(りゅうそう) 【あざな】 ? 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~262年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第118回で初登場。 【正史】 登場人物。 蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん)の息子、西河王(せいかおう) 父は劉禅だが、母は不詳。 劉璿(りゅうせん)と劉瑶(りゅうよう)は兄で、劉瓚(りゅうさん)・劉諶(りゅうしん)・劉恂(りゅうじゅん)・劉虔(りゅうけん。劉璩〈りゅうきょ〉)は弟。ほかに姉妹が3人はいたことがうかがえる。同母兄弟、同母姉妹なのかはイマイチはっきりしない。 劉琮は、252年に西河王に封ぜられたが、262年1月に薨去(こうきょ)した。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・劉璿伝)の

    劉琮(りゅうそう)A ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の劉禅(りゅうぜん)の息子
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  • 劉瑶(りゅうよう)

    【姓名】 劉瑶(りゅうよう) 【あざな】 ? 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第118回で初登場。 【正史】 登場人物。 蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん)の息子 父は劉禅だが、母は不詳。 劉璿(りゅうせん)は兄で、劉琮(りゅうそう)・劉瓚(りゅうさん)・劉諶(りゅうしん)・劉恂(りゅうじゅん)・劉虔(りゅうけん。劉璩〈りゅうきょ〉)は弟。ほかに姉妹が3人はいたことがうかがえる。同母兄弟、同母姉妹なのかはイマイチはっきりしない。 劉瑶は、238年1月に安定王(あんていおう)に封ぜられた。その後、263年に劉禅が魏(ぎ)の曹奐(そうかん)に降伏すると、翌264年には劉禅に付き従って洛陽(らくよう)へ移った。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物

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  • 劉璿(りゅうせん) ※あざなは文衡(ぶんこう)

    【姓名】 劉璿(りゅうせん) 【あざな】 文衡(ぶんこう) 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 224~264年(41歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第118回で初登場。 【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・劉璿伝』あり。 蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん)の息子 父は劉禅、母は王氏(おうし)。 劉瑶(りゅうよう)・劉琮(りゅうそう)・劉瓚(りゅうさん)・劉諶(りゅうしん)・劉恂(りゅうじゅん)・劉虔(りゅうけん。劉璩〈りゅうきょ〉)は弟。ほかに姉妹が3人はいたことがうかがえる。妃(きさき)は費禕(ひい)の長女。 劉璿は、238年1月に15歳で皇太子に立てられた。 その後、263年冬に蜀が滅亡すると、翌264年1月に魏(ぎ)の鍾会(しょうかい)が成都(せいと)で反乱を起こした際、劉璿は乱兵に殺害された。 管理人「かぶらがわ」より 『三国志』(蜀書・霍峻伝〈かくし

    劉璿(りゅうせん) ※あざなは文衡(ぶんこう)
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  • 劉氏(りゅうし)J ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の劉備(りゅうび)の娘

    【姓名】 劉氏(りゅうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 蜀(しょく)の劉備(りゅうび)の娘 父は劉備だが、母は不詳。 劉禅(りゅうぜん)・劉永(りゅうえい)・劉理(りゅうり)は、みな異母弟だと思われる。ほかにひとりは姉妹がいた。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・曹仁伝〈そうじんでん〉)に付された「曹純伝(そうじゅんでん)」によると、劉氏は、(208年に)曹操(そうそう)が荊州(けいしゅう)征伐に赴いた際、長坂(ちょうはん)で曹純に、もうひとりの姉妹とともに捕らえられたという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 長坂で曹純に捕らえられた後、劉氏姉妹はどう

    劉氏(りゅうし)J ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の劉備(りゅうび)の娘
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  • 劉氏(りゅうし)I ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の劉備(りゅうび)の娘

    【姓名】 劉氏(りゅうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 蜀(しょく)の劉備(りゅうび)の娘 父は劉備だが、母は不詳。 劉禅(りゅうぜん)・劉永(りゅうえい)・劉理(りゅうり)は、みな異母弟だと思われる。ほかにひとりは姉妹がいた。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・曹仁伝〈そうじんでん〉)に付された「曹純伝(そうじゅんでん)」によると、劉氏は、(208年に)曹操(そうそう)が荊州(けいしゅう)征伐に赴いた際、長坂(ちょうはん)で曹純に、もうひとりの姉妹とともに捕らえられたという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 長坂で曹純に捕らえられた後、劉氏姉妹はどう

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  • 劉封(りゅうほう)

    【姓名】 劉封(りゅうほう) 【あざな】 ? 【原籍】 長沙郡(ちょうさぐん)? 【生没】 ?~220年(?歳) 【吉川】 第126話で初登場。 【演義】 第036回で初登場。 【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・劉封伝』あり。 蜀(しょく)の劉備(りゅうび)の養子 父は寇氏(こうし)だが、母は不詳。 養子ながら、劉禅(りゅうぜん)・劉永(りゅうえい)・劉理(りゅうり)は異母弟になる。息子の劉林(りゅうりん)は跡継ぎ。 劉封はもともと羅侯(らこう)の寇氏の息子で、長沙の劉氏(りゅうし)の甥だった。劉備が荊州(けいしゅう)にやってきたとき、まだ跡継ぎがいなかったため養子として迎えられたという。 211年に劉備が蜀へ入り、翌212年に葭萌(かぼう)から引き返して劉璋(りゅうしょう)を攻めた際、20余歳だった劉封も兵をひきい、214年には諸葛亮(しょかつりょう)や張飛(ちょうひ)らとともに

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  • 劉理(りゅうり) ※あざなは奉孝(ほうこう)、蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の安平悼王(あんぺいとうおう)

    【姓名】 劉理(りゅうり) 【あざな】 奉孝(ほうこう) 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~244年(?歳) 【吉川】 第239話で初登場。 【演義】 第077回で初登場。 【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・劉理伝』あり。 蜀(しょく)の劉備(りゅうび)の息子で劉禅(りゅうぜん)の異母弟、安平悼王(あんぺいとうおう) 父は劉備だが、母は不詳。異母兄に劉禅と劉永(りゅうえい)がおり、ほかに異母姉がふたりはいた。は馬超(ばちょう)の娘。 息子の劉胤(りゅういん)は跡継ぎ。劉輯(りゅうしゅう)も同じく息子。 劉理は、221年6月に梁王(りょうおう)に封ぜられた。223年4月に劉備が崩ずると、劉禅が帝位を継ぎ、230年には安平王に移封された。 244年4月に薨去(こうきょ)。悼王と諡(おくりな)され、息子の劉胤が跡を継いだ。 管理人「かぶらがわ」より 伝によると

    劉理(りゅうり) ※あざなは奉孝(ほうこう)、蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の安平悼王(あんぺいとうおう)
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  • 劉永(りゅうえい) ※あざなは公寿(こうじゅ)

    【姓名】 劉永(りゅうえい) 【あざな】 公寿(こうじゅ) 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 第239話で初登場。 【演義】 第077回で初登場。 【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・劉永伝』あり。 蜀(しょく)の劉備(りゅうび)の息子、劉禅(りゅうぜん)の異母弟 父は劉備だが、母は不詳。異母兄に劉禅、異母弟に劉理(りゅうり)がおり、ほかに異母姉がふたりはいた。また、劉玄(りゅうげん)は孫にあたるともいう。 劉永は、221年6月に魯王(ろおう)に封ぜられた。223年4月に劉備が崩ずると、劉禅が帝位を継ぎ、230年には甘陵王(かんりょうおう)に移封された。 その後、263年に劉禅が魏(ぎ)の曹奐(そうかん)に降伏すると、翌264年には劉禅に付き従って洛陽(らくよう)へ移り、奉車都尉(ほうしゃとい)に任ぜられたうえ、郷侯(きょうこう)に封ぜ

    劉永(りゅうえい) ※あざなは公寿(こうじゅ)
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  • 李氏(りし)D ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の劉禅(りゅうぜん)の妻、李昭儀(りしょうぎ)

    【姓名】 李氏(りし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん)の側室、李昭儀(りしょうぎ) 父母ともに不詳。詳しい事績も不明。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・張皇后伝〈ちょうこうごうでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く習鑿歯(しゅうさくし)の『漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)』によると、「(263年に)蜀が滅亡した後、魏(ぎ)が、蜀の宮女をのいない諸将に与えたところ、李氏は『二重三重の屈辱を受けることには耐えられない』と言って自殺した」ということです。

    李氏(りし)D ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の劉禅(りゅうぜん)の妻、李昭儀(りしょうぎ)
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  • 王氏(おうし)G ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の劉禅(りゅうぜん)の妻、王貴人(おうきじん)

    【姓名】 王氏(おうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん)の側室、王貴人(おうきじん) 父母ともに不詳。劉禅との間に劉璿(りゅうせん)を儲けた。 また『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・劉璿伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く孫盛(そんせい)の『蜀世譜(しょくせいふ)』によると、劉璿の弟として名が挙げられている6人、劉瑶(りゅうよう)・劉琮(りゅうそう)・劉瓚(りゅうさん)・劉諶(りゅうしん)・劉恂(りゅうじゅん)・劉虔(りゅうけん。劉璩〈りゅうきょ〉)も、王氏が生んだ子の可能性がある。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 上で挙げた『三国志』(蜀書

    王氏(おうし)G ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の劉禅(りゅうぜん)の妻、王貴人(おうきじん)
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  • 張氏(ちょうし)I ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の劉禅(りゅうぜん)の妻、張皇后(ちょうこうごう)

    【姓名】 張氏(ちょうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 涿郡(たくぐん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・張皇后伝(ちょうこうごうでん)』あり。 蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん)の正室、張皇后 父は張飛(ちょうひ)、母はおそらく夏侯霸(かこうは)の従妹(夏侯氏か?)。張苞(ちょうほう)と張紹(ちょうしょう)は兄弟で、姉の張氏も劉禅の皇后だった。 237年、宮中に入って貴人(きじん。皇妃の位のひとつ)となる。同年6月には、劉禅の皇后だった姉の張氏が崩御(ほうぎょ)した。 翌238年1月、劉禅の皇后に立てられる。 263年11月、劉禅が魏(ぎ)曹奐(そうかん)に降ったため、翌264年には劉禅に付き従って洛陽(らくよう)へ移る。その後の消息は不明。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいで

    張氏(ちょうし)I ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の劉禅(りゅうぜん)の妻、張皇后(ちょうこうごう)
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  • 張氏(ちょうし)H ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の劉禅(りゅうぜん)の妻、敬哀皇后(けいあいこうごう)

    【姓名】 張氏(ちょうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 涿郡(たくぐん) 【生没】 ?~237年(?歳) 【吉川】 第259話で初登場。 【演義】 第085回で初登場。 【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・敬哀皇后伝(けいあいこうごうでん)』あり。 蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん)のもと正室、敬哀皇后 父は張飛(ちょうひ)、母はおそらく夏侯霸(かこうは)の従妹(夏侯氏か?)。張苞(ちょうほう)と張紹(ちょうしょう)は兄弟。 ほかに妹の張氏もおり、姉である彼女が崩じた後、続いて妹が、新たに劉禅の皇后として立てられた。 221年、皇太子の劉禅の妃(きさき)となって宮中に上がる。 223年、劉備(りゅうび)が崩じ、帝位を継いだ劉禅の皇后に立てられる。 その後、237年に崩御(ほうぎょ)し、南陵(なんりょう)に葬られた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。

    張氏(ちょうし)H ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の劉禅(りゅうぜん)の妻、敬哀皇后(けいあいこうごう)
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  • 麋氏(びし) ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の劉備(りゅうび)の妻

    当陽(とうよう)で曹操軍(そうそうぐん)に追いつかれてしまった劉備(りゅうび)。趙雲(ちょううん)は乱戦の中から、淳于導(じゅんうどう)に捕らえられていた糜竺(びじく。麋竺)や劉備の甘夫人(かんふじん)を救い出す。 さらに、ちょうど行き会っ... 『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・趙雲伝)には、趙雲が当陽県の長坂(ちょうはん)で、同じく劉備の夫人(正室?)の甘氏(かんし)と、まだ幼子だった劉禅を救ったことが書かれていますが、麋氏への言及はありませんでした。 ただ、その後は麋氏が登場しないので、見せ場のひとつになっている吉川『三国志』や『三国志演義』での描かれ方は、うまくできているとも感じます。 吉川『三国志』では、劉備が若いころに出会った白芙蓉(はくふよう)という佳人が、この糜氏(麋氏)だということになっているのですが、設定に混乱が見られます。 まず第3話で、白芙蓉(姓は鴻〈こう〉、名は芙蓉

    麋氏(びし) ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の劉備(りゅうび)の妻
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  • 孫氏(そんし)D ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の劉備(りゅうび)の妻

    【姓名】 孫氏(そんし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 第033話で初登場。 【演義】 第007回で初登場。 【正史】 登場人物。 蜀(しょく)の劉備(りゅうび)のもと正室 父は孫堅(そんけん)だが、母は不詳。 孫策(そんさく)・孫権(そんけん)・孫翊(そんよく)・孫匡(そんきょう)・孫朗(そんろう。孫仁〈そんじん〉)は兄弟。 209年、孫権の意向を受けて劉備に嫁ぐ。 214年、劉備が成都(せいと)を攻略した後、孫権のもとに呼び戻される。その際、まだ幼い劉禅(りゅうぜん)も連れ帰ろうとしたが、趙雲(ちょううん)と張飛(ちょうひ)に阻止された。その後の孫氏の動静は不明。 管理人「かぶらがわ」より 孫氏の母は、おそらく孫堅の正室だった呉氏(ごし。武烈皇后〈ぶれつこうごう〉)なのだと思いますが、イマイチはっきりしませんで

    孫氏(そんし)D ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の劉備(りゅうび)の妻
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  • 呉氏(ごし)A ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の劉備(りゅうび)の妻、穆皇后(ぼくこうごう)

    【姓名】 呉氏(ごし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 陳留郡(ちんりゅうぐん) 【生没】 ?~245年(?歳) 【吉川】 第239話で初登場。 【演義】 第077回で初登場。 【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・穆皇后伝(ぼくこうごうでん)』あり。 蜀(しょく)の劉備(りゅうび)の正室、穆皇后 父母ともに不詳。呉壱(ごいつ。呉懿〈ごい〉)は兄。初めは劉瑁(りゅうぼう)に嫁いだ。 呉氏は呉壱ともども、幼いころに孤児となる。父が旧知だったことから一家を挙げて劉焉(りゅうえん)に従い、蜀へ入った。 その後、呉氏は劉焉の息子の劉瑁に嫁いだものの、やがて劉瑁は亡くなってしまう。 214年に劉備が益州(えきしゅう)を平定すると、正室の孫氏(そんし。孫権〈そんけん〉の妹)は孫権のもとへ帰った。そこで群臣は呉氏を娶(めと)るよう勧め、劉備もこの意見を容れた。 219年、劉備が漢中王(かんちゅうおう)

    呉氏(ごし)A ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の劉備(りゅうび)の妻、穆皇后(ぼくこうごう)
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  • 甘氏(かんし) ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の劉備(りゅうび)の妻、昭烈皇后(しょうれつこうごう)

    【姓名】 甘氏(かんし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 沛郡(はいぐん)沛県(はいけん) 【生没】 ?~208か209年(?歳) 【吉川】 第053話で初登場。 【演義】 第014回で初登場。 【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・甘皇后伝(かんこうごうでん)』あり。 蜀(しょく)の劉備(りゅうび)の側室から正室か? 昭烈皇后(しょうれつこうごう) 父母ともに不詳。劉備との間に劉禅(りゅうぜん)を儲けた。 194年、甘氏は、劉備が豫州刺史(よしゅうしし)として小沛(しょうはい)に住んでいたとき、側室に迎えられた。 201年、劉備に付き従って荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)を頼る。その後、207年に劉禅が生まれた。 208年、劉表が死去。跡を継いだ劉琮(りゅうそう)が曹操(そうそう)に降伏したため、甘氏は劉備とともに樊城(はんじょう)から逃げた。 しかし、劉備が当陽県(とうようけ

    甘氏(かんし) ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の劉備(りゅうび)の妻、昭烈皇后(しょうれつこうごう)
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  • 劉徳然(りゅうとくぜん)

    【姓名】 劉徳然(りゅうとくぜん) ※徳然はあざなかも? 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 蜀(しょく)の劉備(りゅうび)の一族 父は劉元起(りゅうげんき)だが、母は不詳。詳しい事績も不明。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・先主伝〈せんしゅでん〉)によると、「劉備が15歳で遊学した際、劉徳然も一緒に盧植(ろしょく)の下で学んだ」ということです。 ところが、その後の劉徳然の動静はまったくわかりません。劉備は黄巾(こうきん)の乱の時に仲間を集めたそうですが、彼は加わらなかったのでしょうか? 謎ですね。

    劉徳然(りゅうとくぜん)
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  • 劉元起(りゅうげんき)

    【姓名】 劉元起(りゅうげんき) ※元起はあざなかも? 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第001回で初登場。 【正史】 登場人物。 蜀(しょく)の劉備(りゅうび)の一族 父母ともに不詳。劉徳然(りゅうとくぜん)は息子。詳しい事績は不明。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・先主伝〈せんしゅでん〉)によると、「劉備が15歳で一族の劉徳然や遼西(りょうせい)の公孫瓚(こうそんさん)とともに、盧植(ろしょく)の下で学ぶことになった際、いつも劉元起が劉備に学資を援助し、息子と同じ扱いをしていた」ということです。 劉元起はから不満を言われたそうですが、「同族である劉備の才能を高く評価していたため取り合わなかった」とも。 劉備は黄巾(こうきん)の乱の時に、仲間を集

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  • 劉子敬(りゅうしけい)

    【姓名】 劉子敬(りゅうしけい) ※子敬はあざなかも? 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 蜀(しょく)の劉備(りゅうび)の叔父 父母ともに不詳。詳しい事績も不明。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・先主伝〈せんしゅでん〉)によると、「まだ劉備が幼かったころ、家にあった桑の大樹の下で一族の子どもたちと遊びながら、『いずれきっと、こんな蓋車(がいしゃ。天子〈てんし〉の車)に乗ってやるんだ』と言っていた」のだとか。 「桑の大樹は高さが5丈余りもあり、遠くから車の蓋(ほろ)のように見えた」そうで、「これを聞いた叔父の劉子敬が劉備に、『滅多なことを言うものではない。わが一門が滅ぶことになるぞ』と注意した」のだと。 また『三国志』(

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    蜀(しょく)の劉備(りゅうび)を中心とした一族に関する個別記事
  • 劉敬(りゅうけい)

    【姓名】 劉敬(りゅうけい) 【あざな】 ? 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 蜀(しょく)の劉備(りゅうび)の叔父 父母ともに不詳。詳しい事績も不明。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・劉封伝〈りゅうほうでん〉)によると、「孟達(もうたつ)は、もとのあざなを子敬(しけい)といったが、劉備の叔父である劉敬の名を避けて子度(したく)と改めた」ということです。 また『三国志』(蜀書・先主伝〈せんしゅでん〉)には、同じく劉備の叔父として劉子敬という人物も出てきます。両人とも事績がわからないのではっきりしませんが、どうやら別人のようです。

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  • 劉弘(りゅうこう)C ※劉備(りゅうび)の父

    蜀(しょく)の劉備(りゅうび)の父 父は劉雄(りゅうゆう)だが、母は不詳。息子の劉備が蜀を建国した。 劉弘は州郡に仕えていたが、まだ劉備が幼いうちに亡くなったという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

    劉弘(りゅうこう)C ※劉備(りゅうび)の父
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  • 劉雄(りゅうゆう)

    【姓名】 劉雄(りゅうゆう) 【あざな】 ? 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 第002話で初登場。 【演義】 第001回で初登場。 【正史】 登場人物。 蜀(しょく)の劉備(りゅうび)の祖父 父母ともに不詳。劉弘(りゅうこう)は息子で、劉備は孫にあたる。 劉雄は孝廉(こうれん)に推挙され、後に東郡(とうぐん)の范県令(はんけんれい)まで昇った。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志演義』(第20回)では、劉恵(りゅうけい)の息子ということになっていましたが、そのあたりもはっきりしません。

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  • 劉復(りゅうふく)

    【姓名】 劉復(りゅうふく) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 蜀(しょく)の劉備(りゅうび)の先祖にあたるという臨邑侯(りんゆうこう) 『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・先主伝〈せんしゅでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『典略(てんりゃく)』によると、「劉備は元来、この臨邑侯の分かれである」という。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

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  • 劉恵(りゅうけい)

    【姓名】 劉恵(りゅうけい) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第020回で初登場。 【正史】 登場せず。 創作された人物か? 劉不疑(りゅうふぎ)の息子、済川侯(せいせんこう) 『三国志演義』(第20回)で、劉備(りゅうび)の先祖として名が挙げられるひとり。 管理人「かぶらがわ」より 正史『三国志』には見えない人物です。 劉貞(りゅうてい)までは『漢書(かんじょ)』に名が見えますが、その後に挙げられている人物の詳細はわかりませんでした。 吉川『三国志』、『三国志演義』とも、劉備が献帝(けんてい)に初めて拝謁した際、劉備の話した出自に興味を持った献帝が、系譜(系図)を取り寄せて確認させる場面で名が出てきます。 吉川『三国志』(第77話)では、景帝(けいてい)-劉勝(りゅうしょう)-劉貞-劉昂(りゅうこう)-劉禄(りゅうろく)-劉恋(り

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  • 劉不疑(りゅうふぎ)

    【姓名】 劉不疑(りゅうふぎ) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第020回で初登場。 【正史】 登場せず。 創作された人物か? 劉達(りゅうたつ)の息子、豊霊侯(ほうれいこう) 『三国志演義』(第20回)で、劉備(りゅうび)の先祖として名が挙げられるひとり。 管理人「かぶらがわ」より 正史『三国志』には見えない人物です。 劉貞(りゅうてい)までは『漢書(かんじょ)』に名が見えますが、その後に挙げられている人物の詳細はわかりませんでした。 吉川『三国志』、『三国志演義』とも、劉備が献帝(けんてい)に初めて拝謁した際、劉備の話した出自に興味を持った献帝が、系譜(系図)を取り寄せて確認させる場面で名が出てきます。 吉川『三国志』(第77話)では、景帝(けいてい)-劉勝(りゅうしょう)-劉貞-劉昂(りゅうこう)-劉禄(りゅうろく)-劉恋(り

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  • 劉達(りゅうたつ)A ※劉備(りゅうび)の遠祖

    【姓名】 劉達(りゅうたつ) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第020回で初登場。 【正史】 登場せず。 創作された人物か? 劉必(りゅうひつ)の息子、潁川侯(えいせんこう) 『三国志演義』(第20回)で、劉備(りゅうび)の先祖として名が挙げられるひとり。 管理人「かぶらがわ」より 正史『三国志』には見えない人物です。 劉貞(りゅうてい)までは『漢書(かんじょ)』に名が見えますが、その後に挙げられている人物の詳細はわかりませんでした。 吉川『三国志』、『三国志演義』とも、劉備が献帝(けんてい)に初めて拝謁した際、劉備の話した出自に興味を持った献帝が、系譜(系図)を取り寄せて確認させる場面で名が出てきます。 吉川『三国志』(第77話)では、景帝(けいてい)-劉勝(りゅうしょう)-劉貞-劉昂(りゅうこう)-劉禄(りゅうろく)-劉恋(りゅ

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  • 劉必(りゅうひつ)

    【姓名】 劉必(りゅうひつ) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第020回で初登場。 【正史】 登場せず。 創作された人物か? 劉誼(りゅうぎ)の息子、原沢侯(げんたくこう) 『三国志演義』(第20回)で、劉備(りゅうび)の先祖として名が挙げられるひとり。 管理人「かぶらがわ」より 正史『三国志』には見えない人物です。 劉貞(りゅうてい)までは『漢書(かんじょ)』に名が見えますが、その後に挙げられている人物の詳細はわかりませんでした。 吉川『三国志』、『三国志演義』とも、劉備が献帝(けんてい)に初めて拝謁した際、劉備の話した出自に興味を持った献帝が、系譜(系図)を取り寄せて確認させる場面で名が出てきます。 吉川『三国志』(第77話)では、景帝(けいてい)-劉勝(りゅうしょう)-劉貞-劉昂(りゅうこう)-劉禄(りゅうろく)-劉恋(りゅう

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  • 劉誼(りゅうぎ)

    【姓名】 劉誼(りゅうぎ) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第020回で初登場。 【正史】 登場せず。 創作された人物か? 劉舒(りゅうじょ)の息子、祁陽侯(きようこう) 『三国志演義』(第20回)で、劉備(りゅうび)の先祖として名が挙げられるひとり。 管理人「かぶらがわ」より 正史『三国志』には見えない人物です。 劉貞(りゅうてい)までは『漢書(かんじょ)』に名が見えますが、その後に挙げられている人物の詳細はわかりませんでした。 吉川『三国志』、『三国志演義』とも、劉備が献帝(けんてい)に初めて拝謁した際、劉備の話した出自に興味を持った献帝が、系譜(系図)を取り寄せて確認させる場面で名が出てきます。 吉川『三国志』(第77話)では、景帝(けいてい)-劉勝(りゅうしょう)-劉貞-劉昂(りゅうこう)-劉禄(りゅうろく)-劉恋(りゅうれ

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  • 劉舒(りゅうじょ)

    【姓名】 劉舒(りゅうじょ) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第020回で初登場。 【正史】 登場せず。 創作された人物か? 劉憲(りゅうけん)の息子、祖邑侯(そゆうこう) 『三国志演義』(第20回)で、劉備(りゅうび)の遠祖として名が挙げられるひとり。 管理人「かぶらがわ」より 正史『三国志』には見えない人物です。 劉貞(りゅうてい)までは『漢書(かんじょ)』に名が見えますが、その後に挙げられている人物の詳細はわかりませんでした。 吉川『三国志』、『三国志演義』とも、劉備が献帝(けんてい)に初めて拝謁した際、劉備の話した出自に興味を持った献帝が、系譜(系図)を取り寄せて確認させる場面で名が出てきます。 吉川『三国志』(第77話)では、景帝(けいてい)-劉勝(りゅうしょう)-劉貞-劉昂(りゅうこう)-劉禄(りゅうろく)-劉恋(りゅう

    劉舒(りゅうじょ)
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  • 劉憲(りゅうけん)

    【姓名】 劉憲(りゅうけん) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第020回で初登場。 【正史】 登場せず。 創作された人物か? 劉哀(りゅうあい)の息子、膠水侯(こうすいこう) 『三国志演義』(第20回)で、劉備(りゅうび)の遠祖として名が挙げられるひとり。 管理人「かぶらがわ」より 正史『三国志』には見えない人物です。 劉貞(りゅうてい)までは『漢書(かんじょ)』に名が見えますが、その後に挙げられている人物の詳細はわかりませんでした。 吉川『三国志』、『三国志演義』とも、劉備が献帝(けんてい)に初めて拝謁した際、劉備の話した出自に興味を持った献帝が、系譜(系図)を取り寄せて確認させる場面で名が出てきます。 吉川『三国志』(第77話)では、景帝(けいてい)-劉勝(りゅうしょう)-劉貞-劉昂(りゅうこう)-劉禄(りゅうろく)-劉恋(りゅ

    劉憲(りゅうけん)
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  • 劉哀(りゅうあい)

    【姓名】 劉哀(りゅうあい) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第020回で初登場。 【正史】 登場せず。 創作された人物か? 劉建(りゅうけん)の息子、広陵侯(こうりょうこう) 『三国志演義』(第20回)で、劉備(りゅうび)の遠祖として名が挙げられるひとり。 管理人「かぶらがわ」より 正史『三国志』には見えない人物です。 劉貞(りゅうてい)までは『漢書(かんじょ)』に名が見えますが、その後に挙げられている人物の詳細はわかりませんでした。 吉川『三国志』、『三国志演義』とも、劉備が献帝(けんてい)に初めて拝謁した際、劉備の話した出自に興味を持った献帝が、系譜(系図)を取り寄せて確認させる場面で名が出てきます。 吉川『三国志』(第77話)では、景帝(けいてい)-劉勝(りゅうしょう)-劉貞-劉昂(りゅうこう)-劉禄(りゅうろく)-劉恋(り

    劉哀(りゅうあい)
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  • 劉建(りゅうけん)

    【姓名】 劉建(りゅうけん) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第020回で初登場。 【正史】 登場せず。 創作された人物か? 劉英(りゅうえい)の息子、安国侯(あんこくこう) 『三国志演義』(第20回)で、劉備(りゅうび)の遠祖として名が挙げられるひとり。 管理人「かぶらがわ」より 正史『三国志』には見えない人物です。 劉貞(りゅうてい)までは『漢書(かんじょ)』に名が見えますが、その後に挙げられている人物の詳細はわかりませんでした。 吉川『三国志』、『三国志演義』とも、劉備が献帝(けんてい)に初めて拝謁した際、劉備の話した出自に興味を持った献帝が、系譜(系図)を取り寄せて確認させる場面で名が出てきます。 吉川『三国志』(第77話)では、景帝(けいてい)-劉勝(りゅうしょう)-劉貞-劉昂(りゅうこう)-劉禄(りゅうろく)-劉恋(りゅ

    劉建(りゅうけん)
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  • 劉英(りゅうえい)A ※劉備(りゅうび)の遠祖

    管理人「かぶらがわ」より 正史『三国志』には見えない人物です。 劉貞(りゅうてい)までは『漢書(かんじょ)』に名が見えますが、その後に挙げられている人物の詳細はわかりませんでした。 吉川『三国志』、『三国志演義』とも、劉備が献帝(けんてい)に初めて拝謁した際、劉備の話した出自に興味を持った献帝が、系譜(系図)を取り寄せて確認させる場面で名が出てきます。 吉川『三国志』では、景帝(けいてい)-劉勝(りゅうしょう)-劉貞-劉昂(りゅうこう)-劉禄(りゅうろく)-劉恋-劉英までを挙げた後、続きを省略し、劉雄(りゅうゆう)-劉弘(りゅうこう)-劉備とつないでいました。 『三国志演義』では劉英の後も省略せず、劉英-劉建(りゅうけん)-劉哀(りゅうあい)-劉憲(りゅうけん)-劉舒(りゅうじょ)-劉誼(りゅうぎ)-劉必(りゅうひつ)-劉達(りゅうたつ)-劉不疑(りゅうふぎ)-劉恵(りゅうけい)-劉雄-劉

    劉英(りゅうえい)A ※劉備(りゅうび)の遠祖
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  • 劉恋(りゅうれん)

    管理人「かぶらがわ」より 正史『三国志』には見えない人物です。 劉貞(りゅうてい)までは『漢書(かんじょ)』に名が見えますが、その後に挙げられている人物の詳細はわかりませんでした。 吉川『三国志』、『三国志演義』とも、劉備が献帝(けんてい)に初めて拝謁した際、劉備の話した出自に興味を持った献帝が、系譜(系図)を取り寄せて確認させる場面で名が出てきます。 吉川『三国志』では、景帝(けいてい)-劉勝(りゅうしょう)-劉貞-劉昂(りゅうこう)-劉禄-劉恋-劉英(りゅうえい)までを挙げた後、続きを省略し、劉雄(りゅうゆう)-劉弘(りゅうこう)-劉備とつないでいました。 『三国志演義』では劉英の後も省略せず、劉英-劉建(りゅうけん)-劉哀(りゅうあい)-劉憲(りゅうけん)-劉舒(りゅうじょ)-劉誼(りゅうぎ)-劉必(りゅうひつ)-劉達(りゅうたつ)-劉不疑(りゅうふぎ)-劉恵(りゅうけい)-劉雄-劉

    劉恋(りゅうれん)
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  • 劉禄(りゅうろく)

    管理人「かぶらがわ」より 正史『三国志』には見えない人物です。 劉貞(りゅうてい)までは『漢書(かんじょ)』に名が見えますが、その後に挙げられている人物の詳細はわかりませんでした。 吉川『三国志』、『三国志演義』とも、劉備が献帝(けんてい)に初めて拝謁した際、劉備の話した出自に興味を持った献帝が、系譜(系図)を取り寄せて確認させる場面で名が出てきます。 吉川『三国志』では、景帝(けいてい)-劉勝(りゅうしょう)-劉貞-劉昂-劉禄-劉恋(りゅうれん)-劉英(りゅうえい)までを挙げた後、続きを省略し、劉雄(りゅうゆう)-劉弘(りゅうこう)-劉備とつないでいました。 『三国志演義』では劉英の後も省略せず、劉英-劉建(りゅうけん)-劉哀(りゅうあい)-劉憲(りゅうけん)-劉舒(りゅうじょ)-劉誼(りゅうぎ)-劉必(りゅうひつ)-劉達(りゅうたつ)-劉不疑(りゅうふぎ)-劉恵(りゅうけい)-劉雄-劉

    劉禄(りゅうろく)
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    蜀(しょく)の劉備(りゅうび)を中心とした一族に関する個別記事
  • 劉昂(りゅうこう)

    管理人「かぶらがわ」より 正史『三国志』には見えない人物です。 劉貞までは『漢書(かんじょ)』に名が見えますが、その後に挙げられている人物の詳細はわかりませんでした。 吉川『三国志』、『三国志演義』とも、劉備が献帝(けんてい)に初めて拝謁した際、劉備の話した出自に興味を持った献帝が、系譜(系図)を取り寄せて確認させる場面で名が出てきます。 吉川『三国志』では、景帝(けいてい)-劉勝(りゅうしょう)-劉貞-劉昂-劉禄(りゅうろく)-劉恋(りゅうれん)-劉英(りゅうえい)までを挙げた後、続きを省略し、劉雄(りゅうゆう)-劉弘(りゅうこう)-劉備とつないでいました。 『三国志演義』では劉英の後も省略せず、劉英-劉建(りゅうけん)-劉哀(りゅうあい)-劉憲(りゅうけん)-劉舒(りゅうじょ)-劉誼(りゅうぎ)-劉必(りゅうひつ)-劉達(りゅうたつ)-劉不疑(りゅうふぎ)-劉恵(りゅうけい)-劉雄-劉

    劉昂(りゅうこう)
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    蜀(しょく)の劉備(りゅうび)を中心とした一族に関する個別記事
  • 劉貞(りゅうてい)

    【姓名】 劉貞(りゅうてい) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 第077話で初登場。 【演義】 第001回で初登場。 【正史】 登場人物。 劉勝(りゅうしょう)の息子、陸成侯(りくせいこう) 父は劉勝だが、母は不詳。 劉貞は、前127年に陸成侯に封ぜられたが、前112年に侯位を失った。 管理人「かぶらがわ」より 上で挙げた記事は『正史 三国志5』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま学芸文庫)の訳者注を参考にしたものです。 別に参考にした『漢書2』(小竹武夫〈おだけ・たけお〉訳 ちくま学芸文庫)では、「王子侯表(おうじこうひょう)」に省略された部分があったため、劉貞が何年に侯に封ぜられたのかまではわかりませんでした。 また『漢書2』には、陸成侯ではなく陸城侯(りくじょうこう)とあったのですが、井波先生が注釈されていたように、『漢書』(地理志〈ちりし〉)には

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  • 劉勝(りゅうしょう) ※漢(かん)の中山靖王(ちゅうざんせいおう)

    【姓名】 劉勝(りゅうしょう) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~前113年(?歳) 【吉川】 第005話で初登場。 【演義】 第001回で初登場。 【正史】 登場人物。 前漢(ぜんかん)の景帝(けいてい)の息子、中山靖王(ちゅうざんせいおう) 父は景帝、母は賈氏(かし。賈夫人〈かふじん〉)。同母兄に劉彭祖(りゅうほうそ。趙敬粛王〈ちょうけいしゅくおう〉)がいる。 劉勝は、跡継ぎの劉昌(りゅうしょう)をはじめとして120余人もの子を儲けた。前154年に中山王に封ぜられ、前113年に薨去(こうきょ)。息子の劉昌が跡を継いだ。 管理人「かぶらがわ」より 上で挙げた記事は『漢書(かんじょ)』によるもの。 『漢書』(景十三王伝〈けいじゅうさんおうでん〉第二十三)によると、「劉勝は酒好きかつ女好きで、いつも劉彭祖と悪口を言い合っていた」ということです。ひどい書かれ方ですけど、当に素行の悪

    劉勝(りゅうしょう) ※漢(かん)の中山靖王(ちゅうざんせいおう)
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  • 劉禅(りゅうぜん) ※あざなは公嗣(こうし)、晋(しん)の安楽思公(あんらくしこう)

    【姓名】 劉禅(りゅうぜん) 【あざな】 公嗣(こうし) 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 207~271年(65歳) 【吉川】 第122話で初登場。 【演義】 第034回で初登場。 【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・後主伝(こうしゅでん)』あり。 蜀(しょく)の第2代皇帝 父は劉備(りゅうび)、母は甘氏(かんし)。 幼名は阿斗(あと)。異母弟に劉永(りゅうえい)と劉理(りゅうり)がおり、ほかに異母姉がふたりはいた。 劉璿(りゅうせん)・劉瑶(りゅうよう)・劉琮(りゅうそう)・劉瓚(りゅうさん)・劉諶(りゅうしん)・劉恂(りゅうじゅん)・劉虔(りゅうけん)という7人の息子を儲けた。 ほかにも諸葛瞻(しょかつせん)・関統(かんとう)・費恭(ひきょう)に、それぞれ嫁いだ娘がいたことがうかがえる。 223年5月に帝位を継いだが、263年に魏(ぎ)の曹奐(そうかん)に降

    劉禅(りゅうぜん) ※あざなは公嗣(こうし)、晋(しん)の安楽思公(あんらくしこう)
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  • 劉備(りゅうび) ※あざなは玄徳(げんとく)、蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の昭烈皇帝(しょうれつこうてい)

    【姓名】 劉備(りゅうび) 【あざな】 玄徳(げんとく) 【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん) 【生没】 161~223年(63歳) 【吉川】 第001話で初登場。 【演義】 第001回で初登場。 【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・先主伝(せんしゅでん)』あり。 蜀(しょく)の初代皇帝、昭烈皇帝(しょうれつこうてい) 父は劉弘(りゅうこう)だが、母は不詳。劉雄(りゅうゆう)は祖父。兄弟についてはよくわからない。 跡を継いだ劉禅(りゅうぜん)に加え、劉永(りゅうえい)と劉理(りゅうり)という息子を儲けた。劉封(りゅうほう)は養子。このほかにも、娘がふたりはいたことがうかがえる。 関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)らとともに黄巾(こうきん)討伐に参加。安喜県尉(あんきけんい)に任ぜられたのを手始めに、公孫瓚(こうそんさん)や陶謙(とうけん)らに助力して頭角を現した。 呂布(りょふ)

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  • 曹熙(そうき)

    【姓名】 曹熙(そうき) 【あざな】 ? 【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹真(そうしん)の族孫 父母ともに不詳。 曹熙は、嘉平(かへい)年間(249~254年)に功臣の家の祭祀(さいし)を継がせることになった際、曹真の跡継ぎとして立てられ、新昌亭侯(しんしょうていこう)に封ぜられた。封邑(ほうゆう)は300戸だった。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 曹真の跡を継いだ曹爽(そうそう)は、249年1月に正始(せいし)の政変(司馬懿〈しばい〉によるクーデター)が起きた際、弟たちや取り巻きともども大逆不道の罪で処刑され、その三族(父母・子・兄弟姉妹、異説もある)も皆殺し

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    魏(ぎ)の曹操(そうそう)を中心とした一族に関する個別記事
  • 曹文叔(そうぶんしゅく)

    【姓名】 曹文叔(そうぶんしゅく) ※文叔はあざな 【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第107回で初登場。 【正史】 登場人物。 曹爽(そうそう)らの従弟 父母ともに不詳。 曹文叔は、夏侯文寧(かこうぶんねい)の娘の令女(れいじょ)を娶(めと)ったものの早くに亡くなった。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・曹真伝〈そうしんでん〉』に付された「曹爽伝」の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く皇甫謐(こうほひつ)の『列女伝(れつじょでん)』によるもの。 曹文叔の死後、服喪期間を終えた令女は、実家が再婚を勧めることを心配し、髪を切って真心を示したそうです。 やはり実家

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  • 曹遵(そうじゅん)

    【姓名】 曹遵(そうじゅん) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 第281話で初登場。 【演義】 第093回で初登場。 【正史】 登場人物。 曹真(そうしん)の一族 父母ともに不詳。 曹遵は、若いころから一族の曹真や同郷の朱讚(しゅさん)とともに曹操(そうそう)に仕えていた。 曹遵と朱讚は若くして亡くなったため、これを曹真が悼み、自分の封邑(ほうゆう)を曹遵と朱讚の息子に分け与えてほしいと願い出て許されたという。 これを受けて曹叡(そうえい)の詔(みことのり)が下され、曹遵と朱讚の息子は関内侯(かんだいこう)に封ぜられ、それぞれ100戸を賜った。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志演義』(第94回)では蜀

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  • 曹皚(そうがい)

    【姓名】 曹皚(そうがい) 【あざな】 ? 【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん)? 【生没】 ?~249年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹真(そうしん)の息子 父は曹真だが、母は不詳。曹爽(そうそう)は兄。曹羲(そうぎ)・曹訓(そうくん)・曹則(そうそく)・曹彦(そうげん)も兄弟で、おそらくみな兄。 曹皚は231年に曹真が死去した後、ほかの兄弟とともに列侯(れっこう)に封ぜられた。 その後、249年1月に司馬懿(しばい)がクーデターを発動(正始〈せいし〉の政変)すると、曹爽は迷った末に抵抗しなかった。 結局、曹皚も兄弟ともども大逆不道の罪で処刑され、その三族(父母・子・兄弟姉妹、異説もある)も皆殺しになった。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったの

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  • 曹彦(そうげん)

    【姓名】 曹彦(そうげん) 【あざな】 ? 【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん)? 【生没】 ?~249年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第106回で初登場。 【正史】 登場人物。 曹真(そうしん)の息子 父は曹真だが、母は不詳。曹爽(そうそう)は兄。曹羲(そうぎ)・曹訓(そうくん)・曹則(そうそく)・曹皚(そうがい)も兄弟。 曹彦は231年に曹真が死去した後、ほかの兄弟とともに列侯(れっこう)に封ぜられた。 239年に曹芳(そうほう)が帝位を継ぎ、曹爽が大将軍(だいしょうぐん)として政権を握ると、曹彦も散騎常侍(さんきじょうじ)・侍講(じこう)に任ぜられた。 その後、249年1月に司馬懿(しばい)がクーデターを発動(正始〈せいし〉の政変)すると、曹爽は迷った末に抵抗しなかった。 結局、曹彦も兄弟ともども大逆不道の罪で処刑され、その三族(父母・子・兄弟姉妹、異説もある

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  • 曹則(そうそく)

    【姓名】 曹則(そうそく) 【あざな】 ? 【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん)? 【生没】 ?~249年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹真(そうしん)の息子 父は曹真だが、母は不詳。曹爽(そうそう)は兄。曹羲(そうぎ)・曹訓(そうくん)・曹彦(そうげん)・曹皚(そうがい)も兄弟。 曹則は231年に曹真が死去した後、ほかの兄弟とともに列侯(れっこう)に封ぜられた。 その後、249年1月に司馬懿(しばい)がクーデターを発動(正始〈せいし〉の政変)すると、曹爽は迷った末に抵抗しなかった。 結局、曹則も兄弟ともども大逆不道の罪で処刑され、その三族(父母・子・兄弟姉妹、異説もある)も皆殺しになった。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんで

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  • 曹彬(そうひん)B ※曹真(そうしん)の弟

    曹邵(そうしょう。秦伯南〈しんはくなん〉)の息子 父は曹邵(秦伯南)だが、母は不詳。曹真(そうしん)は兄。 曹丕(そうひ)の時代(220~226年)、曹彬は曹真の封邑(ほうゆう)から200戸を分与され、列侯(れっこう)に封ぜられた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

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  • 曹邵(そうしょう。秦伯南〈しんはくなん〉)※あざなは伯南

    【姓名】 曹邵(そうしょう) 【あざな】 伯南(はくなん) 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹真(そうしん)の父、もとは秦姓(しんせい) 父母ともに不詳。息子の曹真は跡継ぎ。曹彬(そうひん)も同じく息子。 曹邵(秦伯南)は曹操(そうそう)の命を救ったものの、自身は殺害されてしまった。そのため曹操は彼の息子を引き取って養育し、曹丕(そうひ)と起居をともにさせたという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・曹真伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によると――。 「ある人の説では、曹真の父の伯南(秦伯南)は昔から曹操と親しかった。興平(こうへい)年間(194~195年)の末、袁術(えん

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  • 曹攄(そうちょ)※あざなは顔遠(がんえん)

    【姓名】 曹攄(そうちょ) 【あざな】 顔遠(がんえん) 【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹肇(そうちょう)の孫 父母ともに不詳。曹肇は祖父で、曹休(そうきゅう)は曾祖父。 曹攄は若いころから節義を磨き、博学で優れた文学的な才能も持っていたという。 晋(しん)に仕えて三公の府に召され、洛陽県令(らくようけんれい)などを務めて有能だと評価された。 斉王(せいおう)の司馬冏(しばけい)が大司馬(だいしば)として政治を補佐したとき(301~302年)、曹攄は左思(さし)とともに記室督(きしつとく)として仕えた。 その後、中郎(ちゅうろう)を経て地方へ出、襄陽太守(じょうようたいしゅ)や征南司馬(せいなんしば)を務めた。そのころ天下が乱れ、賊を討伐するために呉(ご)へ向かい戦死(時期は不明

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  • 曹興(そうこう)

    曹肇(そうちょう)の息子 父は曹肇だが、母は不詳。曹休(そうきゅう)は祖父。 曹興は、正始(せいし)年間(240~249年)に死去した曹肇の跡を継いだ。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

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  • 曹纂(そうさん)

    【姓名】 曹纂(そうさん) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹休(そうきゅう)の息子 父は曹休だが、母は不詳。曹肇(そうちょう)は兄。 曹丕(そうひ)の時代(220~226年)、曹纂は曹休の封邑(ほうゆう)から300戸を分与され、列侯(れっこう)に封ぜられた。 後に殄呉将軍(てんごしょうぐん)まで昇って死去し、前将軍(ぜんしょうぐん)の官位を追贈された。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・劉放伝〈りゅうほうでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く郭頒(かくはん)の『世語(せいご。魏晋世語〈ぎしんせいご〉)』には、238年12月、曹叡(そうえい)が死の間際に劉放と孫資(そんし)の意見を容れ、曹爽(そう

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  • 曹氏(そうし)G ※曹洪(そうこう)の娘、荀粲(じゅんさん)の妻

    父は曹洪だが、母は不詳。曹馥(そうふく)と曹震(そうしん)は兄弟。 曹氏は美人として有名で、荀彧(じゅんいく)の息子の荀粲(じゅんさん)に嫁いだが、数年後に病死した。それから1年余り後、荀粲も29歳で亡くなった。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

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  • 曹震(そうしん)

    【姓名】 曹震(そうしん) 【あざな】 ? 【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん)? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹洪(そうこう)の息子 父は曹洪だが、母は不詳。曹馥(そうふく)は兄弟。曹氏(そうし。荀粲〈じゅんさん〉の)も姉妹。 曹震は曹洪の存命中に封邑(ほうゆう)を分与され、列侯(れっこう)に封ぜられた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 なお、曹洪の跡を継いだ曹馥は、曹震と同母兄弟であれば兄なのでしょうが、異母兄弟の可能性も否定できないので、ここでは「兄弟」とだけしておきます。

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  • 曹馥(そうふく)

    曹洪(そうこう)の息子 父は曹洪だが、母は不詳。曹震(そうしん)は兄弟。曹氏(そうし。荀粲〈じゅんさん〉の)も姉妹。 232年、曹馥は曹洪が死去したため跡(楽城侯〈らくじょうこう〉か?)を継いだ。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

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  • 曹瑜(そうゆ)

    【姓名】 曹瑜(そうゆ) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹洪(そうこう)の族父(おじ) 父母ともに不詳。曹洪は甥。 曹瑜は慎み深く誠実な人柄で、衛将軍(えいしょうぐん)まで昇って列侯(れっこう)に封ぜられたという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 曹洪は曹操(そうそう)の従弟なので、曹瑜が曹洪の族父なら曹操ともそれなりの関係になるはずですが、そのあたりのことが詳しく書かれておらず、いくらか残念でした。

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  • 曹鼎(そうてい)

    【姓名】 曹鼎(そうてい) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹洪(そうこう)の伯父 父母ともに不詳。曹洪は甥。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・曹洪伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』によると、曹鼎は尚書令(しょうしょれい)を務めていたとき、曹洪を蘄春県長(きしゅんけんちょう)に任じたという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 曹洪は曹操(そうそう)の従弟なので、曹鼎が曹洪の伯父なら曹操ともそれなりの関係になるはずですが、そのあたりのことが詳しく書かれておらず、いくらか残念でした。

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  • 曹亮(そうりょう)

    曹演(そうえん)の息子 父は曹演だが、母は不詳。曹純(そうじゅん)は祖父。 曹亮は曹演が死去(時期は不明)したため跡(平楽郷侯〈へいらくきょうこう〉か?)を継いだ。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

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  • 曹演(そうえん)

    【姓名】 曹演(そうえん) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹純(そうじゅん)の息子、平楽郷侯(へいらくきょうこう) 父は曹純だが、母は不詳。息子の曹亮(そうりょう)は跡継ぎ。 210年、曹演は曹純が死去したため跡(高陵亭侯〈こうりょうていこう〉か?)を継いだ。 その後は領軍将軍(りょうぐんしょうぐん)まで昇り、正元(せいげん)年間(254~256年)には平楽郷侯に移封された。 曹演が死去(時期は不明)すると息子の曹亮が跡を継いだ。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く

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  • 曹初(そうしょ)

    【姓名】 曹初(そうしょ) 【あざな】 ? 【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん)? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹泰(そうたい)の息子 父は曹泰だが、母は不詳。曹仁(そうじん)は祖父。 曹初は曹泰が死去したため跡(甯陵侯〈ねいりょうこう〉か?)を継いだ。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 曹泰の没年がわからないので、曹初が跡を継いだ年もはっきりしません。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』によると――。 254年9月に、司馬師(しばし)が群臣と連名で郭太后(かくたいこう。明元郭皇后〈めいげんかくこうごう〉)に曹芳(そうほう

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  • 曹氏(そうし)H ※曹操(そうそう)の弟の娘

    【姓名】 曹氏(そうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 第112話で初登場。 【演義】 第029回で初登場。 【正史】 登場人物。 父母ともに不詳。 曹氏は孫堅(そんけん)の息子の孫匡(そんきょう)に嫁ぎ、孫泰(そんたい)を儲けた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 吉川『三国志』(第112話)および『三国志演義』(第29回)では、曹仁(そうじん。曹操の従弟)の娘が孫匡に嫁いだことになっています。 しかし、正史『三国志』では『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫策伝〈そんさくでん〉)に、「曹操が弟の娘を孫策の末弟の孫匡に縁付けた」とありました。 最初は原文の「乃以弟女配策小弟匡」に「従(従弟)」が抜けている可能

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  • 曹範(そうはん)B ※曹仁(そうじん)の息子

    父は曹仁だが、母は不詳。 曹泰(そうたい)と曹楷(そうかい)は兄。曹氏(そうし。孫匡〈そんきょう〉の)は姉妹の可能性がある。 223年、曹仁が死去したため曹泰が跡を継いだ。その際、曹範も曹楷とともに封邑(ほうゆう)を分与され、列侯(れっこう)に封ぜられたという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

    曹範(そうはん)B ※曹仁(そうじん)の息子
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  • 曹楷(そうかい)B ※曹仁(そうじん)の息子

    父は曹仁だが、母は不詳。 曹泰(そうたい)は兄で、曹範(そうはん)は弟。曹氏(そうし。孫匡〈そんきょう〉の)は姉妹の可能性がある。 223年、曹仁が死去したため曹泰が跡を継いだ。その際、曹楷も曹範とともに封邑(ほうゆう)を分与され、列侯(れっこう)に封ぜられたという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

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  • 曹泰(そうたい)

    【姓名】 曹泰(そうたい) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹仁(そうじん)の息子、甯陵侯(ねいりょうこう) 父は曹仁だが、母は不詳。 曹楷(そうかい)と曹範(そうはん)は弟。曹氏(そうし。孫匡〈そんきょう〉の)は姉妹の可能性がある。息子の曹初(そうしょ)は跡継ぎ。 223年、曹泰は曹仁が死去したため跡を継ぎ、後に鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)・仮節(かせつ)まで昇って甯陵侯に移封された。 曹泰が死去すると息子の曹初が跡を継いだ。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)や『三国志』(呉書・朱桓伝〈しゅかんでん〉)には、223年3月に曹泰が濡須(じゅしゅ)で孫権(そんけん)配下の朱桓らと

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  • 曹熾(そうし)※魏(ぎ)の陳穆侯(ちんぼくこう)

    【姓名】 曹熾(そうし) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~187年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹褒(そうほう)の息子で、曹仁(そうじん)や曹純(そうじゅん)の父、陳穆侯(ちんぼくこう) 父は曹褒だが、母は不詳。曹仁と曹純は息子。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・曹仁伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』によると、曹熾は侍中(じちゅう)・長水校尉(ちょうすいこうい)を務めたという。 220年に曹丕(そうひ)が魏王(ぎおう)を継ぐと、曹仁の爵位が陳侯(ちんこう)に進み、亡父の曹熾にも陳穆侯の諡号(しごう)が追贈され、墓守として10戸が置かれた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかり

    曹熾(そうし)※魏(ぎ)の陳穆侯(ちんぼくこう)
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  • 曹褒(そうほう)

    【姓名】 曹褒(そうほう) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹熾(そうし)の父で、曹仁(そうじん)や曹純(そうじゅん)の祖父 父母ともに不詳。曹熾は息子。曹仁と曹純は孫にあたる。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・曹仁伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』によると、曹褒は潁川太守(えいせんたいしゅ)を務めたという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

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  • 曹訓(そうくん)

    【姓名】 曹訓(そうくん) 【あざな】 ? 【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん)? 【生没】 ?~249年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第106回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・曹真伝(そうしんでん)』に付された「曹訓伝」あり。 曹真の息子 父は曹真だが、母は不詳。曹爽(そうそう)は兄で、おそらく曹羲(そうぎ)も兄。曹則(そうそく)・曹彦(そうげん)・曹皚(そうがい)も兄弟だが、みな弟か? 曹訓は231年に曹真が死去した後、ほかの兄弟とともに列侯(れっこう)に封ぜられた。 239年に曹芳(そうほう)が帝位を継ぎ、曹爽が大将軍(だいしょうぐん)として政権を握ると、曹訓も武衛将軍(ぶえいしょうぐん)に任ぜられた。 その後、249年1月に司馬懿(しばい)がクーデターを発動(正始〈せいし〉の政変)すると、曹爽は迷った末に抵抗しなかった。 結局、曹訓も兄弟とも

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  • 曹羲(そうぎ)

    【姓名】 曹羲(そうぎ) 【あざな】 ? 【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん)? 【生没】 ?~249年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第106回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・曹真伝(そうしんでん)』に付された「曹羲伝」あり。 曹真の息子 父は曹真だが、母は不詳。曹爽(そうそう)は兄。曹訓(そうくん)・曹則(そうそく)・曹彦(そうげん)・曹皚(そうがい)も兄弟で、おそらくみな弟。 曹羲は231年に曹真が死去した後、ほかの弟たちとともに列侯(れっこう)に封ぜられた。 239年に曹芳(そうほう)が帝位を継ぎ、曹爽が大将軍(だいしょうぐん)として政権を握ると、曹羲も中領軍(ちゅうりょうぐん)に任ぜられた。 その後、249年1月に司馬懿(しばい)がクーデターを発動(正始〈せいし〉の政変)すると、曹爽は迷った末に抵抗しなかった。 結局、曹羲も兄弟ともども大逆不

    曹羲(そうぎ)
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    shiromitsu 2020/05/19
    魏(ぎ)の曹操(そうそう)を中心とした一族に関する個別記事
  • 曹爽(そうそう)※あざなは昭伯(しょうはく)

    【姓名】 曹爽(そうそう) 【あざな】 昭伯(しょうはく) 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~249年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第106回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・曹真伝(そうしんでん)』に付された「曹爽伝」あり。 曹真の息子 父は曹真だが、母は不詳。曹羲(そうぎ)・曹訓(そうくん)・曹則(そうそく)・曹彦(そうげん)・曹皚(そうがい)は弟。 曹爽は若いころ帝族として謹厳で重厚な人柄だったため、東宮(とうぐう)にいた曹叡(そうえい)から寵愛されていた。 226年に曹叡が帝位を継ぐと、散騎侍郎(さんきじろう)、城門校尉(じょうもんこうい)、武衛将軍(ぶえいしょうぐん)などを歴任する。 231年3月に曹真が死去したため跡を継ぐ。 238年12月には病床の曹叡から大将軍(だいしょうぐん)に任ぜられ、節(せつ。権限を示すしるし)と鉞

    曹爽(そうそう)※あざなは昭伯(しょうはく)
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  • 曹真(そうしん)※あざなは子丹(したん)、魏(ぎ)の邵陵元侯(しょうりょうげんこう)?

    【姓名】 曹真(そうしん) 【あざな】 子丹(したん) 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~231年(?歳) 【吉川】 第255話で初登場。 【演義】 第084回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・曹真伝』あり。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の族子(おい。同族内で子の世代にあたる者)、邵陵元侯(しょうりょうげんこう)? 父は曹邵(そうしょう。秦伯南〈しんはくなん〉)だが、母は不詳。曹彬(そうひん)は弟。 息子の曹爽(そうそう)は跡継ぎ。曹羲(そうぎ)・曹訓(そうくん)・曹則(そうそく)・曹彦(そうげん)・曹皚(そうがい)も同じく息子。 曹操が挙兵したばかりのころ、曹邵は徒党を募ったことで州郡の手の者に殺害された。 曹操は幼くして孤児になった曹真を哀れみ、引き取って自分の息子たちと一緒に養育した。そのため曹真は曹丕(そうひ)と起居をともにすることになった。

    曹真(そうしん)※あざなは子丹(したん)、魏(ぎ)の邵陵元侯(しょうりょうげんこう)?
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  • 曹肇(そうちょう)※あざなは長思(ちょうし)

    【姓名】 曹肇(そうちょう) 【あざな】 長思(ちょうし) 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・曹休伝(そうきゅうでん)』に付された「曹肇伝」あり。 曹休の息子 父は曹休だが、母は不詳。曹纂(そうさん)は弟。息子の曹興(そうこう)は跡継ぎ。 曹肇は228年に死去した曹休の跡を継ぎ、曹叡(そうえい)のもとで散騎常侍(さんきじょうじ)・屯騎校尉(とんきこうい)を務めた。 238年12月、曹肇は病床の曹叡から、燕王(えんおう)の曹宇(そうう)らとともに後事を託される。 ところが、数日のうちに曹叡の気持ちが変わったため免官され、侯(こう。長平侯〈ちょうへいこう〉か?)の身分のまま屋敷に帰るよう命ぜられた。 曹肇は正始(せいし)年間(240~249年)に死去して衛将軍(えいしょうぐ

    曹肇(そうちょう)※あざなは長思(ちょうし)
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  • 曹休(そうきゅう)※あざなは文烈(ぶんれつ)、魏(ぎ)の長平壮侯(ちょうへいそうこう)

    【姓名】 曹休(そうきゅう) 【あざな】 文烈(ぶんれつ) 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~228年(?歳) 【吉川】 第177話で初登場。 【演義】 第056回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・曹休伝』あり。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の族子(おい。同族内で子の世代にあたる者)、長平壮侯(ちょうへいそうこう) 父母ともに不詳。息子の曹肇(そうちょう)は跡継ぎ。曹纂(そうさん)も同じく息子。 曹休は10余歳で父を亡くしたが、客人のひとりとともに亡骸(なきがら)を担いで仮の埋葬を済ませると、老母を連れて長江(ちょうこう)を渡り、呉郡(ごぐん)へ行った。 190年、曹操が義兵を起こすと、曹休は姓名を変えて荊州(けいしゅう)まで行き、間道を通って北へ帰り、曹操に目通りした。 曹操は側近たちに「こやつはわが家の千里の駒じゃ」と言い、曹丕(そうひ)と起居を

    曹休(そうきゅう)※あざなは文烈(ぶんれつ)、魏(ぎ)の長平壮侯(ちょうへいそうこう)
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  • 曹洪(そうこう) ※あざなは子廉(しれん)、魏(ぎ)の楽城恭侯(らくじょうきょうこう)

    【姓名】 曹洪(そうこう) 【あざな】 子廉(しれん) 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~232年(?歳) 【吉川】 第025話で初登場。 【演義】 第005回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・曹洪伝』あり。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の従弟、楽城恭侯(らくじょうきょうこう) 父母ともに不詳。 息子の曹馥(そうふく)は跡継ぎ。曹震(そうしん)も同じく息子。ほかに美人の娘がおり、荀粲(じゅんさん)に嫁いだ。 190年、曹操が滎陽(けいよう)で董卓(とうたく)配下の徐栄(じょえい)に敗れたとき、曹操は負傷したうえ乗馬を失い、危機に陥った。 すると曹洪が馬から下り、曹操に譲ろうとした。曹操は遠慮したものの、曹洪は「天下に私がいなくとも差し支えはありませんが、あなたがいないわけにはまいりません」と言い、自身は徒歩で付き従った。 やがて曹洪は汴水(べんすい)

    曹洪(そうこう) ※あざなは子廉(しれん)、魏(ぎ)の楽城恭侯(らくじょうきょうこう)
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  • 曹純(そうじゅん) ※あざなは子和(しか)、魏(ぎ)の高陵亭威侯(こうりょうていいこう)

    【姓名】 曹純(そうじゅん) 【あざな】 子和(しか) 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 174~210年(37歳) 【吉川】 第168話で初登場。 【演義】 第051回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・曹仁伝(そうじんでん)』に付された「曹純伝」あり。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の従弟、高陵亭威侯(こうりょうていいこう) 父は曹熾(そうし)だが、母は不詳。曹褒(そうほう)は祖父。曹仁は同母兄。息子の曹演(そうえん)は跡継ぎ。 曹純は初め議郎(ぎろう)として司空軍事(しくうぐんじ。参司空軍事)を務め、虎豹騎(こひょうき)をひきい、205年には曹操の南皮(なんぴ)包囲戦に参加した。この戦いでは袁譚(えんたん)を斬るという手柄を立てた。 207年に曹操が北方の3郡(遼西〈りょうせい〉・遼東〈りょうとう〉・右北平〈ゆうほくへい〉)の烏丸(うがん)を討伐した際

    曹純(そうじゅん) ※あざなは子和(しか)、魏(ぎ)の高陵亭威侯(こうりょうていいこう)
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  • 曹仁(そうじん)※あざなは子孝(しこう)、魏(ぎ)の陳忠侯(ちんちゅうこう)

    【姓名】 曹仁(そうじん) 【あざな】 子孝(しこう) 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 168~223年(56歳) 【吉川】 第025話で初登場。 【演義】 第005回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・曹仁伝』あり。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の従弟、陳忠侯(ちんちゅうこう) 父は曹熾(そうし)だが、母は不詳。曹褒(そうほう)は祖父。曹純(そうじゅん)は同母弟。 息子の曹泰(そうたい)は跡継ぎ。曹楷(そうかい)と曹範(そうはん)も同じく息子。 曹仁は曹操の挙兵時から付き従って別部司馬(べつぶしば)を務め、行厲鋒校尉(こうれいほうこうい)に任ぜられた。 その後、袁術(えんじゅつ)・陶謙(とうけん)・呂布(りょふ)・張繡(ちょうしゅう)・袁紹(えんしょう)・劉備(りゅうび)・馬超(ばちょう)らとの主要な戦いで数々の手柄を立てた。 大司馬(だいしば)・陳侯

    曹仁(そうじん)※あざなは子孝(しこう)、魏(ぎ)の陳忠侯(ちんちゅうこう)
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  • 曹永(そうえい)

    創作された人物、曹仁(そうじん)配下の部将 父母ともに不詳。 曹永は、吉川『三国志』(第183話)に曹仁の一族として登場する。曹操(そうそう)が渭水(いすい)で馬超(ばちょう)・韓遂(かんすい)の連合軍と戦った際、馬超配下の龐徳(ほうとく)に斬られた。 『三国志演義』(第58回)では曹仁の部将として登場。ほぼ吉川『三国志』と同じ役どころにあっており、渭南(いなん)で馬超配下の龐徳に斬られた。

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  • 曹璠(そうはん)

    【姓名】 曹璠(そうはん) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹叡(そうえい)配下の尚書左丞(しょうしょさじょう)父母ともに不詳。詳しい事績も不明。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・杜畿伝〈ときでん〉)に付された「杜恕伝(とじょでん)」によると、曹璠は尚書郎(しょうしょろう)の廉昭(れんしょう)から、「処罰すべきことがあれば申告せよ」との詔(みことのり)を無視したことを弾劾されたという。 管理人「かぶらがわ」より登場箇所が少ないためコメントしにくいです。曹璠は一応「魏の曹氏」に入れておきましたが、親子関係などもわかりませんでした。

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  • 曹珍(そうちん)

    【姓名】 曹珍(そうちん) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹髦(そうぼう)配下の将軍 父母ともに不詳。詳しい事績も不明。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫亮伝〈そんりょうでん〉)によると、「255年2月、曹珍は高亭(こうてい)で呉の孫峻(そんしゅん)と遭遇し、交戦したものの敗れた」という。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 『三国志』(呉書・呂範伝〈りょはんでん〉)に付された「呂拠伝(りょきょでん)」にも、以下のようにありました。 「255年、呂拠は節(せつ。権限を示すしるし)を授かり、孫峻らとともに魏の寿春(じゅしゅん)を攻めた。その帰路に高亭で魏の部将の曹珍と遭遇し、これを討ち破った」 曹珍は一応「魏の曹氏」に入れておきましたが、親子関係などはわかり

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  • 曹冏(そうけい)B ※曹叔興(そうしゅくこう)の子孫

    【姓名】 曹冏(そうけい) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 父母ともに不詳。詳しい事績も不明。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武文世王公伝〈ぶぶんせいおうこうでん〉)の評の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く孫盛(そんせい)の『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』に、曹冏が曹芳(そうほう)に奉った上奏文が載せられており――。 この中では、六王朝(夏〈か〉・殷〈いん〉・周〈しゅう〉・秦〈しん〉・漢〈かん〉・魏)の興亡について詳しく論ずることで、時の権力者であった曹爽(そうそう)の心を改めさせようとしたが、受け入れられなかったとありました。 ここで引かれている上奏文は非常に長いもので、難解な表現も多いと感じま

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  • 曹琨(そうこん)

    【姓名】 曹琨(そうこん) 【あざな】 ? 【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹翕(そうきゅう)の息子 父は曹翕だが、母は不詳。詳しい事績は不明。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・東平霊王徽伝〈とうへいれいおうきでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)には、以下のようにあります。 「曹琨は、266年に父の曹翕の上奏文を捧げて入朝した。その際、司馬炎(しばえん)の詔(みことのり)により騎都尉(きとい)の官を加えられ、衣服ひとそろいと銭10万を下賜された」

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  • 曹賛(そうさん)A ※曹敏(そうびん)の息子

    【姓名】 曹賛(そうさん) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹敏(そうびん)の息子、文安王(ぶんあんおう) 父は曹敏だが、母は不詳。曹焜(そうこん)は兄弟。 234年、曹賛は233年に薨去(こうきょ)した曹蕤(そうずい)の跡継ぎとして立てられ、昌郷侯(しょうきょうこう)に封ぜられた。 238年に饒安王(じょうあんおう)に移封され、246年には文安王に移封された。 正元(せいげん)年間(254~256年)・景元(けいげん)年間(260~264年)にたびたび加増され、3,500戸となった。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

    曹賛(そうさん)A ※曹敏(そうびん)の息子
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  • 曹焜(そうこん)

    【姓名】 曹焜(そうこん) 【あざな】 ? 【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん)? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹敏(そうびん)の息子、琅邪王(ろうやおう)父は曹敏だが、母は不詳。曹賛(そうさん)は兄弟。 曹焜は、曹矩(そうく)の跡を継いでいた父の曹敏が薨去(こうきょ)したため跡を継ぎ、琅邪王に封ぜられた。 管理人「かぶらがわ」より登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 曹敏が薨じた年に触れた記事がないため、曹焜が何年に跡を継いだのかもわかりません。

    曹焜(そうこん)
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  • 曹諶(そうしん)

    【姓名】 曹諶(そうしん) 【あざな】 ? 【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん)? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹抗(そうこう)の息子、屯留公(とんりゅうこう) 父は曹抗だが、母は不詳。 237年、曹諶は曹抗が死去したため跡を継ぎ、屯留公に封ぜられた。 景初(けいしょ)年間(237~239年)・正元(せいげん)年間(254~256年)・景元(けいげん)年間(260~264年)にたびたび加増され、1,900戸となった。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

    曹諶(そうしん)
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  • 曹廉(そうれん)

    曹琬(そうえん)の息子、豊王(ほうおう) 父は曹琬だが、母は不詳。 曹廉は、曹昂(そうこう)の跡を継いでいた父の曹琬が薨去(こうきょ)したため跡を継ぎ、豊王に封ぜられた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

    曹廉(そうれん)
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  • 曹恒(そうこう)

    【姓名】 曹恒(そうこう) 【あざな】 ? 【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん)? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹壱(そういつ)の息子、済陽公(せいようこう)父は曹壱だが、母は不詳。 曹恒は、曹玹(そうけん)の跡を継いでいた父の曹壱が死去したため跡を継ぎ、済陽公に封ぜられた。 景初(けいしょ)年間(237~239年)・正元(せいげん)年間(254~256年)・景元(けいげん)年間(260~264年)にたびたび加増され、1,900戸となった。 管理人「かぶらがわ」より登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 曹壱の没年がわからないため、曹恒が何年に跡を継いだのかもはっきりしません。

    曹恒(そうこう)
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  • 曹偃(そうえん) ※魏(ぎ)の相懐王(しょうかいおう)

    【姓名】 曹偃(そうえん) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~236年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹潜(そうせん)の息子? 相懐王(しょうかいおう) 父は曹潜の可能性が高いが、母は不詳。 234年、曹偃は233年に薨去(こうきょ)した曹潜の跡を継ぎ、相王(しょうおう)に封ぜられた。封邑(ほうゆう)は2,500戸だった。 236年に薨去したが息子はおらず、封国は没収された。 その後、255年になり、楽陵王(らくりょうおう)の曹茂(そうぼう)の息子である陽都郷侯(ようときょうこう)の曹竦(そうしょう)が、曹鑠(そうしゃく。曹潜の父)の跡継ぎとして立てられた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

    曹偃(そうえん) ※魏(ぎ)の相懐王(しょうかいおう)
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  • 曹啓(そうけい)

    【姓名】 曹啓(そうけい) 【あざな】 ? 【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹霖(そうりん)の息子、東海王(とうかいおう) 父は曹霖だが、母は不詳。兄弟には曹髦(そうぼう)がおり、おそらく曹啓のほうが兄。 249年?、曹啓は曹霖が薨去(こうきょ)したため跡を継ぎ、東海王に封ぜられた。 景初(けいしょ)年間(237~239年)・正元(せいげん)年間(254~256年)・景元(けいげん)年間(260~264年)にたびたび加増され、6,200戸となった。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 上の加増についてのくだり、景初年間のものは曹霖の代のことになりますね。 曹霖の没年につ

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  • 曹尋(そうじん) ※魏(ぎ)の賛殤王(さんしょうおう)

    【姓名】 曹尋(そうじん) 【あざな】 ? 【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~248年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹協(そうきょう)の息子、賛殤王(さんしょうおう) 父は曹協だが、母は不詳。 235年、曹尋は早くに薨去(こうきょ)した曹協の跡を継ぎ、賛王(さんおう)に封ぜられた。239年に900戸を加増されて3千戸となった。 248年に薨去したが息子はおらず、封国は没収された。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

    曹尋(そうじん) ※魏(ぎ)の賛殤王(さんしょうおう)
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  • 曹温(そうおん)

    【姓名】 曹温(そうおん) 【あざな】 ? 【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹楷(そうかい)の息子、魯陽王(ろようおう) 父は曹楷だが、母は不詳。 曹悌(そうてい)は兄弟。曹叡(そうえい)の養子である曹芳(そうほう)と曹詢(そうしゅん)も兄弟の可能性があるという。 231年、曹温は229年に薨去(こうきょ)した曹邕(そうよう)の跡継ぎとして立てられ、邯鄲王(かんたんおう)に封ぜられた。翌232年には魯陽王に移封された。 景初(けいしょ)年間(237~239年)・正元(せいげん)年間(254~256年)・景元(けいげん)年間(260~264年)にたびたび加増され、4,400戸となった。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がな

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    shiromitsu 2020/05/19
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  • 曹悌(そうてい)

    【姓名】 曹悌(そうてい) 【あざな】 ? 【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹楷(そうかい)の息子、梁王(りょうおう) 父は曹楷だが、母は不詳。 曹温(そうおん)は兄弟。曹叡(そうえい)の養子である曹芳(そうほう)と曹詢(そうしゅん)も兄弟の可能性があるという。 231年、曹悌は229年に薨去(こうきょ)した曹礼(そうれい)の跡継ぎとして立てられ、元城王(げんじょうおう)に封ぜられた。翌232年には梁王に移封された。 景初(けいしょ)年間(237~239年)・正元(せいげん)年間(254~256年)・景元(けいげん)年間(260~264年)にたびたび加増され、4,500戸となった。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく

    曹悌(そうてい)
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  • 曹竦(そうしょう)

    【姓名】 曹竦(そうしょう) 【あざな】 ? 【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹茂(そうぼう)の息子、相王(しょうおう) 父は曹茂だが、母は不詳。 233年、曹潜(そうせん)は早くに薨去(こうきょ)した曹鑠(そうしゃく)の跡を継ぎ、相王に封ぜられたものの、同年に薨去した。 翌234年、曹潜の息子?の曹偃(そうえん)が跡を継ぐ。このときの封邑(ほうゆう)は2,500戸だった。 ところが、236年に曹偃が薨去。曹偃には息子がなく、封国は没収された。 その後、255年になり、楽陵王(らくりょうおう)の曹茂の息子で陽都郷侯(ようときょうこう)だった曹竦が、曹鑠の跡継ぎとして立てられ、相王に封ぜられた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績について

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    shiromitsu 2020/05/19
    魏(ぎ)の曹操(そうそう)を中心とした一族に関する個別記事
  • 曹翕(そうきゅう)

    【姓名】 曹翕(そうきゅう) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹徽(そうき)の息子、魏(ぎ)の東平王(とうへいおう)、晋(しん)の廩丘公(りんきゅうこう)父は曹徽だが、母は不詳。息子の曹琨(そうこん)は跡継ぎ。 242年、曹翕は曹徽が薨去(こうきょ)したため跡を継ぎ、東平王に封ぜられた。 景初(けいしょ)年間(237~239年)・正元(せいげん)年間(254~256年)・景元(けいげん)年間(260~264年)にたびたび加増され、3,400戸となった。 管理人「かぶらがわ」より上の加増についてのくだり、景初年間のものは曹徽の代のことになりますね。 『三国志』(魏書・東平霊王徽伝〈とうへいれいおうきでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)によると、「曹翕は晋代に入って

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  • 曹敏(そうびん) ※魏(ぎ)の琅邪原王(ろうやげんおう)

    【姓名】 曹敏(そうびん) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹均(そうきん)の息子、琅邪原王(ろうやげんおう) 父は曹均だが、母は不詳。 曹抗(そうこう)と曹琬(そうえん)は兄。息子の曹焜(そうこん)は跡継ぎ。同じく息子の曹賛(そうさん)は曹蕤(そうずい)の跡を継いだ。 217年、曹敏は早くに薨去(こうきょ)した曹矩(そうく)の跡を継ぎ、臨晋侯(りんしんこう)に封ぜられた。 222年、亡き曹矩に封国と諡号(しごう)が追贈され、范陽閔公(はんようびんこう)とされた。 224年、曹敏は改めて范陽王(はんようおう)に封ぜられ、226年には句陽王(こうようおう)に移封された。 232年、亡き曹矩の爵位がさかのぼって進められ、范陽閔王とされた。この際、曹敏は改めて琅邪王(ろうや

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  • 曹琬(そうえん) ※魏(ぎ)の豊恭王(ほうきょうおう)

    【姓名】 曹琬(そうえん) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹均(そうきん)の息子、豊恭王(ほうきょうおう)父は曹均だが、母は不詳。曹抗(そうこう)は兄で曹敏(そうびん)は弟。息子の曹廉(そうれん)は跡継ぎ。 222年、曹琬は197年に戦死した曹昂(そうこう)の跡継ぎとして立てられ、中都公(ちゅうとこう)に封ぜられた。そして同年中に長子公(ちょうしこう)に移封された。 224年、曹昂の諡号(しごう)が豊悼公(ほうとうこう)から豊悼王(ほうとうおう)と改められ、さらに229年には豊愍王(ほうびんおう)と改められた。 254年、曹琬が曹昂の爵位を継ぐ形で豊王(ほうおう)に封ぜられた。正元(せいげん)年間(254~256年)・景元(けいげん)年間(260~264年)にたびた

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  • 曹抗(そうこう) ※魏(ぎ)の屯留定公(とんりゅうていこう)

    【姓名】 曹抗(そうこう) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~237年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹均(そうきん)の息子、屯留定公(とんりゅうていこう)父は曹均だが、母は不詳。曹琬(そうえん)と曹敏(そうびん)は弟。息子の曹諶(そうしん)は跡継ぎ。 219年、曹抗は曹均が死去したため跡を継ぎ、樊侯(はんこう)に封ぜられた。222年に薊公(けいこう)に移封された。 翌223年に屯留公(とんりゅうこう)に移封され、237年に死去した。定公の諡号(しごう)を追贈され、息子の曹諶が跡を継いだ。 管理人「かぶらがわ」より登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

    曹抗(そうこう) ※魏(ぎ)の屯留定公(とんりゅうていこう)
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  • 曹嘉(そうか)

    【姓名】 曹嘉(そうか) 【あざな】 ? 【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん)? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹彪(そうひゅう)の息子、魏(ぎ)の常山真定王(じょうざんしんていおう)、晋(しん)の高邑公(こうゆうこう) 父は曹彪だが、母は不詳。 254年、曹嘉は251年に自殺した曹彪の跡を継ぎ、常山真定王(常山郡の真定県王)に封ぜられた。 その後、260年に加増を受けて2,500戸となった。 管理人「かぶらがわ」より 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・楚王彪伝〈そおうひゅうでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)によると、「曹嘉は晋代に入って高邑公に封ぜられ、元康(げんこう)年間(291~299年)には石崇(せきすう)とともに国子博士(こくしはくし)を務めた」ということです。 「その後、曹嘉は東莞太守(とうかんたいしゅ)

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  • 曹澳(そういく)

    【姓名】 曹澳(そういく) 【あざな】 ? 【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん)? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹峻(そうしゅん)の息子、陳留王(ちんりゅうおう)父は曹峻だが、母は不詳。 259年、曹澳は曹峻が薨去(こうきょ)したため跡を継ぎ、陳留王に封ぜられた。 景初(けいしょ)年間(237~239年)・正元(せいげん)年間(254~256年)・景元(けいげん)年間(260~264年)にたびたび加増され、4,700戸となった。 管理人「かぶらがわ」より登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 上の加増についてのくだり、景初および正元年間のものは曹峻の代のことになりますね。

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  • 曹孚(そうふ)

    【姓名】 曹孚(そうふ) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹袞(そうこん)の息子、中山王(ちゅうざんおう) 父は曹袞だが、母は不詳。 235年、曹孚は曹袞が薨去(こうきょ)したため跡を継ぎ、中山王に封ぜられた。 景初(けいしょ)年間(237~239年)・正元(せいげん)年間(254~256年)・景元(けいげん)年間(260~264年)にたびたび加増され、3,400戸となった。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

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  • 曹壱(そういつ) ※魏(ぎ)の済陽悼公(せいようとうこう)

    【姓名】 曹壱(そういつ) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹林(そうりん)の息子、済陽悼公(せいようとうこう)父は曹林だが、母は不詳。曹賛(そうさん)は兄。曹林の跡を継いだ曹緯(そうい)は弟か? 息子の曹恒(そうこう)は跡継ぎ。 曹壱は、215年に曹玹(そうけん)の跡継ぎとして立てられた曹賛が早くに亡くなったため、曹丕(そうひ)の意向で代わって跡継ぎに立てられた。 221年、曹壱は改めて済陽侯(せいようこう)に封ぜられ、223年には済陽公に爵位が進んだ。 230年、亡き曹玹の爵位がさかのぼって進められ、懐公(済陽懐公)の諡号(しごう)が追贈された。 232年、さらに曹玹の爵位が進められて懐王(済陽懐王)とされ、亡き曹賛にも哀侯(西郷哀侯)の諡号が追贈された。 曹壱が

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  • 曹賛(そうさん)B ※曹林(そうりん)の息子、魏(ぎ)の西郷哀侯(せいきょうあいこう)

    【姓名】 曹賛(そうさん) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹林(そうりん)の息子、西郷哀侯(せいきょうあいこう) 父は曹林だが、母は不詳。曹壱(そういつ)は弟。曹林の跡を継いだ曹緯(そうい)も弟か? 215年、曹賛は早くに死去した曹玹(そうけん)の跡継ぎとして立てられ、西郷侯(せいきょうこう)に封ぜられた。 しかし曹賛も早くに亡くなり、息子はいなかった。そこで曹丕(そうひ)は、曹賛の弟の曹壱を曹玹の跡継ぎとして立てた。 221年、曹壱は改めて済陽侯(せいようこう)に封ぜられ、223年には済陽公に爵位が進んだ。 230年、亡き曹玹の爵位がさかのぼって進められ、懐公(済陽懐公)の諡号(しごう)が追贈された。 232年、さらに曹玹の爵位が進められて懐王(済陽懐王)とされ、

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  • 曹緯(そうい)

    【姓名】 曹緯(そうい) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹林(そうりん)の息子、沛王(はいおう) 父は曹林だが、母は不詳。兄弟には曹賛(そうさん)と曹壱(そういつ)がいる。 256年、曹緯は曹林が薨去(こうきょ)したため跡を継ぎ、沛王に封ぜられた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 曹林の息子として名が出てくる曹緯・曹賛・曹壱の兄弟の順番がイマイチはっきりしません。曹壱が曹賛の弟だというのは『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・済陽懐王玹伝〈せいようかいおうけんでん〉)にありますが、曹緯はふたりの兄なのか弟なのか? 曹賛が曹玹(そうけん)の跡継ぎとして立てられ

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  • 曹闡(そうせん)

    【姓名】 曹闡(そうせん) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹拠(そうきょ)の息子、郿侯(びこう) 父は曹拠だが、母は不詳。曹琮(そうそう)と曹範(そうはん)は兄。 236年、東安郷公(とうあんきょうこう)だった曹闡は、235年に死去した曹範に代わって曹子整(そうしせい)の跡継ぎとして立てられ、郿侯に封ぜられた。 正元(せいげん)年間(254~256年)から景元(けいげん)年間(260~264年)にたびたび加増されて1,800戸となった。 管理人「かぶらがわ」より 曹拠の息子として名が出てくる曹琮・曹範・曹闡の兄弟の順番がイマイチはっきりしません。 曹闡が曹範の弟だというのは『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・郿戴公子整伝〈びたいこうしせいでん〉)にありますが、曹琮をふたりの

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  • 曹範(そうはん)A ※曹拠(そうきょ)の息子、魏(ぎ)の成武悼公(せいぶとうこう)

    【姓名】 曹範(そうはん) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~235年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹拠(そうきょ)の息子、成武悼公(せいぶとうこう) 父は曹拠だが、母は不詳。曹琮(そうそう)は兄で曹闡(そうせん)は弟。 221年、曹範は218年に死去した曹子整(そうしせい)の跡継ぎとして立てられ、翌222年に平氏侯(へいしこう)に封ぜられた。 翌223年には成武侯(せいぶこう)に移封され、229年に成武公に爵位が進む。 235年に死去して悼公と諡(おくりな)されたが、息子はいなかった。 翌236年、曹叡(そうえい)の詔(みことのり)により、曹範の弟で東安郷公(とうあんきょうこう)の曹闡が郿侯(びこう)に封ぜられ、曹子整の跡継ぎとされた。 曹闡は正元(せいげん)年間(254~256年)から景元(けいげん

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  • 曹琮(そうそう)

    【姓名】 曹琮(そうそう) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹拠(そうきょ)の息子、平陽公(へいようこう) 父は曹拠だが、母は不詳。曹範(そうはん)と曹闡(そうせん)は弟。 217年、曹琮は208年に死去した曹沖(そうちゅう)の跡継ぎとして立てられ、鄧侯(とうこう)に封ぜられた。 222年に冠軍公(かんぐんこう)に移封され、翌223年には己氏公(きしこう)に移封された。 237年、中尚方(ちゅうしょうほう。宮中で使う器物を製作する役所)に人を遣り、禁止されている器物を作らせた罪により、300戸を削られたうえ都郷侯(ときょうこう)に降格された。 239年に再び己氏公に封ぜられ、246年には平陽公に移封された。 景初(けいしょ)年間(237~239年)・正元(せいげん)年

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  • 曹潜(そうせん) ※魏(ぎ)の相愍王(しょうびんおう)

    【姓名】 曹潜(そうせん) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~233年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹鑠(そうしゃく)の息子、相愍王(しょうびんおう) 父は曹鑠だが、母は不詳。息子?の曹偃(そうえん)は跡継ぎ。 233年、曹潜は早くに薨去(こうきょ)した曹鑠の跡を継ぎ、相王(しょうおう)に封ぜられたものの、同年に薨去した。 翌234年に息子?の曹偃が跡を継いだ。このときの封邑(ほうゆう)は2,500戸だった。 ところが、236年に曹偃が薨去。彼には息子がなく、封国は没収された。 その後、255年になり、楽陵王(らくりょうおう)の曹茂(そうぼう)の息子である陽都郷侯(ようときょうこう)の曹竦(そうしょう)が、曹鑠の跡継ぎとして立てられた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです

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  • 曹炳(そうへい) ※魏(ぎ)の蕭哀王(しょうあいおう)

    【姓名】 曹炳(そうへい) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~238年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹熊(そうゆう)の息子、蕭哀王(しょうあいおう) 父は曹熊だが、母は不詳。 234年、曹炳は早くに薨去(こうきょ)した曹熊の跡を継ぎ、蕭王(しょうおう)に封ぜられた。封邑(ほうゆう)は2,500戸だった。 238年に薨去したものの息子はおらず、封国は没収された。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

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  • 曹志(そうし) ※あざなは允恭(いんきょう)、晋(しん)の鄄城定公(けんじょうていこう)

    【姓名】 曹志(そうし) 【あざな】 允恭(いんきょう) 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~288年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹植(そうしょく)の息子、魏(ぎ)の済北王(せいほくおう)、晋(しん)の鄄城定公(けんじょうていこう) 父は曹植だが、母は不詳。 232年、曹志は曹植が薨去(こうきょ)したため跡を継ぎ、済北王に移封された。後に何度か加増されて990戸となった。 管理人「かぶらがわ」より 『三国志』(魏書・陳思王植伝〈ちんしおうしょくでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『曹志別伝(そうしべつでん)』に、その後の曹志の動向が描かれていました。彼は学問好きで才能があり、品行も良かったそうです。 260年、司馬炎(しばえん)は曹志を中撫軍(ちゅうぶぐん)に任じ、常道郷公(じょうどうきょうこう。曹奐〈そうか

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  • 曹楷(そうかい)A ※曹彰(そうしょう)の息子

    【姓名】 曹楷(そうかい) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹彰(そうしょう)の息子、任城王(じんじょうおう) 父は曹彰だが、母は不詳。 息子の曹悌(そうてい)は曹礼(そうれい)の跡継ぎとなり、曹温(そうおん)は曹邕(そうよう)の跡継ぎとなった。 また『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く孫盛(そんせい)の『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』によると――。 曹叡(そうえい)の養子だった曹芳(そうほう)および曹詢(そうしゅん)は、曹楷の息子ともいう。 223年、曹楷は曹彰が薨去(こうきょ)したため跡を継ぎ、中牟王(ちゅうぼうおう)に移封された。 翌224年に任城県王に移封され、232年に改めて任城王とされた。この際の封邑(ほ

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  • 曹氏(そうし)C ※創作された人物、曹操(そうそう)の娘

    創作された人物、魏(ぎ)の曹操(そうそう)の娘 父は曹操だが、母は不詳。 吉川『三国志』(第119話)では、実際に袁譚(えんたん)に嫁いだという設定になっており、袁譚とあどけない新が言葉を交わす場面も出てくる。 『三国志演義』では、第32回で曹操が娘を袁譚に娶(めあわ)せると約束したくだりだけが出てきて、続く第33回で婚約が破棄されたという展開になっている。そのため、この曹氏が登場したとまでは言えないようだ。

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  • 曹氏(そうし)N ※曹叡(そうえい)の娘?

    【姓名】 曹氏(そうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん)? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹叡(そうえい)の娘? 父は曹叡?だが、母は不詳。 曹氏は、畢軌(ひっき)の息子(名は不詳)に嫁いだ。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 この曹氏は、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・曹真伝〈そうしんでん〉)に付された「畢軌伝」の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』にのみ見えています。 話の流れからすると、曹氏は曹叡の娘だと思われますが、年代的には曹操(そうそう)や曹丕(そうひ)の娘である可能性がまったくないとは言えない感じもします。 ということで

    曹氏(そうし)N ※曹叡(そうえい)の娘?
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  • 曹氏(そうし)M ※曹叡(そうえい)の娘?、臨汾公主(りんふんこうしゅ)

    【姓名】 曹氏(そうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん)? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹叡(そうえい)の娘? 臨汾公主(りんふんこうしゅ) 父は曹叡?だが、母は不詳。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 臨汾公主の名が出てくるのは、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・司馬芝伝〈しばしでん〉)の以下の部分だけで、公主自身が登場しているわけではありません。 「曹叡の時代に特進(とくしん。三公に次ぐ待遇)の曹洪(そうこう)の乳母である当(とう)が、臨汾公主の侍女とともに無澗山(ぶかんざん)の神に仕えて(異端を信仰した罪により)投獄された」 話の流れからすると、臨汾公主は曹叡の娘だ

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  • 曹氏(そうし)L ※曹丕(そうひ)の娘?、升遷亭公主(しょうせんていこうしゅ)

    【姓名】 曹氏(そうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹丕(そうひ)の娘? 升遷亭公主(しょうせんていこうしゅ) 父は曹丕?だが、母は不詳。 曹氏は、桓階(かんかい)の息子の桓嘉(かんか)に嫁いだ。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 升遷亭公主の名が出てくるのは『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・桓階伝)だけです。登場箇所では曹丕が桓階を厚遇し、その弟や息子たちも取り立てたことが書かれています。 話の流れからすると、升遷亭公主は曹丕の娘だと思われますが、年代的には曹操(そうそう)の娘である可能性がまったくないとは言えない感じもします。 という

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  • 曹淑(そうしゅく) ※魏(ぎ)の平原懿公主(へいげんいこうしゅ)

    【姓名】 曹淑(そうしゅく) 【あざな】 ? 【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~232年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹叡(そうえい)の娘、平原懿公主(へいげんいこうしゅ) 父は曹叡だが、母は不詳。 曹淑は早くに亡くなり、平原懿公主と諡(おくりな)された。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・文昭甄皇后伝〈ぶんしょうしんこうごうでん〉)には、「曹叡は娘の曹淑が亡くなると、実母の甄氏(文昭甄皇后)の従孫にあたる亡き甄黄(しんこう)を選び、曹淑と合葬(冥婚)した」とあります。 さらに甄黄に列侯(れっこう)の爵位を追贈し、郭氏(かくし。明元郭皇后〈めいげんかくこうごう〉)の

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  • 曹氏(そうし)A ※曹叡(そうえい)の娘、斉長公主(せいちょうこうしゅ)

    【姓名】 曹氏(そうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹叡(そうえい)の娘、斉長公主(せいちょうこうしゅ) 父は曹叡だが、母は不詳。 曹氏は、李豊(りほう)の息子の李韜(りとう)に嫁いだ。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・夏侯尚伝〈かこうしょうでん〉)に付された「夏侯玄伝(かこうげんでん)」には、以下のようにあります。 「254年、中書令(ちゅうしょれい)の李豊が光禄大夫(こうろくたいふ)の張緝(ちょうしゅう。曹芳〈そうほう〉の皇后である張氏の父)らとともに、大将軍(だいしょうぐん)の司馬師(しばし)の排

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  • 曹詢(そうしゅん)

    【姓名】 曹詢(そうしゅん) 【あざな】 ? 【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん) 【生没】 231~244年(14歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第107回で初登場。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹叡(そうえい)の養子、秦王(しんおう) 実の父母ともに不詳。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く孫盛(そんせい)の『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』によると、「同じく曹叡の養子の曹芳(そうほう)ともども、任城王(じんじょうおう)の曹楷(そうかい)の息子」ともいう。 曹詢は235年に秦王に封ぜられ、244年に薨去(こうきょ)した。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(魏書・明帝紀〈めいていぎ〉)の裴松

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  • 曹殷(そういん) ※魏(ぎ)の安平哀王(あんぺいあいおう)

    【姓名】 曹殷(そういん) 【あざな】 ? 【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん) 【生没】 231~232年(2歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹叡(そうえい)の息子、安平哀王(あんぺいあいおう) 父は曹叡だが、母は不詳。兄には曹冏(そうけい)と曹穆(そうぼく)がいる。 曹殷は231年7月に誕生し、翌232年5月に薨去(こうきょ)した。封国と諡号(しごう)を追贈され、安平哀王とされた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

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  • 曹穆(そうぼく)

    【姓名】 曹穆(そうぼく) 【あざな】 ? 【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~229年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹叡(そうえい)の息子、繁陽王(はんようおう) 父は曹叡だが、母は不詳。兄弟には曹冏(そうけい)と曹殷(そういん)がいる。 曹穆は228年9月に繁陽王に封ぜられたが、翌229年6月に薨去(こうきょ)した。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 曹穆の生年がわからないため、曹冏が兄なのか弟なのかは断定できません。 ただ、曹冏が清河王(せいかおう)に封ぜられたのは226年なので、おそらく曹穆のほうが弟でしょう。曹殷は231年生まれですから、曹冏や曹穆の弟になります。 曹叡の息子たちは関連

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  • 曹冏(そうけい)A ※曹叡(そうえい)の息子

    【姓名】 曹冏(そうけい) 【あざな】 ? 【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~226年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹叡(そうえい)の息子、清河王(せいかおう) 父は曹叡だが、母は不詳。兄弟には曹穆(そうぼく)と曹殷(そういん)がいる。 曹冏は226年8月に清河王に封ぜられたが、同年10月に薨去(こうきょ)した。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 曹冏の生年がわからないため、曹穆が兄なのか弟なのかは断定できません。 ただ、曹穆が繁陽王(はんようおう)に封ぜられたのは228年なので、おそらく曹冏のほうが兄でしょう。曹殷は231年生まれですから、曹冏や曹穆の弟になります。

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  • 曹氏(そうし)F ※曹丕(そうひ)の娘、東郷公主(とうきょうこうしゅ)

    【姓名】 曹氏(そうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹丕(そうひ)の娘、東郷公主(とうきょうこうしゅ) 父は曹丕、母は甄氏(しんし。文昭甄皇后〈ぶんしょうしんこうごう〉)。同母兄に曹叡(そうえい)がいる。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・文昭甄皇后伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』によると、「216年に曹操(そうそう)が東方へ討伐に赴いた際、卞氏(べんし。武宣卞皇后〈ぶせんべんこうごう〉)・曹丕・曹叡らとともに、東郷公主もお供をした」ということです。

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  • 曹儼(そうげん) ※魏(ぎ)の広平哀王(こうへいあいおう)

    魏(ぎ)の曹丕(そうひ)の息子で曹叡(そうえい)の異母弟、広平哀王 父は曹丕、母は宋氏(そうし)。 曹儼は222年に広平王(こうへいおう)に封ぜられたが、翌223年に薨去(こうきょ)した。息子はおらず、封国は没収された。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

    曹儼(そうげん) ※魏(ぎ)の広平哀王(こうへいあいおう)
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  • 曹貢(そうこう) ※魏(ぎ)の清河悼王(せいかとうおう)

    魏(ぎ)の曹丕(そうひ)の息子で曹叡(そうえい)の異母弟、清河悼王 父は曹丕、母は張氏(ちょうし)。 曹貢は222年に清河王(せいかおう)に封ぜられたが、翌223年に薨去(こうきょ)した。息子はおらず、封国は没収された。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

    曹貢(そうこう) ※魏(ぎ)の清河悼王(せいかとうおう)
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  • 曹邕(そうよう) ※魏(ぎ)の邯鄲懐王(かんたんかいおう)

    【姓名】 曹邕(そうよう) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~229年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・邯鄲懐王邕伝(かんたんかいおうようでん)』あり。 魏(ぎ)の曹丕(そうひ)の息子で曹叡(そうえい)の異母弟、邯鄲懐王 父は曹丕、母は蘇氏(そし)。 曹邕は221年に淮南公(わいなんこう)に封ぜられ、九江郡(きゅうこうぐん)を封国とした。翌222年には淮南王に改められた。 翌223年には陳王(ちんおう)に移封され、225年に邯鄲王(かんたんおう)に移封された。その後、229年に薨去(こうきょ)した。 231年になり、任城王(じんじょうおう)の曹楷(そうかい)の息子である曹温(そうおん)が、曹邕の跡継ぎとして立てられた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体

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  • 曹礼(そうれい) ※魏(ぎ)の元城哀王(げんじょうあいおう)

    【姓名】 曹礼(そうれい) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~229年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・元城哀王礼伝(げんじょうあいおうれいでん)』あり。 魏(ぎ)の曹丕(そうひ)の息子で曹叡(そうえい)の異母弟、元城哀王 父は曹丕、母は徐氏(じょし)。 曹礼は221年に秦公(しんこう)に封ぜられ、京兆郡(けいちょうぐん)を封国とした。翌222年には京兆王に改められた。 225年に元城王に移封され、229年に薨去(こうきょ)した。 231年になり、任城王(じんじょうおう)の曹楷(そうかい)の息子である曹悌(そうてい)が、曹礼の跡継ぎとして立てられた。 管理人「かぶらがわ」より 『三国志』(魏書・明帝紀〈めいていぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』

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  • 曹霖(そうりん) ※魏(ぎ)の東海定王(とうかいていおう)

    【姓名】 曹霖(そうりん) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~250年?(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第109回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・東海定王霖伝(とうかいていおうりんでん)』あり。 魏(ぎ)の曹丕(そうひ)の息子で曹叡(そうえい)の異母弟、東海定王 父は曹丕、母は仇氏(きゅうし)。 息子の曹啓(そうけい)は跡継ぎ。同じく息子の曹髦(そうぼう)は、曹芳(そうほう)の廃位に伴い朝廷に迎えられ、帝位に即いた。 曹霖は222年に河東王(かとうおう)に封ぜられ、225年に館陶県王(かんとうけんおう)に移封された。 232年に東海王に移封され、249年?に薨去(こうきょ)した。息子の曹啓が跡を継いだ。 管理人「かぶらがわ」より 伝によれば「226年に曹叡が即位すると、曹霖は先帝(曹丕)の遺志により、諸王に比べて特に優

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  • 曹鑒(そうかん) ※魏(ぎ)の東武陽懐王(とうぶようかいおう)

    魏(ぎ)の曹丕(そうひ)の息子で曹叡(そうえい)の異母弟、東武陽懐王 父は曹丕、母は朱氏(しゅし)。 曹鑒は225年に東武陽王に封ぜられたが、同年に薨去(こうきょ)した。 235年に懐王の諡号(しごう)を追贈されたが息子はおらず、封国は没収された。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

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  • 曹蕤(そうずい) ※魏(ぎ)の北海悼王(ほっかいとうおう)

    【姓名】 曹蕤(そうずい) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~233年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・北海悼王蕤伝(ほっかいとうおうずいでん)』あり。 魏(ぎ)の曹丕(そうひ)の息子で曹叡(そうえい)の異母弟、北海悼王 父は曹丕、母は潘氏(はんし)。 曹蕤は、226年に曹叡が即位すると陽平県王(ようへいけんおう)に封ぜられた。232年に北海王に移封され、翌233年に薨去(こうきょ)した。 翌234年、琅邪王(ろうやおう)の曹敏(そうびん)の息子である曹賛(そうさん)が曹蕤の跡継ぎとして立てられ、昌郷侯(しょうきょうこう)に封ぜられた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

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  • 曹協(そうきょう) ※魏(ぎ)の賛哀王(さんあいおう)

    【姓名】 曹協(そうきょう) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・賛哀王協伝(さんあいおうきょうでん)』あり。 魏(ぎ)の曹丕(そうひ)の息子で曹叡(そうえい)の異母弟、賛哀王 父は曹丕、母は李氏(りし。李貴人〈りきじん〉)。息子の曹尋(そうじん)は跡継ぎ。 曹協は早くに亡くなった。231年に封国と諡号(しごう)を追贈され、経殤公(けいしょうこう)とされた。 234年に諡号を改められて賛哀王とされた。翌235年に息子の曹尋が跡を継いだ。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

    曹協(そうきょう) ※魏(ぎ)の賛哀王(さんあいおう)
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  • 曹氏(そうし)E ※曹操(そうそう)の娘、清河長公主(せいかちょうこうしゅ)

    【姓名】 曹氏(そうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第091回で初登場。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の娘で曹丕(そうひ)の異母姉妹、清河長公主(せいかちょうこうしゅ) 父は曹操、母は劉氏(りゅうし。劉夫人〈りゅうふじん〉)。同母兄弟に曹昂(そうこう)と曹鑠(そうしゃく)がいる。 曹氏は、夏侯惇(かこうとん)の息子の夏侯楙(かこうぼう)に嫁いだ。 管理人「かぶらがわ」より 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・夏侯惇伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』には、以下のようにあります。 「228年に曹叡(そうえい)が西方に親征したとき、夏侯楙について上言する者がいたため、彼は都に召し還されて尚書(しょうしょ)に任ぜられた」 「夏侯楙は西方(関中

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  • 曹氏(そうし)D ※曹操(そうそう)の娘、金郷公主(きんきょうこうしゅ)

    【姓名】 曹氏(そうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の娘で曹丕(そうひ)の異母姉妹、金郷公主(きんきょうこうしゅ) 父は曹操、母は杜氏(とし)。同母兄弟に曹林(そうりん)と曹袞(そうこん)がいる。 曹氏は、何進(かしん)の孫の何晏(かあん)に嫁いだ。 管理人「かぶらがわ」より 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・曹真伝〈そうしんでん〉)に付された「何晏伝」の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『魏末伝(ぎまつでん)』によると――。 「何晏のの金郷公主は、実は何晏の同母妹だった。金郷公主は聡明(そうめい)な女性で、夫の何晏の悪行を憂え、母である沛王太妃(はいおうたいひ)に相談していた」ということです。 その後、249年に正始(せいし)の政変

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  • 曹氏(そうし)B ※曹操(そうそう)の娘、安陽公主(あんようこうしゅ)

    魏(ぎ)の曹操(そうそう)の娘、安陽公主(あんようこうしゅ) 父は曹操だが、母は不詳。 曹氏は、建安(けんあん)年間(196~220年)に荀彧(じゅんいく)の長男の荀惲(じゅんうん)に嫁いだ。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

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  • 曹茂(そうぼう)

    【姓名】 曹茂(そうぼう) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・楽陵王茂伝(らくりょうおうぼうでん)』あり。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の異母弟、楽陵王 父は曹操、母は趙氏(ちょうし)。 息子の曹竦(そうしょう)は、曹偃(そうえん)が薨(こう)じた後で封国が没収されていた、曹鑠(そうしゃく)の相王家(しょうおうけ)の跡継ぎとして立てられた。 曹茂は217年に万歳亭侯(ばんざいていこう)に封ぜられ、翌218年に平輿侯(へいよこう)に移封された。 222年に乗氏公(じょうしこう)に移封され、226年には中丘公(ちゅうきゅうこう)に移封された。 翌227年に聊城公(りょうじょうこう)に移封され、同年に聊城王に爵位が進んだ。232年には曲陽王

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  • 曹徽(そうき) ※魏(ぎ)の東平霊王(とうへいれいおう)

    【姓名】 曹徽(そうき) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~242年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・東平霊王徽伝(とうへいれいおうきでん)』あり。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の異母弟、東平霊王 父は曹操、母は宋氏(そうし)。息子の曹翕(そうきゅう)は跡継ぎ。 曹徽は、叔父で朗陵哀侯(ろうりょうあいこう)の曹玉(そうぎょく)の跡を継いだ。217年に歴城侯(れきじょうこう)に封ぜられた。 221年に歴城公に爵位が進み、翌222年には廬江王(ろこうおう)に移封され、翌223年には寿張王(じゅちょうおう)に移封された。 翌224年に改めて寿張県王に封ぜられ、翌225年には東平王(とうへいおう)に移封された。 234年、曹徽は属官に命じて寿張県の官吏を鞭(むち)打ちとしたため、

    曹徽(そうき) ※魏(ぎ)の東平霊王(とうへいれいおう)
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  • 曹子棘(そうしきょく) ※魏(ぎ)の広宗殤公(こうそうしょうこう)

    【姓名】 曹子棘(そうしきょく) ※名は不詳 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・広宗殤公子棘伝(こうそうしょうこうしきょくでん)』あり。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の異母弟、広宗殤公 父は曹操、母は劉氏(りゅうし。劉姫〈りゅうき〉)。 曹子棘は早くに亡くなり、息子はいなかった。231年に封国と諡号(しごう)を追贈され、広宗殤公とされた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 追記 『三国志事典』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉著 大修館書店)を拝読したところ、この曹棘については「曹子棘」で項目が立てられており、追贈された諡号のほうを殤公と

    曹子棘(そうしきょく) ※魏(ぎ)の広宗殤公(こうそうしょうこう)
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  • 曹均(そうきん) ※魏(ぎ)の樊安公(はんあんこう)

    【姓名】 曹均(そうきん) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~219年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・樊安公均伝(はんあんこうきんでん)』あり。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の異母弟、樊安公 父は曹操、母は周氏(しゅうし)。 息子の曹抗(そうこう)は跡継ぎ。同じく息子の曹琬(そうえん)は曹昂(そうこう)の跡を継ぎ、曹敏(そうびん)は曹矩(そうく)の跡を継いだ。 曹均は、叔父で薊恭公(けいきょうこう)の曹彬(そうひん)の跡を継いだ。217年に樊侯(はんこう)に封ぜられたが219年に死去し、息子の曹抗が跡を継いだ。 221年、亡き曹均の爵位がさかのぼって樊公に進められ、安公の諡号(しごう)を追贈された。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具

    曹均(そうきん) ※魏(ぎ)の樊安公(はんあんこう)
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  • 曹子京(そうしけい) ※魏(ぎ)の霊殤公(れいしょうこう)

    【姓名】 曹子京(そうしけい) ※名は不詳 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・霊殤公子京伝(れいしょうこうしけいでん)』あり。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の異母弟、霊殤公 父は曹操、母は李氏(りし)。同母兄には曹子乗(そうしじょう)と曹子整(そうしせい)がいる。 曹子京は早くに亡くなり、息子はいなかった。231年に封国と諡号(しごう)を追贈され、霊殤公とされた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 追記 『三国志事典』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉著 大修館書店)を拝読したところ、この曹京については「曹子京」で項目が立てられており、追

    曹子京(そうしけい) ※魏(ぎ)の霊殤公(れいしょうこう)
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  • 曹子整(そうしせい) ※魏(ぎ)の郿戴公(びたいこう)

    【姓名】 曹子整(そうしせい) ※名は不詳 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~218年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・郿戴公子整伝(びたいこうしせいでん)』あり。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の異母弟、郿戴公 父は曹操、母は李氏(りし)。同母兄には曹子乗(そうしじょう)、同母弟には曹子京(そうしけい)がいる。 曹子整は、従叔父(おじ)で郎中(ろうちゅう)の曹紹(そうしょう)の跡を継いだ。217年に郿侯(びこう)に封ぜられたが、翌218年に死去。息子はいなかった。 221年、亡き曹子整の爵位がさかのぼって進められ、戴公の諡号(しごう)が追贈された。 この際、彭城王(ほうじょうおう)の曹拠(そうきょ)の息子である曹範(そうはん)が、曹子整の跡継ぎとして立てられた。 管理人「かぶらがわ」より

    曹子整(そうしせい) ※魏(ぎ)の郿戴公(びたいこう)
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  • 曹子乗(そうしじょう) ※魏(ぎ)の穀城殤公(こくじょうしょうこう)

    【姓名】 曹子乗(そうしじょう) ※名は不詳 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・穀城殤公子乗伝(こくじょうしょうこうしじょうでん)』あり。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の異母弟、穀城殤公 父は曹操、母は李氏(りし)。同母弟には曹子整(そうしせい)と曹子京(そうしけい)がいる。 曹子乗は早くに亡くなり、息子はいなかった。231年に封国と諡号(しごう)を追贈され、穀城殤公とされた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 追記 『三国志事典』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉著 大修館書店)を拝読したところ、曹乗については「曹子乗」で項目が立てられ

    曹子乗(そうしじょう) ※魏(ぎ)の穀城殤公(こくじょうしょうこう)
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  • 曹子勤(そうしきん) ※魏(ぎ)の剛殤公(ごうしょうこう)

    【姓名】 曹子勤(そうしきん) ※名は不詳 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・剛殤公子勤伝(ごうしょうこうしきんでん)』あり。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の異母弟、剛殤公 父は曹操、母は孫氏(そんし)。同母兄には曹子上(そうしじょう)と曹彪(そうひゅう)がいる。 曹子勤は早くに亡くなり、息子はいなかった。231年に封国と諡号(しごう)を追贈され、剛殤公とされた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 追記 『三国志事典』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉著 大修館書店)を拝読したところ、曹勤については「曹子勤」で項目が立てられており、追贈さ

    曹子勤(そうしきん) ※魏(ぎ)の剛殤公(ごうしょうこう)
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  • 曹彪(そうひゅう) ※あざなは朱虎(しゅこ)

    【姓名】 曹彪(そうひゅう) 【あざな】 朱虎(しゅこ) 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 195~251年(57歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・楚王彪伝(そおうひゅうでん)』あり。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の異母弟、楚王 父は曹操、母は孫氏(そんし)。同母兄には曹子上(そうしじょう)、同母弟には曹子勤(そうしきん)がいる。息子の曹嘉(そうか)は跡継ぎ。 曹彪は216年に寿春侯(じゅしゅんこう)に封ぜられた。 221年に汝陽公(じょようこう)に移封され、翌222年に弋陽王(よくようおう)、同年に呉王(ごおう)に移封された。 224年には寿春県王に移封され、226年に白馬王(はくばおう)に移封された。231年冬に入朝し、翌232年に楚王に移封された。 翌233年になり、先に入朝した際に禁令を

    曹彪(そうひゅう) ※あざなは朱虎(しゅこ)
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  • 曹子上(そうしじょう) ※魏(ぎ)の臨邑殤公(りんゆうしょうこう)

    【姓名】 曹子上(そうしじょう) ※名は不詳 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・臨邑殤公子上伝(りんゆうしょうこうしじょうでん)』あり。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の異母弟、臨邑殤公 父は曹操、母は孫氏(そんし)。同母弟には曹彪(そうひゅう)・曹子勤(そうしきん)がいる。 曹子上は早くに亡くなり、息子はいなかった。231年に封国と諡号(しごう)を追贈され、臨邑殤公とされた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 追記 『三国志事典』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉著 大修館書店)を拝読したところ、曹上については「曹子上」で項目が立てられて

    曹子上(そうしじょう) ※魏(ぎ)の臨邑殤公(りんゆうしょうこう)
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  • 曹幹(そうかん)

    【姓名】 曹幹(そうかん) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~261年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・趙王幹伝(ちょうおうかんでん)』あり。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の異母弟、趙王 父は曹操、母は王氏(おうし)。 伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によると、一名を良(りょう。曹良)ともいう。王氏は養母で、生母は陳氏(ちんし)ともある。 曹幹は215年に高平亭侯(こうへいていこう)に封ぜられた。 その後、217年に頼亭侯(らいていこう)に移封され、同年に弘農侯(こうのうこう)に移封された。221年に燕公(えんこう)に移封され、翌222年に河間王(かかんおう)に移封された。 224年に楽城県王(らくじょうけんおう)に移封され

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  • 曹矩(そうく)※魏(ぎ)の范陽閔王(はんようびんおう)

    【姓名】 曹矩(そうく) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・范陽閔王矩伝(はんようびんおうくでん)』あり。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の異母弟、范陽閔王 父は曹操、母は尹氏(いんし)。 曹矩は早くに亡くなり、息子はいなかった。 217年、樊安公(はんあんこう)の曹均(そうきん)の息子である曹敏(そうびん)が曹矩の跡継ぎとして立てられ、臨晋侯(りんしんこう)に封ぜられた。 222年、曹矩に封国と諡号(しごう)が追贈され、范陽閔公(はんようびんこう)とされた。 224年、曹敏が范陽王に移封され、226年には句陽王(こうようおう)に移封された。 232年、亡き曹矩の爵位がさかのぼって進められ、范陽閔王とされた。 曹敏は琅邪王(ろうやおう)

    曹矩(そうく)※魏(ぎ)の范陽閔王(はんようびんおう)
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  • 曹峻(そうしゅん) ※あざなは子安(しあん)、魏(ぎ)の陳留恭王(ちんりゅうきょうおう)

    【姓名】 曹峻(そうしゅん) 【あざな】 子安(しあん) 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~259年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・陳留恭王峻伝(ちんりゅうきょうおうしゅんでん)』あり。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の異母弟、陳留恭王 父は曹操、母は秦氏(しんし)。同母兄には曹玹(そうけん)がいる。息子の曹澳(そういく)は跡継ぎ。 曹峻は216年に郿侯(びこう)に封ぜられ、翌217年に襄邑侯(じょうゆうこう)に移封された。 221年には襄邑公に爵位が進み、翌222年に陳留王(ちんりゅうおう)に移封された。 224年に襄邑県王(じょうゆうけんおう)に移封されたが、翌225年には再び陳留王に移封された。 259年に薨去(こうきょ)し、息子の曹澳が跡を継いだ。 景初(けいしょ)年間(237~

    曹峻(そうしゅん) ※あざなは子安(しあん)、魏(ぎ)の陳留恭王(ちんりゅうきょうおう)
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  • 曹玹(そうけん) ※魏(ぎ)の済陽懐王(せいようかいおう)

    【姓名】 曹玹(そうけん) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・済陽懐王玹伝(せいようかいおうけんでん)』あり。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の異母弟、済陽懐王 父は曹操、母は秦氏(しんし)。同母弟には曹峻(そうしゅん)がいる。 曹玹は211年に西郷侯(せいきょうこう)に封ぜられた。しかし早くに亡くなり、息子はいなかった。 215年になり、沛王(はいおう)の曹林(そうりん)の息子である曹賛(そうさん)が、曹玹の跡継ぎとして立てられた。ところが曹賛も早くに亡くなり、息子はいなかった。 その後、曹賛の弟の曹壱(そういつ)が曹玹の跡継ぎとして立てられ、221年に改めて済陽侯(せいようこう)に封ぜられた。223年には済陽公に爵位が進んだ。 23

    曹玹(そうけん) ※魏(ぎ)の済陽懐王(せいようかいおう)
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  • 曹袞(そうこん) ※魏(ぎ)の中山恭王(ちゅうざんきょうおう)

    【姓名】 曹袞(そうこん) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~235年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・中山恭王袞伝(ちゅうざんきょうおうこんでん)』あり。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の異母弟、中山恭王 父は曹操、母は杜氏(とし)。同母兄には曹林(そうりん)がおり、曹氏(そうし。金郷公主〈きんきょうこうしゅ〉)は同母姉妹。息子の曹孚(そうふ)は跡継ぎ。 曹袞は216年に平郷侯(へいきょうこう)に封ぜられ、翌217年に東郷侯(とうきょうこう)、同年に賛侯(さんこう)に移封された。 221年には賛公に爵位が進み、翌222年に北海王(ほっかいおう)に移封された。 この年、鄴(ぎょう)の西の漳水(しょうすい)に黄龍が現れた。曹袞は上書して曹丕の徳をたたえ、詔(みことのり)により

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  • 曹林(そうりん) ※魏(ぎ)の沛穆王(はいぼくおう)

    【姓名】 曹林(そうりん) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~256年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・沛穆王林伝(はいぼくおうりんでん)』あり。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の異母弟、沛穆王 父は曹操、母は杜氏(とし)。一名を豹(ほう。曹豹)ともいう。 同母弟には曹袞(そうこん)がおり、曹氏(そうし。金郷公主〈きんきょうこうしゅ〉)は同母姉妹。 息子の曹緯(そうい)は跡継ぎ。同じく息子の曹賛(そうさん)および曹壱(そういつ)は曹玹(そうけん)の跡継ぎとなった。 曹林は211年に饒陽侯(じょうようこう)に封ぜられ(封邑〈ほうゆう〉は5千戸)、217年に譙侯に移封された。 221年に譙公、222年には譙王に爵位が進んだ。224年に譙県王に改められ、226年に鄄城王(けんじょ

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  • 曹宇(そうう) ※あざなは彭祖(ほうそ)

    【姓名】 曹宇(そうう) 【あざな】 彭祖(ほうそ) 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第106回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・燕王宇伝(えんおううでん)』あり。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の異母弟、燕王 父は曹操、母は環氏(かんし)。同母兄には曹沖(そうちゅう)と曹拠(そうきょ)がいる。 息子の曹奐(そうかん)は曹髦(そうぼう)が崩じた後、迎えられて帝位に即いた。 曹宇は211年に都郷侯(ときょうこう)に封ぜられ、217年に改めて魯陽侯(ろようこう)に封ぜられた。 221年には魯陽公に爵位が進み、222年に下邳王(かひおう)に移封された。その後も224年に単父県王(ぜんほけんおう)、225年に燕王に、それぞれ移封された。 235年、曹叡(そうえい)に召されて入朝し、237年に

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  • 曹拠(そうきょ)

    【姓名】 曹拠(そうきょ) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第109回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・彭城王拠伝(ほうじょうおうきょでん)』あり。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の異母弟、彭城王 父は曹操、母は環氏(かんし)。同母兄には曹沖(そうちゅう)、同母弟には曹宇(そうう)がいる。 息子の曹琮(そうそう)は曹沖の跡継ぎとなり、曹範(そうはん)および曹闡(そうせん)は曹子整(そうしせい)の跡継ぎとなった。 曹拠は211年に范陽侯(はんようこう)に封ぜられ(封邑〈ほうゆう〉は5千戸)、217年に宛侯(えんこう)に移封された。 221年には宛公に爵位が進み、222年に章陵王(しょうりょうおう)、同年に義陽王(ぎようおう)に移封された。 その後は彭城王や済陰王(せいい

    曹拠(そうきょ)
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  • 曹沖(そうちゅう) ※あざなは倉舒(そうじょ)、魏(ぎ)の鄧哀王(とうあいおう)

    【姓名】 曹沖(そうちゅう) 【あざな】 倉舒(そうじょ) 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 196~208年(13歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・鄧哀王沖伝(とうあいおうちゅうでん)』あり。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の異母弟、鄧哀王 父は曹操、母は環氏(かんし)。同母弟には曹拠(そうきょ)と曹宇(そうう)がいる。 曹沖は幼いころから聡明(そうめい)で、曹操に寵愛されたが、208年に13歳で病死した。 その死をひどく悲しんだ曹操は、甄氏(しんし)の亡くなった娘を娶(めと)って一緒に葬り、騎都尉(きとい)の印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を贈った。そして、宛侯(えんこう)の曹拠の息子である曹琮(そうそう)に曹沖の跡を継がせた。 217年、曹琮が鄧侯に封ぜられた。 221年、曹沖に鄧哀侯

    曹沖(そうちゅう) ※あざなは倉舒(そうじょ)、魏(ぎ)の鄧哀王(とうあいおう)
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  • 曹鑠(そうしゃく) ※魏(ぎ)の相殤王(しょうしょうおう)

    【姓名】 曹鑠(そうしゃく) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・相殤王鑠伝(しょうしょうおうしゃくでん)』あり。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の異母弟? 相殤王 父は曹操、母は劉氏(りゅうし。劉夫人〈りゅうふじん〉)。 同母兄には曹昂(そうこう)がおり、曹氏(清河長公主〈せいかちょうこうしゅ〉)も同母姉妹。息子の曹潜(そうせん)は跡継ぎ。 曹鑠は早くに亡くなり、229年に相殤王の諡号(しごう)を追贈された。 233年になって息子の曹潜が跡を継いだものの、同年に薨去(こうきょ)した。 翌234年、曹潜の息子の曹偃(そうえん)が跡を継ぐ。このときの封邑(ほうゆう)は2,500戸だった。 ところが236年に曹偃が薨去。曹偃には息子がなく、封

    曹鑠(そうしゃく) ※魏(ぎ)の相殤王(しょうしょうおう)
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  • 曹昂(そうこう) ※あざなは子脩(ししゅう)、魏(ぎ)の豊愍王(ほうびんおう)

    【姓名】 曹昂(そうこう) 【あざな】 子脩(ししゅう) 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~197年(?歳) 【吉川】 第064話で初登場。 【演義】 第016回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・豊愍王昂伝(ほうびんおうこうでん)』あり。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の異母兄、豊愍王 父は曹操、母は劉氏(りゅうし。劉夫人〈りゅうふじん〉)。 同母弟には曹鑠(そうしゃく)がおり、曹氏(清河長公主〈せいかちょうこうしゅ〉)も同母姉妹。 曹昂は劉氏が早くに亡くなったため、曹操の最初のである丁氏(ていし)に養育され、20歳で孝廉(こうれん)に推挙された。 197年、曹操の張繡(ちょうしゅう)討伐に付き従って戦死したが、息子はいなかった。 221年、豊悼公(ほうとうこう)の諡号(しごう)を追贈された。 翌222年、樊安公(はんあんこう)

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  • 曹熊(そうゆう) ※魏(ぎ)の蕭懐王(しょうかいおう)

    【姓名】 曹熊(そうゆう) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 第212話で初登場。 【演義】 第068回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・蕭懐王熊伝(しょうかいおうゆうでん)』あり。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の同母弟、蕭懐王 父は曹操、母は卞氏(べんし。武宣卞皇后〈ぶせんべんこうごう〉)。 同母兄には曹丕のほか、曹彰(そうしょう)と曹植(そうしょく)がいる。息子の曹炳(そうへい)は跡継ぎ。 曹熊は早くに亡くなり、221年に蕭懐公(しょうかいこう)の諡号(しごう)を追贈された。その後、229年に蕭懐王(しょうかいおう)と諡号を改められた。 234年になり、息子の曹炳が跡を継いだ。 管理人「かぶらがわ」より 曹操が卞氏との間に儲けた4人の息子たちの中では、不可解なほど影が薄いです。 兄の曹

    曹熊(そうゆう) ※魏(ぎ)の蕭懐王(しょうかいおう)
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  • 曹植(そうしょく) ※あざなは子建(しけん)、魏(ぎ)の陳思王(ちんしおう)

    【姓名】 曹植(そうしょく) 【あざな】 子建(しけん) 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 192~232年(41歳) 【吉川】 第122話で初登場。 【演義】 第034回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・陳思王植伝(ちんしおうしょくでん)』あり。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の同母弟、陳思王 父は曹操、母は卞氏(べんし。武宣卞皇后〈ぶせんべんこうごう〉)。 同母兄の曹丕と曹彰(そうしょう)のほか、同母弟に曹熊(そうゆう)がいる。息子の曹志(そうし)は跡継ぎ。 曹植は、10余歳にして『詩経(しきょう)』と『論語(ろんご)』に加え、『楚辞(そじ)』や漢賦(かんふ)数十万字を朗唱でき、優れた文章も作った。 その一方で細かいことにこだわらない性格で、威儀を整えようとはせず、車馬や服装は華美なものを尊ばなかったという。 曹植は曹操から難問を

    曹植(そうしょく) ※あざなは子建(しけん)、魏(ぎ)の陳思王(ちんしおう)
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  • 曹彰(そうしょう) ※あざなは子文(しぶん)、魏(ぎ)の任城威王(じんじょういおう)

    【姓名】 曹彰(そうしょう) 【あざな】 子文(しぶん) 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~223年(?歳) 【吉川】 第212話で初登場。 【演義】 第068回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・任城威王彰伝(じんじょういおうしょうでん)』あり。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の同母弟、任城威王 父は曹操、母は卞氏(べんし。武宣卞皇后〈ぶせんべんこうごう〉)。 同母兄の曹丕のほか、同母弟には曹植(そうしょく)と曹熊(そうゆう)がいる。息子の曹楷(そうかい)は跡継ぎ。 曹彰は若いころから弓馬に優れ、人並み以上の筋力を備えていた。それは自ら猛獣と格闘するほどのもので、険阻な場所も平気だった。たびたび曹操の征伐に付き従い、激しい気性を示したという。 鄢陵侯(えんりょうこう)および鄢陵公を経て、222年には任城王に封ぜられた。 翌223年

    曹彰(そうしょう) ※あざなは子文(しぶん)、魏(ぎ)の任城威王(じんじょういおう)
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  • 卞氏(べんし)A ※曹奐(そうかん)の妻、卞皇后(べんこうごう)

    【姓名】 卞氏(べんし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 琅邪郡(ろうやぐん)開陽県(かいようけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹奐(そうかん)の正室、卞皇后(べんこうごう) 父は卞琳(べんりん)、母は劉氏(りゅうし)。 卞氏は263年に曹奐の皇后に立てられた。このときすでに卞琳は亡くなっており、卞琳のの劉氏が広陽郷君(こうようきょうくん)に封ぜられた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 曹奐は、265年に晋王(しんおう)の司馬炎(しばえん)に禅譲したあと陳留王(ちんりゅうおう)に封ぜられ、302年に薨去(こうきょ)しています。この間の卞氏に関する記事はないようです。 なお、この卞氏は曹操(そうそう

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  • 卞氏(べんし)C ※曹髦(そうぼう)の妻、卞皇后(べんこうごう)

    【姓名】 卞氏(べんし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 琅邪郡(ろうやぐん)開陽県(かいようけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹髦(そうぼう)の正室、卞皇后(べんこうごう) 父は卞隆(べんりゅう)、母は王氏(おうし)。生みの母は劉氏(りゅうし)。 卞氏は255年に曹髦の皇后に立てられた。 このとき卞隆は光禄大夫(こうろくたいふ)・特進(とくしん)に任ぜられ、睢陽郷公(すいようきょうこう)に封ぜられた。 そのの王氏は顕陽郷君(けんようきょうくん)に封ぜられ、前の劉氏にも順陽郷君(じゅんようきょうくん)の位が追贈された。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 曹髦は260年に20歳の若さで崩御(ほうぎょ

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  • 禺婉(ぐえん) ※曹芳(そうほう)の妻

    【姓名】 禺婉(ぐえん) ※あざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹芳(そうほう)の側室? 父母ともに不詳。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』によると、禺婉は曹芳が寵愛した側室のひとりだった。 同じく曹芳の寵愛を受けた張氏(ちょうし)ともども、郭太后(かくたいこう。明元郭皇后〈めいげんかくこうごう〉)の意向によって殺害されたという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 出典部分は曹芳の廃位に関連したもので、このくだりでは彼の淫行が列挙されています。これらの醜聞は廃位の口実でしょうから、事実が含まれていたの

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  • 張氏(ちょうし)C ※曹芳(そうほう)の妻、張美人(ちょうびじん)

    【姓名】 張氏(ちょうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹芳(そうほう)の側室、張美人(ちょうびじん) 父母ともに不詳。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』によると、張氏は曹芳が寵愛した側室のひとりだった。 同じく曹芳の寵愛を受けた禺婉(ぐえん)ともども、郭太后(かくたいこう。明元郭皇后〈めいげんかくこうごう〉)の意向によって殺害されたという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 出典部分は曹芳の廃位に関連したもので、このくだりでは彼の淫行が列挙されています。 これらの醜聞は廃位の口実でしょ

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  • 邢氏(けいし) ※もと曹芳(そうほう)の妻、邢貴人(けいきじん)、後に孫壱(そんいつ)の妻

    【姓名】 邢氏(けいし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~259年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹芳(そうほう)のもと側室、後に呉(ご)から降った孫壱(そんいつ)のにされる 父母ともに不詳。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫静伝〈そんせいでん〉)に付された「孫奐伝(そんかんでん)」によると、「257年に呉の孫壱が魏へ亡命し、魏の曹髦(そうぼう)は車騎将軍(しゃきしょうぐん)・儀同三司(ぎどうさんし)に任じたうえ、呉侯(ごこう)に封じ、曹芳の貴人(きじん。皇妃の位のひとつ)だった邢氏をとして与えた」という。 「邢氏は容貌が美しかったものの嫉妬深かった。彼女に仕えていた者たちは酷使に耐えられず、(259年に)共謀して孫壱と邢氏を殺害した」ともある。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体

    邢氏(けいし) ※もと曹芳(そうほう)の妻、邢貴人(けいきじん)、後に孫壱(そんいつ)の妻
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  • 王氏(おうし)J ※曹芳(そうほう)の妻、王貴人(おうきじん)

    【姓名】 王氏(おうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹芳(そうほう)の側室、王貴人(おうきじん) 父母ともに不詳。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』によると、「曹芳は251年に甄皇后(しんこうごう)が崩じた後、新たな皇后として王氏(王貴人)を望んでいた」という。 「しかし、郭太后(かくたいこう)は外部から探したいという考えだったために対立。結局、252年に張氏(ちょうし)が皇后に立てられたが、曹芳は寵愛しなかった」ともある。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 曹芳が司馬師(しばし)のク

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  • 張氏(ちょうし)B ※曹芳(そうほう)の妻、張皇后(ちょうこうごう)

    【姓名】 張氏(ちょうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 馮翊郡(ひょうよくぐん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第109回で初登場。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹芳(そうほう)のもと正室、張皇后(ちょうこうごう) 父は張緝(ちょうしゅう)、母は向(きょう)。張既(ちょうき)は祖父にあたる。 『三国志』(魏書・斉王紀〈せいおうぎ〉)によると、張氏は252年に皇后に立てられた。 しかし、254年に張緝が李豊(りほう)らと結託し、夏侯玄(かこうげん)を大将軍(だいしょうぐん)に据え、司馬師(しばし)の排除を謀ったことが発覚。 計画に参加した張緝らはことごとく誅殺され、張氏も廃位されたという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 母の向については姓

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  • 甄氏(しんし)B ※曹芳(そうほう)の妻、懐甄皇后(かいしんこうごう)

    【姓名】 甄氏(しんし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 中山郡(ちゅうざんぐん)無極県(ぶきょくけん) 【生没】 ?~251年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹芳(そうほう)のもと正室、懐甄皇后(かいしんこうごう) 父母ともに不詳。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・文昭甄皇后伝〈ぶんしょうしんこうごうでん〉)によると、甄氏(文昭甄皇后)の兄である甄儼(しんげん)の孫娘だという。 また『三国志』(魏書・斉王紀〈せいおうぎ〉)によると、甄氏は243年に皇后に立てられて251年に崩御(ほうぎょ)し、太清陵(たいせいりょう)に埋葬されたという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 上で挙げた「文昭甄皇后伝」には、「甄氏が曹芳の皇后に立て

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  • 王氏(おうし)C ※曹芳(そうほう)の妻、王皇后(おうこうごう)

    【姓名】 王氏(おうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹芳(そうほう)の正室、王皇后(おうこうごう) 父は王夔(おうき)、母は田氏(でんし)。 254年、王氏は張氏(ちょうし)の廃位を受けて皇后に立てられた。同年中に曹芳は廃位され、斉王(せいおう)として帰藩したが、その後の王氏については記事がない。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 この王氏は曹芳の貴人(きじん。皇妃の位のひとつ)の王氏との違いがわかりにくく、初めは同一人物だと思っていました。 王貴人のほうは、『三国志』(魏書・斉王紀〈せいおうぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』に名

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  • 虞氏(ぐし) ※曹叡(そうえい)の妻

    【姓名】 虞氏(ぐし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 河内郡(かだいぐん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹叡(そうえい)のもと正室 父母ともに不詳。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・明悼毛皇后伝〈めいとうもうこうごうでん〉)によると、曹叡が平原王(へいげんおう。222~226年)だったころの王妃。 しかし、226年に曹叡が即位した後も皇后には立てられず、やがて鄴宮(ぎょうきゅう)に帰されたという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(魏書・明悼毛皇后伝)には、曹叡の即位後に皇后に立てられなかった虞氏を、太皇太后の卞氏(べんし)が慰めて励ました話が載せられており――。 「虞氏は『もともと曹氏は身分

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  • 郭氏(かくし)A ※曹叡(そうえい)の妻、明元郭皇后(めいげんかくこうごう)

    【姓名】 郭氏(かくし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 西平郡(せいへいぐん) 【生没】 ?~263年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第105回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・明元郭皇后伝(めいげんかくこうごうでん)』あり。 魏(ぎ)の曹叡(そうえい)の正室、明元郭皇后 父は郭満(かくまん)、母は杜氏(とし)。郭立(かくりゅう)は叔父、郭芝(かくし)は従父(おじ)。 郭家は代々河右(かゆう。河西〈かせい〉)の豪族だった。黄初(こうしょ)年間(220~226年)に西平郡で反乱が起こったため、身分を剝奪された郭氏は後宮に入れられた。 曹叡の即位後に寵愛を受けて夫人(ふじん。皇妃の位のひとつ)となり、238年に曹叡が危篤に陥ると、ついに皇后に立てられた。 翌239年に曹芳(そうほう)が即位すると皇太后と尊ばれ、永寧宮(えいねいきゅう)と呼ばれた。 この後、曹髦(そうぼ

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  • 毛氏(もうし) ※曹叡(そうえい)の妻、明悼毛皇后(めいとうもうこうごう)

    【姓名】 毛氏(もうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 河内郡(かだいぐん) 【生没】 ?~237年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第105回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・明悼毛皇后伝(めいとうもうこうごうでん)』あり。 魏(ぎ)の曹叡(そうえい)のもと正室、明悼毛皇后 父の毛嘉(もうか)はもともと車作りの職人、母は夏氏(かし)。毛曾(もうそう)は弟。 黄初(こうしょ)年間(220~226年)、毛氏は平原王(へいげんおう。222~226年)だった曹叡に仕えて寵愛を受けた。 (226年の)曹叡の即位後に貴嬪(きひん。皇妃の位のひとつ)となり、227年に皇后に立てられた。その後、曹叡が郭氏(かくし)を寵愛するようになったため、毛氏への寵愛は薄れる。 そして237年、曹叡が毛氏を招かずに後宮の庭園で宴を催すと、このことを聞き知った毛氏が曹叡に嫌味を言った。 曹叡は秘

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  • 任氏(じんし) ※曹丕(そうひ)の妻

    【姓名】 任氏(じんし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹丕(そうひ)の側室 父母ともに不詳。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・文昭甄皇后伝〈ぶんしょうしんこうごうでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』によると、「地方の名家の出身だったが、たびたび曹丕を怒らせたために追放された」という。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 関連する記事がないので、曹丕との間に子はなかったようです。位階についてもはっきりしませんでした。 上で引かれていた王沈の『魏書』では、「曹丕が任氏を追い出そうとしたとき、甄氏が涙を流して(追い出さないようにと)強く頼み込ん

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  • 柴氏(さいし) ※曹丕(そうひ)の妻、柴貴人(さいきじん)

    【姓名】 柴氏(さいし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹丕(そうひ)の側室、柴貴人(さいきじん) 父母ともに不詳。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・文徳郭皇后伝〈ぶんとくかくこうごうでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』によると、帝位に即いた曹丕の寵愛を受けた側室のひとり。郭氏が柴氏を教育して導いたという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 関連する記事がないので、曹丕との間に子はなかったようです。 出典が王沈の『魏書』ですから、郭氏の持ち上げ記事にチョイ役としての登場といったところでしょうか。

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  • 陰氏(いんし)B ※曹丕(そうひ)の妻、陰貴人(いんきじん)

    【姓名】 陰氏(いんし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹丕(そうひ)の側室、陰貴人(いんきじん) 父母ともに不詳。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・文昭甄皇后伝〈ぶんしょうしんこうごうでん〉)によると、帝位に即いた曹丕の寵愛を受けた側室のひとりだという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 関連する記事がないので、曹丕との間に子はなかったようです。 上で挙げた「文昭甄皇后伝」では、「漢(かん)の禅譲を受ける形で曹丕が帝位に即くと、山陽公(さんようこう。禅譲した漢の献帝〈けんてい〉)の娘ふたりが側室に加わり、郭氏(かくし)や李氏(りし)、そしてこの陰氏らも寵愛を受けたため、失

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  • 李氏(りし)C ※曹丕(そうひ)の妻、李夫人(りふじん)

    【姓名】 李氏(りし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹丕(そうひ)の側室、李夫人(りふじん) 父母ともに不詳。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・文徳郭皇后伝〈ぶんとくかくこうごうでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によると、「死に際した甄氏(しんし)から曹叡(そうえい)を託された」という。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 上で引かれた『魏略』によれば、「曹叡は即位した後、すでに母の甄氏が亡いことを思い起こして悲んだ。そのため郭氏(かくし)はこれを憂え、突然崩御(ほうぎょ)した」といいます。 さらに「郭氏が崩御すると李氏は初

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  • 宋氏(そうし)B ※曹丕(そうひ)の妻、宋姫(そうき)

    【姓名】 宋氏(そうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹丕(そうひ)の側室、宋姫(そうき) 父母ともに不詳。曹丕との間に曹儼(そうげん)を儲けた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・広平哀王儼伝〈こうへいあいおうげんでん〉)によると、曹儼は222年に広平王に封ぜられたものの、翌223年に薨去(こうきょ)しました。跡継ぎはなく、国は没収されたということです。

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  • 張氏(ちょうし)A ※曹丕(そうひ)の妻、張姫(ちょうき)

    【姓名】 張氏(ちょうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹丕(そうひ)の側室、張姫(ちょうき) 父母ともに不詳。曹丕との間に曹貢(そうこう)を儲けた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・清河悼王貢伝〈せいかとうおうこうでん〉)によると、曹貢は222年に清河王に封ぜられたものの、翌223年に薨去(こうきょ)しました。跡継ぎはなく、国は没収されたということです。

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  • 蘇氏(そし) ※曹丕(そうひ)の妻、蘇姫(そき)

    【姓名】 蘇氏(そし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹丕(そうひ)の側室、蘇姫(そき) 父母ともに不詳。曹丕との間に曹邕(そうよう)を儲けた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・邯鄲懐王邕伝〈かんたんかいおうようでん〉)によると、曹邕は221年に淮南公(わいなんこう)に封ぜられ、九江郡(きゅうこうぐん)を領国としました。 翌222年に淮南王へ爵位が進み、223年に陳王(ちんおう)、225年には邯鄲王に移封され、229年に薨去(こうきょ)したということです。 その後、231年になり、任城王(じんじょうおう)の曹楷(そうかい)の息子である曹温(

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  • 徐氏(じょし)A ※曹丕(そうひ)の妻、徐姫(じょき)

    【姓名】 徐氏(じょし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹丕(そうひ)の側室、徐姫(じょき) 父母ともに不詳。曹丕との間に曹礼(そうれい)を儲けた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・元城哀王礼伝〈げんじょうあいおうれいでん〉)によると、曹礼は221年に秦公(しんこう)に封ぜられ、京兆郡(けいちょうぐん)を領国としました。 その後、222年に京兆王に改められ、225年に元城王に移封され、229年に薨去(こうきょ)したということです。 231年になり、任城王(じんじょうおう)の曹楷(そうかい)の息子である曹悌(そうてい)が、曹礼の跡を継いでいま

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  • 仇氏(きゅうし) ※曹丕(そうひ)の妻、仇昭儀(きゅうしょうぎ)

    【姓名】 仇氏(きゅうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹丕(そうひ)の側室、仇昭儀(きゅうしょうぎ) 父母ともに不詳。曹丕との間に曹霖(そうりん)を儲けた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・東海定王霖伝〈とうかいていおうりんでん〉)によると、曹霖は222年に河東王(かとうおう)に封ぜられ、225年には館陶県王(かんとうけんおう)に移封されました。 226年に曹叡(そうえい)が即位すると、先帝(曹丕)の遺志により、ほかの諸王に比べて特に優遇されたといいます。しかし曹霖は粗暴な性格だったため、彼の後宮では殺されたり痛めつけられたりした者が多

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  • 朱氏(しゅし)B ※曹丕(そうひ)の妻、朱淑媛(しゅしゅくえん)

    【姓名】 朱氏(しゅし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹丕(そうひ)の側室、朱淑媛(しゅしゅくえん) 父母ともに不詳。曹丕との間に曹鑒(そうかん)を儲けた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・東武陽懐王鑒伝〈とうぶようかいおうかんでん〉)によると、曹鑒は225年に東武陽王(とうぶようおう)に封ぜられ、同年に薨去(こうきょ)しました。 その後、235年に諡号(しごう)を追贈されたものの跡継ぎはなく、国が没収されたということです。

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  • 潘氏(はんし)A ※曹丕(そうひ)の妻、潘淑媛(はんしゅくえん)

    【姓名】 潘氏(はんし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹丕(そうひ)の側室、潘淑媛(はんしゅくえん) 父母ともに不詳。曹丕との間に曹蕤(そうずい)を儲けた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・北海悼王蕤伝〈ほっかいとうおうずいでん〉)によると、曹蕤は226年に陽平県王(ようへいけんおう)に封ぜられました。 その後、232年に北海王(ほっかいおう)に移封され、翌233年に薨去(こうきょ)したということです。 翌234年、琅邪王(ろうやおう)の曹敏(そうびん)の息子である曹賛(そうさん)が、曹蕤の跡継ぎとして昌郷侯(しょうきょうこう)に封ぜられ

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  • 李氏(りし)B ※曹丕(そうひ)の妻、李貴人(りきじん)

    【姓名】 李氏(りし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹丕(そうひ)の側室、李貴人(りきじん) 父母ともに不詳。曹丕との間に曹協(そうきょう)を儲けた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・賛哀王協伝〈さんあいおうきょうでん〉)によると「曹協は早くになった」ということです。 曹協は、231年に曹叡(そうえい)から領国と諡号(しごう)を追贈されて、経殤公(けいしょうこう)と呼ばれ、234年に諡号が改められました。 そして、235年に息子の曹尋(そうじん)が跡を継いでいます。

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  • 郭氏(かくし)B ※曹丕(そうひ)の妻、文徳郭皇后(ぶんとくかくこうごう)

    【姓名】 郭氏(かくし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 安平郡(あんぺいぐん)広宗県(こうそうけん) 【生没】 184~235年(52歳) 【吉川】 第277話で初登場。 【演義】 第091回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・文徳郭皇后伝(ぶんとくかくこうごうでん)』あり。 魏(ぎ)の曹丕(そうひ)の正室、文徳郭皇后 父は南郡太守(なんぐんたいしゅ)を務めた郭永(かくえい)、母は董氏(とうし)。 郭家は代々長吏(ちょうり。県令〈けんれい〉や県長〈けんちょう〉)を務める家柄だった。 まだ郭氏が幼いころ、父の郭永は素質を高く評価し、「この子は私の娘の中の王様だ」と言っていた。このことから郭氏には「女王」というあだ名が付いた。 郭氏は早くに両親を亡くし、戦乱による流浪の末、銅鞮侯(どうていこう)の家の召使いに身を落とす。ところが魏公(ぎこう。213~216年)に昇った曹操(そうそ

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  • 甄氏(しんし)A ※曹丕(そうひ)の妻、文昭甄皇后(ぶんしょうしんこうごう)

    【姓名】 甄氏(しんし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 中山郡(ちゅうざんぐん)無極県(ぶきょくけん) 【生没】 182~221年(40歳) 【吉川】 第120話で初登場。 【演義】 第033回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・文昭甄皇后伝(ぶんしょうしんこうごうでん)』あり。 魏(ぎ)の曹丕(そうひ)のもと正室、文昭甄皇后 父は上蔡県令(じょうさいけんれい)を務めた甄逸(しんいつ)、母は常山(じょうざん)の張氏(ちょうし)。 甄家は漢(かん)の太保(たいほ)を務めた甄邯(しんかん)の後裔(こうえい)で、代々二千石(せき)の官吏の家柄だった。 甄氏は袁紹(えんしょう)の次男の袁熙(えんき)に嫁いだものの、204年に鄴城(ぎょうじょう)が陥落した際、曹丕に見初められる。並外れた美貌の持ち主だったという。 その後、曹丕との間に曹叡(そうえい)と東郷公主(とうきょうこうしゅ)を儲

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  • 陳氏(ちんし)A ※曹操(そうそう)の妻、陳妾(ちんしょう)

    【姓名】 陳氏(ちんし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~218年?(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の側室、陳妾(ちんしょう) 父母ともに不詳。曹操との間に曹幹(そうかん。曹良〈そうりょう〉)を儲けた。 陳氏は曹幹が3歳の時に亡くなったため、代わって王氏(おうし)が曹幹を養育したという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・趙王幹伝〈ちょうおうかんでん〉)によれば、曹幹を養育した王氏が曹操の寵愛を受けていたうえ、曹丕(そうひ)を世継ぎとすることにも尽力したので、曹幹が、曹操・曹丕・曹叡(そうえい)から目をかけられていた様子がうかがえます。 陳氏が曹幹(曹良)を生んだ

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  • 丁氏(ていし)B ※曹操(そうそう)の妻、丁夫人(ていふじん)

    【姓名】 丁氏(ていし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 第212話で初登場。 【演義】 第068回で初登場。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)のもと正室、丁夫人(ていふじん) 父母ともに不詳。曹操との間に子はなかったものの、劉氏(りゅうし)が生んだ曹昂(そうこう)を養育した。 197年、曹操が張繡(ちょうしゅう)に敗れた際、曹昂が戦死。丁氏は、この件で曹操を責め続けたため折り合いが悪くなり、郷里に帰される。 その後、曹操が自ら迎えに来たものの、これを拒絶し、ついに離縁された。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武宣卞皇后伝〈ぶせんべんこうごうでん〉)には、「建安(けんあん)の初年、正室の丁夫人が廃されたため、代わって卞氏(べんし)が正室に立てられた」とありました。 「建

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  • 趙氏(ちょうし)B ※曹操(そうそう)の妻、趙姫(ちょうき)

    【姓名】 趙氏(ちょうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の側室、趙姫(ちょうき) 父母ともに不詳。曹操との間に曹茂(そうぼう)を儲けた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・楽陵王茂伝〈らくりょうおうぼうでん〉)によると、「曹茂は傲慢で強情だったため、若いころから曹操に好かれなかった」ということです。 「曹丕(そうひ)の時代になっても、ひとりだけ王に封ぜられなかった」ともありました。 それでも曹叡(そうえい)に代わった227年、中丘公(ちゅうきゅうこう)から聊城公(りょうじょうこう)に移封された後、ようやく同年に聊城王とされま

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  • 宋氏(そうし)A ※曹操(そうそう)の妻、宋姫(そうき)

    【姓名】 宋氏(そうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の側室、宋姫(そうき) 父母ともに不詳。曹操との間に曹徽(そうき)を儲けた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・東平霊王徽伝〈とうへいれいおうきでん〉)によると、「曹徽は、叔父で朗陵哀侯(ろうりょうあいこう)の曹玉(そうぎょく)の跡を継いだ」ということです。

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  • 劉氏(りゅうし)B ※曹操(そうそう)の妻、劉姫(りゅうき)

    【姓名】 劉氏(りゅうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の側室、劉姫(りゅうき) 父母ともに不詳。曹操との間に曹子棘(そうしきょく)を儲けた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・広宗殤公子棘伝〈こうそうしょうこうしきょくでん〉)によると、「曹子棘は早くに亡くなり、跡継ぎがいなかった」ということです。

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  • 周氏(しゅうし)A ※曹操(そうそう)の妻、周姫(しゅうき)

    【姓名】 周氏(しゅうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の側室、周姫(しゅうき) 父母ともに不詳。曹操との間に曹均(そうきん)を儲けた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・樊安公均伝〈はんあんこうきんでん〉)によると、「曹均は、叔父で薊恭公(けいきょうこう)の曹彬(そうひん)の跡を継いだ」ということです。

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  • 李氏(りし)A ※曹操(そうそう)の妻、李姫(りき)

    【姓名】 李氏(りし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の側室、李姫(りき) 父母ともに不詳。曹操との間に、曹子乗(そうしじょう)・曹子整(そうしせい)・曹子京(そうしけい)を儲けた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・穀城殤公子乗伝〈こくじょうしょうこうしじょうでん〉)によると、「曹子乗は早くに亡くなり、跡継ぎがいなかった」ということです。 それに続く「郿戴公子整伝(びたいこうしせいでん)」には、「曹子整は従叔父(おじ)で郎中(ろうちゅう)の曹紹(そうしょう)の跡を継いだ」とあります。そして217年に郿侯(びこう)に封ぜられ、

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  • 孫氏(そんし)A ※曹操(そうそう)の妻、孫姫(そんき)

    【姓名】 孫氏(そんし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の側室、孫姫(そんき) 父母ともに不詳。曹操との間に、曹子上(そうしじょう)・曹彪(そうひゅう)・曹子勤(そうしきん)を儲けた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・臨邑殤公子上伝〈りんゆうしょうこうしじょうでん〉)によると、「曹子上は早くに亡くなり、跡継ぎがいなかった」ということです。 それに続く「楚王彪伝(そおうひゅうでん)」には、「249年に兗州刺史(えんしゅうしし)の令狐愚(れいこぐ)が太尉(たいい)の王淩(おうりょう)と共謀し、曹彪を擁立しようと企んだ」とあり、曹

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  • 王氏(おうし)B ※曹操(そうそう)の妻、王昭儀(おうしょうぎ)

    【姓名】 王氏(おうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の側室、王昭儀(おうしょうぎ) 父母ともに不詳。曹操が陳氏(ちんし。陳妾〈ちんしょう〉)との間に儲けた曹幹(そうかん。曹良〈そうりょう〉)を養育した。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・趙王幹伝〈ちょうおうかんでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によると、「曹幹は一名を良(曹良)という。もともと曹良は陳妾が生んだ子だったが、曹良を生んだ後で陳妾は亡くなった。そこで曹操は曹良を王氏に養育させた」ということです。 この『魏略』で

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  • 尹氏(いんし)A ※曹操(そうそう)の妻、尹夫人(いんふじん)

    【姓名】 尹氏(いんし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の側室、尹夫人(いんふじん) 父母ともに不詳。曹操との間に曹矩(そうく)を儲けた。 曹操の側室になった際、前夫との間の息子である何晏(かあん)も引き取られたという。なお、何晏は何進(かしん)の孫にあたる。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・范陽閔王矩伝〈はんようびんおうくでん〉)によると、「曹矩は早くに亡くなり、息子がいなかった」ということです。 連れ子の何晏のほうは、249年に正始(せいし)の政変(司馬懿〈しばい〉によるクーデター)が起きた際に、曹爽(そうそう)の一味と

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  • 秦氏(しんし) ※曹操(そうそう)の妻、秦夫人(しんふじん)

    【姓名】 秦氏(しんし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の側室、秦夫人(しんふじん) 父母ともに不詳。曹操との間に曹玹(そうけん)と曹峻(そうしゅん)を儲けた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・済陽懐王玹伝〈せいようかいおうけんでん〉)および「陳留恭王峻伝(ちんりゅうきょうおうしゅんでん)」によると、「曹玹は早くに亡くなり、息子がいなかった」ということです。 そして曹峻のほうは、259年に薨(こう)じたときに陳留王でしたが、息子の曹澳(そういく)が跡を継いでいます。

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  • 杜氏(とし)B ※曹操(そうそう)の妻、杜夫人(とふじん)

    【姓名】 杜氏(とし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の側室、杜夫人(とふじん) 父母ともに不詳。曹操との間に曹林(そうりん)と曹袞(そうこん)、さらに娘の金郷公主(きんきょうこうしゅ)を儲けた。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・明帝紀〈めいていぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『献帝伝(けんていでん)』によると、「もとは秦宜禄(しんぎろく)の。曹操が奪い取る形で側室にした際、息子の秦朗(しんろう)も引き取られた」という。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 上で引かれた『献帝伝』には、杜氏が曹操の側室になるまでの経緯が載せられています。 「夫の秦

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  • 環氏(かんし) ※曹操(そうそう)の妻、環夫人(かんふじん)

    【姓名】 環氏(かんし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 彭城国(ほうじょうこく) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の側室、環夫人(かんふじん) 父母ともに不詳。曹操との間に、曹沖(そうちゅう)・曹拠(そうきょ)・曹宇(そうう)を儲けた。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・鄧哀王沖伝〈とうあいおうちゅうでん〉)によると、曹操は20人以上いた息子たちの中でも、特に曹沖の聡明(そうめい)さを評価しており、彼を跡継ぎにと考えていた時期もあったようです。 208年に曹沖は13歳で病死してしまいますが、このとき曹操は自ら命乞いの祈りを捧げ、亡くなった後もひどく悲しんだという

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  • 劉氏(りゅうし)C ※曹操(そうそう)の妻、劉夫人(りゅうふじん)

    【姓名】 劉氏(りゅうし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第068回で初登場。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の側室、劉夫人(りゅうふじん) 父母ともに不詳。曹操との間に曹昂(そうこう)と曹鑠(そうしゃく)を儲けた。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武宣卞皇后伝〈ぶせんべんこうごうでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によると、曹操との間に娘の清河長公主(せいかちょうこうしゅ)も儲けたという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 劉氏は早くに亡くなったため、曹昂は丁氏(ていし)が養育したそうです。

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  • 卞氏(べんし)B ※曹操(そうそう)の妻、魏(ぎ)の武宣卞皇后(ぶせんべんこうごう)

    【姓名】 卞氏(べんし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 琅邪郡(ろうやぐん)開陽県(かいようけん) 【生没】 160~230年(71歳) 【吉川】 第244話で初登場。 【演義】 第068回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・武宣卞皇后伝(ぶせんべんこうごうでん)』あり。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の正室、武宣卞皇后 父は卞遠(べんえん)だが、母は不詳。曹操との間に、曹丕(そうひ)・曹彰(そうしょう)・曹植(そうしょく)・曹熊(そうゆう)を儲けた。 もとは歌妓(かぎ)で、20歳の時(179年)、譙(しょう)にいた曹操の側室となった。 建安(けんあん)の初年(196年)、正室の丁夫人(ていふじん)が廃されたため代わって正室に立てられた。その際に曹操は、生母のいない息子たちをみな卞氏に養育させたという。 219年、魏王の曹操の王后に立てられる。 翌220年、曹操が崩御(ほうぎょ)

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  • 曹安民(そうあんみん)

    【姓名】 曹安民(そうあんみん) ※安民はあざなかも? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~197年(?歳) 【吉川】 第063話で初登場。 【演義】 第016回で初登場。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の弟の息子 父母ともに不詳。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)によると、「197年に曹操が張繡(ちょうしゅう)と戦った際、曹操の長男の曹昂(そうこう)とともに戦死した」という。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 曹昂らとともに従軍していたということなので、それなりの年齢だったのでしょう。ただ、曹安民の戦場での働きなどは何も伝わっていませんね。

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  • 海陽哀侯(かいようあいこう) ※曹操(そうそう)の弟

    【姓名】 海陽哀侯(かいようあいこう) ※姓名、あざなとも不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の弟 父は曹嵩(そうすう)だが、母は不詳。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・夏侯淵伝〈かこうえんでん〉)によると、「夏侯淵の長男の夏侯衡(かこうこう)が、曹操の弟である海陽哀侯の娘を娶(めと)った」という。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 海陽哀侯は曹操の弟とあるので、やはり曹姓なのでしょう。 范曄(はんよう)の『後漢書(ごかんじょ)』(郡国志〈ぐんこくし〉)を見てみると、幽州(ゆうしゅう)の遼西郡(りょうせいぐん)に海陽という県がありました。封地はここでしょうか?

    海陽哀侯(かいようあいこう) ※曹操(そうそう)の弟
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  • 曹徳(そうとく)

    【姓名】 曹徳(そうとく) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~193年(?歳) 【吉川】 第042話で初登場。 【演義】 第010回で初登場。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の弟 父は曹嵩(そうすう)だが、母は不詳。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く郭頒(かくはん)の『世語(せいご。魏晋世語〈ぎしんせいご〉)』によると、「曹徳は、父の曹嵩(そうすう)らとともに泰山郡(たいざんぐん)の華県(かけん)に滞在していたとき、陶謙(とうけん)配下の襲撃を受けて殺害された」という。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 董卓(とうたく)が起こした騒乱のため、琅邪国(ろうやこく)へ

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    shiromitsu 2020/05/19
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  • 曹紹(そうしょう)

    【姓名】 曹紹(そうしょう) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹子整(そうしせい)の従叔父(おじ) 父母ともに不詳。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・郿戴公子整伝〈びたいこうしせいでん〉)によると、「郿戴公の曹子整は、従叔父である郎中(ろうちゅう)の曹紹の跡を継いだ」という。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 曹子整は曹操(そうそう)の息子なので、この曹紹が従叔父にあたるなら曹操の従兄弟ということにもなるはずですが、そのあたりの記事がないのではっきりしません。

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    shiromitsu 2020/05/19
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  • 曹玉(そうぎょく) ※魏(ぎ)の朗陵哀侯(ろうりょうあいこう)

    【姓名】 曹玉(そうぎょく) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹徽(そうき)の叔父、朗陵哀侯(ろうりょうあいこう) 父母ともに不詳。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・東平霊王徽伝〈とうへいれいおうきでん〉)によると、「東平霊王の曹徽は、叔父である朗陵哀侯の曹玉の跡を継いだ」という。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 曹徽は曹操(そうそう)の息子なので、この曹玉が叔父にあたるなら曹操の弟ということにもなるはずですが、そのあたりの記事がないのではっきりしません。

    曹玉(そうぎょく) ※魏(ぎ)の朗陵哀侯(ろうりょうあいこう)
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  • 曹彬(そうひん)A ※曹操(そうそう)の弟、魏(ぎ)の薊恭公(けいきょうこう)

    【姓名】 曹彬(そうひん) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹均(そうきん)の叔父、薊恭公(けいきょうこう) 父母ともに不詳。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・樊安公均伝〈はんあんこうきんでん〉)によると、「樊安公の曹均は、叔父である薊恭公の曹彬の跡を継いだ」という。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 曹均は曹操(そうそう)の息子なので、この曹彬が叔父にあたるなら曹操の弟ということにもなるはずですが、そのあたりの記事がないのではっきりしません。

    曹彬(そうひん)A ※曹操(そうそう)の弟、魏(ぎ)の薊恭公(けいきょうこう)
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    shiromitsu 2020/05/19
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  • 丁氏(ていし)C ※曹嵩(そうすう)の妻、魏(ぎ)の太皇后(たいこうごう)

    【姓名】 丁氏(ていし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹嵩(そうすう)の夫人で、魏(ぎ)の曹操(そうそう)の母、太皇后(たいこうごう) 父母ともに不詳。 220年5月、献帝(けんてい)が魏王の曹丕(そうひ)に曹嵩を太王(たいおう)と追尊するよう命じた際、その夫人だった丁氏も併せて王太后(おうたいごう)と追尊された。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・文帝紀〈ぶんていぎ〉)によれば、220年11月に漢(かん)からの禅譲を受ける形で魏を建国した曹丕が、「太王の曹嵩を太皇帝と追尊した」とありますが、丁氏の扱いはわかりにくかったです。 ちなみに、このとき併せ

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  • 呉氏(ごし)B ※曹騰(そうとう)の妻、魏(ぎ)の高皇后(こうこうごう)

    【姓名】 呉氏(ごし) ※名とあざなは不詳 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹騰(そうとう)の夫人で、魏(ぎ)の曹操(そうそう)の祖母、高皇后(こうこうごう) 父母ともに不詳。 229年6月、曹騰が曹叡(そうえい)から高皇帝(こうこうてい)と追尊された際、その夫人だった呉氏も併せて高皇后と追尊された。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 大宦官(だいかんがん)の夫人ということで暮らしぶりは良かったのかもしれませんが、なかなか想像しにくい立場の女性ですね。

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    shiromitsu 2020/05/19
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  • 曹嵩(そうすう) ※あざなは巨高(きょこう)、魏(ぎ)の太皇帝(たいこうてい)

    【姓名】 曹嵩(そうすう) 【あざな】 巨高(きょこう) 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~193年(?歳) 【吉川】 第010話で初登場。 【演義】 第001回で初登場。 【正史】 登場人物。 曹騰(そうとう)の養子で、魏(ぎ)の曹操(そうそう)の父、太皇帝(たいこうてい) 後漢(ごかん)の大宦官(だいかんがん)だった曹騰の養子。夏侯氏(かこうし)の出身ともいうが、父母ともに不詳。 曹嵩は、霊帝(れいてい)の時代に司隷校尉(しれいこうい)から抜てきされ、大司農(だいしのう)や大鴻臚(だいこうろ)を歴任。後に崔烈(さいれつ)に代わって太尉(たいい)まで昇った。 また、養父の曹騰から費亭侯(ひていこう)の爵位を継いでいる。 范曄(はんよう)の『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉)によれば、崔烈の太尉就任は187年4月のこと。同年11月に崔烈が罷免され、大司

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  • 曹騰(そうとう) ※あざなは季興(きこう)、魏(ぎ)の高皇帝(こうこうてい)

    【姓名】 曹騰(そうとう) 【あざな】 季興(きこう) 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 第243話で初登場。 【演義】 第001回で初登場。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の祖父、後漢(ごかん)時代の大宦官(だいかんがん)、高皇帝(こうこうてい) 父は曹節(そうせつ)だが、母は不詳。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く司馬彪(しばひゅう)の『続漢書(しょくかんじょ)』には、以下のようにある。 「父の曹節はあざなを元偉(げんい)といい、平素から温情深い人物として評判が高かった。曹節の長男は伯興(はくこう)、次が仲興(ちゅうこう)、次が叔興(しゅくこう)といい、曹騰は(末子で)あざなを季興といった」 以下の主な経歴も、裴松之注に引かれた『続漢書』によるもの。 主な経歴 -?

    曹騰(そうとう) ※あざなは季興(きこう)、魏(ぎ)の高皇帝(こうこうてい)
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  • 曹叔興(そうしゅくこう)

    【姓名】 曹叔興(そうしゅくこう) ※叔興はあざな 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹節(そうせつ)の三男で曹騰(そうとう)の三兄 父は曹節だが、母は不詳。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く司馬彪(しばひゅう)の『続漢書(しょくかんじょ)』に名のみ登場する。 「曹節には4人の息子があり、長男が伯興(はくこう)、次が仲興(ちゅうこう)、次が叔興といい、曹騰は(末子で)あざなを季興(きこう)といった」という。 管理人「かぶらがわ」より 彼の弟が曹騰で、その曹騰の養子に迎えられたのが曹嵩(そうすう)、曹嵩の息子が曹操(そうそう)になります。 曹叔興は上に引かれた部分に加え、『三国志』(魏書・武文世王公伝〈ぶぶんせいおうこうでん〉)の裴松

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  • 曹仲興(そうちゅうこう)

    【姓名】 曹仲興(そうちゅうこう) ※仲興はあざな 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹節(そうせつ)の次男で曹騰(そうとう)の次兄 父は曹節だが、母は不詳。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く司馬彪(しばひゅう)の『続漢書(しょくかんじょ)』に名のみ登場する。 「曹節には4人の息子があり、長男が伯興(はくこう)、次が仲興、次が叔興(しゅくこう)といい、曹騰は(末子で)あざなを季興(きこう)といった」という。 管理人「かぶらがわ」より 彼の末弟が曹騰で、その曹騰の養子に迎えられたのが曹嵩(そうすう)、曹嵩の息子が曹操(そうそう)になります。 曹仲興は、上に引かれた部分に名のみの登場で、事績には触れられていません。

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  • 曹伯興(そうはくこう)

    【姓名】 曹伯興(そうはくこう) ※伯興はあざな 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹節(そうせつ)の長男で曹騰(そうとう)の長兄 父は曹節だが、母は不詳。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く司馬彪(しばひゅう)の『続漢書(しょくかんじょ)』に名のみ登場する。 「曹節には4人の息子があり、長男が伯興、次が仲興(ちゅうこう)、次が叔興(しゅくこう)といい、曹騰は(末子で)あざなを季興(きこう)といった」という。 管理人「かぶらがわ」より 彼の末弟が曹騰で、その曹騰の養子に迎えられたのが曹嵩(そうすう)、曹嵩の息子が曹操(そうそう)になります。 曹伯興は、上に引かれた部分に名のみの登場で、事績には触れられていません。

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  • 曹節(そうせつ)C ※あざなは元偉(げんい)、曹操(そうそう)の曾祖父

    【姓名】 曹節(そうせつ) 【あざな】 元偉(げんい) 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹騰(そうとう)の父、魏(ぎ)の曹操(そうそう)の曾祖父にあたる 父母ともに不詳。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く司馬彪(しばひゅう)の『続漢書(しょくかんじょ)』には、以下のようにある。 「曹騰の父の曹節はあざなを元偉といい、平素から温情深い人物として評判が高かった。曹節の長男は伯興(はくこう)、次が仲興(ちゅうこう)、次が叔興(しゅくこう)といい、曹騰は(末子で)あざなを季興(きこう)といった」 管理人「かぶらがわ」より この曹節の末子が曹騰で、曹騰の養子に迎えられたのが曹嵩(そうすう)、曹嵩の息子が曹操になります。 曹節の登場箇所は少な

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  • 曹参(そうさん)

    【姓名】 曹参(そうさん) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~前190年(?歳) 【吉川】 第010話で初登場。 【演義】 第043回で初登場。 【正史】 登場人物。 漢(かん)の高祖(こうそ)に仕えた宰相、魏(ぎ)の曹操(そうそう)の遠祖にあたるという 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』には、以下のようにある。 「周(しゅう)の武王(ぶおう)は殷(いん)を滅ぼした後、先代の天子(てんし)の子孫を保護し、曹俠(そうきょう)を邾国(ちゅこく)に封じた」 「邾国は春秋(しゅんじゅう)時代に諸国の同盟に参加したが、戦国(せんごく)時代に入ると楚国(そこく)によって滅ぼされた」 「曹氏の子孫は散りぢりになって流浪したが、この中に沛(はい)に住みついた者がいた。漢の高祖が挙兵した後、曹参は功績により平陽侯(へいよ

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  • 曹安(そうあん。陸安〈りくあん〉)

    【姓名】 曹安(そうあん) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹操(そうそう)の遠祖にあたるという伝説時代の人 曹安は、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』に登場する。 それによると、「曹操の先祖は黄帝(こうてい)から出ており、高陽(こうよう。黄帝の孫である顓頊〈せんぎょく〉の国号)の時代に陸終(りくしゅう)の息子に陸安という者がいて、彼が曹の姓を名乗った」という。 また訳者注(今鷹真〈いまたか・まこと〉氏)によると、「陸終は顓頊の4代目の子孫。その父が顓頊の次に天子(てんし)となった帝嚳(ていこく)に仕えており、時代的には合わないが、伝説としては気にならないのであろう」という。そして「陸安は陸終の第5子である」とも

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  • 曹奐(そうかん) ※あざなは景明(けいめい)、魏(ぎ)の元皇帝(げんこうてい)

    【姓名】 曹奐(そうかん) 【あざな】 景明(けいめい) 【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん) 【生没】 245~302年(58歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第114回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・陳留王紀(ちんりゅうおうぎ)』あり。 魏(ぎ)の第5代皇帝、晋(しん)の司馬炎(しばえん)に禅譲、元皇帝(げんこうてい) 燕王(えんおう)の曹宇(そうう)の息子で、もとの名を曹璜(そうこう)という。先代の曹髦(そうぼう)が殺害されたため、帝位に即いた。 265年に晋王(しんおう)の司馬炎に禅譲。その後は陳留王に封ぜられ、302年に58歳で薨去(こうきょ)した。諡号(しごう)は元皇帝。 主な経歴 -245年(1歳)- この年、誕生。 -258年(14歳)- この年、安次県(あんじけん)の常道郷公(じょうどうきょうこう)に封ぜられた。 -260年(16歳)- 6

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  • 曹髦(そうぼう) ※あざなは彦士(げんし)

    【姓名】 曹髦(そうぼう) 【あざな】 彦士(げんし) 【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん) 【生没】 241~260年(20歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第109回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・高貴郷公紀(こうききょうこうぎ)』あり。 魏(ぎ)の第4代皇帝、司馬氏(しばし)打倒に動くも果たせず 東海定王(とうかいていおう)の曹霖(そうりん)の息子。曹芳(そうほう)の廃位に伴って帝位に即いた。 兄弟には東海王を継いだ曹啓(そうけい)がいる。はっきりと書かれていないが、曹啓のほうが兄か。 『三国志』(魏書・高貴郷公紀)では、260年5月に崩じたことをごく簡潔に記すのみ。 だが、実際のところは司馬氏から実権を取り戻すべく起ち上がり、返り討ちに遭って臣下に殺害されるという最期だった。 曹髦が殺された後、燕王(えんおう)の曹宇(そうう)の息子である常道郷公(じ

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  • 曹芳(そうほう) ※あざなは蘭卿(らんけい)、晋(しん)の邵陵厲公(しょうりょうれいこう)

    【姓名】 曹芳(そうほう) 【あざな】 蘭卿(らんけい) 【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん) 【生没】 232~274年(43歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第106回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・斉王紀(せいおうぎ)』あり。 魏(ぎ)の第3代皇帝、実権を取り戻せないまま退位 実の父母ともに不詳。曹叡(そうえい)は養父。 『三国志』(魏書・斉王紀)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く孫盛(そんせい)の『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』によると、「同じく曹叡の養子であった曹詢(そうしゅん)ともども、任城王(じんじょうおう)の曹楷(そうかい)の息子」ともいう。 異母兄にあたる曹冏(そうけい。?~226年)・曹穆(そうぼく。?~229年)・曹殷(そういん。231~232年)がみな早く亡くなったため、養子に迎えられたようだ。 曹叡が亡くなる当日に皇太子に立てら

    曹芳(そうほう) ※あざなは蘭卿(らんけい)、晋(しん)の邵陵厲公(しょうりょうれいこう)
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  • 曹叡(そうえい) ※あざなは元仲(げんちゅう)、魏(ぎ)の烈祖(れっそ)明皇帝(めいこうてい)

    -221年- 辛丑(しんちゅう) 【魏】 黄初(こうしょ)2年 ※文帝(ぶんてい。曹丕〈そうひ〉) 【蜀】 章武(しょうぶ)元年 ※昭烈帝(しょうれつてい。劉備〈りゅうび〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 魏(ぎ)の曹丕が、天地... 4月、祖先の霊廟を造営する。 8月、洛陽の西郊で月を祭る。 10月、洛陽の東郊で閲兵式を行う。 10月、焉耆王(えんきおう)の息子が入朝し、曹叡に近侍することになる。 11月、毛氏(もうし)を皇后に立てる。この際、広く天下の男子に2級の爵位を賜い、やもめ、寡婦、子のない老人、孤児で自立していけない者に扶持米(ふちまい)を下賜した。 12月、毛皇后の父の毛嘉(もうか)を列侯(れっこう)に封ずる。 12月、新城太守(しんじょうたいしゅ)の孟達(もうたつ)が反乱を起こす。驃騎将軍の司馬懿に詔(みことのり)を下して討伐を命じた。 -228年(24歳)-

    曹叡(そうえい) ※あざなは元仲(げんちゅう)、魏(ぎ)の烈祖(れっそ)明皇帝(めいこうてい)
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  • 曹丕(そうひ) ※あざなは子桓(しかん)、魏(ぎ)の高祖(こうそ)文皇帝(ぶんこうてい)

    【姓名】 曹丕(そうひ) 【あざな】 子桓(しかん) 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 187~226年(40歳) 【吉川】 第120話で初登場。 【演義】 第032回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・文帝紀(ぶんていぎ)』あり。 文学にも深い理解を示した魏(ぎ)の初代皇帝、高祖(こうそ)文皇帝(ぶんこうてい) 父は曹操(そうそう)、母は卞氏(べんし。武宣卞皇后〈ぶせんべんこうごう〉)。同母弟には曹彰(そうしょう)・曹植(そうしょく)・曹熊(そうゆう)がいる。 曹叡(そうえい)・曹協(そうきょう)・曹蕤(そうずい)・曹鑒(そうかん)・曹霖(そうりん)・曹礼(そうれい)・曹邕(そうよう)・曹貢(そうこう)・曹儼(そうげん)という9人の息子を儲けた。 曹丕は優れた文人でもあり、多くの著作を遺した。特に『典論(てんろん)』の中で、「文は経国の大業にして不朽の

    曹丕(そうひ) ※あざなは子桓(しかん)、魏(ぎ)の高祖(こうそ)文皇帝(ぶんこうてい)
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  • 曹操(そうそう) ※あざなは孟徳(もうとく)、魏(ぎ)の太祖(たいそ)武皇帝(ぶこうてい)

    【姓名】 曹操(そうそう) 【あざな】 孟徳(もうとく) 【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん) 【生没】 155~220年(66歳) 【吉川】 第010話で初登場。 【演義】 第001回で初登場。 【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・武帝紀(ぶていぎ)』あり。 魏(ぎ)の礎を一代で築き上げた超世の英雄、太祖(たいそ)武皇帝(ぶこうてい) 曹操は一名を吉利(きつり)、幼時のあざなを阿瞞(あまん)と言った。 祖父は大宦官(だいかんがん)の曹騰(そうとう)、父は夏侯氏(かこうし)から養子に入ったという曹嵩(そうすう)で、こちらも曹騰の勢力を背景に高官を歴任した。 戦死した曹昂(そうこう)をはじめ、曹丕(そうひ)・曹彰(そうしょう)・曹植(そうしょく)・曹熊(そうゆう)・曹沖(そうちゅう)など、25人の息子を儲けた。 黄巾(こうきん)討伐や反董卓(とうたく)連合軍への参加で名を上げた後、

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